第3章-57話「拒絶の光」
声が聞こえた。
燐の聴覚は半ば死んでいた。鼓膜が聖炎の圧力で痙攣し、世界の音が分厚い水の底を通すように遠い。レオンハルトの叫び。礫が蒸発する音。それらが意味を持たない振動として耳の奥をすり抜けていく。
あの声だけは、聞こえた。
「——リンを傷つけるな!」
少女の声だった。
細くて、高くて、喉の奥から絞り出したような声。そこに震えはなかった。怒りが声を支えていた。燐がこれまで一度も聞いたことのない、あの少女の口から出るとは思わなかった剥き出しの怒りが、二文字の名前の後に続いた言葉に詰まっていた。
灰色の視界が、一瞬だけ鮮明になった。
見えた。
ロリの掌の前で空間が裂けていた。
裂けた、という表現は正確ではなかった。空間に裂け目ができたわけではない。だが、燐の脳内魔法式の残骸が、焼損した回路の最後の感覚で捉えたものは空気の断絶だった。ロリの掌から三十センチほど前方の空間に、物理法則の連続性が途切れた一点が存在していた。そこだけが周囲と違う。何がどう違うのか、言葉にはできなかった。ただ、目の前の空気がその一点を境に別のものに変わっている。そういう感覚だけがあった。
白銀の聖炎が、その一点に到達した。
集束された一撃。荒れ地を溶解させ、石を蒸気に変えた灼熱の光の槍が、少女の掌の前に。
消えた。
燃え尽きたのではなかった。減衰したのでもなかった。聖炎の光は、ロリの掌の前のあの一点を通過した瞬間に存在しなくなった。青白い光が闇に飲まれるように。蝋燭の炎が指先で摘まれるように。あるいは最初からそこに炎など存在しなかったかのように。
音がなかった。
聖炎が石を溶かす時のあの耳を劈く爆裂音も、大気を灼く時の鋭い金属音も、何もなかった。白い光がロリの掌の前に到達した瞬間、全てが沈黙した。音が死んだ。
残ったのは、少女の銀色の髪が風もなく逆立っている光景だけだった。
白いローブの裾に付いた赤い砂が、重力を忘れたように宙に浮いている。ロリの周囲三メートルほどの範囲で、地面の礫が静かに浮き上がっていた。小石が、砂粒が、石柱から剥がれた石粉が、何の力で持ち上がっているのかも分からないまま、空中に漂っている。
燐の膝が地面についたまま動かなかった。
灰色のフィルターがかかった視界で、少女の姿だけが異常なほど鮮明だった。銀色の髪。青藍の瞳に浮かぶ金色の光。前に伸ばされた右手。白い指先。その全てが、燐の焼損した回路を通さなくても肉眼だけで見て取れる明瞭さで、荒れ地の灰色の中に浮かんでいた。
少女は怒っていた。
それが分かったのは、表情を読んだからではなかった。ロリの顔はむしろ無表情だった。あの柔らかい頬の線も、微かに上を向いた鼻先も、薄い唇も、感情を映していなかった。だが、伸ばされた右手の指先が震えていた。怒りで震えていた。掌の周囲の空気が歪み、少女の手の輪郭が揺らいでいた。陽炎のような歪み。だが陽炎の原因は熱気だ。これは温度ではない。空気そのものの密度が、少女の掌の周囲で狂っていた。
何が起きている。
燐の思考が動いた。回路は応答しなかった。解析するための計算機能は既に焼き切れている。分かったのは一つだけだった。
少女がやったのだ。
あの聖炎を少女が消した。
荒れ地の向こうで、白銀の甲冑が震えていた。
板金の継ぎ目が軋む音が聞こえた。聴覚が半分死んでいるはずなのに、金属が振動する高周波の共鳴音だけは、骨伝導のように頭蓋の内側に届いた。白銀の青年は剣を振り下ろした姿勢のまま凍りついていた。
蒼い瞳が見開かれていた。
先ほどまでの怒りも、計算も、冷徹な使命感も、全て消えていた。代わりにあったのは、燐が一度だけ見たことのある感情だった。星見の塔の最上階で、帝国の実験装置が暴走した時、周囲の兵士たちの目に浮かんだもの。理解の範疇を超えた現象を目の当たりにした時の、純粋な恐怖。
青年の左足が後退した。
一歩ではなかった。甲冑の左膝が僅かに折れ、重心が後ろに流れた。無意識の後退。訓練された騎士の身体が、意志とは関係なく脅威から距離を取ろうとしている。剣を握る右手が震え、聖炎が刀身の上で明滅した。安定を失った炎が風に煽られたように揺れ、青白い光の密度が薄まった。
「——馬鹿な」
声は、掠れていた。
先ほどまでの裁定者の声ではなかった。蒼い瞳の底で何かが砕けている。聖炎を注ぎ込んだ全力の一撃。荒れ地を溶解させ、石を蒸発させた灼熱の槍が子供の掌の前で、消えた。跡形もなく。音もなく。
聖炎は教団の教えでは神の怒りだった。穢れを焼き払う聖なる浄化の炎。それが拒絶された。神の怒りを、子供が手を翳しただけで消滅させた。
燐にはそこまでの事情は分からなかった。だが、白銀の青年の目に浮かんだ動揺の深さは読み取れた。あれは単なる戦術的な驚きではない。信じていたものの根幹を揺らされた者の目だ。
しかし燐の意識は、白銀の青年から引き剥がされた。
地面が震えていた。
最初は微かだった。膝をついた地面から、骨盤を通じて脊椎に伝わる微弱な振動。地震のような揺れではなかった。もっと深い、地殻の奥底から伝わってくるような、低周波の脈動。
振動が強くなった。
荒れ地の礫が跳ね始めた。地面の上に散らばっていた小石が、振動に弾かれて数センチ浮き上がり、また落ちる。灰色の砂が波紋を描くように動き、石柱の根元から細かい石粉が滝のように流れ落ちた。
耳の奥が痺れた。
可聴域の下限を割り込む重低音が、空気を通じてではなく、地面を通じて骨に直接伝わっていた。歯の根が鳴った。顎の関節が振動で軋み、奥歯がかちかちと打ち合った。鼓膜ではなく頭蓋骨全体が共鳴し、脳の内側が揺すられるような感覚。
風が生まれた。
ロリを中心にして、渦巻く風が。
少女の周囲の空気が螺旋を描いて上昇し始めていた。宙に浮いていた礫や砂粒がその渦に巻き込まれ、少女の周囲を回転している。銀色の髪が逆立ち、風の渦に引かれて扇状に広がった。白いローブが内側から膨らむように張り、裾が翻った。
空気が重かった。
物理的な重量ではない。肌の表面を押す圧力。全身の毛穴が開き、産毛が逆立った。腕の表面を電流が走るような痺れが、手首から肘、肘から肩へと駆け上がっていく。首筋の皮膚が粟立ち、背筋に冷たいものが流れた。
温度が狂っていた。
ロリの周囲三メートルは熱かった。空気が陽炎のように歪み、少女の輪郭が揺れている。しかしその外側、燐が膝をついている地点は急速に冷えていた。先ほどまで聖炎の残熱で温かかったはずの礫が、指先に触れると冷たかった。五月の朝の気温が、真冬の夜明けのそれに変わっていた。吐く息が白い蒸気となり、唇の前で凝結した。
石柱が鳴っていた。
共鳴音だった。遺跡の石柱が大気の振動を受け、内部の結晶構造が固有振動数で共鳴を始めている。低い唸り。笛のような、角笛のような、人間が意図的に出すどの楽器とも違う、石が歌っている音。荒れ地に林立する数十本の石柱が、それぞれ異なる周波数で鳴り、不協和音が重なって耳の奥を圧迫した。
燐は理解した。
解析ではなかった。脳内魔法式の演算でもなかった。戦場で培った直感が、生存本能が告げていた。
これは手に負えない。
ロリの力が膨張していた。聖炎を消滅させた時に解放された何かが、少女の制御を超えて広がっている。怒りが、あの「リンを傷つけるな」の叫びに込められた感情が、力を増幅させている。少女はそれを止められない。止め方を知らない。初めて発現した力が、感情に引きずられて暴走しかけていた。
ロリの足元の地面が割れた。
亀裂が走った。少女の靴底から放射状に、荒れ地の固い地盤に罅が入っていく。亀裂の断面から赤い砂が噴き出し、宙に浮いた。地面の下の空気が圧力差で押し出され、土と石の匂い。雨上がりの赤土に似た鋭い鉱物臭が、燐の鼻腔を刺した。
ロリのローブが光り始めていた。
白い布地の内側から淡い金色の光が滲んでいた。縫い目に沿って光の線が走り、裾から襟元へ、袖から指先へ、少女の全身を覆う布が発光していた。ロリ自身の体から放射される力が、最も近くにある布地を透過して漏れ出しているのだ。
白銀の青年がもう一歩退いた。
蒼い瞳に映るロリの姿が、青年にとって何に見えているのか。燐には想像できなかった。しかし甲冑に覆われた身体が、聖炎を纏った騎士の身体が、あの小さな少女の前で後退している。
剣の先端が下がった。
聖炎の剣が、振り上げた位置から自然と降りていく。攻撃の構えが崩れていた。青年の腕に力がなかった。力を失ったのではない。力の入れ方を見失っていた。聖炎が刀身の上で不規則に明滅し、安定を完全に喪失していた。
燐は少女を見た。
ロリの青藍の瞳はもう青藍ではなかった。金色の光が虹彩全体を覆い、瞳孔の黒い点だけが残っている。あの穏やかで好奇心に満ちた瞳が、見知らぬ色に染まっていた。少女の唇が薄く開き、歯を食いしばる寸前のように顎の筋肉が強張っていた。
怒りだった。
ロリの中にある怒りがまだ消えていなかった。聖炎を消した後も、怒りは燃え続けている。少女を傷つけようとした者への怒りではない。燐を傷つけた者への怒りだ。燐が吹き飛ばされ、地面に叩きつけられ、血を流しているのを見た時に少女の内側で爆発した感情。それが力を食い続けていた。怒りが薪となり、力が炎となり、薪を食えば食うほど炎は大きくなる。止まらない。止め方が分からない。
石柱の共鳴音が高くなった。
低い唸りが中音域に上がり、空気を切り裂くような鋭い振動に変わった。荒れ地の灌木が根こそぎ引き抜かれ、風の渦に巻き込まれて宙を舞った。砂と礫と枝葉が少女の周囲を回転し、小さな竜巻のような気流が形成されていた。
少女の右手がまだ前に伸ばされていた。
白い指先が震えている。指の間から金色の光が漏れ、手の甲の血管に沿って光の線が肌の下を走っていた。少女の身体が耐えきれていない。力の出力が、七歳の身体の許容量を遥かに超えている。
バルカスの声が右方から飛んだ。
「嬢ちゃん……おい、何だありゃ」
大斧を構えたまま石柱の陰に身を縮めていた。灰色の短髪に石粉が降り積もり、日焼けした顔に小さな切り傷が二つ三つ走っていた。飛散した礫の破片だ。
左方でカイが灌木の根元に伏せ、ロリの方に手を伸ばしかけている。風の渦に阻まれて近づけない。リディアがカイの隣で端末を胸に抱え、風に煽られた髪を押さえながら叫んでいた。
「マナ密度が——最高値を超えてる! まだ上がって……端末が追いつかない!」
セレスは岩陰でライフルを抱え、身を低くしていた。風に乗った砂が迷彩外套の表面を叩き、布地がばたばたと鳴っている。
レオンハルトが燐の三メートル先に立っていた。金髪が風に乱れ、将校軍服の裾が千切れそうに翻っている。治癒術式の光が全身を薄く覆い、風の圧力に身体を押されながらも立ち続けていた。青灰色の瞳がロリを見つめ、その目が燐に向いた。
問いかけていた。
あれを止められるか。
燐は立ち上がった。
両膝が悲鳴を上げた。右腕は火傷で垂れ下がり、左手だけが使えた。視界は灰色のフィルターに覆われ、中央だけが辛うじて焦点を結んでいる。鼻血がまだ流れていた。上唇を伝って顎に垂れ、首筋に赤い線を引いている。口の中は鉄錆の味で満ちていた。
こめかみの灼熱が脈打っている。脳内魔法式は使えなかった。回路は焼損し、もう一度起動すれば脳が物理的に壊れる。解析も、封印も、擾乱も、何もできない。
だが。
燐の足が動いた。
ロリに向かって。
風の渦が燐の身体を押し返した。顔面に砂が叩きつけられ、目を細めた。皮膚が砂粒に削られ、頬に無数の細かい擦過傷が走った。ローブの内側から放射される金色の光が、近づくほどに眩しくなった。空気の圧力が胸を押し、呼吸が浅くなった。肺が十分に膨らまない。酸素が足りない。ロリの周囲の空気が力に消費され、希薄になっているのだ。
一歩。
地面が揺れ、足元の亀裂が広がった。靴底が礫を踏み潰す感触すら、振動にかき消された。
二歩。
石柱の共鳴音が高周波に達し、耳の奥で何かが弾けた。痛みではなかった。痛覚は既に鈍化している。聴覚の一部が死んだのだと、頭の片隅で理解した。
三歩目で風の渦の内側に入った。
音が消えた。
渦の外では石柱が鳴り、礫が飛び交い、リディアの叫び声が響いていた。渦の内側は静かだった。異様な静けさだった。風が回転しているのに音がない。少女を中心にした半径一メートルほどの空間だけが、別の法則に支配されていた。
ロリの背中が見えた。
小さかった。
白いローブに包まれた身体。銀色の髪が重力を無視して広がり、金色の光に縁取られている。背中の肩甲骨の位置で布地が膨らみ、内側から放射される力でローブの繊維が一本一本浮き上がっていた。
前に伸ばされた右手がまだ震えていた。
指先が白かった。血の気が引いている。力を出し続けている手が、限界を超えて蒼白になっていた。手首に浮いた青い血管が脈打ち、指の関節が強張って開いたまま動かなくなっている。
少女の身体が揺れた。
膝が折れかけた。力を放出し続けた代償が、七歳の身体を蝕んでいた。小さな肩が上下に揺れ、呼吸が荒い。背中に滲む汗がローブの布地を濡らし、透けた肌の色が白すぎた。
燐は最後の一歩を踏み出した。
ロリの背後に。
刀が左手から零れ落ちた。鮫肌巻きの柄が指から離れ、地面に落ちる音が渦の内側の静寂の中で、やけに大きく響いた。金属が石を叩く硬い音。それだけが、この空間で許された唯一の音だった。
左腕を伸ばした。
ロリの肩に触れた。
少女の身体が硬直した。全身の筋肉が一瞬で強張り、銀色の髪が弾かれたように揺れた。金色に染まった瞳が振り返った。
燐を見た。
燐の顔を見た瞬間、少女の目が揺れた。金色の光がゆらぎ、その奥に青藍の虹彩が覗いた。怒りで染まった瞳の下に、元の色が残っていた。
「リン——」
少女の声が震えていた。怒りの叫びとは違う、不安の震え。自分の身体で何が起きているのか分からない恐怖。力が止まらない恐怖。自分が壊れていくのを感じながら、止め方を知らない者の声。
燐は左腕をロリの肩から背中に回した。
少女の身体を抱きしめた。
右腕は動かなかった。火傷に覆われた腕は垂れ下がったまま、指先の感覚もない。左腕だけで少女の小さな身体を、胸に引き寄せた。
ロリの頭が、燐の胸に当たった。
銀色の髪が燐の革鎧の焦げた表面に広がり、金色の光を帯びた銀糸が、焼け焦げた革と血と汗の匂いが染みついた燐の胸の上で散らばった。少女の額が、燐の鎖骨の下に押しつけられた。熱かった。少女の身体から放射される力が、肌に直接触れている部分で熱を持っていた。左腕に巻きついたローブの布地が、じんわりと温かい。
右手を伸ばそうとした。動かなかった。火傷が腕を縫い止めている。
左腕だけで抱きしめた。力は入らなかった。レオンハルトの治癒で辛うじて動く程度の筋力しか残っていない。少女の身体を胸に押しつけるだけで精一杯だった。
「——もう大丈夫だ」
声が出た。掠れていた。喉の奥が血の味で満ちていた。それでも少女の耳に届くだけの声は出せた。
「もう大丈夫だ。終わったんだ」
嘘だった。
終わっていなかった。白銀の青年はまだそこにいた。レオンハルトもバルカスも消耗している。燐自身の身体は限界を超えている。何も終わっていない。
あの言葉は、今この瞬間の少女に必要な言葉だった。
ロリの身体が震えていた。
力の放出で震えているのか、感情で震えているのか、分からなかった。おそらく両方だった。小さな拳が燐の革鎧の胸元を掴んだ。焦げた革の端を白い指が握りしめ、指の関節が白くなるほど力を込めていた。
「リン——リンが、血を——リンが倒れて——」
言葉が途切れ途切れだった。少女の声が震え、唇が戦慄いている。金色の瞳に涙が浮かんでいた。光に満ちた瞳から溢れた水滴が、頬を伝い、燐の革鎧の上に落ちた。焦げた革の表面で、涙が小さな染みを作った。
「怖かった……リンが死ぬと思って……だからロリは……ロリは——」
少女の声が詰まった。
自分が何をしたのか、少女自身にも分からなかった。ただ、燐が傷つけられるのが許せなかった。吹き飛ばされて地面に叩きつけられた燐の姿が目に焼きついていた。血を流して膝をついた燐の姿が。右腕の火傷が。顔を伝う鼻血が。その全てが、少女の胸の奥で爆発した。怒りになった。怒りが力になった。
力は制御できなかった。聖炎を消した後も力は止まらず、少女の身体から溢れ続けた。怒りが薪を焚べ続けるように。止め方が分からなかった。自分の内側から湧き上がるものを、七歳の少女はどうすることもできなかった。
「もう大丈夫だ」
燐はもう一度言った。三度目だった。声の調子を変えた。掠れた声を意識して低く、ゆっくりにした。急かさない。問い詰めない。ただ、そこにいることを伝える声。
左手が、少女の背中を撫でた。
肩甲骨の間を、掌で押すように。ゆっくりと。上から下へ。焼けた指先でローブの布地を撫で、小さな背中の輪郭をなぞった。掌の下に、少女の心臓の鼓動が伝わっていた。速かった。小動物のように速い鼓動が、布と肌を通じて燐の掌に届いた。
「お前が俺を守ったんだ」
声を落とした。少女の耳元に、囁くように。
「ありがとう。だが——もう止めていい」
ロリの身体が止まった。
震えが止まったのではなかった。力の放出が一瞬だけ途切れた。少女の鼓動が一拍だけ遅くなった。呼吸が深くなった。燐の声が、少女の内側で何かに触れたのだ。
怒りの薪が湿った。
燐の声が、燐の体温が、燐の左腕の重みが少女の怒りを鎮めていた。怒りは燐を守りたいという感情から生まれた。しかし今、その燐がここにいる。腕の中にいる。声が聞こえる。体温が伝わる。守りたかった相手が、自分を抱きしめている。
怒りの理由が消えかけていた。
金色の光が薄れ始めた。
ロリの瞳の中で、金色が後退し、青藍が戻ってきた。虹彩の外縁から青い色が広がり、金色の光点が中心に追いやられていく。少女の髪が下がり始めた。逆立っていた銀色の髪が、重力を思い出したように肩に落ちていく。
渦が弱まった。
回転する風の速度が落ち、巻き上げられていた砂と礫が一つまた一つと地面に落ちた。石柱の共鳴音が高周波から中音域に下がり、低い唸りに変わり、やがて消えた。
宙に浮いていた小石が、ぱらぱらと荒れ地に降り注いだ。砂粒が頬に当たる微かな感触。礫が地面を叩く乾いた音。世界の音が戻ってきた。
温度が戻った。
ロリの周囲の異常な熱気が薄れ、外側の冷気が緩んだ。五月の朝の温度が、ゆっくりと正常に戻っていく。燐の吐く息の白い蒸気が消え、頬の皮膚が凍えた感触から解放された。
地面の震動が止まった。
足の裏から伝わっていた脈動が消え、荒れ地の地盤が静まった。亀裂はそのまま残っていたが、新しい罅は走らなかった。
ロリの右手が下がった。
前に伸ばされていた掌が、力を失ったようにゆっくりと降りていく。白い指先の蒼白が消え、血の色が戻り始めていた。手首に浮いていた青い血管の脈動が穏やかになり、指の関節の強張りが解けた。
ローブの光が消えた。
布地の内側から滲んでいた金色が、最後の残り火のように瞬いて消えた。白いローブが、ただの白い布に戻った。裾に付いた赤い砂が地面に落ち、乾いた音を立てた。
少女が泣いていた。
声を上げてではなかった。燐の胸に顔を押しつけたまま、静かに泣いていた。肩が小さく震え、革鎧を掴む指の力が強まったり弱まったりを繰り返していた。頬を伝った涙が、燐の焦げた革鎧の隙間に染み込んでいく。
燐は何も言わなかった。
左手で少女の背中を撫で続けた。上から下へ。ゆっくりと。同じ動きを。同じ速さで。少女の鼓動が少しずつ落ち着いていくのを、掌の下に感じながら。
静寂が戻っていた。
石柱は黙り、風は凪ぎ、地面は静まっていた。荒れ地に朝日の光が斜めに差し込み、舞い上がった砂埃を金色に染めている。その光の中に二人の影がある。膝をつきかけた男と、その胸に縋りつく小さな少女。
白銀の青年が動いた。
燐は視線だけで追った。ロリを抱きしめたまま、灰色のフィルターがかかった視界の端で白銀の甲冑が後退していくのが見えた。
三歩。五歩。七歩。
振り返らなかった。燐たちに背を向けるのではなく、後ずさりで距離を取っている。蒼い瞳がロリに注がれたまま、足元を確かめもせずに退いていく。剣は下がったままだった。聖炎の残光が刀身の上で弱々しく揺れ、先ほどまでの灼熱の輝きは失われていた。
青年の唇が動いた。何かを呟いている。距離が離れ、聴覚が半死の状態では聞き取れなかった。その唇の動きから読み取れたのは、祈りの言葉ではなかった。疑問だった。自分自身に向けた問い。
白銀の甲冑が崖の縁に達した。
青年の足が止まった。蒼い瞳がもう一度だけロリを見た。そして跳んだ。崖の向こうに。聖炎が青年の身体を一瞬だけ包み、浮力を与えた。白銀の光点が朝日の中を上昇し、荒れ地の向こう側に消えた。
去った。
燐は確認した。脳内魔法式は使えなかったが、肌で感じていた聖炎の圧力が完全に消えていた。空気から灼熱の密度が抜け、五月の朝の風が戻っている。
白銀の青年は戦闘を放棄した。
荒れ地に残ったのは、破壊の痕跡だけだった。溶解した礫の筋。蒸発した石の跡。亀裂の走った地面。折れた石柱。そして七歳の少女を抱きしめたまま膝をつきかけている、血まみれの男。
「ロリ」
燐の声は掠れていた。
少女は答えなかった。燐の胸に顔を埋めたまま、小さな身体が規則的に震えていた。泣き疲れたのではなく、力を使い果たした疲労が、身体を蝕んでいた。
燐の左手が、少女の頭に触れた。銀色の髪を撫でた。指先に触れる髪は柔らかかった。力を放出していた時の異常な硬さはなく、いつもの絹のような手触りが戻っていた。
「よくやった」
低い声で言った。少女の耳元に。
「お前がいなかったら、俺は——」
言葉が途切れた。喉が閉じた。嘘を吐くつもりはなかった。事実だった。ロリが聖炎を消さなければ、あの一撃で灌木の向こうにいた全員が焼かれていた。ロリがいなければ、死んでいた。
少女がその言葉を聞いたかどうかは分からなかった。ロリの呼吸はゆっくりと規則的になり、目を閉じていた。力の代償が少女の意識を奪いかけていた。
燐の膝が折れた。
堪えていた。ロリを抱きしめた瞬間から、膝は折れかけていた。ロリが泣き止むまで、ロリの力が収まるまで、立っていなければならなかった。しかし今、少女の力が消え、少女の身体が燐の腕の中で静かになった瞬間、限界が来た。
左膝が地面に落ちた。右膝が続いた。両膝が荒れ地の礫に沈み、膝の皿が石を踏む鈍い衝撃が走った。視界が傾いた。灰色のフィルターが濃くなり、世界の輪郭が溶けていく。ロリを抱きしめた左腕だけが辛うじて力を保っていた。少女の身体を離すわけにはいかない。地面に落としてはいけない。
右腕の火傷が熱を持っていた。腕全体を覆う赤黒い変色が、朝日の光の中で生々しく脈動している。こめかみの灼熱が頭蓋全体を圧迫し、鼻血はまだ止まっていなかった。唇の端から顎に垂れた血が、ロリの銀色の髪に一滴落ちた。赤い雫が銀の糸の上で丸くなり、朝日を受けてガーネットのように光った。
バルカスが走ってきた。
石柱の陰から飛び出し、大斧を背中に回しながら三歩で燐の傍に到達した。大きな手が燐の左肩を掴み、傾いた身体を支えた。
「おい。意識はあるか」
声は低かった。厳しかった。手は荒くなかった。
「ある」
燐の返事は一語だった。それが精一杯だった。
カイが駆け寄ってきた。大剣を背中に戻し、ロリの方に手を伸ばした。
「ロリ——ロリ! 大丈夫か!」
「触るな」
燐の声が出た。反射だった。自分でも驚くほど鋭い声。カイの手が止まった。
「……すまない」
燐は目を閉じ、首を振った。
「いや……俺が悪い。大丈夫だ、疲れているだけだ。触っていい。ただ——静かにしてやってくれ」
カイの大きな手が、ロリの背中にそっと触れた。少女は目を閉じたまま反応しなかったが、カイの手の温度を感じたのか、強張っていた肩が僅かに緩んだ。
リディアが端末を見ながら駆け寄り、ロリの手首に指を当てた。脈を取っている。
「バイタルは安定してるわ。マナも通常値に戻ってる。ただ……消耗が激しい。しばらく動かさないで」
セレスが岩陰から出てきた。ライフルを肩に掛け、迷彩外套の砂を払いながら歩いてくる。燐の傍に立ち、無言で水筒を差し出した。
燐は左手でそれを受け取れなかった。ロリを抱えているからだ。バルカスが水筒を受け取り、栓を開けて燐の口元に当てた。冷たい水が唇の血を洗い流し、喉に流れ込んだ。鉄錆の味が薄れていく。水が旨かった。身体中の細胞が水を求めていた。
レオンハルトが近づいてきた。
将校軍服は左肩が焦げ、右腕に聖炎の火傷の赤い線が走っていた。金髪は乱れ、額に汗と砂が混じった泥が付着している。青灰色の瞳は澄んでいた。消耗の色はあったが、崩れてはいなかった。
レオンハルトは燐の前に立ち、ロリを見下ろした。少女の寝息が微かに聞こえている。力を使い果たし、燐の腕の中で眠りに落ちかけている。
レオンハルトの瞳に何かが過ぎった。
燐はそれを見た。灰色のフィルター越しの、薄れかけた視界で。あの目に浮かんだものは見間違えなかった。
計算ではなかった。警戒でもなかった。
決意だった。
何に対する決意なのか。何を決めたのか。レオンハルトは何も言わなかった。燐に視線を戻し、右手を燐の肩に向けた。治癒術式の白い光が掌に集まり、燐の左肩に流れ込んだ。温かかった。焼けた筋肉と壊れかけた神経に、柔らかい修復の波動が浸透していく。
「……礼は言わない」
燐が言った。掠れた声で。
レオンハルトの口元が微かに動いた。笑いではなかった。けれど険しさが一瞬だけ緩んだ。
「言わなくていい」
治癒の光が燐の身体を包んでいた。完全な修復ではなかった。右腕の火傷も、脳内魔法式の焼損も、治癒術式では直せない。痛みが和らいでいた。鈍化していた感覚が戻り、呼吸が楽になった。
燐は膝をついたまま、腕の中の少女を見下ろした。
ロリは眠っていた。
銀色の髪が燐の革鎧の上に広がり、閉じた瞼の上の長い睫毛が微かに震えている。頬に涙の跡が乾きかけ、朝日の光に照らされて薄く光っていた。小さな拳は、まだ燐の革鎧の端を握っていた。眠りの中でも離さなかった。
荒れ地に朝日が降り注いでいた。
破壊の跡に光が差し込み、溶けた礫の表面が硝子のように反射している。折れた石柱の断面から石粉が風に舞い、金色の粒子となって空中を漂っていた。
燐の膝が地面に沈んでいた。ロリを抱きしめた左腕の筋肉が痙攣し、指先の感覚が薄れかけている。身体は限界だった。脳内魔法式の焼損、右腕の火傷、全身の打撲と擦過傷。立ち上がる力は残っていなかった。
それでも少女は腕の中にいた。
温かかった。
ロリの体温が、燐の胸元に、指先に、掌に、静かに伝わっていた。少女の寝息が、焦げた革鎧の隙間から燐の皮膚に触れ、温かい呼気が鎖骨の下を撫でていた。
レオンハルトの青灰色の瞳が、膝をついた二人を見下ろしていた。
治癒の光を送り続ける右手。その目に宿った決意。燐にはまだ、その意味が読み取れなかった。レオンハルトの視線はロリと燐の間を行き来し、やがて荒れ地の遠景に向けられた。白銀の青年が消えた方角。
将校軍服の右手が下ろされ、治癒術式の光が消えた。
レオンハルトは荒れ地の縁を見ている。
風が凪いでいた。石柱の影が地面に伸び、折れた柱の断面が朝日に照らされて赤く光っていた。砂埃が空中に漂い、光の粒子の中で静かに回転している。
レオンハルトの唇が引き結ばれた。顎の線が硬くなった。
踵を返した。バルカスの方に歩き、低い声で何かを言った。バルカスが頷いた。二人が荒れ地の周囲を確認しに動き始めた。白銀の青年が本当に去ったのか。追手が残っていないか。退路は確保されているか。
燐は動けなかった。
膝をついたまま、少女を抱いたまま、荒れ地の真ん中で。
ロリの寝息だけが聞こえていた。
規則的で、穏やかで、小さな呼吸。先ほどまで石柱を震わせ、地面を割り、空気を歪めた力の持ち主が、燐の腕の中で、子供の寝息を立てていた。
左手がまだ少女の背中にあった。掌の下に、少女の心臓が鼓動していた。ゆっくりと。穏やかに。
朝日が高くなっていた。
荒れ地の破壊の跡に、新しい光が降り注いでいる。溶解した石の表面が輝き、砂埃が金の粉のように舞っている。折れた石柱の影が短くなり、五月の朝の風がようやく戻ってきていた。
燐の瞼が重くなっていた。
視界のフィルターが濃くなっていく。灰色が黒に近づき、世界の輪郭がさらに溶けていく。意識が薄れかけている。身体の限界が、ようやく脳にまで達しようとしていた。
左腕だけは離さなかった。
少女を抱きしめた腕だけは、力を保っていた。
荒れ地の端でレオンハルトが足を止めていた。
振り返り、膝をついた燐とその腕の中の少女を見ている。風が金髪を揺らし、青灰色の瞳が朝日を受けて光った。
その目の中にある決意が一瞬だけ強くなった。
唇が動いた。声は出なかった。風が音を攫ったのか、あるいは声にしなかったのか。
レオンハルトは目を閉じた。一呼吸。そして再び目を開き、踵を返して荒れ地の縁に歩き始めた。
燐の意識が薄れていく。
最後に感じたのは、ロリの心臓の鼓動だった。掌の下で、静かに、確かに、脈打っている。
その音を聞きながら、視界が閉じた。




