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四日目・昼1

車は、ぐんぐんと急斜面を登っていく。

さっきまで遠くに見えていた山が、どんどん間近に迫ってくる。

頂上付近は白く霞んで見えるが、それが岩肌なのか、残雪なのか――いまいち判断がつかない。


「わぁ! ほんとだ! 雪がある!」


助手席から、娘の嬉しそうな声が上がる。

声に弾みがある。少し前の空気が嘘のように、すっかりご機嫌だ。


「あれは、たぶん頂上あたりだな。そこまで行けるかはわからないし、もし雪が残ってたら危ないから、その手前で引き返すぞ?」


そう念を押してみるが――


「やだ! 頂上まで行く! 雪で遊んで帰るの!」


やる気は十分のようだ。

この切り替えの早さ、ほんとに感心する。ちょっと羨ましい。


山の麓にある駐車場に到着する。


ここからが、本当のスタートだ。


自分の経験上、山登りで大事なことは、たった三つ。


――たとえ“低い山”でも、絶対に油断しない。

(見た目より遥かに距離がある、なんてのはよくある)

――登る前に、必ずトイレは済ませておく。

(登りはじめると腸もやたら活発になる)

――水分は絶対に持つこと。

(これを怠って、何度もしにかけた)


ということで、娘を強制的にトイレへ送り出す。

自分は朝に済ませていたが、娘はまだだった。


「今、出しておかないと後で大変なことになるからな。最悪、袋とスコップの出番になるぞ……」


そんな“冗談まじりのプレッシャー”が効いたのか、無事済ませてきたようだ。


「全部出たよ! 元気百倍!」


――そりゃ何より。


空を見上げると、陽は高く、照りつける日差しが眩しい。

快晴――それ自体はありがたい。けれど、このまま登れば、ちょうど正午前後に最も暑い時間帯にぶつかる。


ペットボトルを手に取り、しばらく考える。

2本持っていくべきか……いや、おそらく1本使いきる前に引き返すことになるだろう。


腰も痛い。娘も元気とはいえ、さすがに頂上までは難しい。


AIくんの予測は「五合目あたりで折り返しが妥当」。

それくらいが、現実的なラインかもしれない。



娘と並んで歩きながら、「山道の入り口って、どこだったっけな」と周囲を見渡す。

ふらりと足を向ける先――そこに、なんとなく見覚えがある。


ふと、かつてここを一人で登ったときの記憶がよみがえった。


あれは、何年前のことだったろう。

旅の途中だったか、ただ静かに、自分のためだけに登ったあの時間。



そして今、同じ道を――


誰かと一緒に歩いている。


ーー娘と

あのときとは違う早さで、違う意味で、足を前に出していく。



……悪くない。



さあ、いよいよ。

暑い山登りの、はじまりだ。


昔、登ったことがある山。

けれど、正確なルートなんて覚えていない。


「たしか、こっちだったような……」

そんなあやふやな記憶と、周囲の人の流れに身をまかせて進む。


途中の看板に「この先、神社あり」と書かれていた。

――ああ、山って言えば、大抵なとこは神社があったっけな。

でも、前に登ったとき、そんな場所に立ち寄った記憶はない。


まあ、いい。正解なんて気にしなくていいのだ。行ってみて、違ったら引き返せばいい。それだけの話だ。


人の姿はまだまばらだけれど、すれ違うたびに軽く会釈を交わしながら進む。


道は整備された石畳。

見た目以上に勾配はきついが、足場がしっかりしているぶん、歩きやすい。


先頭を歩くのは、もちろん娘だ。


小さな足で、ぴょんぴょんと軽快に進んでいく。

「はやくおいでよー!」

何度も振り返って、そう声をかけてくる。


……湿布、かぶれなきゃいいけどな。

そんなことを考えながら、自分も少しペースを上げる。


ふと、先を見上げる。

眼前に続く、果てしない石段。


――ああ、これはまだまだ長い道のりになりそうだ。



やっとのことで、神社までたどり着く。


なかなかの坂道だったが、こまめに休憩をはさみながら、ここまでは順調。

とはいえ――どうやら前に来たときとは、違うルートだったらしい。

目に映る景色はどれも初めて見るものばかりで、記憶のかけらにも引っかからない。


まあ、それでも構わない。

登山道はどこかで合流するはず。神社を抜けて、さらに奥へ進もうとした、そのときだった。


娘が、境内の門の前で腰を下ろした。


そのすぐそばに、こんな看板が立っている。


「ここに腰をかけないでください。神様にお尻を向ける行為です」


……そりゃそうだ。


「そこ、ダメだよ。神様にお尻向けちゃうから」


声をかけると、娘はきょとんとしながらも、今度は反対向きに座り直した。


――そうじゃない。


思わず笑ってしまう。

仕方なく娘を立たせて、お賽銭を入れ、二人で丁寧に手を合わせる。

作法の看板もあったけれど、まあ、気持ちがこもっていればそれで十分だろう。


境内で行き止まりかとも思ったが、奥のほうにもうひとつ小さな看板が見えた。


……やっぱり、道はまだ続いている。


「ちょっと休憩しようよ」


娘が言う。顔には、さっきよりも明らかに疲れの色が浮かんでいた。


看板のそばに腰を下ろし、水を飲みながらひと息つく。

ほんのわずかな時間だけど、それがありがたい。


そのとき、ちょうど三人組の女性たちが山道を下ってきた。

柔らかな笑顔を浮かべた人たちで、思わず「こんにちは」と自然に声が出る。


――山って、不思議だ。


名前も知らない相手なのに、なぜか距離が近く感じる。

きっと「同じ山を登っている」ただそれだけで、どこか“仲間”みたいな気分になるのだろう。


娘はと言えば、さっそく張り切って自慢をはじめた。


「わたし、6歳だけど、一人でここまで登ってきたんだよ!」


「えらいわねぇ」「すごいじゃない」

おばさまたちに褒められて、娘はすっかり上機嫌。


そして、声を張る。


「よし、行くよっ!」


さっきまで「ちょっと休憩……」としょんぼりしていたのが嘘みたいな切り替えの速さ。

いや、ここからが本番なんだけどな――と思うものの、今言っても聞きやしない。


「わかった。じゃあ、ここからが本番だ。がんばるかぁ」


そう返して、再び山道を歩きはじめる。



神社を越えると、いよいよ本格的な山道が始まった。


地面は、土と石と木の根が入り混じり、大人でも一歩ごとに力を使うような階段状の道。

子どもの足には、想像以上にきついはずだ。


それでも、娘は黙々と登っていく。

足取りは軽くはない。でも、ちゃんと前を向いている。その姿に、少しだけ背中を押されるような気持ちになる。


――けれど、やはり限界は近づいてくる。


休憩の回数が、少しずつ増えていく。

最初は「ちょっとだけ」と言ってすぐ立ち上がっていたのが、今では腰を下ろすたびに、立ち上がるまでの時間も長くなっていた。


山道に入ると、風景はあまり変わらない。

両脇を木々がひたすら覆っていて、視界に入ってくるのは単調な緑と茶色ばかり。

その退屈さが、疲労感を余計に重たくしているのかもしれない。


そして――


「もう、帰ろうよ……」


とうとう、そんな弱音がこぼれた。


振り返り、少し息を整えてから言葉を選ぶ。


「でも、もうだいぶ来てる。来た道を戻るのは、正直つらい。

せめて、本ルートに合流しよう。そこまで行けば、あとはそこから降りよう」


娘はうなずき、ゆっくりと立ち上がった。


登山の経験なんて大してないけれど、ひとつだけ心に持っているものがある。


――どんなに遅くても、足を止めない。


「スピードはどうでもいい。でもな、足だけは止めるな。

止まらないかぎり、ちゃんとゴールには近づくから」


その言葉を、何度も、何度も娘に伝える。


あとは、それを信じて進むしかない。



山道は、さらに続く。


目の前に現れたのは、冗談みたいな急勾配の階段。

もう“登る”というより、“よじ登る”に近い傾斜だ。

さすがに、後ろが気になる。


何度か手を引いてやったが、娘の足取りは明らかに重い。

限界は、そう遠くない。


前方に看板が見えた。近づいて、文字を確認する。


――神社から合流地点までの距離、ようやく“半分”。


……まだ、半分か。


それでも、娘がなんとか追いついてきた。

この現実を伝えるべきか、一瞬迷ったが――あえて言ってみることにした。


「よし、あと半分だ。がんばるぞ」


返事は――なかった。

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