第3章-58話「鉄嵐、発動」
地面が、震えた。
最初の一撃は音より先に来た。詰所の机の上に置いた水差しが跳ね、中の水が溢れて地図の端を濡らした。ゲルトが反射的に立ち上がった時、二発目の衝撃波が石壁を貫いて腹の底を揺らした。
それから、音が来た。
轟音。それ以外に形容のしようがなかった。世界そのものが裂けたような、大気を引き千切る圧倒的な破壊音。石壁に囲まれた詰所の中にいても鼓膜が悲鳴を上げ、ゲルトは無意識に歯を食いしばった。
「副指揮官殿!」
トーマスが階段を駆け下りてきた。革鎧の胸当てを右手で押さえ、左手で壁を掴んでいる。顔が白い。唇に血の気がない。
「砲撃です。東——東壁の外から。数が、数が多い——」
三発目。四発目。五発目。
間隔は三秒もなかった。一門ずつではない。複数の砲が同時に、あるいは交互に撃っている。詰所の天井から砂が落ち、魔導灯が揺れて壁に影を踊らせた。
「時刻」
ゲルトの声は低く、短かった。自分でも驚くほど平坦だった。拳は震えている。それでも声だけは、まだ制御できた。
「……夜明け前。第四刻の鐘が鳴る前です」
「予定通りだ」
ゲルトは地図を掴んだ。水差しの水で角が濡れているが、読めないほどではない。三日前の自分が描いた防衛配置図。その線の一本一本が、今この瞬間の千名の命に直結している。
「トーマス。通信室に降りろ。全哨戒拠点からの報告を集めて、この詰所に伝令を走らせろ。口頭でいい。紙に書く暇はない」
「はい」
トーマスが踵を返した。階段を駆け上がる足音が、砲撃の轟音に呑まれて消えた。
* * *
詰所を出ると、世界が変わっていた。
東の空が赤い。夜明けの色ではなかった。地平線の際で、断続的に白い閃光が走っている。一つ。二つ。三つ。閃光のたびに数秒の遅延を置いて轟音が届き、地面が揺れる。
移動式魔導砲の発射光だ。
砲口から放たれる魔力の圧縮弾が空気を焼き、白熱する光が一瞬だけ夜闇を引き裂く。ゲルトは東壁へ走りながら、無意識に閃光を数えていた。七。八。九。十一。十三。
数えきれない。
東壁への階段を駆け上がる途中で、着弾した。
壁の外、前哨線の方角から、轟音と共に土煙が噴き上がった。石と砂の破片が巻き上がり、暗い空を灰色に染める。硝煙と焼けた石の匂いが風に乗って壁の上まで届いた。鼻の奥がひりつく、火薬と焦げた土の苦い臭い。
東壁の上に出た瞬間、衝撃波が顔を叩いた。髪が後方に吹き流され、目が乾いた。ゲルトは片手で顔を庇いながら、壁の縁に身を寄せた。
前哨線が燃えていた。
砦の東、約三百メートル先に構築した前哨陣地、塹壕と土嚢と偽装網で固めた防御線に、魔導砲弾が次々と着弾していた。着弾のたびに地面が抉れ、土嚢が宙を舞い、偽装網が燃え上がって夜空にオレンジ色の火の粉を散らした。
そしてその向こう、東の丘陵の稜線上に光の列が見えた。
等間隔に並ぶ火点。数十。いや、もっと多い。松明か、魔導灯か。整然と並んだその光の列が、ゆっくりとこちらに向かって動いている。
帝国第1梯団。三千名。
ゲルトの喉が干上がった。
三千。こちらの約三倍。しかも、その先鋒はレオンハルト第3機甲魔導大隊だ。帝国最精鋭の一つ。砲撃で前哨線を叩き、歩兵で突入する。教科書通りの、そして教科書通りだからこそ抗いがたい正攻法。
壁の縁を握る指に力が入った。爪が石の隙間に食い込んだ。
「副指揮官殿」
ヴォルフだった。いつの間にか東壁の上に来ていた。外套の裾が砲撃の風に煽られ、火傷痕のある横顔に着弾の炎が映り込んでいる。
「前哨線の状況は」
「第1火砲陣地が直撃を受けた。弩砲二門が破壊された模様。だが、第2火砲陣地は無事だ。偽装が効いている。帝国は第2陣地の位置を把握していない」
ゲルトは息を吐いた。短い、鋭い呼気。
偽装工事。十日間かけて東壁の防御施設を「老朽化した砦」に見せかけた作業。第2火砲陣地は瓦礫と偽装網の下に隠してある。帝国の偵察チームが見たのは、崩れかけた壁と放棄された陣地だった。
「第2陣地の射線は確保されているか」
「確認中だ。だが、砲撃の粉塵で視界が悪い。前哨線の守備隊から直接報告を取りたいが、通信が——」
砲弾が壁の手前百メートルに着弾した。
衝撃波が石壁を伝わり、二人の足元が揺れた。ゲルトは壁の縁を掴んで体を支え、ヴォルフは膝を落として姿勢を低くした。壁の表面から石の欠片が飛び、ゲルトの頬を掠めた。熱い。砕けた石が砲撃の熱を帯びている。頬に薄い線が走り、温かい液体が顎を伝った。
血だ。拭う暇はなかった。
「伝令を走らせろ。前哨線の守備隊長に俺の命令を伝える。内容は、現陣地を可能な限り保持。だが、第1火砲陣地が完全に制圧された場合は第2防衛線まで後退を許可。判断は守備隊長に委ねる」
ヴォルフが頷き、壁の階段を駆け下りていった。
* * *
砲撃は、十五分間続いた。
たった十五分。しかしその十五分間で、前哨線の地形は一変した。
砲撃が止んだ時、ゲルトは東壁の上から前哨線を見下ろした。塹壕の半分が埋まっていた。土嚢の壁は崩れ、偽装網は焼け落ちて骨組みだけが黒い骸のように突き立っている。第1火砲陣地の跡には、直径十メートルほどの穴が穿たれていた。弩砲は影も形もない。
煙が地表を這っている。灰色と黄色が混ざった、重い煙だ。硝煙と粉塵と、焼けた木材の匂いが混然一体になって壁の上にまで漂ってきた。ゲルトの口の中に苦い粉が入り込み、唾を吐いた。火薬の味がした。
それでも前哨線から声が聞こえた。
怒号。号令。短い叫び。生きている声だ。
砲撃が止んだ直後、半壊した塹壕の中から兵士たちが立ち上がるのが見えた。煙の中で影のように動く人影。頭を上げ、武器を構え、東を向く。崩れた土嚢を積み直す者もいた。一人では持ち上がらない土嚢を、二人がかりで押し上げている。
「……生きてやがる」
ゲルトの口から、声が漏れた。声が震えていたのか笑っていたのか、自分でも分からなかった。
前哨線守備隊二百名。バルカス隊長が出発する前に選んだ精鋭たちだ。塹壕の掘り方から退避の手順まで、隊長自らが叩き込んだ。砲撃が来たら塹壕の底に伏せ、頭を両腕で覆い、石壁の陰に体を押し込め。直撃以外では死なない。そう教えたのは隊長だった。
そしてその訓練が、今、二百人の命を繋いでいた。
* * *
砲撃が止んだのは、帝国歩兵の前進が始まったからだった。
東の丘陵から、隊列が降りてくるのが見えた。整然とした横列。前方に盾兵、その後方に槍兵と弓兵。更にその後ろに、重装甲の騎兵が控えている。帝国式の三段突撃陣形だ。
光が戻り始めていた。東の地平線から薄い灰色の光が差し込み、帝国軍の鎧と兜を鈍く光らせている。千を超える金属の光が、波のようにこちらに押し寄せてくる。
距離、六百メートル。
「副指揮官殿!」
伝令兵が階段を駆け上がってきた。息を切らし、革鎧に粉塵がこびりついている。
「前哨線守備隊長からの報告。第1火砲陣地は壊滅。死者十二名、負傷者三十一名。だが第2火砲陣地は無傷。弩砲四門、射撃準備完了。守備隊長は保持を継続すると」
ゲルトは頷いた。死者十二名。名前はまだ分からない。今は数字で受け止めるしかない。一人一人の顔を思い浮かべるのは、生き延びた後だ。
「第2陣地に伝えろ。射撃開始は帝国歩兵が三百メートルに入ってからだ。それまでは絶対に撃つな。位置を暴露させるな」
「了解!」
伝令兵が走り去った。
ゲルトは壁の縁に両手を置き、体を前に傾けた。帝国軍の前進速度を目で測る。重装歩兵の歩幅は狭い。それでも確実に、一歩ずつ距離を詰めている。
五百メートル。四百五十。四百。
前哨線の塹壕で、兵士たちが弓を構えているのが見えた。しかし距離がまだ遠い。弓の有効射程は百五十メートル。弩砲でも三百メートルが限界だ。それまで、待たなければならない。
待つのが、一番きつい。
隊長がかつてそう言ったことがある。敵が近づいてくるのを見ながら何もせずに待つ時間が、兵士の心を最も蝕む。しかし、早撃ちは最悪の選択だ。射程外の矢は敵に届かず、こちらの位置と兵力だけを敵に教える。
三百五十メートル。
ゲルトの視界の端で、前哨線の塹壕から土嚢が一つ転げ落ちた。兵士の手が震えて、弓を構えたまま土嚢に肘をぶつけたのだろう。分かる。あの震えは知っている。十年前、初めて帝国軍の前進を見た時、自分の手もああだった。
三百メートル。
「第2陣地——」
ゲルトの声が出た瞬間、前哨線から弩砲の発射音が轟いた。
四門の弩砲が同時に火を噴いた。瓦礫と偽装網の下から現れた射撃孔から、太い矢が帝国歩兵の隊列に突き刺さった。一射目が前列の盾兵を貫き、二射目が後方の槍兵を薙いだ。
帝国軍の隊列に、一瞬の動揺が走った。前進が止まる。盾兵が盾を構え直し、後列が前列の背後に密集する。構わず弩砲が三射目を放った。今度は角度を変え、帝国軍の左翼を狙っている。
偽装が効いた。
帝国は前哨線の火力を「弩砲二門」と見積もっていたはずだ。砲撃で第1火砲陣地を潰した時点で、前哨線の火力は殲滅したと判断しただろう。しかし実際には、第2陣地の弩砲四門が温存されていた。帝国の偵察チームが見た「老朽化した砦」は、嘘だった。
ゲルトの口元が、僅かに引き攣った。笑みとは呼べない。けれど、胸の中で何かが緩んだ。
* * *
帝国軍が体勢を立て直すのに、十分とかからなかった。
弩砲の位置を特定した帝国は、前進を再開しながら射撃部隊を左右に展開させた。弩砲の射線を避けつつ、前哨線に接近する。同時に、後方から魔導砲の照準が第2陣地に修正されているのが、砲口の旋回光で分かった。
あと数分で、第2陣地も砲撃に晒される。
「副指揮官殿」
ブレナンが東壁の上に現れた。傭兵団長の日焼けした顔に、粉塵と汗が筋を作っている。短剣の柄を握る手の甲に血管が浮いていた。
「南壁の傭兵弓兵隊、配置完了。百二十名、全員射撃位置についてる」
「北壁は」
「同じく完了。合わせて二百四十名。ただ——」
ブレナンの声が、一瞬だけ揺らいだ。
「若い連中の手が震えてる。砲撃の音で……何人か吐いた奴もいる」
ゲルトはブレナンの目を見た。
「あんたが隣にいろ。射撃孔の前に立って、一人一人の肩を叩け。言葉は要らん。あんたが立っているだけでいい」
ブレナンの刀傷が引き攣った。それでも、目の奥に火が灯ったのをゲルトは見た。
「……分かった。やる」
ブレナンが踵を返す前に、ゲルトが呼び止めた。
「ブレナン殿。あんたの部下は逃げないと言ったな」
「言った」
「あんたもだ。頼むぞ」
ブレナンは何も返さなかった。ただ一度だけ深く頷き、南壁に向かって走っていった。
* * *
前哨線の戦闘は、三時間に及んだ。
三時間。百八十分。その間にゲルトが下した判断は、数えきれない。
帝国歩兵が前哨線の塹壕に取りつき、白兵戦が始まった。二百メートル先で剣と槍がぶつかる金属音が、壁の上まで届いた。叫び声。怒号。悲鳴。全てが混ざり合い、朝焼けの空の下で渦を巻いていた。
最初の一時間で、第2火砲陣地が帝国の修正砲撃を受けた。
弩砲四門のうち二門が破壊された。しかし残りの二門は、射撃手が陣地を放棄し、予備の射撃孔に移動して射撃を続けた。この動きは訓練していなかった。現場の判断だ。守備隊長が自分の頭で考え、自分の声で命じた結果だった。
二時間目に入ると、帝国は前哨線の左翼を迂回し始めた。
伝令がそれを知らせに来た時、ゲルトの背筋に冷たいものが走った。左翼が包囲されれば、前哨線の守備隊は退路を断たれる。
「ヴォルフ」
ゲルトは東壁の脇に控えていたヴォルフを呼んだ。
「左翼の迂回を確認したか」
「した。帝国の軽装歩兵が二個小隊、塹壕線の南端を回り込んでいる。前哨線の守備隊は気づいていない。正面からの圧力で手一杯だ」
ゲルトの顎が引き締まった。
ここだ。ここが分岐点だ。
前哨線を保持させ続けるか。それとも、主陣地への後退を命じるか。
保持すれば、帝国歩兵の前進をさらに遅らせることができる。しかし、左翼が包囲されれば守備隊は壊滅する。二百名を失えば、砦の守備力は致命的に低下する。
後退すれば、前哨線は失うが、守備隊は主陣地に合流できる。偽装した主陣地の防御力を信じるなら。
ゲルトは目を閉じた。
一秒。二秒。三秒。
その三秒間で、頭の中に浮かんだのは隊長の顔ではなかった。兵舎で手紙を書いていた若い兵士の顔だった。矢の羽根を直していた弓兵の指だった。黒パンを半分に割って渡したトーマスの、耳が赤くなった横顔だった。
目を開けた。
「前哨線に後退命令を出す」
声は静かだった。迷いはなかった。
「計画通り、主陣地に後退。全守備隊は第2防衛線から順次離脱し、砦の東壁まで下がれ。負傷者の搬送を最優先。弩砲は放棄してよい。バルカス隊長の訓練を信じろ」
最後の一言は、命令ではなかった。
自分自身に言い聞かせる言葉だった。
隊長が十日間かけて前哨線の兵士に叩き込んだ退却訓練。砲撃を受けながらの秩序ある後退。それが今、試される。
ヴォルフが伝令を走らせた。
ゲルトは東壁の縁に両手を突き、前方を睨んだ。前哨線から守備隊が後退を始めるまでの数分間が、最も危険な時間だ。命令が伝わるまでのタイムラグ。後退を開始した瞬間の陣形の乱れ。帝国がそこを突いてくれば、後退は潰走に変わる。
拳を壁に叩きつけた。
痛みが指から肘まで走った。その痛みが頭の中を澄ませた。
「南壁と北壁の弓兵隊に伝えろ。前哨線守備隊の後退を援護射撃で支援する。射撃開始、今からだ」
* * *
南壁の射撃孔から、一斉に矢が放たれた。
百二十本の矢が風を裂いて弧を描き、前哨線と帝国軍の間に降り注いだ。制圧射撃だ。帝国歩兵に直接当てる必要はない。前進を一瞬でも躊躇わせればいい。その一瞬が、前哨線の兵士たちの命を拾う。
北壁からも矢が飛んだ。角度が異なる二方向からの射撃が、帝国軍の前線に交差して落ちた。盾を上に構えて矢をいなす帝国兵の動きが見えた。一本の矢が盾の隙間を抜け、帝国兵の肩に刺さった。兵士が膝をついた。
その間に、前哨線が動いた。
塹壕の中から兵士たちが立ち上がり、身を低くしながら砦の方角に走り始めた。負傷者を肩に担いだ者が先に行き、武器を構えた者が殿を務める。隊列ではない。けれど、秩序はあった。どの兵士も走る方向を間違えていなかった。退却路は頭に入っている。訓練の成果だ。
ゲルトの目が、前哨線から走り出る一人の兵士を捉えた。右腕を吊るし、左手だけで短剣を握っている。走る足が重い。それでもその兵士の背中を、別の兵士が押していた。「走れ、走れ」と叫んでいるのが、唇の動きで分かった。
二百名のうち、砦の壁まで戻ってきたのは百六十三名だった。
残りの三十七名。十二名が砲撃で死に、二十五名が白兵戦で倒れた。倒れた者の中には、まだ息のある者もいたかもしれない。けれど、残していくしかなかった。
東壁の門が開き、前哨線の生き残りが砦の中に雪崩れ込んできた。
先頭に立っていたのは、守備隊長の中年の下士官だった。左の頬に裂傷があり、鎧の肩当てが半分ちぎれている。それでも両足で立っていた。ゲルトの前に来ると、かすれた声で報告した。
「前哨線守備隊、後退完了。残存兵力百六十三名。負傷者四十七名、うち重傷十二名。弩砲は全門放棄」
その声が最後まで途切れなかったことに、ゲルトは内心で頭を下げた。この男もまた、隊長の訓練が育てた兵士の一人だ。
「よくやった。負傷者を衛生班に回せ。動ける者は三十分の休息の後、東壁の後方支援に入れ」
「了解」
守備隊長が敬礼し、部下を率いて砦の奥に向かった。その背中を見送りながら、ゲルトはブレナンの方を見た。傭兵団長が南壁の方角から走ってきたところだった。
「ブレナン殿。弓兵隊の射撃、見事だった。帝国の足を確実に止めた」
ブレナンの顔が、一瞬だけ緩んだ。すぐに引き締まった。
「東からの突入は——」
「これからだ。前哨線を抜いた帝国は、次に砦本体を攻める。しかし」
ゲルトは東壁から前方を見た。帝国軍は前哨線の残骸を越え、砦に向かって再び前進を開始していた。しかし三時間の遅延戦闘で隊列は乱れていた。先鋒は消耗し、後続との間に隙間ができている。
「三時間稼いだ。帝国は弾薬と兵力を消耗してる。砦を攻めるには再編成が要る。次まで……少なくとも一時間は空く」
ブレナンが息を吐いた。
「一時間か。短いな」
「ゼロよりましだ。負傷者の手当て、弾薬の補充、防壁の補強。全員に水を飲ませろ。飯は無理だが——水だけは」
ゲルトは壁から手を離し、階段を降りた。
中庭に降りると、前哨線から戻った兵士たちが壁際に座り込んでいた。煤と血と粉塵にまみれた顔が、並んでいる。目を閉じている者。膝を抱えている者。隣の兵士に水筒を回している者。
正規兵と傭兵が入り混じっていた。十日前に出会った者同士が、同じ壁にもたれ、同じ粉塵を吸い、同じ水筒から水を飲んでいた。
ゲルトは中庭の真ん中に立った。
全員がゲルトを見た。目の色は様々だった。恐怖。疲弊。安堵。怒り。そして、まだ戦えるか、という問いかけ。
「前哨線は俺の命令で後退させた。お前たちの判断で後退したんじゃない。俺が命じたから下がった。それだけだ」
声が中庭に反響した。壁が声を拾い、砦全体に広げた。
「三時間、持ちこたえた。前哨線の任務は遅延戦闘だ。帝国を三時間足止めするのがお前たちの仕事で、お前たちはそれを完遂した。胸を張れ」
沈黙が流れた。
それから、壁際に座っていた守備隊の古参兵が、ゆっくりと立ち上がった。膝が震えていた。それでも、拳を胸に当てて敬礼した。一人が立つと、隣の兵士も立った。その隣も。傭兵の若者が最後に立ち上がり、見よう見まねで拳を胸に当てた。形はぎこちない。けれど、目は真っ直ぐだった。
ゲルトは全員の顔を見渡した。
それから、自分も拳を胸に当てた。
「次は砦本体だ。ここが俺たちの家だ。ここを守る。休める奴は休め。水を飲め。一時間後に、また立て」
* * *
一時間の猶予は、正確には五十三分だった。
帝国軍が砦への前進を再開した時、ゲルトは東壁の指揮所にいた。壁に背を預け、足元に広げた配置図を確認している。トーマスが持ってきた水筒の水を一口含み、口の中に残った粉塵を洗い流した。水が冷たい。井戸から汲んだ朝の水だ。その冷たさが、乾き切った喉に沁みた。
トーマスは指揮所の隅に座り、通信機からの報告を紙に書き留めていた。字が走り書きになっている。それでも読める。この若い斥候は、砲撃の中でも自分の仕事をしていた。
「トーマス」
名を呼ぶと、トーマスが顔を上げた。目の下に隈ができていた。
「怖いか」
三日前と同じ質問だった。しかし三日前と同じ意味ではなかった。あの夜は「三日後が怖い」という想像の恐怖だった。今は、砲撃の衝撃波で壁が揺れ、三十七人の仲間が死んだ後の、現実の恐怖だ。
トーマスは一拍だけ沈黙した。それから、口を開いた。
「……怖いです。でも、手が動きます」
ゲルトは鼻を鳴らした。
「それでいい。手が動くうちは戦える。次の報告が入ったら、俺に直接持ってこい。伝令を挟むな」
「承知」
トーマスが紙に目を戻した時、東壁の歩哨から叫びが上がった。
「帝国軍、前進再開! 距離八百!」
ゲルトは水筒の蓋を閉め、壁の縁に立った。
東の空は白んでいた。朝日がまだ雲の向こうに隠れているが、光は充分にあった。砲撃で荒れ果てた前哨線の跡を越え、帝国軍の隊列が砦に向かって歩いてくるのが、はっきりと見えた。
隊列は再編されていた。前衛の盾兵は新しい部隊と交代し、後方には攻城用の梯子を担いだ工兵が控えている。
「……来い」
ゲルトは誰にも聞こえないほどの声で、そう呟いた。
壁の縁を握る手はもう震えていなかった。三時間前、砲撃が始まった時に震えていた拳が、今は壁の石を確かに掴んでいた。汗と血と粉塵で汚れた手だ。隊長の手もきっとこうだっただろう。泥にまみれ、傷だらけで、それでも離さない手。
南壁の射撃孔の奥で、傭兵の弓兵が弦に矢を番えているのが見えた。あの猟師上がりの弓兵だ。手は震えていない。三日前の夜、射撃孔の前で「あのじいさんが隣で矢を射ってるなら、逃げるわけにはいかない」と言った男。その隣に、正規兵の老兵が弩を構えて座っていた。二人の間に言葉はなかった。けれど肩が触れ合う距離にいた。
「全防壁、射撃準備」
ゲルトの声が東壁に響いた。声は大きくなかった。それでも壁の上の全員がその声を聞いた。
「帝国が三百メートルに入ったら射撃を開始する。それまで一本も矢を無駄にするな。弩砲班、第2火砲陣地の残った弩砲を南壁に移動させたな。そこから撃て。帝国は東壁しか警戒していない。南壁からの射線は生きている」
壁の上で、兵士たちが頷いた。
ゲルトは壁の縁から身を乗り出し、帝国軍の前進を見つめた。
距離、六百メートル。五百。四百。
風が東から吹いていた。前哨線の残骸を越えて、硝煙と焼けた土の匂いを運んでくる。その風に混じって、帝国兵の軍靴が地面を踏む音が聞こえた。千の靴底が一斉に地面を叩く、低い律動。近づいてくる。確実に。
三百五十メートル。
ゲルトの右手が上がった。
三百メートル。
「——射撃開始」
東壁から、南壁から、北壁から。三方向の矢が空を覆った。
* * *
日が暮れた。
帝国軍の第一波は、砦の壁を越えられなかった。三方向からの射撃と、東壁の正規兵の槍衾が、梯子をかけた帝国兵を次々と叩き落とした。日没と共に帝国は後退し、砦から三百メートルの距離で野営の態勢に入った。明日、再び来る。それでも今日は持ちこたえた。
ゲルトは東壁の指揮所に座っていた。壁に背を預け、天井を見上げている。
足の裏が痛い。一日中壁の上を走り回った。喉が焼けるように渇いている。頬の傷はトーマスが布で拭いてくれたが、まだひりついた。指の関節に乾いた血がこびりついている。自分の血か、他人の血か、もう分からない。
トーマスが黒パンと水筒を持ってきた。
ゲルトは受け取り、黒パンを齧った。硬い。三日前と同じ硬さだ。けれど今日は、この硬さが歯を通して頭まで響き、自分がまだ生きていることを教えてくれた。
「死者は」
「集計中です。現時点で、前哨線の三十七名に加えて、東壁の防衛で十一名。合計四十八名。負傷者は——」
トーマスの声が、一瞬詰まった。
「七十三名です」
四十八名。七十三名。
千と五十七名のうち、四十八名が死に、七十三名が傷を負った。残存戦力は九百三十六名。まだ九百以上いる。けれど四十八の名前が、これから報告書に並ぶ。一人一人の顔を、ゲルトは知っている。全員ではない。しかし多くを知っている。
「トーマス。報告書は明朝でいい。今は休め」
「副指揮官殿は」
「もう少しここにいる」
トーマスが去った後、指揮所に一人になった。
ゲルトは懐から魔導結晶片を取り出した。掌に載せると、体温を吸って温まる。三日前の夜と同じだ。しかし三日前と今では全てが違う。あの夜はまだ「来る」だった。今日は、「来た」。来て、四十八人が死に、前哨線が消えた。それでも砦は立っている。
結晶片の表面が、掌の中で微かに脈動した。通信に使えば、帝国に傍受される。使わない。それは三日前と同じだ。けれど。
——隊長。こちらは持ちこたえています。
口の中だけで呟いた。声にはしなかった。結晶片を握り締める指に、力が入った。
——そちらも……無事でいてくれ。
ゲルトは結晶片を胸ポケットに戻した。バルカスの命令書の隣に。折り目が擦り切れた紙の感触が、指先に触れた。
それから通信機に手を伸ばしかけた。送信ボタンの冷たい金属に指が触れた。一秒。二秒。
指を離した。
立ち上がり、指揮所の窓から外を見た。
西の空に、星が一つだけ出ていた。帝国軍の野営の灯りが東の地表に並び、西の空には夜の藍色が広がっている。その境目に、細い月が昇り始めていた。月光が砦の石壁を銀色に染め、壁に開いた矢傷や砲弾の痕を浮かび上がらせている。
壁の下では、兵士たちが交代で休息を取っていた。正規兵と傭兵が肩を寄せ合い、石壁に背を預けて目を閉じている。三時間前まで矢を射ち続けていた弓兵が、弦を緩めた弓を膝に載せたまま眠り込んでいた。その隣で、若い正規兵が黙って弓兵の肩に毛布をかけた。
ゲルトは窓枠に手を置いた。
石が冷たい。夜露が降り始めていた。
明日また来る。明後日も。帝国は三千を投入して砦を落とせなかった以上、さらに兵力を追加してくるだろう。次は砲撃がもっと長くなる。梯子も増える。壁を登ってくる兵士も、もっと精鋭になる。
それでも今日は持ちこたえた。
この砦は、まだ立っている。
隊長たちがいる方角、北東の空に目を向けた。星は見えない。雲がかかっている。それでも、その雲の向こうに隊長がいる。カイがいる。セレスがいる。あの銀髪の少女がいる。そして、燐がいる。
彼らが何をしているのかは分からない。無事なのかも分からない。分かるのは、自分がここにいて、砦が立っているということだけだ。
ゲルトは窓から手を離し、詰所の椅子に腰を下ろした。
防衛配置図を広げ直した。明日の配置を考えなければならない。四十八人分の穴を、どう埋めるか。負傷者のうち何人が明日の戦闘に復帰できるか。弾薬の残量。矢の在庫。水と食糧。
考えなければならないことが、山のようにあった。
けれど椅子に座った瞬間、瞼が重くなった。一日中壁の上を走り回った脚が鉛のように重い。背中が痛い。指の関節が軋む。
配置図の上に頬を伏せた。
紙の匂いがした。自分の汗と、インクの匂い。その上に微かに、バルカスの命令書の折り目から、古い革の匂いが混じった。
目を閉じた。
五分だけ。五分だけ眠る。
朝になったら、また壁の上に立つ。




