第1章-9話「ヴァルドの剣」
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ヴァルドが静かに振り下ろした右手が、無慈悲な指揮者のタクトのように、死闘の開始を告げた。
その合図一つで、包囲していた帝国兵たちは機械のような精密さで一斉に動きを変える。
攻撃態勢を維持したまま、じりじりと後退し、燐とヴァルドの間に円形の、まるで決闘場のような空間を作り出したのだ。
彼らはただの壁となり、獲物が逃げ出すのを防ぎ、そして主人の戦いを見届ける観客となる。その冷徹な統率力に、燐は改めてヴァルドという男の格と、自身が置かれた絶望的な状況を理解させられた。
ヴァルドは、腰に佩いた長剣の柄に、ゆっくりと手袋に覆われた手をかけた。
抜き放たれた剣身は、森の深い闇の中にあってさえ、内部から発光しているかのように鈍い輝きを放っている。特殊な合金で鍛え上げられ、幾重にも魔術的な処理が施された帝国騎士団仕様の業物だ。その切っ先が、寸分の狂いもなく燐へと向けられる。
「その汚れた命、この私が直々に浄化してやろう、リン」
静かな、しかし氷のように冷たい声が響く。
次の瞬間、ヴァルドの姿が掻き消えた。
否、消えたのではない。常人ならば目で追うことすら不可能な、爆発的な速度で燐へと踏み込んできたのだ。地面を蹴る音すら、ほとんど聞こえなかった。
(速い…! 速すぎる!)
燐は反射的に全身の神経を集中させ、刀で防御姿勢を取る。
経験と、そしておそらくは自身の内に眠る未知の感覚が、迫りくる脅威をかろうじて捉えていた。
直後、鼓膜を劈くような金属音と共に、凄まじい衝撃が燐の腕を襲った。
ヴァルドの長剣が、燐の刀へと正確に、そして容赦なく叩きつけられたのだ。
ガァァァンッ!!
闇夜に激しい火花が散る。
燐の腕が衝撃で痺れ、骨がきしむような感覚。踏みしめた地面が僅かに陥没し、身体ごと後ろへ大きく数歩押し返された。
ただの一撃。それだけで、斥候たちとは比較にならない、圧倒的な力の差を燐は痛感させられた。
だが、ヴァルドは追撃の手を一切緩めない。
一撃目を放った勢いを殺すことなく、流れるような動作で即座に次の攻撃へと移行する。
閃光のような剣閃が、上下左右から、精密機械のように正確な軌道で、連続して燐へと襲いかかる。
突き、薙ぎ払い、斬り上げ、袈裟斬り――帝国騎士団に伝わるという実戦剣技は、一切の無駄がなく、洗練され、そしてその一撃一撃に明確な殺意が込められていた。
「くっ…!」
燐は必死で刀を振るい、その猛攻を捌き続ける。
受け、流し、弾き、時には身を翻して回避する。
かつて帝国最強と謳われた特殊部隊「時雨」で叩き込まれた剣技と体術の全てが、今、この瞬間に凝縮されていた。
金属同士が激しく打ち合う甲高い音が、森の中に絶え間なく響き渡る。
しかし、ヴァルドの真の恐ろしさは、その卓越した剣技だけではなかった。
「――遅い!」
剣戟の合間、ヴァルドが短く、鋭く言い放った。
その瞬間、彼の身体と、手に持つ長剣が、淡い、しかし力強い魔力の光を纏う。
身体能力を飛躍的に向上させる強化魔術。そして、剣身に高密度の魔力を纏わせ、切れ味と破壊力を増大させる魔力剣。
近代魔術の基礎的な応用でありながら、ヴァルドほどの熟練者が戦闘中に淀みなく、瞬時に発動させれば、その脅威は桁違いに跳ね上がるのだ。
剣の速度が、重さが、そして切れ味が、明らかに一段階増した。
燐の反応速度を、ヴァルドの剣速が上回り始める。
刀で受け止めきれず、僅かに逸らした剣閃が燐の肩を浅く切り裂き、脇腹を熱い痛みが掠める。
戦闘服が裂け、生々しい傷口から鮮血が飛び散った。
「ははっ、どうした、リン! その程度か! かつてのエースも地に落ちたものだな!」
ヴァルドは、まるで楽しむかのように嘲笑を浮かべながら、さらに猛攻を仕掛ける。
その攻撃は、単に肉体を破壊するだけでなく、燐の精神をも削り取ろうとするかのように、執拗な言葉と共に浴びせかけられた。
「一族に伝わる聖なる教えを忘れ、その尊い力を私欲のために使い! あまつさえ帝国そのものを裏切った愚か者めが!」
「なぜ貴様のような出来損ないが、あの栄光ある『時雨』にいたのか! 本来ならば、貴様のような血筋の者は…!」
「なぜ貴様だけが生き残った! 多くの忠勇なる兵士たちが死んでいったというのに!」
「その力を使う資格など、貴様には、もはや欠片もないのだ!」
ヴァルドの言葉が、鋭い棘のように燐の心を抉る。
一族。聖なる力。裏切り。出来損ない。
忘れたい、封じ込めていたはずの過去の断片が、無理やり引きずり出されそうになる。
怒り、悔しさ、そして深い罪悪感。様々な感情が渦巻き、集中力が途切れそうになる。
だが、燐は奥歯を強く噛み締めた。
背後で、息を殺して自分を見守っているであろう、小さな存在を感じる。
(今は…! ヴァルドの言葉に惑わされるな…! 俺はただ、ロリを守る…!)
彼は、枯渇寸前の魔力と、限界に近い精神力を、最後の意志の力で振り絞った。
思考だけで、微弱な、しかし彼の特異性を帯びた封印術式を断続的に発動させる。
ヴァルドが纏う強化魔術の、安定した魔力流にごく僅かなノイズを混ぜ込み、一瞬だけその効果を乱す。
ヴァルドが振るう魔力剣のエネルギー循環に干渉し、その輝きをほんの一瞬だけ、不自然に揺らめかせる。
ヴァルドが踏み込む先の地面に、瞬間的に滑りやすい魔力の膜を作り出し、その完璧なステップを僅かに狂わせる。
これらの抵抗は、ヴァルドの猛攻を完全に止めることはできない。
だが、ほんの一瞬の隙、ほんの僅かなリズムの乱れを生み出す。
燐はその瞬間を逃さず、紙一重で致命的な一撃を回避し、あるいは受け流し、泥沼のような戦いの中で、必死に食らいついていた。
しかし、その抵抗も、もはや限界に近づいていた。
燐の呼吸は激しく乱れ、全身から滝のような汗が噴き出し、流れる血の量も増えていく。
動きには明確な鈍りが見え始め、防御は完全に後手に回っていた。
ヴァルドの剣が、容赦なく燐の体力を削り、確実に追い詰めていく。
岩陰で、ロリはその光景を、両手で口を覆い、息を詰めて見つめていた。
激しい戦闘音と閃光。飛び散る火花と土煙。
そして、圧倒的な強さの敵を前に、傷つき、血を流し、それでも必死に立ち続ける燐の姿。
彼女の大きな青藍の瞳からは、既に大粒の涙がとめどなく溢れていた。
唇は血が滲むほど強く噛み締められている。
(リン…! リン…!)
声にならない叫びが、彼女の心の中で繰り返される。
何もできない。ただ見ていることしかできない自分の無力さが、彼女の胸を張り裂けんばかりに締め付ける。
同時に、彼女の中で、これまで感じたことのないような、熱く、激しい何かが、まるでマグマのようにざわめき、膨れ上がっていくような感覚があった。それは、燐を守りたいという強い想いと、目の前の理不蔵な暴力に対する怒り、そして彼女自身の内に秘められた、未知の力の胎動だったのかもしれない。
「終わりだ、リン!」
燐の限界を正確に見極めたヴァルドが、勝利を確信した冷たい声で叫んだ。
彼は長剣を大きく振りかぶり、渾身の力と、これまでで最大級の魔力を剣身に集中させる。
剣が眩い光を放ち、周囲の空間が歪むほどの圧力を伴って、燐へと振り下ろされる。
帝国騎士団剣技・奥伝――『浄化の一閃』。
その技の名を、燐は知っていた。
もはや、避けることも、防ぐこともできない。
刀は手にあるが、それを振るうだけの力は残っていない。
高速で迫る光の刃を前に、燐の思考は、不思議なほど冷静になっていた。
(ここまでか…ロリ…すまない…守り、きれなかった…)
薄れゆく意識の中、彼は背後にいるであろう幼女の顔を思い浮かべ、自らの不甲斐なさを、深く、深く呪った。
諦めの念が、彼の心を完全に支配しかけた、まさにその瞬間――。