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四日目・昼3

山の駐車場を出発する。


エンジンをかけ、坂道をゆっくりと下りはじめる。

登りでは唸っていたエンジンも、今はエンジンブレーキの低く響く音を鳴らすだけ。

その音が、なんだか疲れた車のため息のようにも聞こえる。

けれど、ブレーキを踏み続けるよりは、ずっとマシだ。


窓を少し開けてみると、冷んやりとした風が入り込んでくる。

日差しは強いけれど、山の空気は澄んでいて、どこか肌にやさしい。


いよいよ、自宅へと向かう帰路に入った。

ここから約二時間半――渋滞でもあれば三時間か。


今はまだ、旅の余韻と興奮が身体に残っている。

けれど、同時にじわじわと、登山の疲れや旅の蓄積も感じはじめていた。

このまま眠気がこなければいいが……それはそのとき考えるしかない。



道はスムーズに進み、やがて大きな幹線道路へ出た。

ここまで来れば、道は一本。もう迷うこともない。


助手席の娘が、「タブレット見ていい?」と声をあげる。

観光も終わり、あとは帰るだけだ。

「いいよ」と返すと、嬉しそうに画面へと没頭していった。


そして、最後の給油ポイントに立ち寄る。


ガソリンスタンドのメーターを見ながら、ふと思う。

――今回の旅費の七割は、ガソリン代だったかもしれない。


高くついた、とも言える。

けれど、公共交通機関を使った旅に比べれば、気軽で自由だった。

そして何より、好きなときに止まり、好きな景色を見て、娘と一緒に歩いた時間は――そのガソリン以上に、貴重な“思い出の燃料”だったと思う。



眠い。


本当に、眠い。


たぶん、もう1時間は走っているはずだ。

身体の芯がじわじわと重くなってきている。

まぶたが落ちそうになるたび、首を振って無理やり意識を戻す。

けれど、効き目はどんどん薄れていく。


日差しはまだ高く、車内はじりじりと熱をため込んでいる。

このまま路肩に停めて仮眠を……と考えかけて、やめた。

こんな陽気でエンジンを切ったら、じきに車内はサウナになる。

寝るどころの話じゃない。


しかも今走っているのは、見慣れた道。

見慣れた“帰り道”――


緊張感もなければ、刺激もない。

ただただ、目的地に向かって延々と続くアスファルト。


意識が、ふっとどこかへ飛びそうになる。


隣の助手席では、娘がタブレットに夢中になっている。

そろそろやめさせた方がいい。

けれど、こちらが声をかけようとしても、

画面から漏れる音声が、それをかき消してくる。


数秒ごとに切り替わる、短い映像。

意味も物語もない、まるでノイズのようなコンテンツ。

……それ、ほんとうに面白いのか?


「おーい、そろそろやめろよー」


呼びかけてみる。


……返事は、ない。


こちらの言葉なんて、完全に耳に入っていないようだ。


チラッと画面をのぞき込む。

やっぱりそうだ、YouTubeのショート動画を次から次へと見ている。

脳に砂糖を浴びせるような、あの中毒性のあるテンポ。


頭がぼーっとしてきた。


「……眠い」

小さくつぶやいてみる。反応なし。


「っあーー、眠いっ!」


声を少しだけ大きくしてみたが、それでも無視。

いや、無視してるつもりじゃないのかもしれない。

でも、何も返ってこないという事実だけが残る。


疲労とともに、じわじわとイライラが積もっていく。

静かに、だが確実に。


ここまで、娘と一緒にいろんな場所をまわってきた。

被災地の町並みを歩き、棚田を下り、山にも登った。

思い出だって、たくさん作ってきた。

――なのに。

どうして、いまこの瞬間に、こんな虚しさを味わわなきゃならないんだ?


思わず、心の奥でなにかが音を立てて動いた。

スイッチが入った。

声が、少しだけ冷たくなる。


「なぁ……山に登る前に、なんで怒られたか。もう忘れたのか?」


娘の顔が見えない。

見えないからこそ、言葉の行方が、空っぽの車内に染み渡っていく。


……またか。

また、こんなふうに向き合うことになるのか。

楽しく終わるはずの旅の、最後の最後で。


ため息が喉元まで込み上げる。

「もういいよ」と切り上げて、「後ろで寝てろ」と言えば楽だった。

自分も休めるし、空気も壊さずに済む。

――でも、それで本当にいいのか?


正しい答えなんて、たぶんどこにもない。


あったとしても、誰もが選べるわけじゃないし、選んでもらえるとも限らない。


でも、だからこそ。

今、言葉にするしかなかった。

伝わるかどうかなんて、わからない。

それでも――伝えなければ。


深く息を吸って、吐く。

意識的に、声を落ち着ける。

そして話しはじめた。


「お前な。

父さんも、子どものころはそうだったんだ。

集中しはじめると、周りの声なんて、本当に聞こえなくなる。

気づいたときには、ぜんぶ遅かったりしてさ。

何度も、何度も、怒られたよ」


それでも。


「ひとりで夢中になってる分には、それでいい。

けどな、誰かと一緒にいるときは、ほんの少しでいいから、まわりを見てほしい。

今はまだ、うまくできなくていい。

でも――前に一度言われたなら、ちょっとだけ気をつけようって思ってくれたら、父さんは嬉しい」


助手席の娘が、ゆっくりとタブレットの画面を閉じた。

黙ったまま、じっとこちらを見ていた。


何も言わなくてもわかる。

ああ、こいつは――やっぱり、俺と同じなんだ。


わかってるんだ。

でも、できないんだよな。


その声が、言葉じゃなくても聞こえてくる。


たぶん、いま話したことだって、本当の意味では納得なんかしてない。

俺なら、してなかった。

そういうもんだ。子どもってやつは、きっと。


でも、言わなかったら、もっと届かない。

だから言葉にした。それだけだ。


……ふぅ、と小さく息を吐く。

ハンドルの向こうに流れていく景色を見つめながら、ぼんやりと思う。


俺だって、できるようになったわけじゃない。

ただ、こうして今になって――

ようやく、自分のことを振り返れるようになっただけだ。


協調性?

そんなもん、いまだにロクにない。

職場でも社会でも、結局はどこかで“はみ出したまま”生きてきた。

学生時代だって、今思えば――

たぶん、面倒で、扱いにくくて、ちょっと嫌な奴だったと思う。


でも、それを悔やんでるかといえば、そうでもない。

好き勝手に生きてきたぶん、今そばに残っている友達は、心から大事に思える。

嫌な目にもたくさん遭ったけど、やりたいことも、それなりにやってこれた。


……だけどな。

時代は、変わってしまった。


俺が子どもだった頃よりも、ずっと――

ずっと、見えない圧力が強くなっている。


“普通”に合わせること。

“空気”を読むこと。

“和を乱さない”こと。


その重さが、当たり前のような顔をして、子どもたちの世界にのしかかっている。


はみ出せば、叩かれる。

調子に乗れば、陰口が飛ぶ。

目立てば、切り取られ、晒される。


SNSのような、見えない網の中で。

目には見えないけれど、息苦しさだけは、確かにそこにある。


この子は、そのなかで生きていかなきゃならないのだ。


俺とは、違う時代を。


だからこそ――いま、何が正しいのかなんて、俺にもわからない。

ただ、わからないなりに、“伝えること”だけは手放しちゃいけないと思う。


たとえ届かなくても。

たとえ、伝えきれなくても。

言葉にして、手渡していくことだけは。


そうしていつか、必要なときに、その手の中で、なにかの形に変わってくれたらいい。


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