二日目・朝
思ったより寝ぐずりもせず、娘はあっさりと眠りについた。
こちらも、いつの間にか眠っていたようだ。意識もなく、するりと落ちた感じ。
気づけば、車の窓がすっかり曇っていた。
締め切っていたせいか、外との温度差でガラス一面が白く霞んでいる。
少しだけ窓を開けておけばよかったか……いや、蚊を意識しすぎたのかもしれない。
今夜は、蚊取り線香を焚いて、窓を少しだけ開けよう。
そう、心に決める。
車中泊の朝は、だいたい“日の出”とともに始まる。
しっかりした遮光でもあれば別だろうが、うちのバンにそんなものはない。
ガラス越しに射し込むやわらかな朝日と、すぐ近くで聞こえる鳥のさえずり――
その二つだけで、自然と目が覚める。
眠気は、不思議なほど残っていなかった。
……なんというか、休日の朝ってみんなそうじゃない?
「今日はゆっくり寝よう」と思っても、なぜか目が覚めてしまう。
きっと、体より心のほうが先に動き出してるんだろう。
娘はまだすやすやと寝ている。
初めての場所だから、夜泣きや寝小便もあるかもしれないと少し覚悟していたが、どうやら問題なかったようだ。
静かな寝息が、車内にゆっくりと流れていた。
そっとドアを開け、外に出る。
朝の空気は、ほんのり冷たくて、肌に気持ちいい。
今日はおそらく、一日中走ることになる。
その前に、軽く身体を動かしておこうとストレッチを始める。
背筋を伸ばし、肩を回す。肺に入ってくる冷たい空気が、頭の中をすっきりとさせていく。
車のまわりをぐるりと一周。
専門家ってわけじゃないが、せめてタイヤくらいは……と軽く蹴ってチェックする。
異常はなさそうだ。
オイルは出発前に交換してあるし、大丈夫だろう。
それでも、こうやって「一応確認しておく」ことが、昔の自分のようで心地よかった。
さて、と。
朝はまず、トイレだ。
こういう旅では「朝いちで用を済ませておく」っていうのが、地味だけどかなり大事な習慣になる。
すっきりしてから、雑巾を一枚ぬらして車へ戻る。
フロントガラスをざっと拭き上げる。
この季節、虫も花粉も夜露も、とにかくすぐにこびりつく。
今のうちにやっておけば、あとで気が楽だ。
娘はまだ後ろで寝ている。
無理に起こす必要はない。
だから、静かにエンジンをかけ、ゆっくりと車を滑らせる。
朝の道を走るのは、けっこう好きだ。
空気は澄んでいて、昨日の疲れもどこかへ流れていく感じがする。
信号ですら優しく見えるくらいだ。
車も少なく、世界そのものがまだ眠っているような静けさがある。
しばらく走っていると、後ろからごそごそと音がした。
バックミラーを見ると、娘がむくりと顔を出す。
「もう起きたのか。……まだ寝てていいんだぞ?」
「もう目、さめちゃった」
いつもより一時間は早い。
ちょっと嬉しくもあり、でももう少し寝ててくれてもよかったような気もして、
なんとも言えない気持ちになる。
こういうとき、二人旅って複雑だ。
そのまま道の駅に立ち寄る。
この数年でよく学んだことの一つが――
「子どもに“トイレ行く?”と聞いても、あてにならない」ということ。
だから、強制的に水分補給とセットでやらせる。旅先では特に。
トイレを済ませさせ、自販機で缶コーヒーを一本。
ベンチに腰を下ろして、ひと息つく。
「今日は、ひたすら移動の日だぞ。自分で暇つぶし考えとけよ」
「うん! アイス買って!」
「……わかってないな、おまえは」
それでも、元気ならまあいいか。
青空が広がっている。
今日も、いい一日になりそうだ。
出発の前に、後部モニターにDVDをセットする。
「何がいい?」と聞くと、迷いなく「シンちゃんがいい!」と返ってきた。
いくつか選択肢を出してみたが、娘はその中のひとつをぽつりと口にした。
結局、そのタイトルを選ぶことにした。
エンジンをかけて、車がゆっくりと走り出す。
するとすぐ、「はやくつけようよ〜」と、助手席から催促の声が飛ぶ。
だが、その手にはしっかりとアイスが握られていた。
このまま再生を始めれば、画面に夢中になってアイスの存在なんてすぐに忘れる。
そして、確実に――溶けて、手からたれて、服を汚す未来が待っている。
「アイスを食べてからだ。
でも、お菓子はまだ開けるなよ。見るなら、見るだけにしとけ」
娘は少し不満そうな顔で「うん」とうなずき、アイスにかじりついた。
助手席越しにその姿を見ながら、ふと懐かしさがこみ上げる。
自販機で売っている、あの棒付きのアイス。
自分も学生のころは、何気なくよく買って食べていた気がする。
味がどうこうというよりも、「なんとなく手が伸びる」存在だった。
けれど大人になってからというもの、そんなアイスを自分で買おうと思ったことは、ほとんどなかった。
娘が無心に食べているのを見ながら、運転席でコーヒーの缶を手に、そんなことをぼんやりと思い出していた。
やがて、アイスを食べ終えた娘が満足そうにうなずき、DVDの再生が始まる。
運転しながら、ちらちらと画面を覗いたり、セリフに耳を傾けたりする。
ドラえもん(新ではない)なら、まだ内容を覚えているエピソードもいくつかある。
けれど、クレヨンしんちゃんとなると、記憶に残っている話はほんのわずか。
ましてや最近の話となると、もうまったくついていけない。
どうやら今回の話は、“夢の中”が舞台らしい。
……なんとも皮肉な話だ。
夢というのは、どこにあっても不思議と魅力的に見えるものなんだな。
「あー、風間くんって、こんな感じだったか」
「ねねちゃん、もっと無邪気だった気がするけど……こんな俗っぽかったっけ?」
独り言のように呟きながら、久しぶりに聞く“ひろし”の声に、どこかほっとした気持ちになる。
大人になった今の視点で、かつてのキャラクターたちを見ると、ずいぶん印象が変わっていることに気づく。
あの頃には気づかなかった仕草や間の取り方、声のトーンすら、今は妙に胸に残る。
そして、自分でも少し驚いた。
思った以上に――素直に、面白いと感じていた。
子どもの「おもしろい」と、大人の「おもしろい」は、やっぱり少し違う。
けれど、それぞれにちゃんと意味があって、それぞれにちゃんと響くものがある。
それが、たぶん、こういう時間の中で味わえるささやかな贅沢なのだと思う。
助手席では、娘がじっとDVDの画面を見つめている。
たぶん何度も見ている話のはずなのに、その集中力ときたら本当にすごい。
どこまでも真っ直ぐで、ブレがない。
……少し羨ましくなる。
最近の自分ときたら、すぐに気が散ってしまう。
ゲームも本も、次々に“積み”が増えるばかり。
年齢のせいか、忙しさのせいか、理由ははっきりしないけど――
「ただ目の前のものに夢中になる」って、案外、難しくなってる気がする。
車は快調に進んでいる。
朝方の肌寒さが嘘のように、日差しがじわじわと強くなってきた。
今日は、どうやら暑くなりそうだ。
特に渋滞もなく、道はすこぶる順調。
予定よりも少し早く、目的地に近づいている。
DVDが終わる頃、娘が「ちょっと眠い」と言い出した。
後部へ移動させると、布団にくるまって、そのままするっと眠ってしまった。
……寝つきの良さまで羨ましい。
ただ、あまり長く寝かせすぎると、夜がややこしくなる。
とりあえず、1時間くらいで起こすつもりだ。
ちょうどいいタイミングで、パーキングに車を停める。
エンジンを切り、シートにもたれながら軽く背伸びをする。
この隙に、今日の予定を整理する。
おそらく、娘が起きたら「ラーメン食べたい」と言い出すだろう。
なので、まずは近くのラーメン屋を検索。
そのあと、時間に少し余裕がありそうなので、どこか遊べる場所も探しておきたい。
もちろん遊ぶのは娘だけではなく、付き添うこっちの体力も要求される。
だからこそ、ほどよく動けて、ほどよく時間がつぶせる場所……そんなバランスが求められる。
さらに進行方向にある温泉もチェックしておく。
今日もまた、道の駅泊の予定。
できれば静かで、明かりがそこそこあって、安心して眠れるところがいい。
――思う。
もしこれがひとり旅だったら、もっと気楽に、行き当たりばったりで動いていたかもしれない。
食べたいときに食べて、疲れたら気ままに車を停めて寝る。
全部、自分のペースで決められる。
でも、後部の布団で気持ちよさそうに眠る娘をちらりと見ると、
それが“悪いこと”だなんて、まったく思えなかった。
むしろ――羨ましかった。
気楽で、自由で、何よりあたたかそうだ。
正直なところ、誰かが代わりに運転してくれるのなら、今すぐにでも横になりたい。
この車の静かな振動と、窓から吹き込んでくるやわらかな風に身をまかせて、
そのまま目を閉じて、眠っていたい。
……きっと、ものすごく気持ちのいい時間なんだろう。
そしてそれは、きっと――子どもにだけ許された特権なのかもしれない。




