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第3章-56話「脳内魔法式、限界駆動」

 白銀の甲冑が、震えていた。


 板金の指関節が軋み、聖炎の剣が青年の握力を失って傾いでいる。蒼い瞳がロリを凝視したまま、呼吸すら止まっていた。聖炎が少女に触れて霧散した。あの光景が、青年の内側で何かを砕いている。


 燐は石柱の影から半歩踏み出し、その隙を見た。


 今しかない。


 だが脚が動かなかった。太腿の筋肉が痙攣し、膝が笑っている。聖炎の全方位放射を受けた後遺症がまだ全身に残っていた。左腕の火傷が熱を持ち、焦げた革鎧の下の肌がずきずきと脈動している。呼吸するたびに肋骨の下が痛んだ。


 三秒。


 白銀の青年の瞳から、動揺が引いた。


 速かった。砕けかけていた何かが再び凝固していくのが、見えた。蒼い瞳の底に、氷のような色が戻っていく。唇が引き結ばれ、顎の線が硬くなった。剣を握る手に力が戻り、聖炎が再び刀身を舐めた。


「——闇の魔女め」


 声が変わっていた。先ほどの震えはなかった。代わりに灼けたような怒りが、静かな声の奥に沈んでいた。聖炎が効かなかったことへの恐怖を、怒りで塗り潰したのだ。


 青年の蒼い瞳がロリから外れ、燐を貫いた。


「あの子供……人間ではないな。聖炎を無効化する闇の存在を匿い、帝国に反旗を翻した。お前は何者だ」


 燐は答えなかった。答える余裕がなかった。聖炎が膨張している。青年の全身を覆う青白い炎が、先ほどよりも激しく燃え上がっていた。恐怖と怒りが混ざった時、人間は必要以上の力を使う。燐は戦場でそれを何度も見てきた。


 聖炎の剣が振り上げられた。


 今度は燐に向けてではなかった。再び灌木の方角に。カイがロリを抱えて伏せている、あの方角に。


「やめろ——!」


 叫んだ。喉が裂けた。声と同時に身体を動かした。太腿が悲鳴を上げたが、痛覚を無視して踏み込んだ。刀を構え、白銀の青年の横腹に斬りかかった。


 聖炎の障壁が刃を弾いた。手首に衝撃が走り、肘が悲鳴を上げた。それでも青年の注意は一瞬だけ燐に向いた。聖炎の剣が燐を払うように横薙ぎに振られ、灌木への攻撃が中断された。


 燐は後ろに跳んで斬撃を避けた。聖炎の弧が眼前を通過し、顔面の皮膚が熱風で引き攣った。睫毛が焦げる匂いが鼻腔に刺さった。


 着地した。膝が折れかけた。堪えた。


 右からレオンハルトが踏み込んだ。身体強化の加速で白銀の青年の背後に回り、拳を振り抜いた。治癒術式の白い光を纏った拳が、板金甲冑の背面を叩く。金属の衝突音が荒れ地に響いた。


 青年の身体が揺れたが、倒れなかった。振り返りざまに剣を薙いだ。聖炎の弧がレオンハルトの眼前を走り、金髪の前髪が焦げた。レオンハルトが後退し、足元の礫を蹴り上げた。


 三対一。それでも数の優位が全く意味をなしていなかった。


 聖炎の障壁は健在で、物理的な打撃も刃も通らない。唯一ダメージを与え得るのは。


 燐の脳裏を、思考が走った。


 脳内魔法式。


 残り一回。


 炭化した回路を、もう一度だけ駆動させる。封印術式で聖炎の障壁を無力化し、反撃の隙を作る。しかしそれは回路の限界を超えることを意味する。最後の一回。その先には、回路の完全な焼損しかない。


 封印術式だけでは足りない。聖炎の出力が高すぎる。通常の紫電では障壁を突破できない。あの青年の聖炎は、燐がこれまで対峙したどんな魔術よりも密度が高かった。


 ならば。


 こめかみの奥で、炭化した回路が軋んだ。


 思考が加速した。封印術式の構造を、脳の中で分解し、再構築する。通常の紫電の術式構造。電撃の発生、集束、放射。その過程に封印術式の要素を組み込む。電撃に封印の効果を載せる。聖炎を無力化しながら、同時に攻撃する。二つの術式を一つの発動に統合する。


 理論上は可能だった。帝国の術式教本にそのような統合発動の記述はない。しかし脳内魔法式の演算速度ならば。コンパイラ機能が二つの術式コードを同時に最適化すれば。


 代償は、回路の限界駆動。リミッターを外す。脳内魔法式が安全に処理できる上限を超えた出力で、回路を走らせる。


 紫電・改。


 名前はその場で付けた。名前があった方が、コードワードとして機能する。


 思考が定まった瞬間、白銀の青年が、二度目の全方位放射の構えに入った。剣を中心に聖炎が膨張し、球状の炎が形成され始めている。


 前回と同じ攻撃。前回は、レオンハルトの治癒術式の広域展開で辛うじて減衰させた。あれをもう一度受ければ耐えられるかどうか分からない。消耗した身体では。


「レオンハルト」


 燐の声が出た。低く、短く。


 金髪の将校がこちらを見た。青灰色の瞳が、燐の目を捉えた。


「十秒くれ」


 それだけ言った。理由は説明しなかった。説明する時間がなかった。


 レオンハルトの瞳が、一瞬だけ揺れた。


 何をする気だ。


 そう問いたげな目だった。しかし問わなかった。代わりに頷いた。短く。一度だけ。


 レオンハルトが白銀の青年に向かって走った。


 身体強化の最大出力。地面を蹴る軍靴が礫を砕き、将校軍服の裾が風に千切れた。青年の正面に回り込み、拳を連続で叩き込んだ。治癒術式の光が拳の上で脈動し、聖炎の障壁と正面から衝突した。金属と光がぶつかり合い、火花が散った。


 全方位放射が中断された。青年の注意がレオンハルトに向き、膨張しかけていた聖炎の球が不完全なまま散逸した。


 十秒。


 燐は目を閉じた。


 荒れ地の音が遠くなった。レオンハルトの拳が甲冑を叩く音。聖炎が空気を焼く音。礫が砕ける音。それらが薄い膜の向こう側に退いていった。


 脳の奥に、意識を沈めた。


 炭化した回路が見えた。比喩ではなかった。脳内魔法式を起動する時、燐は回路の状態を「見る」ことができた。正常な回路は青白い光の線として知覚される。しかし今、燐の回路は黒かった。焼き切れた配線の残骸が、脳の中で蜘蛛の巣のように広がっていた。まだ辛うじて通電する線が、全体の二割ほど。残りは死んでいた。一年前の星見の塔で焼き切れて以来、一度も修復されていない。


 その二割の回路に、全出力を注ぐ。


 リミッターを外す。


 安全域の閾値を無視する。回路が耐えられる上限のさらに上まで、出力を引き上げる。


 コードワードを、脳の中で唱えた。


 ——紫電・改。


 回路が、灯った。


 最初に来たのは、音だった。


 高周波の耳鳴りが、頭蓋の内側を満たした。人間の可聴域の上限を擦るような鋭い振動。鼓膜が痙攣し、平衡感覚が一瞬だけ狂った。


 次に、熱。


 こめかみが灼けた。比喩ではなく、物理的に。皮膚の下の血管が膨張し、こめかみから側頭部にかけての表面温度が急上昇した。汗が噴き出し、即座に蒸発した。蒸気が顔の周りで揺らぎ、視界の端が歪んだ。


 脳の奥で回路が唸りを上げていた。


 炭化した配線の残骸が、限界を超えた電流に灼かれ始めた。まだ生きていた二割の回路が、通常の三倍の出力を強制的に流し込まれ、悲鳴を上げている。回路の接合部が過負荷で赤熱し、神経の周囲に焼けるような激痛が放射された。


 視界が紫色に染まった。


 荒れ地の灰色の礫が、石柱の砂岩が、空の青が、全て紫のフィルターを通して見えた。脳内魔法式の過剰駆動が視神経に干渉し、色覚が歪んだのだ。世界が紫色の濃淡だけで構成される、奇妙な光景。


 鼻腔の奥で何かが弾けた。


 温かい液体が、上唇を伝った。鼻血だった。毛細血管が破裂していた。脳圧の急上昇が、鼻腔の粘膜の血管を破ったのだ。血の鉄錆の味が、口の中に広がった。唇の上を伝う血の筋が、顎先から一滴、地面に落ちた。灰色の礫の上に、小さな赤い染みが広がった。


 それでも術式は完成していた。


 脳内魔法式のコンパイラ機能が、二つの術式コードを同時に最適化し終えていた。紫電の攻撃術式と封印術式の無力化構造が、一つの発動シーケンスに統合されている。掌から刀身へ。刀身から標的へ。電撃が聖炎の障壁を封じると同時に、その奥にある本体を直撃する。


 目を開いた。


 紫色の世界が広がっていた。レオンハルトが白銀の青年と組み合っている。レオンハルトの拳が甲冑の胸を叩き、聖炎が弾けて散った。青年の剣がレオンハルトの腕を薙ぎ、将校軍服の袖が裂けて赤い線が走った。レオンハルトの自己再生が傷を塞ぎかけたが、聖炎の残滓が傷口で燃え続け、再生を妨げていた。


 あと五秒も持たない。


 燐は刀を構えた。鮫肌巻きの柄を右手で握り、左手を刀身の棟に添えた。刃が紫色の光を帯びた。稲妻が刀身の表面を走り、鍛え上げられた特殊合金の金属面に紫色の電撃が蛇のように這い回った。刃の先端から微細な放電が散り、オゾンの鋭い臭いが鼻腔を刺した。空気中の酸素が電撃で分解され、あの独特の、雷の後に残る刺すような匂いが、荒れ地に広がった。


 燐の足が動いた。


 太腿の筋肉は痙攣していた。膝は笑っていた。脳内魔法式の過剰駆動が、身体制御にまで干渉していた。通常は意識して動かす筋肉が、回路からの信号で強制的に収縮させられている。痛覚が鈍化し、疲労の信号が遮断されている。壊れかけた機械が、安全装置を全て解除して最後の出力を絞り出すように、燐の身体が、限界を超えて駆動していた。


 一歩。


 二歩。


 三歩目で白銀の青年の間合いに入った。


 紫色の視界の中で、蒼い瞳がこちらを向いた。レオンハルトの拳を弾いた直後、青年が燐に気づいた。聖炎の剣が反射的に構えられた。


 遅い。


 今の燐には遅く見えた。脳内魔法式の過剰駆動が知覚速度を引き上げ、時間の流れが粘度を持ったように遅延していた。聖炎の剣が構えられる動作を、コマ送りのように認識できた。


 刀を振り上げた。紫色の稲妻を纏った刃が、弧を描いた。


「——紫電・改」


 声が出た。掠れていたが、コードワードとして機能した。


 刀身から、紫色の雷光が放射された。


 通常の紫電とは質が違った。青紫色ではなく、深い紫。藤色に近い濃密な光が、刀身から溢れ出した。電撃の中に封印術式の構造が織り込まれ、雷光の一筋一筋が魔術的な無力化効果を帯びている。


 紫色の雷光が、聖炎の障壁に衝突した。


 火花ではなかった。光の爆発だった。紫と青白が衝突し、荒れ地全体を照らす閃光が炸裂した。衝撃波が放射状に広がり、礫が吹き飛び、残っていた石柱のひとつが根元から折れた。


 聖炎の障壁が罅割れた。


 封印術式の効果が、聖炎の魔術構造に干渉していた。炎を維持する術式の基盤に、封印の無力化が食い込み、障壁の一部が瓦解した。完全な無力化ではない。聖炎の出力が高すぎた。それでも穴が開いた。幅にして三十センチほどの、障壁の亀裂。


 その亀裂を、紫色の雷光が貫いた。


 電撃が板金甲冑の胸を直撃した。金属の表面で紫色の火花が弾け、甲冑の聖印が一瞬だけ明滅した。太陽の紋章に走った光の線が歪み、肩当ての翼の意匠が電撃に灼かれて黒く焦げた。


 白銀の青年が、初めてよろめいた。


 一歩ではなかった。二歩。三歩。後退しながら、左手で胸を押さえた。聖炎が乱れ、全身を覆っていた青白い炎が大きく揺らいだ。蒼い瞳が見開かれ、その底に、衝撃が浮かんでいた。


「——何だ、今のは」


 声が漏れた。初めて攻撃が通った。聖炎の障壁を突破した。この青年にとって、それは想定外だったのだ。聖炎の障壁は絶対の防御だった。少なくともこの青年の経験の範囲では。


 燐は刀を構え直した。紫色の雷光はまだ刀身に残っていた。しかし出力が落ちている。最初の一撃で術式のエネルギーの大半を消費した。二撃目は、一撃目の半分の威力も出ないだろう。


 それでも追撃した。


 踏み込んだ。紫色の視界が明滅し始めていた。回路の過負荷が限界に達しつつある。視界の端が暗くなり、中央だけが紫色の光に照らされた狭い窓のように残っている。トンネルビジョン。


 刀を横薙ぎに振り抜いた。紫色の残光を纏った刃が、青年の腹部を狙った。障壁の罅割れがまだ修復されていない。そこを抉る。


 刃が、聖炎に触れた。


 先ほどより抵抗が少なかった。封印術式の残滓が障壁を弱体化させている。刃が聖炎を割り、板金甲冑の表面に達した。金属と金属が接触する甲高い音が響き、甲冑の腹部に、浅い傷が走った。


 浅い。致命的ではない。傷だった。


 白銀の青年の蒼い瞳が燃えた。


 怒りだった。純粋な、剥き出しの怒り。聖炎の障壁を破られ、甲冑に傷を付けられたことへの、信じがたいものを見る目。


 聖炎が爆発的に膨張した。


 青年の全身から放射される炎が、それまでの二倍に膨れ上がった。空気中の酸素が一瞬で消費され、燐の肺が真空を吸い込んだ。呼吸ができなかった。口を開いても空気が入ってこない。視界が白く飛んだ。


 聖炎の剣が、横から薙がれた。


 避けられなかった。


 聖炎の弧が燐の右腕を掠め、革鎧の袖が一瞬で燃え上がった。炎が肌に触れた。焼ける。肉が焼ける匂い。自分の肉が。痛覚が白熱し、視界が赤く明滅した。


 吹き飛ばされた。


 身体が宙を舞い、三メートル先の地面に叩きつけられた。礫が背中に食い込み、肺から空気が全て押し出された。右腕の火傷が腕全体を覆っていた。革鎧の袖は消失し、下の皮膚が赤黒く変色している。


 紫色の視界が赤に変わった。


 回路が悲鳴を上げていた。こめかみの灼熱が頭蓋全体に広がり、後頭部まで焼けるような痛みが貫いた。鼻血が止まらなかった。上唇から顎にかけて血の筋が伝い、首の横を伝って鎖骨まで流れていた。口の中が鉄錆の味で満ちていた。


 指先の感覚が消えかけていた。


 右手がまだ刀の柄を握っているのは分かった。握っている「感触」がない。鮫肌巻きの凹凸が指の間にあるはずだが、それが皮膚に触れている感覚が薄い。神経信号が途切れかけている。回路の焼損が運動神経にまで波及し始めている。


 起き上がろうとした。


 腕が動かなかった。右腕は火傷で。左腕は筋肉が信号を受け付けていなかった。脳から「起きろ」という命令が出ているのに、身体が応答しない。


 視界が明滅した。紫、赤、紫、赤。色が交互に入れ替わり、世界が点滅する照明の下に置かれたように見えた。


 ——ここまでか。


 思考が一瞬だけ、そちらに流れた。


 だが。


 温かいものが、左肩に触れた。


 微かな光だった。淡い緑色の光が、左肩の筋肉の表面を這うように広がっていた。柔らかい波動が皮膚の下に浸透し、断裂しかけていた筋繊維が微かに修復されている。


 レオンハルトの治癒術式だった。


 視線を動かした。紫色と赤の明滅の向こうに金髪の将校が立っていた。白銀の青年と対峙しながら、右手を燐の方に向けている。治癒術式の広域展開。自分の正面の敵と戦いながら、後方に倒れた燐に向けて治癒を飛ばしている。


 器用なことを。


 いや、器用では片付けられなかった。あの出力で広域治癒を維持しながら近接戦闘を行うのは、身体強化の制御を極限まで分割しなければ不可能だ。士官学校の座学で「理論上は可能だが実戦で使える者はいない」と教官が言っていた技術。レオンハルトは、それをやっている。


 治癒の波動が鼻腔の血管に触れた。破裂した毛細血管が修復され、鼻血の勢いが弱まった。完全には止まらなかった。滴る速度は落ちた。


 レオンハルトはこちらを見なかった。白銀の青年の剣を拳で弾きながら、一言も発さなかった。治癒を送っていることを、示さなかった。


 燐もそれを指摘しなかった。


 左腕が動いた。


 治癒が筋肉の断裂を修復し、神経信号が再び通り始めた。完全な回復ではなかった。地面に手をついて、身体を起こすだけの力は戻っていた。


 左手で地面を押し、上半身を起こした。右腕が垂れ下がっている。火傷で動かせなかった。それでも左手で刀の柄を握り直し、片手で構えた。


 膝を立てた。立ち上がった。


 視界はまだ明滅していた。紫と赤の交互の点滅。その中に荒れ地の光景が見えた。レオンハルトが白銀の青年の剣を拳で弾き、後退している。将校軍服の左肩が焦げ、右腕に聖炎の火傷が赤い線を引いていた。自己再生が追いつかないほどの消耗。


 白銀の青年は立っていた。甲冑の腹部に浅い傷跡があり、聖炎の障壁に罅が入っている。それだけだった。致命的なダメージは与えられていない。


 足りない。


 紫電・改は聖炎の障壁を破り、一撃を通した。倒すには至らない。そしてもう一度同じ威力は出せない。脳内魔法式はもう限界だった。回路の八割以上が焼損し、残った回路も過負荷で赤熱している。もう一度発動すれば回路が完全に焼き切れる。脳の物理的な損傷。二度と戻らない。


 足が震えていた。


 立っているのがやっとだった。


 その時、右の方角から、声が飛んだ。


「まだ死ぬな」


 短かった。


 バルカスの声だった。


 石柱の陰から、灰色の短髪が覗いていた。大斧を背中に回し、魔力銃を構えた姿勢で燐を見ていた。日焼けした顔の古傷が、朝日の中で白く浮いていた。


 三語だった。命令でも懇願でもなかった。ただの事実の確認のような。まだ死ぬな。死ぬのは今じゃない。お前が死ぬのは、まだ先だ。


 バルカスの目が、燐を真っ直ぐに見ていた。監視者の目ではなかった。ポルタ・ルイナの盆地で「背中は俺が見る」と言った時の目だった。戦友の目。


 燐は頷いた。


 短く。一度だけ。


 バルカスの魔力銃が白銀の青年に向けて発射された。赤い光線が荒れ地を走り、聖炎の障壁に着弾した。障壁を突破はしなかったが、青年の注意が一瞬だけ右に向いた。


 その隙に、レオンハルトが再び踏み込んだ。拳が甲冑の側面を叩き、聖炎の障壁の罅割れた部分を正確に狙った。治癒術式の白い光が罅の中に流れ込み、聖炎の内側で干渉を起こした。


 白銀の青年がよろめいた。


 回復が速かった。聖炎が瞬時に再構築され、障壁の罅が塞がれていく。レオンハルトの拳が弾かれ、バルカスの二射目が障壁で消滅した。


 青年の蒼い瞳が、荒れ地を走査した。


 燐を見た。レオンハルトを見た。バルカスを見た。


 また、あの方角を見た。


 灌木の茂みの向こう。カイがロリを抱えて伏せている方角を。


 蒼い瞳の色が変わった。先ほどの怒りが冷却されていた。計算の目に変わっていた。


 燐の血が凍った。


 分かっている。


 あの青年は分かっている。燐やレオンハルトがどれだけ攻撃しても、致命的な打撃は与えられない。消耗しているのはこちらだけ。時間が経てば経つほど、こちらが不利になる。


 だから標的を変える。


 一番効率の良い攻撃を選ぶ。燐たちを消耗させ続けるよりも、「闇の眷属」を直接排除する方が、使命の達成には近い。


 聖炎が集束した。


 青年の全身を覆っていた炎が右手の剣に集約されていく。分散していた聖炎が一点に収束し、刀身が太陽のように白く輝いた。眩しさに目を細めた。視界が真白に染まりかけた。


 あれは先ほどまでの攻撃とは桁が違う。


 聖炎の全出力を一撃に集中させている。障壁を捨てて、攻撃に全振りした一撃。先ほどの全方位放射よりも密度が高い。一点突破の、灼熱の槍。


 燐の脳裏で計算が走った。あの出力なら、灌木の茂みごと、カイごと、リディアごと。


 ロリに届く。


 聖炎の剣が振り上げられた。白銀の光が荒れ地を昼のように照らし、石柱の影が消えた。空気が鳴った。聖炎の圧力が大気を震わせ、燐の鼓膜を叩いた。


 身体が動いた。


 考えるより先に。


 右腕は動かなかった。左手だけで刀を握り、地面を蹴った。太腿が千切れるような痛みが走ったが、脳内魔法式の残滓が痛覚を遮断した。視界の明滅が加速し、紫と赤と白が交互に閃いた。


 走った。


 白銀の青年に向かってではなかった。


 ロリの方に向かって。


 間に合わない。分かっていた。青年の聖炎が放たれる速度と、燐がロリに到達するまでの距離。計算するまでもなかった。


 聖炎の剣が振り下ろされた。


 白銀の槍が空気を裂いた。集束された聖炎が一筋の光となり、荒れ地を横切って灌木の方角に射出された。地面に触れた部分が瞬時に溶解し、白い蒸気が立ち上った。空気が焼ける匂い。石が溶ける匂い。硫黄と金属の入り混じった鋭い臭気が、荒れ地全体を覆った。


 燐の足が止まった。


 止まったのではなかった。動かなくなったのだ。


 脳内魔法式の残滓が消えた。痛覚の遮断が解除され、全身の痛みが一斉に叩きつけられた。右腕の火傷。太腿の痙攣。こめかみの灼熱。鼻血。手足の痺れ。全てが同時に戻ってきた。膝が折れた。地面に片膝をついた。刀が左手から零れ落ちそうになり、辛うじて指先で鮫肌巻きの端を掴んだ。


 視界が暗転しかけた。


 紫も赤も消えた。世界が灰色のフィルターに覆われ、輪郭がぼやけていく。音が遠くなった。聖炎が空気を焼く音も、礫が蒸発する音も、レオンハルトの叫び声も、水底から聞くように遠い。


 その灰色の視界の中で、一つだけ、はっきり見えたものがあった。


 白い光の筋。


 聖炎の集束された一撃が、灌木の茂みに向かって真っ直ぐに飛んでいく。その軌道の先に、カイの腕の中から身を起こした少女の姿が見えた。


 銀色の髪が朝日の中で揺れていた。


 ロリが立ち上がっていた。


 カイの腕を振りほどき、灌木の茂みから前に出ていた。小さな身体が白いローブに包まれ、裾に付いた赤い砂が朝日の中で光った。フードは落ちていた。銀色の長い髪が背中に流れ、風に煽られて横に靡いている。


 青藍の瞳が開いていた。


 恐怖はなかった。あの瞳に。聖炎の白い光が迫っているのに、少女の瞳は穏やかだった。穏やかで、決然としていた。


 小さな右手が前に伸ばされた。


 掌を聖炎に向けて。


 燐の口が開いた。声を出そうとした。止まれと。逃げろと。そこにいるなと。声が出なかった。喉が閉じていた。肺に空気がなかった。灰色の視界の中で、銀色の髪と白い光だけが鮮明に見えていた。


 聖炎が少女に迫った。


 白い光の槍が、ロリの掌に触れようとしていた。あと一メートル。あと半メートル。


 少女の青藍の瞳が、光った。


 瞳の奥で何かが灯った。青藍の虹彩の内側に、金色の光点が浮かび上がった。夜空に星が灯るように。一つ。二つ。瞳全体が金色の光に縁取られた。


 小さな唇が開いた。


 声は聞こえなかった。燐の聴覚は既に半ば機能を停止していた。唇の動きは読めた。


 二文字。


 短い、二文字の言葉。


 ロリの掌の前で空気が震えた。

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