一日目・夕方
「今日から、いよいよ冒険の日がはじまるな」
助手席でシートベルトをカチリと締めた娘が、顔をこちらに向けてにっこり笑う。
「わたしも、たのしみにしてたんだよ」
その笑顔には、何日も前から楽しみにしていた気持ちが素直にあふれていた。
透き通るような声で、はしゃぐようにそう言う姿に、思わずこちらも頬が緩む。
けれど、父である自分の胸の奥には、まだ拭いきれない迷いが残っていた。
目的は、震災のあとをこの目で見ること。
被災地に向かう――それを「冒険」と呼んでいいのか。
そもそも、自分の気持ちそのものが、正しいものなのかさえ、はっきりしない。
ただひとつ、偶然が重なった。
嫁は産休で実家へ帰り、珍しく取れた長期の休み。
誰に反対されることもなく、娘も「行きたい」と目を輝かせた。
気がつけば、その流れに背中を押されるように、俺たちの小さな旅が始まっていた。
立派なキャンピングカーなんてものではない。
ただの箱バンの後部座席を平らにして、布団を一枚敷いただけ。
小さなランタンと蚊取り線香、着替えを少し、小さな箱に詰め込んだ。
その箱は、夜になれば簡易テーブルにもなる。
旅の荷物なんて、それくらいで十分だと思っていた。
今日の予定は単純だ。
北へ走り、適当な道の駅で車中泊。
それだけの、ひとまずの一日。
エンジンがかかり、車がゆっくりと滑り出す。
思えば、旅を計画してから今日まで、ずっと「まだ先だ」と思っていた。
なのに、いざ出発してしまえば、あまりにあっけなかった。
気づけば、もう走り出している。
来年には、娘も小学生になる。
今の仕事柄、夏休みに休みを取って遠出するなんて、きっともうできない。
だから、もしかしたら――
これが、最初で最後の「ふたりきりの旅」になるかもしれない。
助手席では娘が、ずっと楽しそうに喋っている。
「これ持ってきたよ!」「お小遣いもらった!」「あとね、これ、絵を描くやつも!」
久しぶりに会うせいか、言葉が止まらない。
嫁が実家に戻ってからというもの、月に一度、顔を合わせるのがやっとだった。
その分も取り返すかのように、娘の声は車内にぽんぽんと弾んでいた。
その明るさに水を差すようで、少し迷った。
けれど、伝えておくべきだと思って、口を開く。
「なあ、今回の旅はさ……ちょっと“こわいもの”を見ることになるかもしれない。
遊びだけが目的じゃ、ないんだ」
娘は、少し首をかしげてこちらを見た。
目は丸く、あどけないままだ。
「……なんで?こわいの、見にいくの?」
答えに詰まった。
正直、自分でもはっきりわかっているわけじゃない。
興味本位かもしれない。
胸の奥には、うしろめたさすらある。
それでも――しばらく考え、ようやく口にする。
「……大事なことだと思うから、かな」
娘は「ふーん」と短く返すと、それ以上は何も聞かなかった。
すぐに目をきらきらさせて、言う。
「じゃあさ、おかし買いに行こうよ!」
その切り替えの早さに、苦笑する。
でも、それでいいのかもしれない。
“こわいもの”を前にしても、笑える強さ。子どもには、それがある。
少し車を走らせ、道すがらの駄菓子屋に立ち寄る。
娘は完全に遠足モードだ。
「好きなもん、好きなだけ買っていいぞ」と言ってみた。
旅の最初くらい、好きにやらせてやろうと。
店内では娘が、ひとりぶつぶつと喋りながら、あちこちのお菓子棚を覗きこんでいた。
「これ、テレビで見たやつだー!」「あ、これ、保育園のお友だちが好きなやつ!」
どれもこれも、目に入るものすべてが宝物のようだ。
時折、しゃがんだり背伸びしたりしながら、お菓子の袋を吟味しては、かごに放り込む。
棚のあいだから、楽しげな声が何度も飛び出してくる。
その様子を遠くから見ているこちらの方が、なんだかそわそわしてくる。
やがて、両手に抱えるほどの量になったお菓子をレジへ運び、ひとつずつ丁寧に店員さんへ差し出し始めた。
小さなものばかりで、バーコードを探すのにも時間がかかる。
後ろには人の列ができ始めていて、だんだんと居心地が悪くなってくる。
「……すみません、ちょっとだけ時間かかりますね」
と、申し訳なさそうに言う店員さんに、こちらも軽く頭を下げる。
そして、山のように積まれた駄菓子の会計が終わったそのとき――
「……3,000円になります」
「……は?」
駄菓子屋で3,000円。
うまい棒なら200本いける。
……彼女の財布は7割吹き飛んだ。
それでも本人は満足げだった。
向かう車内。
まだ日が落ちるには少し早い空の下、娘は袋をごそごそとあさりはじめた。
「おい、食べ過ぎるなよ。あと、チョコはそれくらいにしておけ。鼻血でも出したら、その時点で旅は終了だぞ?」
「わかってるってば〜」と口では返すが、手は止まらない。
もはや聞いていない。
……まあ、それも、いいか。
好きなときに食べて、好きなときに寝て、好きなところへ向かう。
もちろん、目的地はある。けれど、それだけがすべてじゃない。
寄り道も、無駄遣いも、ちょっとした失敗も、全部ひっくるめて――
ふたりで、ひとつひとつ、進んでいく。
それが、この旅のルールだ。
ある程度お菓子を食べたところで、娘に声をかけた。
「よし、今日はそのへんでやめとこうか。残しとけば、明日からも食べられるんだからな」
娘は「え〜」と小さく唸ったが、しぶしぶ袋の口を閉じる。
……と思いきや、「でも、これだけ!」と駄菓子をひとつ取り出して、器用に包装を開けた。
中にはおまけのおもちゃ。ネックレスが――なんと二つ。
「えっ! ふたつも入ってた!!」
目を丸くして、文字通り飛び跳ねる勢いで喜ぶ。
さっそく自分の首にひとつをかけ、もうひとつをこちらに差し出した。
「これ、お父さんの!」
ちょっと照れながら、それを受け取る。
くすぐったいような、なんとも言えない気持ちになる。
車窓の外は、夕方と夜の境い目がじわりとにじんでいた。
空はまだうっすら明るいが、町の輪郭が少しずつ影へと沈み始めている。
忍び寄るように、夜の気配が空気を変えていく。
助手席の娘は相変わらず元気で、目をきらきらと輝かせていた。
最初はしりとりをしたり、ふたりで童謡を口ずさんだりしていたが、
さすがにそろそろ“ひま”が顔を出してきたらしい。
目的地までは、もう少し。
都市部を抜けた道は、だんだんと田舎らしさを帯びてきた。
混雑の時間も過ぎ、周囲を走る車もほとんどない。
街灯の数も減り、遠くにポツリ、ポツリと見える民家の灯りが、まるで星みたいだった。
「なあ、ちょっと後ろに行って、布団ひいといてくれるか?」
動いていいと分かった瞬間、娘の顔がぱっと明るくなる。
「やったー!」と声をあげ、シートベルトを外すと、はしゃぎながら後部スペースへ。
バックミラー越しにその様子を眺める。
ただ、その“片づけっぷり”は、まあ、お世辞にも上手とは言えない。
クッションを蹴りのけ、カバンを押しやり、布団をぐしゃっと広げようとするその動きに、つい声が出る。
「ちょっと待て、雑にどけるな。いったん物は横によけてから、ちゃんと並べろ」
「えー、わかってるよー」
返事だけは元気だが、動きはやっぱり雑だ。
まあ、そういうとこ、俺に似たのかもしれない。
きっとあとで、自分が引き直すことになるだろうな――
そんな予感を胸に、苦笑しながらハンドルを握り直した。
「できたよー!」
後ろから、元気な声が弾んで返ってきた。
「じゃあ、そこにある箱、机がわりにして絵でも描いときな。
中にランタン入ってるから、それ使って」
「おぉ~!」
嬉しそうな声のあと、しばらくガサガサと音がして、やがて車内に静かな“集中”の気配が漂い始めた。
ぶつぶつと小さな独り言を漏らしながら、どうやら何かを描いているらしい。
目的地に着く頃には、まだ彼女の“たいさく”は完成していなかった。
今日の宿は予定通り、郊外の道の駅。
道の駅は全国どこにでもあるが、選び方には少しコツがいる。
街に近すぎれば車通りや人の声で落ち着かず、逆に田舎すぎれば街灯もなく、夜が怖くなる。
便利さと安心のバランスを考えながら、事前に外観とレビューを見ておいた場所へと車を滑り込ませる。
一人旅で大事なのは、「寝る場所」と「ガソリン残量」。
これは若い頃、何度かの失敗で学んだことだ。
当時は引っ越しのバイトで全国を走り回っていて、深夜のPAで歯磨きをしているドライバーたちの姿が、なぜかずっと記憶に残っている。
「ああ、こうやって旅する人もいるんだな」
そんなふうに思ったあの日の自分が、今ここにいる。
車を停め、振り返る。
「よし、今日はここで寝るぞー」
「えー、まだ絵描いてたのにー!」
ぶつぶつ文句を言いながらも、娘はノートを抱えてこちらに戻ってくる。
ページをちらりと覗けば、ようやく“人物”とわかるレベルの落書きだが、
……それでも、正直ずいぶん上達したもんだと思った。
道の駅にはたいていトイレと自販機がある。
それさえあれば、水が使えるし、歯磨きもできる。
「歯、磨いとくか。明日の朝でもいいけど、いまのうちでもええぞ」
そう言いながら、ふと昔を思い出す。
早朝のサービスエリアで、タオル片手に歯を磨いていた運送の兄ちゃんたち。
人によっては「汚い」と思うかもしれないが、あのときの自分には、むしろ便利で格好よく見えた。
そんな話を娘にしてみる。
「ま、大きくなったら“なにそれ、キモッ”とか言われるかもしれんけどな」
「歯みがき、一人でもできるよ。だいじょうぶ!」
あっさりした返事だった。
案外、今は何の抵抗もないらしい。
ちょっと安心した。




