第1章-6話「斥候の眼」
毎日更新するからぜひ見てね!
一人でニヤニヤするだけなのをやめました…
皆さんにもご覧いただける機会に巡り合えたら幸せです!
深い森の中、燐は苔むした巨岩が重なり合ってできた、天然の岩陰に身を潜めていた。
狭いが、雨風を凌げ、外からの視線も遮断できる。一時的に身を隠すには十分だった。
「ロリ、こっちだ」
燐は息を切らせながらも、ロリの手を引いて岩陰の奥へと滑り込んだ。
ロリも疲労困憊の様子で、燐の腕にしがみつくようにして座り込む。小さな肩が上下し、銀色の髪が汗で額に貼りついていた。
「少しだけ休む。息を整えろ。すぐにまた移動する」
燐はロリに囁き、自身も岩壁に背を預けて荒い呼吸を整えようとした。
左脚の傷が脈打つように痛む。体内の魔力は、ロリから流れ込んできた不思議な力のおかげで僅かに持ち直したとはいえ、依然として枯渇寸前だ。
目を閉じ、意識を集中して急速瞑想を試みるが、消耗しきった身体では十分な魔力を練り上げることはできなかった。
焦りが募る。指先が小刻みに震え、握りしめた拳に爪が食い込む。
追手との距離は一時的に開いたはずだが、それもいつまで持つか。
彼らが魔獣を退け、追跡を再開するのは時間の問題だ。
「リン」
ロリが、小さな声で呼びかけた。彼女は岩壁に生えた苔を、小さな指でそっと撫でていた。
「この緑色のもの…柔らかい。岩に生えているのですね。これは、植物…というものですか?」
絶体絶命の状況にあっても、この幼女は目の前の世界に好奇心を向けることを止めない。長い封印の中で物語だけを慰めに生きてきた少女にとって、苔の一つさえも、初めて触れる現実の欠片なのだ。
「ああ、苔だ。日が当たらなくても、湿気があれば育つ」
「すごい…。暗くても、生きているのですね」
その言葉は、おそらく苔だけに向けられたものではなかった。燐はふと、自分がこの幼女に励まされているような気がした。
(…暗くても、生きている、か)
その時。
燐の鋭敏な聴覚が、岩陰の外で、慎重に茂みを掻き分ける微かな音を捉えた。
一つではない。複数。足音を極限まで殺し、連携して接近してくる気配。
乾いた枝を踏む音、布が枝葉に擦れる微かな衣擦れ。訓練された者特有の、静かだが確実な接近。
休息は、ほんの束の間だった。
燐は即座に瞑想を中断し、刀の柄に手をかけた。
岩陰の入り口付近、木々の影から、潜めた声が響いた。
「…いたぞ。奴だ…『時雨』の生き残りが」
別の方向からも、囁くような声が応える。
「『対象X』も一緒か。手間が省けたな」
そして、短い指示。
「油断するな! 囲め!」
燐はロリの肩を強く抱き、囁いた。
「ここにいろ。絶対に動くな。俺が合図するまで、息も殺していろ」
ロリは恐怖に目を見開きながらも、必死にこくりと頷いた。唇を噛みしめ、拳を膝の上でぎゅっと握っている。
次の瞬間、燐は岩陰から弾かれたように飛び出した。
潜んでいることがバレた以上、ここで迎撃するしかない。本隊が到着する前に、斥候だけでも排除する!
茂みの中から、黒い戦闘服に身を包んだ兵士が三人、同時に姿を現した。
彼らは燐の出現を予測していたかのように、即座に反応する。
燐は一瞬で三人の配置を読んだ。右翼に実体剣、左翼に魔力銃、中央後方に魔術師。教科書通りの三角陣形だ。
(魔力銃持ちを先に潰す。射線が通る前に懐へ入り、封印で銃を無力化。次に剣士。最後に魔術師――術式の詠唱時間が最も長い奴を最後に回す)
作戦は一瞬で組み上がった。
一人は腕の魔導結晶を操作し、牽制と思われる小型の魔術弾を複数発射。
残る二人は、それぞれ実体剣と魔力銃を構え、左右から挟み込むように燐へと襲いかかってきた。
その連携には一切の無駄がなく、彼らが高度な訓練を受けた精鋭であることが窺える。
「当たれっ!」
魔術弾が空気抵抗を無視して直進してくる。
同時に、左右からの剣撃と銃撃。
燐は魔術弾を最小限の動きで紙一重で回避し、右から迫る剣を自身の刀で受け止める。
キィィィン!
火花が散り、腕に衝撃が走る。
やはり力が入りにくい。押し込まれる寸前、燐は相手の力を利用するように身体を回転させ、剣を受け流すと同時に、左から放たれた魔力銃の弾道を予測し、身を低くして回避した。
(魔力消費を抑え、体術と封印術式で仕留める…!)
燐は地面を蹴り、魔力銃を構える斥候へと一気に距離を詰めた。
斥候は冷静に再度照準を合わせようとするが、燐の動きはそれを上回る。
予測不能なステップで懐に潜り込み、すれ違いざま。
思考だけで、短縮された封印術式のコードを脳内で紡ぐ。
「封――」
腕の魔導結晶が応答するより早く、燐自身の奥底から力が引き出されるような感覚。
次の瞬間、斥候が構える魔力銃の機関部が、パチリと嫌な音を立てて機能を停止した。強制的な魔力供給遮断。
「なっ!? 魔力銃が…!」
斥候が動揺した一瞬の隙を突き、燐は柄頭でその鳩尾を正確に打ち抜き、意識を奪った。
(一人目。次)
「小賢しい術を使う!」
背後から、剣を持った斥候が再び斬りかかってくる。
燐は振り返りざまにその剣を受け止め、鍔迫り合いになる。
刀身を通じて伝わる相手の力。筋力では劣っている。腕が痺れ、手首が軋んだ。
だが、燐が狙うのは力比べではない。
鍔迫り合いの最中に、再び封印術式を練り上げた。
今度は、相手の剣そのものを対象とする。
ガキンッ!
燐が魔力を流し込む。
斥候の持つ剣の重心が急激に変わり、まるで柄に砂袋でも括り付けられたかのように、手の中で暴れ始めた。
「なっ…剣が…! 何だこれは!」
斥候が混乱し、剣を制御しようと意識が向いた瞬間、燐は体を捻り、がら空きになった脇腹へ体重の乗った蹴りを叩き込んだ。
「ぐぅっ!」
呻き声を上げて斥候が地面に崩れ落ちる。
(二人目。残り一人――魔術師だ)
「くそっ! 何だその術は!」
最後に残った魔術師タイプの斥候が、燐との距離を取りながら、防御魔術を展開し、同時に新たな攻撃魔術のため魔導結晶の操作を開始した。
周囲のマナが急速に収束していく気配。空気中の湿気が凍りつくような、冷たい圧力。
(術式の組み上げが早い! 発動される前に…!)
燐は即座に距離を詰め、相手の魔術発動を阻止しようと駆けた。
その瞬間。
極度の集中と、あるいは無意識の力の活性化か。
燐の両の瞳に、淡い紫電のような、複雑な紋様が一瞬だけ、陽炎のように揺らめいた。
それを見た斥候は、詠唱を中断し、恐怖に目を見開いた。
「なんだ、あの紋様は…!? 奴の術は、報告にあったものと違う…! これは魔術では――」
叫び声は、最後まで続かなかった。
燐の刀が、斥候の展開したばかりの防御魔術を、まるで紙を裂くように強引に突破し、その峰が正確に斥候の意識を刈り取っていた。
「はぁ…はぁ…っ…」
三人の斥候が、音もなく地面に倒れ伏した。
燐は刀を鞘に納め、肩で大きく息をついた。
魔力は、ほぼ完全に使い果たした。身体の疲労も限界に近い。膝が笑い、刀を握っていた右手が微かに痙攣している。
口の中に、鉄錆のような血の味が広がっていた。唇の内側を噛み切ったらしい。
静寂が、一瞬だけ森に戻った。
だが、それも束の間だった。
打ち倒した斥候の一人が身につけていた小型通信機から、ノイズ混じりの、しかし聞き慣れた冷徹な声が響き渡った。
「――応答しろ、斥候班! 何があった! …魔力反応消失を確認。戦闘と判断する。…聞こえているぞ、リン! そこにいるのだろう! すぐに本隊が向かう! 全員、目標地点へ急行せよ!」
ヴァルドの声だ。
戦闘音と、そして恐らくは斥候が最後に見たであろう燐の異常な魔力の痕跡によって、正確な位置を特定されてしまったのだ。
燐は通信機を踏み砕くと、岩陰へ向かった。足が重い。一歩ごとに地面が揺れるような錯覚。
ロリが息を潜めて隠れている場所に辿り着くと、少女は小さな身体を岩壁に押し付けるようにして震えていた。だが、言われた通り、声は出していなかった。
「…終わった。行くぞ」
差し出した手を、ロリが両手で掴む。その指先は氷のように冷たかった。
「リン…怪我してる。口のところ…」
ロリが燐の唇の端に目をやった。
「たいしたことない。噛んだだけだ」
燐は口元を拭い、薄く笑った。
(…すごいな、この子。自分が震えてるくせに、俺の口元の血に気づくのか)
本隊が到着するまで、時間はほとんど残されていない。
絶体絶命の状況は、何一つ変わっていなかった。




