第1章-8話「ヴァルドの剣」
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ヴァルドが静かに振り下ろした右手が、死刑執行人の宣告のように、死闘の開始を告げた。
その合図一つで、包囲していた帝国兵たちは一斉に動きを変える。
攻撃態勢を維持したまま、じりじりと後退し、燐とヴァルドの間に円形の空間を作り出した。
闘技場だ。兵士たちは壁となり、獲物の退路を断ち、主人の狩りを見届ける。燐の指先が刀の柄を握り直した。掌に滲む汗が冷たい。
ヴァルドは、腰に佩いた長剣の柄に手をかけた。
抜き放たれた剣身が、森の深い闇を裂くように鈍い輝きを放つ。特殊合金に幾重もの魔術処理を施された帝国騎士団仕様の業物。その切っ先が、寸分の狂いもなく燐へと向けられた。
鋼が纏う冷気が、夜気に混じって燐の頬を撫でる。
「その汚れた命、この私が直々に浄化してやろう、リン」
静かな、しかし氷のように冷たい声が響く。
次の瞬間、ヴァルドの姿が掻き消えた。
否、消えたのではない。常人ならば目で追うことすら不可能な、爆発的な速度で燐へと踏み込んできたのだ。地面を蹴る音すら、ほとんど聞こえなかった。
燐の背筋を、氷の針が走り抜けた。
反射的に全身の神経を研ぎ澄ませ、刀を横に構える。
経験と、自身の内に眠る未知の感覚だけが、迫りくる死の気配をかろうじて捉えていた。
直後、鼓膜を劈くような金属音と共に、凄まじい衝撃が燐の腕を襲った。
ヴァルドの長剣が、燐の刀へと正確に、そして容赦なく叩きつけられたのだ。
ガァァァンッ!!
闇夜に激しい火花が散る。
燐の腕が衝撃で痺れ、骨がきしむような感覚。踏みしめた地面が僅かに陥没し、身体ごと後ろへ大きく数歩押し返された。
ただの一撃。口の中に錆びた鉄の味が広がる。斥候たちとは比較にならない、格の違いを燐の全身が理解した。
だが、ヴァルドは追撃の手を一切緩めない。
一撃目を放った勢いを殺すことなく、流れるような動作で即座に次の攻撃へと移行する。
閃光のような剣閃が、上下左右から、精密機械のように正確な軌道で、連続して燐へと襲いかかる。
突き、薙ぎ払い、斬り上げ、袈裟斬り――剣閃の一つ一つが、洗練された殺意の結晶だった。
「くっ…!」
燐は必死で刀を振るい、その猛攻を捌き続ける。
受け、流し、弾き、時には身を翻して回避する。
かつて帝国最強と謳われた特殊部隊「時雨」で叩き込まれた剣技と体術の全てが、今、この瞬間に凝縮されていた。
金属同士が激しく打ち合う甲高い音が、森の中に絶え間なく響き渡る。
しかし、ヴァルドの真の恐ろしさは、剣技だけではなかった。
「――遅い」
剣戟の合間に、ヴァルドが吐き捨てた。
その瞬間、長剣が淡く、しかし力強い魔力の光を纏う。身体強化と魔力剣の同時発動。基礎魔術に過ぎないが、ヴァルドほどの熟練者が戦闘中に淀みなく重ねがけすれば、その脅威は次元が変わる。
剣の速度が、重さが、そして切れ味が、明らかに一段階増した。
燐の反応速度を、ヴァルドの剣速が上回り始める。
刀で受け止めきれず、僅かに逸らした剣閃が燐の肩を浅く切り裂き、脇腹を熱い痛みが掠める。
戦闘服が裂け、生々しい傷口から鮮血が飛び散った。
「どうした、リン! その程度か!」
ヴァルドの口元が歪んだ。剣を振るいながら、言葉でも燐を斬りつける。
「一族に伝わる聖なる教えを忘れ、その尊い力を私欲のために使い! あまつさえ帝国そのものを裏切った愚か者めが!」
「なぜ貴様のような出来損ないが、あの栄光ある『時雨』にいたのか! 本来ならば、貴様のような血筋の者は…!」
「なぜ貴様だけが生き残った! 多くの忠勇なる兵士たちが死んでいったというのに!」
「その力を使う資格など、貴様には、もはや欠片もないのだ!」
一族。聖なる力。裏切り。出来損ない。
一語ごとに、封じ込めていた過去が無理やり引き剥がされる。
奥歯を噛み締めた。口の中に血の味が滲む。
背後から、小さな呼吸音が聞こえた。震えながらも、息を殺して自分を見守っている気配。
燐は枯渇寸前の魔力と精神力を、最後の意志で振り絞った。
思考だけで、微弱な、しかし彼の特異性を帯びた封印術式を断続的に発動させる。
ヴァルドが纏う強化魔術の、安定した魔力流にごく僅かなノイズを混ぜ込み、一瞬だけその効果を乱す。
ヴァルドが振るう魔力剣のエネルギー循環に干渉し、その輝きをほんの一瞬だけ、不自然に揺らめかせる。
ヴァルドが踏み込む先の地面に、瞬間的に滑りやすい魔力の膜を作り出し、その完璧なステップを僅かに狂わせる。
どれ一つとして、ヴァルドの猛攻を止めるには足りない。
だが、一瞬の隙。僅かなリズムの乱れ。
燐はその裂け目に身体を滑り込ませ、紙一重で致命傷を避け続けた。
力で勝てない相手に、技と知恵で食らいつく。それが「時雨」で叩き込まれた燐の戦い方だった。
しかし、抵抗にも限界がある。
呼吸が荒い。全身から噴き出す汗が、傷口の血と混じって地面に滴り落ちる。視界の端が暗く滲み始めていた。
岩陰で、ロリは両手で口を押さえていた。
剣と剣がぶつかる音が、骨の奥まで響く。飛び散る火花が、少女の瞳に焼きつく。
傷だらけの背中が、それでも立ち続けている。自分を、守るために。
大粒の涙が、止まらなかった。唇を噛む力が強すぎて、自分の血の味がした。
何もできない。ただ見ていることしかできない。その無力さが、胸の奥で熱い塊になって膨れ上がっていく。
怒りなのか、祈りなのか、少女自身にも分からない何かが、身体の底からざわめいていた。
「終わりだ、リン!」
燐の限界を正確に見極めたヴァルドが、勝利を確信した冷たい声で叫んだ。
彼は長剣を大きく振りかぶり、渾身の力と、これまでで最大級の魔力を剣身に集中させる。
剣が眩い光を放ち、周囲の空間が歪むほどの圧力を伴って、燐へと振り下ろされる。
帝国騎士団剣技・奥伝――『浄化の一閃』。
その技の名を、燐は知っていた。
避けられない。防げない。
刀は手にあるが、それを振るう力が残っていない。
迫る光の刃を前に、燐の思考が奇妙に澄み渡った。
浮かんだのは、ロリの顔だった。あの日、古い館で初めて目を合わせた時の、不安と好奇心が入り混じった青藍の瞳。
(すまない――)
その一語が、薄れゆく意識の全てだった。




