四日目・昼2
少し進むと、道がわずかに開けた場所に出た。
木々の間から差す光が、そこだけほんのり明るい。
この先、しばらくは勾配が緩やかになるのかもしれない。
娘が、その場に腰を下ろす。
タイミングを見計らって、声をかける。
「……ちょっとだけ、おんぶしてやろうか?」
娘はパッと顔を上げて、素直にうなずいた。
正直、覚悟はしていた。
けれど、数分後には全身がそれを甘かったと告げてくる。
「……山岳救助隊って、本当にすごいな」
娘を背負って数分も経たないうちに、太ももが悲鳴をあげ始めた。
脚がつる寸前の、あのイヤな感覚。
それでも、なんとか前へ進む。
ほんのわずかでも、“前に進んでいる”という実感はある。
だからこそ、おぶった甲斐はあったのだと思いたい。
やがて、再び立ちはだかる階段の壁が見えてきた。
これはもう、無理だ。
静かに娘を下ろして、声をかける。
「よし、行こう。がんばろうな」
最初のうちは、娘もがんばっていた。
少し回復したのか、黙々と足を進めていた。
でも、長くはもたない。
やがてまた、足が止まり、小さく座り込む。
「……もう、帰りたい」
小さな声だった。
それでも、はっきり聞こえた。
だけど、今さら来た道を戻るのは現実的じゃない。
戻るにも、登るにも、苦労するのなら――先に進むほうが希望がある。
だから。
こんなときは、とにかくテンションを上げるしかない。
「あきらめるなー! 自分の限界を超えるんだー!」
昭和だ、昭和を思い出すんだ
頭のなかに、ファブリーズの暑苦しい顔が現れている気がする。
「おんぶしてー! おいていかないでー!」
後ろから、泣きそうな叫び声が飛んでくる。
だけど、こっちだって限界はとっくに越えている。
さっきのおんぶで脚は終わってる。痙攣すらしている、筋肉痛は確定だ。
少し大げさにでも、手をつきながら登る。
足は重い。体も重い。ーーでも、頑張ってるのはお前だけじゃない
止まらない。止まらなければ、きっとたどり着ける。
そして――
ついに、分かれ道の標識が見えてきた。
「分かれ道、見えてきたぞー!」
そんな声をかけると、娘がふらふらと足を引きずりながら、ゆっくりとこちらへ向かってきた。
その顔に、余裕なんてまったくない。
汗だくで、足もおぼつかない。
でも――それでいい。
そこにこそ、ちゃんと「頑張った証」がある。
看板の前で、娘の写真を撮る。
地図を確認すると、ここは山全体から見れば五合目を少し超えたくらいの地点だった。
「……うん、まぁ、こんなもんだな」
そうつぶやいてから、娘に尋ねる。
「ここで戻るか?」
娘は、すぐに「うん」とうなずいた。
そのあと、少し照れくさそうに、でもちゃんとこちらを見て言ってくる。
「今度、もっと大きくなったら、上まで登ろうね」
……そうだな。
そんな“次”を楽しみにするのも、悪くない。
軽く腰を下ろして息を整えたあと、ふたりで下山をはじめる。
――が。
「……膝が……笑ってる……!」
登りよりもずっとキツい。
ちょっと気を抜くと、脚が勝手に“走ろうとする”。
ブレーキが効かない。尻をついて滑り降りたくなるほどだ。
逆に、娘はまるで生き返ったかのように軽やかに下っていく。
「おそいよー! はやくきてー!」
……無茶を言うな。
「ゆっくりでいいからなー! おいてかないでくれー!」
下山中、役割はすっかり逆転していた。
少し下った先、わずかに視界が開けた。
先に下りていた娘が、それを見つけたらしい。
「こっちおいでー! すごいよー!」
声に引かれて近づいてみると――たしかに、なかなかの高さまで登ってきていた。
眼下に広がる木々と、遠くにちらりと見える街並み。その風景に、思わず口元がほころぶ。
「おぉー、頑張ったな。なんだかんだで、よくここまで来たよ」
そう声をかけると、娘は満足そうにこちらを見て、にっこり笑った。
「うん!」
……少しでも達成感を味わえているのなら、それで十分だ。
再び、下山を再開する。
調子を取り戻した娘は、元気いっぱいに階段を駆け降りはじめた。
飛んだり、跳ねたり、勢いそのまま。
それを見て、ふと昔の自分を思い出す。
かつて、誰かに注意されたことを、今そのまま口にする。
「おい、あんまり走るな。飛んでった石が下の人に当たったら、どうするんだ?」
――自分だけがこの山を歩いてるわけじゃない。
そう言いつつも、木の根にしがみつきながら足を震わせているので、説得力はだいぶ薄い。
視線は足元ばかり。娘に視線を合わせる余裕はない。
それでも彼女は構わず、スキップでもするように斜面を下っていく。
ジャンプはやめない。止めどころが分からないような無邪気さだ。
そんなとき――
「あっ……!」
鋭い声に、反射的に足を止めて娘をみる。
鼻から血を流していた。
「あー……出たか」
どうやら、またも興奮しすぎたせいか
理由はともあれ、けっこうな勢いで出血している。
急いで近寄り、その場にしゃがみ込む。
自分の膝を差し出して、娘の頭を乗せ、膝枕のかたちで横にさせる。
鼻のあたりをそっと押さえながら、ポケットを探る――が、肝心のティッシュがない。
代わりに、首に巻いていたタオルを外し、ペットボトルの水で湿らせる。
それで優しく、鼻のまわりをぬぐってやった。
「うぅ〜……」
唸る娘。
とはいえ、出血はひどいが、まだこのタイミングでよかった。
登っている最中や、もっと急な場所でのことを思えば、まだ対処はできる。
辺りは静かだった。
木々に囲まれ、日差しは強いが、暑さはさほどでもない。
風が枝を揺らし、鳥のさえずりがどこかから聞こえてくる。
小さな虫が顔の周りを飛んでうるさいが、まあ――
こういうのも、「癒し」っていうのかもしれない。
なんだっけ……
ああ、デトックス?
……まあ、そんな横文字はどうでもいい。
この時間が、たぶん、必要だったんだ。
鼻血がおさまるのを待ち、ふたたび下山を開始する。
それからは、無理をせず、ゆっくりと。
時には手をつなぎながら、慎重に歩いた。
ようやく登山口へ戻ってきたころには、ふたりとも汗びっしょり。
でも、どこか晴れやかな気持ちだった。
車に乗り込む。
シートに身体を預けた瞬間、じわっと腕や頬に熱を感じた。
「ああ……焼けたな、これは」
日差しの強さは思っていた以上だった。
きっと今夜、娘は「暑い〜」と文句を言いながら寝返りをうつに違いない。
それもまた、旅の余韻だ。
でも――
何はともあれ、ひとつの“大きなイベント”は、無事に終わった。
あとはもう、自宅に帰るだけだ。
そう思うと、心と体の緊張が少しずつ解けていくのがわかる。
助手席で、水を飲みながらぼーっとしている娘を横目に、ゆっくりとエンジンをかけた。