第3章-59話「風に預けた地図」
声が、遠くから聞こえた。
水の底を漂っているような感覚だった。視界は暗く、音は歪んでいる。誰かの声が聞こえるが、言葉にならない。鼓膜が拾った振動を脳が意味に変換する回路が、どこかで断線している。
掌の下に、温度があった。
それだけが確かだった。左手の掌の下に、小さくて、柔らかくて、温かいものが脈打っている。脈動は規則的で、穏やかで、少女の心臓が送り出す血液の律動が、皮膚を通じて燐の掌に伝わっていた。
「——燐殿」
カイの声だった。右から。近い。
「聞こえますか。燐殿」
瞼が重かった。鉛を被せたように開かない。それでも、掌の下の脈動が、少女の心臓が、燐を引き上げた。意識の底から、温度に導かれるようにして。
目が開いた。
灰色のフィルターは、まだかかっていた。けれど先ほどよりは薄い。世界の輪郭が辛うじて見える。石柱の影。赤い岩壁。その上に乗った朝の空。雲はなかった。五月の朝の空が、青を通り越して白に近い色で広がっている。
膝の上に、ロリがいた。
少女は眠っていた。銀色の髪が燐の太腿の上に広がり、閉じた瞼の上で長い睫毛が微かに震えている。白いローブは裾が赤い砂で汚れ、袖口が焦げて糸がほつれていた。小さな拳が燐の革鎧の裾を握ったままだ。眠りの中でも、手を離していなかった。
「目が覚めましたか」
カイが膝をついて、燐の横にいた。大柄な身体を屈め、包帯の巻かれた左手を膝に乗せている。日焼けした顔に安堵の色が滲み、すぐに引き締まった。
「どれくらい——」
「十分ほどです。燐殿が意識を失ってから」
十分。燐は目を閉じ、頭の中で状況を組み立てた。脳内魔法式は使えない。焼損した回路の残骸が、こめかみの奥で鈍い熱を放っている。しかし解析なしでも、考えることはできた。
ゼルギウスは退いた。レオンハルトは。
目を開けた。荒れ地を見渡した。
白銀の青年が消えた方角に視線を投げた。崖の向こう。聖炎の残滓は完全に消えていた。大気に灼熱の圧力は感じられない。退いたのだ。確実に。
レオンハルトは。
視線を盆地の端に向けた。朝日に照らされた岩壁の上に、人影はなかった。包囲していた帝国兵たちの影も、東の岩壁にも南の高台にも見えない。
「帝国兵は」
「撤退しました。ゼルギウスが去った後——レオンハルト少佐が岩壁の上で何か命令を出して、十分もしないうちに全員が盆地から退きました」
カイの報告は簡潔だった。しかし声の底に困惑が残っている。包囲が解けた理由を、カイは理解していない。
燐の唇が薄く引き結ばれた。理解していないのではない。理解を保留しているのだ。燐自身がそうだった。レオンハルトの行動の意味を、確信として受け止めるには、まだ早い。
「バルカスは」
「ここだ」
声は左から来た。低く、短く。
バルカスが石柱の一本にもたれていた。大斧を地面に立てかけ、太い腕を組んでいる。日焼けした顔の古傷が、朝日に照らされて白く浮いていた。目は盆地の東の稜線に向けられている。警戒を続けているのだ。帝国兵が退いた後も、完全に安全だと判断するまでは。
「罠じゃない」
燐は言った。掠れた声だったが、確信はあった。
バルカスの目が燐に向いた。問い詰める視線ではなかった。確認の目だ。
「根拠は」
「ゼルギウスを退けた後で包囲を維持する意味がない。ゼルギウスが来たのはレオンハルトの作戦じゃない——別系統の命令だ。ゼルギウスが退いた以上、レオンハルトには部隊を留めておく理由がなくなった」
論理的な説明だった。嘘ではない。しかしそれは理由の半分でしかなかった。
レオンハルトの目を見た。あの決意の目を。包囲を解く理由は、作戦上の合理性だけではないと燐は知っていた。けれどそれを口にする必要はなかった。バルカスもまた、それを察しているはずだった。
「セレスが北の出口を確認に行っている」
バルカスが視線を稜線に戻した。
「十五分前に出た。密使の道の北側に帝国兵が残っているかどうか。あと五分で戻る」
バルカスの判断は的確だった。燐が意識を失っている間に、退路の確認を始めている。監視者ではなく、指揮官として。
リディアが遺跡の入り口の階段に座り、端末を操作していた。画面の光が顔を青白く照らしている。ゴーグルを首から下げ、ポニーテールが朝風に揺れていた。
「マナの残留反応は完全にゼロよ。聖炎もロリちゃんの力も——痕跡すら消えてる。計測的には何もなかったことになってるわ」
リディアの声は情報伝達の調子だったが、口元が微かに引き攣っていた。何もなかったことになっている。しかし荒れ地には溶解した石と、亀裂の走った地面と、折れた石柱の残骸が無言で横たわっている。計測器のゼロと現実の破壊の落差に、リディアの科学者としての感覚が軋んでいるのだろう。
「ロリは」
「バイタルは安定してるわ。さっき確認した。消耗は大きいけど、眠っているだけ。目を覚ますのは——もう少し時間がかかるかもしれない」
燐は膝の上の少女を見下ろした。
小さな寝息が聞こえていた。規則的で、穏やかで、荒れ地の破壊の痕跡の中にあって、それだけが平和だった。少女の頬に涙の跡が乾いて薄い白い線を残し、朝日に照らされて微かに光っている。閉じた唇の端に、乾いた血の滲みがあった。唇を噛みしめた跡だ。
燐の左手が、無意識に少女の額に触れた。温かかった。けれど熱はない。少女の体温は正常に戻っていた。
「……移動するぞ」
燐の声は低かった。
「車に乗る。この場所を離れる」
バルカスが頷いた。
* * *
セレスが戻ってきたのは、予告の五分ちょうどだった。
密使の道の裂け目から迷彩外套の影が現れ、銀灰色の髪が朝風に揺れた。ライフルを肩にかけ、足音を殺して歩いてくる。岩壁に身を寄せた姿勢から、淡いグレーの瞳が一度だけ盆地全体を走査し、安全を確認してから、石柱の間を抜けてきた。
「北、クリア。帝国兵の痕跡あり。足跡と排莢。だが、人の気配はない。退いた方角は東。街道に向かったと見る」
セレスの報告は三文で終わった。
「荒野に出たら」
「車までの道は問題ない。石柱群の偽装網はそのまま。ただ——」
セレスの視線が、一瞬だけ南西の方角に向いた。
「石柱群の近くに、荷物が置かれている」
「荷物?」
「布の包み。三つ。石柱の根元に。——昨夜はなかった」
燐とバルカスの目が合った。
バルカスの顎が引き締まり、右手が大斧の柄に伸びかけた。しかし止まった。セレスの報告の含意を、バルカスも読み取ったのだ。昨夜なかった荷物が、今朝そこにある。帝国兵が退いた直後に。
「罠か」
バルカスの声は低かったが、問いかけの響きは薄かった。答えを半ば知っている者の声だった。
「反応なし。布の包み」
セレスの視線が包みに戻った。
「軍用の規格包装に見える」
セレスの淡いグレーの目が、燐を見た。
燐は何も言わなかった。膝の上の少女の銀髪に指を通し、ゆっくりと頭を撫でてから、左手で地面を押して、身体を起こした。
立ち上がった瞬間、世界が揺れた。
視界のフィルターが一瞬濃くなり、膝が折れかけた。右腕の火傷が、動かした拍子に鋭い痛みを放った。上腕から前腕にかけて赤黒く変色した皮膚が、朝の冷たい空気に触れて引き攣る。こめかみの奥の熱が頭蓋全体を圧迫し、鼻血が止まった跡の乾いた血が上唇で引っ張られた。
カイの手が背中を支えた。大きな掌が革鎧の上から燐の肩甲骨を押さえ、傾いた身体を安定させた。
「肩を貸します」
「要らない。ロリを頼む」
カイは一瞬だけ口を開きかけ、閉じた。燐の目を見て、何かを察したのだろう。頷き、膝をついてロリの身体を両腕で抱え上げた。少女の頭がカイの太い腕の内側に収まり、銀色の髪がカイの軍服の袖に散った。少女は目を覚まさなかった。けれどカイの腕の温度を感じたのか、眉間に寄っていた皺が微かに緩んだ。
「出るぞ」
バルカスの声が低く響いた。大斧を背中に回し、両手を空けている。
六人が動き出した。
* * *
密使の道を北に抜けた。
裂け目の中は薄暗かった。赤い岩壁に挟まれた幅は人一人がやっと通れる程度で、縦一列に並んで歩くしかない。先頭をバルカスが行き、二番目にカイがロリを抱えて続いた。少女の身体を岩壁にぶつけないよう、大柄な身体を器用にねじりながら進んでいる。三番目に燐。右腕を庇いながら、左手で岩壁に触れて身体を支えた。石の表面が冷たかった。夜の冷気がまだ残っている。指先に赤い砂の粉がざらつき、乾いた岩の匂い。何千年もの乾燥が凝縮された、古い鉱物の匂いが鼻腔の奥を刺した。
リディアが四番目、セレスが殿を務めた。ライフルの黒い銃身が岩壁の隙間で時折きらめいた。
北の出口が見えた。
裂け目の先に荒野が広がっていた。赤い岩壁が途切れ、乾いた大地が東西に伸びている。灌木が疎らに点在し、風化した岩が地表を覆っている。朝日が低い角度で荒野を照らし、石の表面に長い影を落としていた。
セレスが言った石柱群は、出口から北西に三百メートルほどの位置にあった。盆地の周囲に散在する風化した石柱の一群。その中に角ばった影が見えた。
魔導装甲車だった。
砂埃を被り、偽装網が半分ずれかけている。それでも車体は無事だった。中古のジープ型。角ばった鋼板の車体に、鉄錆混じりの灰緑色の塗装が剥げかけている。フロントグリルの鉄格子に赤い砂が詰まり、ボンネットの継ぎ目に乾いた泥が筋を描いていた。タイヤは四本とも地面に沈み込み、ここに長く停めていたことを物語っている。
車体に近づくにつれ、バルカスの足が止まった。
石柱の根元だった。風化して腰の高さまで低くなった石柱の根元に、布の包みが三つ並べてあった。整然と。等間隔に。軍の物資配分で見慣れた置き方だった。
茶色の粗布で包まれ、麻紐できつく結んである。紐の結び方は帝国軍の規格結びだった。左右対称の蝶結びに、末端を紐の下に挟み込む形式。燐はその結び方を知っていた。士官学校で教わった。全ての士官候補生に叩き込まれる、帝国軍の標準補給包装。
バルカスがしゃがみ込み、包みの一つに手を伸ばした。紐を解く前に鼻を近づけた。嗅いでいる。火薬の匂いがないことを確認しているのだ。
「火薬の匂いはない。鉄の匂いもない。——食い物の匂いがする」
バルカスの太い指が紐をほどいた。粗布が開かれると、中身が朝日の下に現れた。
保存食だった。
真空密封された乾燥パン。塩漬けの干し肉。粉末スープの袋が六つ。水の皮袋が二つ。指で押すと張りがある。満杯だ。白い包帯の巻きが三つ、消毒液の小瓶が一つ。軟膏の錫の缶が一つ。缶の蓋に帝国軍の薬品番号が刻印されている。
二つ目の包みにも同様の中身。三つ目を開けた時、バルカスの手が止まった。
「……燐」
バルカスの声が変わっていた。低いのは同じだが、そこに困惑とも感嘆ともつかない響きが混じっていた。
燐はバルカスの横に膝をついた。右腕が動かないため、左手だけで包みを覗き込んだ。
保存食と水の下に、紙が一枚折り畳まれていた。
燐の左手が、それを取り上げた。
厚手の紙だった。手触りが重い。帝国軍の公式測量地図に使われる、耐水加工を施された上質な厚紙。折り目が三つ入っている。一度だけ折られた紙ではない。何度も折り直した跡がある。最後に折り畳まれた時の折り目がくっきりと残り、それ以前の折り目は擦れて白くなっていた。
紙を広げた。
地図だった。
帝国軍の測量地図。しかし公式のものではなかった。印刷された地形図の上に、手書きの線と文字が加えられている。黒い墨で。筆跡は几帳面だったが、急いで書かれた箇所もある。文字の太さが一定ではなく、線の角度が所々で揺れていた。
燐の目が、地図の中央を横切る赤い線を追った。
ポルタ・ルイナの盆地から北西に伸びる線。荒野を横切り、山裾を迂回し、街道を避けて西に向かっている。線の途中に、小さな丸印が五つ。水場だ。丸印の脇に数字が書かれている。「安全」と読める二文字が、一つの丸印の横に添えられていた。
線は西の海岸まで続いていた。
その終点に港町の名前が書かれていた。
ラステル。
赤い線の終点。港町ラステル。その文字の横に、小さな文字で付記されている。
「西の港から大陸を出ろ」
燐の喉が詰まった。
文字を見つめた。墨の匂いが鼻腔の奥に届いた。紙と墨の、古い書斎のような匂い。帝国の公用墨だ。燐も士官学校で使っていた。硯に水を垂らして擦る墨ではない。魔導結晶の微粉末を混ぜた特殊墨で、耐水性がある。この墨で書かれた文字は、雨に濡れても消えない。
——レオン。
燐の左手が、地図を持ったまま震えた。
震えているのは寒さのせいではなかった。疲労のせいでもなかった。こめかみの奥の熱が脈打ち、鼻の奥が痛くなった。
レオンハルトが準備していたのだ。
この地図を。この補給物資を。石柱群の車の傍に。帝国兵を引き上げさせた後に。あるいは、最初から。
「燐殿」
カイの声が、少し離れた場所から飛んだ。ロリを抱えたまま車体の横に立っている。
「荷台にも何か置いてあります。——布に包んで」
燐は立ち上がった。膝が震えたが、今度は倒れなかった。車体に手をついて歩いた。鋼板の表面が朝日に温められ始めていたが、日陰の部分はまだ冷たかった。指先に鉄の冷たさと、砂埃のざらつき。車体の塗装が指の腹の下で微かに剥がれ、鉄の地肌が覗いた。
荷台の幌を捲った。
帆布の幌が乾いた砂を降らせ、荷台の床に溜まっていた細かい礫が音を立てた。荷台の隅に、布で包まれた長方形の箱が一つ。粗布ではなく、帝国軍の将校用外套の裏地に使われる、濃紺の厚手の布だった。箱の上に、封筒が一つ載せてあった。
バルカスが先に手を伸ばし、封筒を取った。裏返し、表を確認し、燐に渡した。
封筒には何も書かれていなかった。無地の白い封筒。帝国軍の公用封筒だ。紋章も宛名もない。けれど封蝋が押してあった。蝋の色は月桂樹の緑。将校の私印だ。
燐は左手の親指で封蝋を割った。蝋が薄い破片になって指先から落ちた。中に、一枚の紙が入っていた。
取り出した。
メモだった。小さな紙片。帝国軍の手帳から破り取ったもので、端が不揃いだ。そこに短い文字が書かれていた。地図と同じ墨。同じ筆跡。
「追跡は不可能と報告する。南西方向に逃走。痕跡なし。——報告書にはそう書く」
その下に、一行の空白を置いて。
「次に会う時は敵同士だ。だが、それまで——生きろ」
燐の視界が、一瞬だけ滲んだ。
朝日が眩しかっただけだ。東の岩壁の上から差し込む光が低い角度で目を刺し、涙腺を刺激した。それだけのことだ。
左手の指が、メモの紙片を握りしめかけた。けれど力を抜いた。紙を皺にしてはいけない。この紙に書かれた文字は、皺にしてはいけない種類のものだった。
「燐」
バルカスの声が、背後から来た。
燐は振り返らなかった。メモを地図の間に挟み、丁寧に折り畳んだ。革鎧の内側、胸の左ポケットに入れた。紙が胸板に触れ、心臓の鼓動がその上を叩いた。
「……出発する」
声は掠れていた。けれど震えてはいなかった。
* * *
カイが運転席に滑り込んだ。
大柄な身体がシートに沈み、包帯の巻かれた左手がハンドルを握った。右手がダッシュボードの下に伸び、魔導機関の起動スイッチに触れた。カチリ、と小さな金属音。それから数秒の沈黙の後、車体の底から低い唸りが立ち上がった。
魔導機関の振動だ。
魔力を動力に変換する機関が起動し、車体全体が微かに震え始めた。鋼板の継ぎ目がカタカタと鳴り、荷台の床に溜まった砂粒が振動で踊った。エンジンの低い唸りが周囲の石柱に反響し、朝の荒野の静寂を破った。排気孔から薄い白煙が立ち上がり、朝日に溶けて消えた。
「エンジンは……大丈夫そうですね。十日以上放置してたのに、燃料結晶はまだ半分以上あります」
カイの声が運転席から届いた。ダッシュボードの計器を確認しながら、ハンドルを軽く左右に切って操舵の感触を確かめている。
燐は後部座席に座っていた。右側のドアに背を預け、右腕を体に沿わせている。動かすと火傷が引き攣って痛むため、膝の上に載せたまま固定していた。左手だけが使える。
ロリは燐の隣に寝かされていた。カイが少女の身体を後部座席に横たえ、リディアが荷台から引き出した断熱シートを少女の身体に掛けた。銀色の髪が薄灰色のシートの端からはみ出し、シートの下で小さな胸が規則的に上下している。少女の顔色は蒼白から薄桃色に戻り始めていた。唇に血の気がある。
リディアが助手席に座り、端末を膝に乗せた。画面に表示された波形グラフを一瞥し、端末をダッシュボードの上に置いた。
「ロリちゃんのバイタル、端末でモニターしておくわ。異常があったらすぐに分かる」
バルカスとセレスは荷台だ。幌の下に身を収め、バルカスが大斧を膝に立てかけている。セレスはライフルを抱え、荷台の後方を監視する位置に座った。迷彩外套の裾が荷台の縁で風に靡いている。
「カイ。北西に出ろ。街道には乗るな。岩場の間を抜けて、三キロ先の谷筋に入る。そこまで行けば稜線が射線を遮る」
バルカスの指示が荷台から飛んだ。地形が頭に入っている。十日前に盆地に向かった時のルートを逆に辿る判断だ。
「了解」
カイがアクセルを踏み込んだ。
車体が震え、タイヤが砂利を噛んだ。ガリガリという音が車体の底で反響し、地面に食い込んでいたタイヤが抜け出る衝撃が座席に伝わった。偽装網が車体の角に引っかかり、麻のような布地がばりばりと裂けて後方に流れた。
魔導装甲車が動き出した。
石柱群を抜け、荒野に出た。乾いた大地が車体の左右に広がった。灌木が疎らに点在し、風化した岩がタイヤの前で低い障害物を作っている。カイがハンドルを巧みに操り、岩と岩の間を縫うように走らせた。車体が左右に揺れ、鋼板の継ぎ目がきしんだ。荷台でバルカスの大斧が床を叩く鈍い音が聞こえた。
サスペンションが強化されているとはいえ、悪路の振動は容赦なかった。座席のクッションは薄く、革の表面がひび割れて中の綿が覗いている。尻から背中に突き上げるような衝撃が来るたびに、燐の右腕の火傷が脈打ち、こめかみの奥が鈍く痛んだ。
車内には、熱せられた鉄と古い革の匂いが籠もっていた。砦を出て最初に乗った時と同じ匂い。けれどその匂いの中に、砂埃と、錆と、十日間の放置が残した空気の澱みが混じっている。ハンドルの革巻きに細かいひびが入り、カイの掌が握るたびに粉が落ちた。ダッシュボードの計器盤にも砂埃が積もり、針が振動で微かに揺れている。
窓を少し開けた。
五月の朝の風が車内に流れ込んだ。冷たかった。肺の奥まで沁み込むような、乾いた冷気。赤い砂塵を含んだ風が頬を撫で、産毛を逆立てた。風の中に灌木の枯れた草の匂いと、遠くの岩肌が朝日に焼かれ始める微かな焦げの匂いが混じっていた。
ロリが微かに身じろぎした。
断熱シートの下で小さな身体が動き、閉じていた唇が薄く開いた。けれど目は覚めなかった。振動が揺りかごのように作用しているのか、少女の呼吸はむしろ深くなっていた。
燐の左手が、少女の頭に伸びた。銀色の髪を一房、耳の後ろに払った。指先に触れる髪は柔らかかった。力を放出していた時の異常な硬さは完全に消え、絹のような手触りが戻っている。
三キロ走った。
谷筋に入った。両側の稜線が高くなり、荒野を見渡す射線が遮られた。バルカスが荷台の幌を少し捲り、後方を確認した。
「追跡なし。視認できる範囲に人影はない」
セレスが同調するように頷いた。ライフルのスコープから目を離し、短く「クリア」とだけ言った。
車内の空気が、ほんの僅かに緩んだ。
リディアが助手席でシートに深く座り直し、首を回した。ゴーグルのストラップが首元で揺れ、フィールドジャケットの襟が顎に当たっている。
「……生きて出られたわね」
誰に言ったわけでもなかった。独り言のような声量。しかし車内の全員がそれを聞いた。
カイのハンドルを握る手が、一瞬だけ緩み、また締まった。バックミラーに映る目が、燐の方を一瞬だけ見た。
「燐殿。あの補給物資——」
「後で話す」
燐の声は短かった。カイは頷き、前方に視線を戻した。
谷筋を抜けると、地形が開けた。
荒野が北西に広がっている。遠くの稜線に朝日が当たり、赤と灰色の縞模様が地層として浮き上がっている。空は高い。雲は薄い巻雲が一筋だけ東に流れていた。
バルカスが荷台から声を出した。
「ここでいったん止めろ。荷物を確認する」
カイが車を止めた。エンジンの振動が止まり、車体が静止した。唸りが消えると、荒野の静寂が戻った。風の音だけがある。低い灌木の枝を揺らす、乾いた風の音。
バルカスが荷台から降り、石柱群で回収した三つの包みを荷台の後端に並べた。燐も車を降り、荷台の縁に左手をついて中身を確認した。
「保存食は六人分で——三日、いや四日は持つ。水も二日分。包帯と消毒液は——」
バルカスが軟膏の缶を取り上げ、蓋を開けた。
「帝国軍の標準外傷軟膏だ。……悪くない。お前の腕に使え」
缶を燐に差し出した。燐は左手で受け取り、蓋を鼻に近づけた。薬草の匂い。苦くて青い、鉱物の混じった匂い。帝国の軍医が使う調合だ。燐自身が「時雨」に在籍していた頃、何度も塗られた匂い。
缶を膝に置き、左手だけで右腕の火傷に軟膏を塗った。指先が赤黒い皮膚に触れた瞬間、灼けるような痛みが肘まで走った。歯を食いしばり、顎の筋肉が強張った。けれど塗り終わると、軟膏の冷たさが痛みを鈍らせた。清涼感のある成分が皮膚から浸透し、熱を奪っていく。
リディアが後部座席のドアを開け、ロリの脈を確認していた。少女の手首に指を当て、端末の画面と見比べている。
「変わりなし。安定してるわ」
「……ありがとう」
リディアが驚いた顔をした。燐が礼を言う場面は珍しいのだろう。けれどリディアは何も言わず、口元だけで微かに笑った。
セレスが荷台に腰かけたまま、保存食の包装を確認していた。一つ一つ手に取り、封の状態を確かめている。
「毒はない。密封が破られていない」
「ああ」
燐は頷いた。そしてもう一度、胸のポケットに手を当てた。厚手の紙が革鎧越しに指先に触れた。地図。メモ。レオンハルトの文字。
バルカスが包みを荷台に積み直しながら、燐を見た。
「あの少佐——レオンハルト。お前の読みでは、こちらの退路まで塞がないと最初から決めていた、ということか」
燐は荒野の東の方角を見た。帝国兵が退いた方角。街道がある方角。
「……決めていたかどうかは分からない。だが——あいつは、俺の目を見ると言っていた」
レオンハルトが部下に「あいつの目を見てからだ」と言っていたことを、燐は直接聞いていない。しかし行動がそれを語っていた。
「目を見て——決めたのかもしれない」
それ以上は言わなかった。バルカスも追及しなかった。大斧の柄を握り直し、荷台に戻った。
「出発するぞ。カイ、北西だ。谷筋をもう一本越えたら、西に針路を変えろ」
* * *
車が再び走り出した。
谷筋を抜け、稜線を越えると、荒野の景色が変わった。赤い砂岩の大地から、灰色の礫が混じった硬い地盤に変わっている。灌木の種類も違う。盆地周辺の乾いた低木ではなく、地表にへばりつくように広がる硬い葉の草が、車体の下をガサガサと擦った。
カイが西にハンドルを切った。朝日が右の窓から差し込み、車内を斜めに横切った。光の帯がダッシュボードから助手席のリディアの膝を通って後部座席に伸び、ロリの断熱シートの上で金色に輝いた。
燐は地図を取り出した。
左手で広げ、膝の上に乗せた。厚手の紙が車体の振動で微かに揺れている。レオンハルトの手書きの赤い線を目で追った。現在地は盆地の北西、谷筋を越えた地点。赤い線は、ここから西に曲がっている。街道を避け、山裾を迂回するルート。途中の水場に丸印。安全な休息地点の印。
地図の端に目を向けた。
左下の余白。そこに走り書きの文字があった。地図の本文とは違う筆圧。急いで書かれたのか、文字が小さく、角度がやや右に傾いている。
「夜間移動を推奨。リフトグライダーの航続圏を外れるまで三日。第2梯団の攻勢がD-1日に始まる——俺はそれまでに本隊に戻る。お前たちの痕跡は消しておく」
燐の喉が鳴った。
第2梯団の攻勢。D-1日。レオンハルトは攻勢の日程を知っている。当然だ。第3機甲魔導大隊長なのだから。そしてその情報を、この地図に書いた。敵に。
義務を選ばなかったのだ。
命令書には「裏切り者リン・アッシュの討伐」と書かれていたはずだ。しかしレオンハルトは討伐しなかった。逃がした。補給物資を渡し、地図を渡し、退路を示した。帝国軍の将校が味方に背いて、かつての友を逃がした。
報告書にはこう書くのだろう。「南西方向に逃走。追跡は不可能。痕跡なし」と。事実と異なる報告。帝国軍法では重罪だ。降格では済まない。発覚すれば軍法会議。
それを承知の上で。
燐の左手の指が、地図の端を握りしめかけた。けれどまた力を抜いた。紙を皺にしてはいけない。この地図には、水場の位置と安全な経路と攻勢の日程が書かれている。六人の命を繋ぐ情報が。レオンハルトが軍人としての立場を賭けて渡した情報が。
「リディア」
「何」
「この地図を見てくれ」
リディアが振り返り、燐が差し出した地図を受け取った。端末を膝に挟み、両手で地図を広げた。
「……帝国の測量地図ね。手書きの経路が——西の海岸まで伸びてる。水場の印。安全地帯のマーク。これ、誰が——」
「レオンハルトだ」
リディアの目が燐を見た。一瞬だけ。それから地図に戻った。
「……ラステル。西の港町。ここが目的地?」
「大陸を出ろ、と書いてある」
リディアの指が地図の上を滑った。ルートを確認し、水場の間隔を計算し、夜間移動の推奨を読んだ。
「三日で航続圏外。夜間移動なら四日。水場はここと——ここ。食料は補給物資と合わせて六日分ある。ラステルまで……五日で着けるわ。余裕があるとは言わないけど、不可能じゃない」
リディアの声は冷静だった。けれど地図を燐に返す時、指先が微かに震えていた。
「……帝国の少佐が、これを?」
「ああ」
「あんたの友達って——つくづく変な奴ね」
リディアの声に、皮肉は混じっていなかった。
* * *
一時間が経った。
荒野の景色は単調だった。灰色と赤褐色の大地が続き、灌木と岩が繰り返される。しかし車内の空気は、少しずつ変わっていた。盆地を出た直後の張り詰めた緊張が、完全に消えたわけではないが、一段下がっていた。
ロリが目を覚ましたのは、谷筋を三つ越えた頃だった。
断熱シートの下で、小さな手が動いた。指が布の端を握り、ゆっくりと引いた。閉じていた瞼が震え、薄く開いた。
青藍の瞳が、天井を見つめていた。
「……リン」
声は掠れていた。乾いた喉の奥から絞り出されたような声。けれど燐の名前だった。
「ここだ」
燐の声が、すぐ横から返った。
少女の目が横に動き、燐の顔を捉えた。車の振動で視界が揺れているのだろう、焦点が合うまでに数秒かかった。合った瞬間、少女の目が安堵で緩んだ。唇が震え、閉じ、また開いた。
「リン……。リンは、生きていますか」
「生きてる」
「本当ですか」
「本当だ。ほら」
燐は左手を差し出した。少女の前に。手の甲を上にして、五本の指を広げた。「見ろ。動く」と言わんばかりの仕草だった。
ロリの小さな手が伸びた。断熱シートの下から出てきた白い指が、燐の左手に触れた。指先が冷たかった。触れた瞬間、少女の瞳に水の膜が張った。
「……良かった」
声が震えていた。涙は流れなかった。涙の代わりに、少女の全身が一度だけ大きく震えた。断熱シートが揺れ、銀色の髪が車の座席の上で波打った。
燐の左手が、少女の手を包んだ。冷たい指先を掌で挟み、温度を分けた。
「お前がいなかったら、死んでいた。——覚えてるか」
少女の目が揺れた。記憶を探るように、視線が宙を彷徨った。
「……白い、光。リンを傷つけた——あの光を、止めたかった。止めなければ、と思いました。それから——」
言葉が途切れた。少女の眉が寄った。その先の記憶が曖昧なのだろう。力が暴走し、燐が抱きしめ、意識が遠くなった。その過程の大半が、少女にとっては霧の向こう側にあるのだ。
「止めた。お前が止めた。聖炎を消した。あの白銀の青年の攻撃を」
「……ロリが?」
「ああ。お前の力だ」
少女の青藍の瞳が、自分の右手を見つめた。燐に握られていない方の手。白い指を広げ、掌を見つめた。何の変哲もない、七歳の子供の掌。ここから力が放たれたことが、少女自身にも信じられないのだろう。
リディアが助手席から振り返った。
「目が覚めた? よかった。ロリちゃん、お腹空いてない?」
「……少し」
「そうよね。カロリー消費が尋常じゃなかったもの。——はい」
リディアが荷物から乾燥パンの包みを取り出し、ナイフで薄く削いだ。水筒の水で湿らせ、少女の口元に持っていった。
「噛まなくていいわ。舌の上で溶かして」
少女は薄い乾燥パンの欠片を口に含んだ。咀嚼する力もないのか、唇を閉じたまま、ゆっくりと、水分を含んだパンが口の中で溶けていくのを待っている。ごくり、と小さな嚥下の音。
「……ありがとう、リディアさん」
「どういたしまして。もう一枚いく?」
少女は小さく頷いた。
燐はその横顔を見ていた。少女の頬に、血色が戻り始めていた。薄桃色が白い肌に広がり、唇にも赤みが差してきた。食べることで、身体が回復に向かっている。
荷台からバルカスの声が飛んだ。
「ガキが起きたか。——水を飲ませろ。脱水が一番まずい」
口調はぶっきらぼうだった。けれど水筒を荷台の窓から差し出す手は、力加減を調節していた。少女に渡す水筒が落ちないように、太い指が蓋を緩めた状態で差し出されていた。
ロリが水筒を受け取り、小さな口で水を飲んだ。冷たい水が喉を通り、少女の肩が震えた。
「……冷たい」
「当然だ。井戸の水じゃない。荒野の夜露を集めた水だ。——お前にとっちゃ贅沢品だぞ」
バルカスの声が荷台から聞こえた。ロリが水筒を見つめ、それから荷台の方を振り向いた。見えなかったが、声のする方向に向かって少女は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます、バルカスさん」
荷台から、短い鼻息が聞こえた。
セレスの唇が、ほんの僅かに、ロリの目には見えない角度で、緩んだ。
* * *
車が走り続けた。
三時間が経った。太陽は高くなり、荒野の気温が上がり始めていた。車内に日差しが差し込み、鉄と革の匂いの中に熱気が混じった。窓を開けると、乾いた風が砂埃を含んで流れ込んでくる。
ロリは燐の隣で目を覚ましたまま、窓の外の景色を見ていた。初めて見る荒野の風景ではない。砦を出た日に一度この車で走っている。しかしあの時とは少女の目が違った。朝日に照らされた岩の縞模様を見つめ、風に揺れる灌木の葉を目で追い、遠くの稜線の形を記憶するように見つめている。世界を見る目。好奇心の目。けれどその底に、静かな疲労の影が残っていた。
「リン」
「何だ」
「あの白い光の人は——」
少女の声が途切れた。白銀の甲冑の青年、ゼルギウスのことだろう。少女の記憶にはあの白い聖炎が焼きついている。
「退いた。お前が止めた後、退いた」
「……またきますか」
燐は一拍、沈黙した。嘘を吐くべきか、正直に答えるべきか。しかし少女の青藍の瞳は嘘を見抜く。
「いつかは来るかもしれない。だが今は——遠い。今は遠い場所にいる」
少女は頷いた。それ以上は聞かなかった。燐の声の中に「今は大丈夫だ」という含意を、正確に読み取ったのだろう。
「それと——もう一人」
燐の声が、僅かに低くなった。
「金髪の人。将校の軍服を着ていた人。覚えているか」
少女の瞳が揺れた。記憶を辿っている。意識が薄れる前の最後の光景。レオンハルトが治癒の光を燐に注いでいた場面。
「……覚えています。リンの肩に、白い光を。温かい光でした」
「あいつがいなかったら、俺は動けなかった。治してくれたんだ——完全にじゃないが」
少女は窓の外に目を向けた。流れていく荒野の景色を見つめながら、小さな声で呟いた。
「リンの友だちですか」
燐の口が開きかけ、閉じた。盆地で包囲された日、ロリが同じ問いを発した時の答えは「かつては」だった。けれど今、補給物資と地図と、「生きろ」の二文字を胸ポケットに入れた後では。
「……ああ」
短い答えだった。「かつては」が消えていた。
少女は頷いた。何かを理解したように。友達が友達を逃がした。それだけを少女は受け取った。
* * *
カイが車を止めたのは、正午を少し過ぎた頃だった。
岩場の影になる場所を選んでいた。大きな岩の張り出しが車体を日差しから覆い、自然の車庫のようになっている。エンジンを切ると、冷却のために鋼板が微かにカチカチと鳴った。
休憩だった。
バルカスがレオンハルトの補給物資から乾燥パンと干し肉を取り出し、粉末スープを溶いた。簡易コンロの小さな炎が岩陰の薄暗がりに揺れ、金属のカップの中で水が泡立ち始めた。スープの粉が溶けると、塩と乾燥野菜の匂いが立ち上った。
六つのカップに分けた。
ロリは燐に寄りかかるように座り、両手でカップを包んだ。スープの蒸気が少女の顔に当たり、銀色の髪の先が湿気で微かに縮れた。
「……温かい」
少女がカップの縁に唇を当て、ゆっくりと啜った。塩気が口の中に広がる。乾いた体が水分を求めて、一口目が喉を通った瞬間に全身の細胞が反応するのを、燐は自分の体で知っていた。
帝国軍の保存食を、六人で分け合って食べている。敵の軍人が残した食料を。その違和感を、誰も口にしなかった。
カイが乾燥パンの欠片をスープに浸しながら、ぽつりと言った。
「美味しいですね。これ」
「帝国の補給食は連合より質がいい」
バルカスの声が返った。干し肉を噛み千切りながら、表情は変わらない。しかしその一言には、帝国軍で戦った経験がある者の知識が滲んでいた。
「燐殿」
カイがスープのカップを膝に置き、真っ直ぐな目を燐に向けた。
「あの補給物資と地図のこと——聞いてもいいですか」
五人の目が燐に集まった。ロリだけがカップの中を見つめていたが、耳は傾けていた。
「レオンハルトが残した」
燐は短く言った。それから胸ポケットから地図を取り出し、岩の平らな面に広げた。
「西の港町ラステルまでの経路。水場の位置。安全な休息地点。夜間移動の推奨。——そして、帝国の攻勢開始日」
最後の一言で、バルカスの目が細くなった。
「……攻勢開始日を、味方に渡すのか。あの少佐は」
「そう書いてある」
沈黙が落ちた。岩陰の薄暗がりに、スープの蒸気が白い筋を描いて昇っていった。
バルカスが息を吐いた。長い、低い呼気。大斧の柄を膝に立てかけ、太い指でスープのカップを握り直した。
「……大した男だ」
それだけだった。バルカスはそれ以上何も言わなかった。けれどその声に、軍人が同じ軍人に対して送り得る最大の敬意が込められていた。
セレスが地図を覗き込んだ。淡いグレーの目が赤い線を追い、水場の丸印を確認している。
「五日。ラステルまで五日。弾薬の補充は——途中にある?」
「ない。通常弾だけで行く」
「了解」
セレスは短く頷き、ライフルの弾倉を確認した。残弾を数える指が、習慣的な正確さで動いた。
リディアが端末を操作し、地図のルートを端末の画面上に再現していた。
「西に向かうのは正解よ。前に話した通り、リフトグライダーの航続圏は東側の丘陵に偏ってる。西に出れば空からの監視が薄くなる。レオンハルトの推奨ルートは——私たちが最初に計画した迂回路と、ほぼ一致してるわ」
「奴は知っていたんだろう。俺たちのルート計画を。車の位置も。密使の道の構造も。——最初から全部把握していて、逃がすことを前提に動いていた」
燐の声は平坦だった。感情を殺しているのではない。感情の重さを声に乗せない選択をしていた。
ロリがカップをゆっくりと下ろした。スープを飲み終え、カップの底に残った薄い液体を見つめている。
「リンの友だちは——優しい人ですね」
少女の声は静かだった。
燐は答えなかった。代わりに地図の端にある走り書きを見た。「生きろ」の二文字。急いで書かれたのだろう、文字の最後の画が掠れている。墨が薄い。筆先が紙から離れかけた瞬間に、もう一度押しつけた跡。書き直したのではない。最後まで書ききろうとした跡だ。
——レオン。
借りが、また一つ増えた。返す方法は見えない。けれど返す意志は、胸の奥にある。
* * *
午後の移動を再開した。
カイが地図のルートに従い、街道を避けて荒野の中を西に走らせた。地形は次第に変わっていった。平坦な荒野から、緩やかな丘陵地帯に入った。起伏が増え、車体がうねるように揺れる。タイヤが石を踏む硬い音と、鋼板のきしみと、魔導機関の低い唸りが混じり合って、車内を満たしていた。
ロリは再び眠りに落ちていた。燐の膝ではなく、カイが運転席を降りて休憩を取った際に、後部座席で横になり、断熱シートを胸元まで引き上げて目を閉じた。少女の小さな拳が、今度はシートの端を握っていた。眠りの中でも、何かを掴んでいなければ落ち着かないのかもしれなかった。
運転はバルカスに交代していた。大柄な身体が運転席にぎりぎりで収まり、太い指がハンドルを握っている。荒野の道なき道を走る技術は、斥候部隊の隊長だった男にとって呼吸のようなものだった。
燐は助手席に移っていた。地図を膝に広げ、左手で先の経路を確認している。リディアは荷台に移り、セレスと並んで座っていた。端末を操作する音と、セレスがライフルの部品を分解して清掃する金属音が、時折荷台から聞こえた。カイは後部座席でロリの傍に座り、少女が振動で落ちないよう、大きな手をシートの端に添えていた。
太陽が傾いた。
西の空がオレンジ色に染まり始め、荒野の岩肌が赤く燃えた。影が長くなり、丘陵の東斜面が暗い紫色に沈んでいく。風が変わった。昼間の乾いた熱風が止み、夕方の冷たい空気が丘陵の間を流れ始めた。
バルカスが速度を落とし、丘陵の陰に車を止めた。
「ここで夜を待つ。日没後に移動を再開する。レオンハルトの地図の通りだ」
燐は頷いた。
夜間移動。リフトグライダーの目を避けるために。レオンハルトの助言に従って。
車を降り、岩の上に腰を下ろした。西の空を見ていた。夕日が丘陵の稜線に沈みかけ、空の色が赤から紫へ、紫から藍へと変わっていく。その色のグラデーションの中に、遠い、遠い場所に海がある。ラステルの港がある。レオンハルトが示した、出口が。
ロリが目を覚まし、カイに手を引かれて車を降りてきた。少女の足取りはまだ覚束なかったが、自分の足で地面に立っていた。革靴が荒野の硬い地面を踏み、少女の体重が石の上で安定した。
少女は夕日を見た。
青藍の瞳に、赤い光が映った。銀色の髪が夕風に揺れ、白いローブの裾が微かにはためいた。少女は両手を体の前で組み、夕焼けの空を見上げていた。
「きれい」
小さな声だった。誰に言ったわけでもない。ただ、目の前の景色に対する素直な反応。荒れ地で聖炎を消し、力が暴走し、意識を失い、敵に追われて逃げ出した。その全ての後に少女は夕焼けを見て「きれい」と言った。
燐はそれを横目で見ていた。
胸の奥が熱かった。痛みではない。火傷の痛みでも、脳内魔法式の焼損の痛みでもない。もっと深い場所で何かが脈打っていた。
ポケットの中の地図が、心臓の鼓動に合わせて胸板を叩いていた。
レオンハルトの文字。「生きろ」。
生きろ、とあいつは書いた。
燐は夕焼けの空を見上げた。目が熱かった。朝日ではない。今度は夕日だ。夕日が眩しかっただけだ。
——ああ。生きるさ。
口の中だけで呟いた。声にはしなかった。
* * *
日が沈んだ。
荒野に闇が降り、星が瞬き始めた。月はまだ出ていない。西の空に宵の明星が一つだけ光り、丘陵のシルエットを微かに縁取っていた。
カイが運転席に戻り、エンジンをかけた。ヘッドライトは点けない。月明かりと星明かりだけで走る。カイの目は暗闘に慣れていた。斥候として夜間行動の訓練を受けた目が、星の光だけで地面の起伏を読んでいる。
車が静かに動き出した。
エンジンの出力を絞り、低速で走る。タイヤが石を踏む音すら抑えるように、カイはアクセルを微調整していた。車体の振動は昼間より穏やかで、荷台のバルカスとセレスの気配も静かだった。
燐は後部座席に座っていた。ロリが隣で眠っている。断熱シートを肩まで引き上げ、燐の腕に頭を預けていた。銀色の髪が燐の革鎧の袖に散り、少女の寝息が暗い車内に静かに響いている。
燐の左手が、胸のポケットに触れた。
地図の感触が指先に伝わった。厚手の紙。折り目。墨の匂い。
車窓の外に、荒野の闇が流れていた。星空の下、丘陵の影が波のように連なっている。その先に、まだ見えない海がある。レオンハルトが示した港町がある。
燐は地図を取り出した。
暗闘の中で文字は読めなかったが、指先で折り目をなぞった。紙の端。走り書きの部分。「生きろ」の文字がある位置を、指が正確に辿った。
地図を折り畳み、胸のポケットに戻した。
そして振り返った。
リアウィンドウの向こうに、荒野の闇が広がっていた。走り去っていく景色。置いてきた盆地の方角。赤い岩壁。石柱群。ポルタ・ルイナ。
そしてその遥か向こうに。
見えるはずはなかった。距離が遠すぎる。闇が深すぎる。それでも燐の目は、見えないものを見ようとしていた。
岩壁の上に立つ金髪の青年を。
朝日を背にしたシルエットを。月桂樹の肩章を。精悍な顔。青灰色の瞳。
そして親指を立てた、右手を。
リアウィンドウの暗い硝子に、車内の微かな光が反射している。その反射の中に、燐自身の顔が映っていた。黒髪が乱れ、頬に擦過傷と砂埃が残り、右腕を庇った不自然な姿勢で座っている。ボロボロの男の顔。
その男の口元が微かに動いた。
笑みとは呼べなかった。けれど口角が、ほんの僅かに上がった。士官学校以来の、目元は変わらないのに口元だけが動く、ほとんど気づかれない笑み。
——ありがとう。
声にはしなかった。音にはしなかった。唇が形を作っただけだ。けれどその無音の言葉は、リアウィンドウの向こうの闇に確かに放たれた。
車は走り続けた。
荒野の闇の中を。星空の下を。西に。
ロリの寝息が聞こえていた。カイのハンドルを握る手が、暗闇の中で確かに車を導いている。荷台でバルカスの大斧の刃が星明かりを受けて一瞬だけ銀色に光り、セレスのライフルの銃身が影の中に溶け込んでいた。リディアが端末の画面を最低光量に絞り、ロリのバイタルを監視している。微かな青白い光が、彼女の顔を照らしていた。
六人を乗せた魔導装甲車が、荒野を走っている。
砂埃を被った角ばった車体。鋼板の継ぎ目から風が抜ける音。タイヤが石を噛む低い音。その全てが、夜の荒野に溶けていく。
燐は前を向いた。
フロントガラスの向こうに、西の丘陵の稜線が星空を区切っている。その先に海がある。ラステルがある。大陸の外がある。
胸のポケットの中で、地図が心臓の上で温まっていた。
「生きろ」の二文字が、鼓動のたびに静かに脈打っていた。




