第3章-55話「断罪の聖炎」
白銀の光点が、落ちてきた。
落ちる、という表現は正確ではなかった。あれは落下ではない。制御された降下だった。雲を円形に押し退けた空の穴の中心から、一直線に地上へ降りてくる。鷹が獲物に向かって急降下するよりも、遥かに速い。
空気が凍りついていた。
五月の朝の風が完全に止み、荒れ地の灌木の葉が一枚も揺れなかった。石柱の影が地面に縫いつけられたように動かず、灰色の礫の表面に薄い霜が降りかけている。燐の吐く息が白い霧となり、唇の前で凝結してから消えた。鼻腔の粘膜が乾き、冷たい空気が気管の奥を刺した。
脳内魔法式の残骸が軋んでいた。こめかみの奥で炭化した回路が共鳴し、側頭部に沿って鋭い痛みが走る。あの白銀の光点から放射されるマナの密度は、ロリが盆地で発した変動とは根本的に異質だった。ロリのそれは空気中のマナを凝縮する穏やかな波紋だった。これは空気そのものを灼く圧力だった。
「全員、散開しろ!」
燐の声が荒れ地に響いた。喉の奥から絞り出した声は掠れていたが、バルカスが即座に反応した。大斧を構えたまま右に跳び、石柱の陰に身体を滑り込ませた。カイがロリを背負ったまま左に走り、低い灌木の茂みの向こうに身を伏せた。セレスがライフルを構えて後退し、荒れ地の窪みに腹這いになった。リディアが端末を胸に抱え、カイの後を追って灌木の陰に飛び込んだ。
燐は走りながら空を見上げた。
白銀の光点が、人影になっていた。
甲冑だった。
全身を覆う板金甲冑が、朝日の光を反射して白銀に輝いている。胸甲の中央に聖印が刻まれ、その紋章は太陽を中心に六つの槍が放射状に広がる意匠だった。肩当てには翼を象った装飾が左右に突き出し、降下の速度を受けて風に煽られている。兜は被っていなかった。顎の線まで覆う頬当てだけが首元で揺れ、風に晒された顔が若かった。
青年だった。
燐と同年代か、少し若いかもしれない。淡い金色の髪が風に逆立ち、額の上で乱れている。目は閉じていた。降下しながら、瞑想するように目を閉じている。唇が微かに動いていた。何かを唱えている。祈りか。術式か。
その閉じた瞼が開いた。
蒼い瞳だった。空よりも深く、氷よりも冷たい蒼。その目が地上を見下ろした瞬間。
青白い炎が、空から降り注いだ。
炎、と呼ぶには異質すぎた。通常の火は赤く、橙色で、黄色の芯を持つ。しかしこの炎は青白かった。氷を溶かした水のような、冷たい光を放つ炎だった。空中で燃え広がりながら降下し、荒れ地の地面に着弾した瞬間、灰色の礫が弾け飛んだ。
爆発ではなかった。もっと静かで、もっと残酷だった。
青白い炎が触れた地面が溶けた。礫が砕けるのではなく、岩石の表面が液状化し、赤熱した溶岩のように泡立ち始めた。石柱の一本に炎が触れ、直径三十センチほどの砂岩の柱が、根元から崩れるように溶け落ちた。溶けた石が地面に流れ、橙色の光を放ちながら礫の間を這っていく。焦げる匂いではなかった。石が溶ける匂い。鉱物が高温で分解される、金属と硫黄の入り混じった鋭い臭気が、鼻の奥を焼いた。
燐は石柱の陰に転がり込んだ。背中が砂岩の表面に叩きつけられ、肺の空気が押し出された。石柱の向こう側から熱波が押し寄せ、顔の皮膚がひりつくように乾いた。まるで鍛冶師の炉の前に立った時のような、空気ごと焼かれる感覚。
着地の衝撃が来た。
荒れ地の中央。六人が散開した地点から二十メートルほど離れた場所に、白銀の人影が降り立った。板金甲冑の足が地面を踏んだ瞬間、衝撃波が放射状に広がった。灰色の礫が一斉に吹き飛び、低い灌木が根こそぎ引き抜かれて宙を舞った。衝撃波が石柱に当たり、砂岩の表面が剥がれて粉塵が立ち上がった。
燐の身体が、石柱に押しつけられた。衝撃波の圧力が全身を叩き、革鎧の表面が鳴った。歯が噛み合わされ、こめかみの奥で脳内魔法式が悲鳴を上げた。
粉塵が晴れた。
白銀の甲冑の青年が、荒れ地の中央に立っていた。着地の衝撃で周囲の礫が吹き飛ばされ、直径五メートルほどの円形の窪みができている。窪みの底に剥き出しになった岩盤が、青白い光を帯びていた。甲冑の表面から放射されるマナが、空気中で微かに揺らいでいる。蜃気楼のように。
青年の右手に、剣があった。
片手半剣。刃渡り一メートルほどの、真っ直ぐな両刃の剣。刃が青白い光を帯びていた。聖炎が刃に纏いつき、刀身の表面を舐めるように燃えている。柄には聖印と同じ太陽の意匠が刻まれ、握った拳の上で光を放っている。
蒼い瞳が、ゆっくりと周囲を走査した。
探している。何かを。
その視線が燐の隠れている石柱の方に向いた。
止まらなかった。通過した。燐を見つけたのではない。もっと広い範囲を、荒れ地全体を見渡している。
青年の唇が開いた。
「闇の者よ」
声は静かだった。戦場で叫ぶ声ではなかった。聖堂で祈りを捧げる声だった。しかしその声が、荒れ地の空気を震わせた。マナが声に乗っていた。拡声術式ではない。声そのものにマナが含まれている。言葉の一音一音が、空気中のマナを振動させ、石柱の表面を微かに震わせた。
「浄化する」
青年の右手が持ち上がった。聖炎を纏った剣が、朝日の中で蒼白い軌跡を引いた。剣先が盆地の方角を指した。
違う。盆地ではなかった。
岩壁の向こう、レオンハルトの部隊がまだ展開している盆地の上空を、聖炎の剣が指し示していた。
振り下ろされた。
斬撃ではなかった。剣を振り下ろす動作に乗せて、聖炎が解放された。青白い炎の波が剣先から射出され、荒れ地を横切り、東の岩壁を越えて盆地に向かった。炎の波が通過した地面が黒く焦げ、石柱の一本が根元から真っ二つに裂けた。裂けた断面が赤熱し、溶けた石の滴が地面に落ちた。
爆音が、遅れて届いた。
盆地の方角から。轟音。岩が砕ける音と、悲鳴が混じった音。人間の悲鳴だった。
セレスのスコープが岩壁の向こうを捉えようとしたが、角度が足りなかった。それでも音だけは聞こえた。盆地の中で何かが燃えている音。そして、帝国軍の兵士たちの叫び声。
「味方を——」
カイの声が灌木の陰から漏れた。
「味方の兵士ごと——」
燐の歯が噛み合わされた。
あの青年は帝国兵を巻き込んでいる。レオンハルトの部下を。無差別に。自軍の兵士がいる盆地に向けて、聖炎を放った。
白銀の甲冑の青年が、二度目の剣を振り上げた。再び盆地に向けて。
その時。
盆地の岩壁の上に、金色の光が閃いた。
レオンハルトだった。盆地の中から岩壁を駆け上がってきたのだ。身体強化で崖面を蹴り、十数メートルの岩壁を一気に登り切っている。
その頂上から跳んでいた。身体強化の出力を全開にして、十メートルの高さから荒れ地に向かって跳躍している。将校軍服の裾が風に裂け、真鍮のボタンが朝日の中で明滅した。右拳に治癒術式の白い光が灯り、落下の衝撃に備えて脚部の筋肉が膨張していた。
着地。
レオンハルトの軍靴が荒れ地の礫を踏み砕いた。衝撃を身体強化で吸収し、膝を曲げた姿勢から即座に起き上がった。将校軍服の胸元はまだ裂けたままで、乾きかけた血の跡が残っている。しかしその目には、燐が決闘中に見たどの表情よりも激しい光が燃えていた。
「——部下を焼いたな」
レオンハルトの声は低かった。指揮官の冷静さは残っていたが、その底に鉄を熱したような怒りが溶けていた。
白銀の青年がレオンハルトに視線を向けた。蒼い瞳が、金髪の将校を見下ろした。見下ろした、というのは比喩ではなかった。青年は身長がレオンハルトより半頭分ほど高く、板金甲冑の肩当ての翼が、立っているだけで威圧感を放っていた。
「闇の眷属を匿う者は、同罪だ」
青年の声は変わらず静かだった。レオンハルトの怒りに動じた様子はなかった。聖炎を纏った剣を肩に担ぐように持ち直し、首を微かに傾げた。
「帝国軍第3機甲魔導大隊——レオンハルト・クレイグ少佐。教義が定める最上位の浄化対象を逃がそうとした。一匹残らず焼く」
レオンハルトの右拳が握り締められた。拳の上で治癒術式の光が脈動し、白い輝きが強まった。
「三名が負傷した」
レオンハルトの声が、一段低くなった。
「俺の部下が三名——お前の聖炎で。巻き添えだ。それがお前の正義か」
白銀の青年の蒼い瞳が、一瞬だけ揺れた。
しかしすぐに戻った。揺れが消え、氷のような冷徹さが蒼の底に座り直した。
「必要な犠牲だ。闇の傍に立った者が焼かれるのは……自らの選択の結果」
レオンハルトの顎の筋肉が動いた。歯が軋る音が、十メートル離れた燐の耳にまで届きそうだった。
燐は石柱の陰から身を起こした。
刀の柄を握り直した。鮫肌巻きの表面がまだ凍りかけており、冷たさが掌を刺した。消耗した身体が悲鳴を上げている。太腿の筋肉は痙攣寸前で、肺が十分に膨らまない。レオンハルトの治癒術式で多少は回復したが、万全には程遠い。
あの青白い炎が、もう一度盆地に向けて放たれたら。
レオンハルトの部下が死ぬ。
燐たちも。
石柱の陰から踏み出した。
荒れ地の礫を踏む靴底の音が、乾いた空気に響いた。白銀の青年の蒼い瞳が燐を捉えた。
視線が交差した瞬間、空気の温度がさらに下がった。青年の身体から放射されるマナの圧力が、燐の正面を正確に向いた。聖炎を纏った剣の切っ先が、燐の胸を指している。
「——見つけた」
青年の声が変わった。静かな祈りの声ではなくなっていた。確信の声だった。狩人が獲物を視認した時の声だった。
「リン・アッシュ。帝国の反逆者にして——闇の眷属を連れ歩く背教者」
聖炎が剣から溢れた。青白い炎が刀身を覆い、柄の太陽の意匠から光が放射された。炎の熱が、十メートル離れた燐の顔を焼いた。頬の皮膚が引き攣り、唇が乾いて裂けた。鼻腔の内側が焼けるように熱く、呼吸するだけで気管の壁が灼かれるようだった。
「お前の罪は——」
振り下ろされた。
聖炎の斬撃が、弧を描いて燐に迫った。青白い炎の三日月が空気を裂き、通過した空間の酸素を一瞬で消費した。礫が蒸発し、石柱の影が炎の光に消し飛ばされた。
燐は横に飛んだ。
身体が軋んだ。太腿の筋肉が限界を訴え、膝が折れかけた。刀を地面に突き刺して体を支え、転倒だけは免れた。聖炎の斬撃が背後の石柱を直撃し、砂岩が溶解する熱が背中を舐めた。革鎧の表面が焦げる臭いが鼻腔に飛び込んできた。
速い。
あの決闘でレオンハルトの拳を受けた時とは、次元が違う速さだった。レオンハルトの攻撃は人間の身体強化の延長線上にあった。この青年の攻撃は魔法だった。純粋な魔力の放射。身体の動きではなく、炎そのものが攻撃の主体だった。
二撃目が来た。
剣が横に薙がれ、聖炎の波が地面を這うように広がった。青白い炎が灰色の礫の間を蛇のように走り、燐の足元に迫った。
「——ッ」
跳んだ。地面から足を離し、聖炎の波を飛び越えた。空中で身体が無防備になる。その瞬間を、白銀の青年は見逃さなかった。
三撃目。上段からの斬撃。聖炎の弧が真上から燐に降り注いだ。
受けるしかなかった。
刀を頭上に構えた。鮫肌巻きの柄を両手で握り、刃を斜めにして聖炎の弧の軌道を逸らす角度を取った。
聖炎と刀身が接触した。
衝撃が全身を叩いた。腕が痺れ、肩の関節が悲鳴を上げた。それ以上に熱かった。聖炎の熱が刀身を伝い、柄を通して掌に流れ込んだ。鮫肌巻きの下で、柄の木が焦げる匂いがした。掌の皮膚が灼かれ、水膨れが一瞬で膨らんだ。
弾いた。刀の角度を変え、聖炎の弧を横に逸らした。逸れた炎が荒れ地の地面に落ち、礫を溶かして小さな溶岩の水溜りを作った。
着地した。膝が折れかけたが、踏み堪えた。左手が痺れていた。掌の水膨れが破れ、透明な液が指の間を伝っている。
一撃で、これか。
三撃受けただけで、身体が限界を訴えている。消耗した状態でこの出力を受け続けることは不可能だった。あと何回受けられるか。二回か、三回か。
「燐!」
声が右から飛んだ。
レオンハルトだった。
金髪の将校が、白銀の青年の背後に回り込んでいた。右拳に治癒術式の白い光を灯し、身体強化で加速しながら、青年の背中に向けて拳を振り抜いた。
白銀の青年が振り返った。
動きに迷いはなかった。聖炎の剣を片手で翻し、背後から迫るレオンハルトの拳を剣の腹で受けた。金属と治癒術式の光がぶつかり、火花と白い閃光が同時に弾けた。
レオンハルトの身体が押された。軍靴の底が礫を削り、三歩後退した。それでも倒れなかった。膝を曲げて重心を低くし、拳を構え直している。自己再生が即座に働き、拳の表面の裂傷が閉じていく。
「お前もか」
白銀の青年がレオンハルトに向けて剣を構えた。聖炎が刀身で再び燃え上がり、蒼白い光が二人の間に満ちた。
「帝国の将校が反逆者の側に立つか。……失望した」
「側に立ったわけじゃない」
レオンハルトの声は低く、硬かった。
「俺の部下を焼いた奴を——排除するだけだ」
その言葉は半分だけ本当で、半分は建前だった。燐にはそれが分かった。レオンハルトの目が一瞬だけ燐の方を見た。青灰色の瞳に浮かんでいたのは、決闘の時と同じ光だった。
背中を預けるぞ。
そう言っているように見えた。声には出さなかった。出す必要がなかった。
燐は刀を構え直した。焼けた掌が痛みを訴えていたが、鮫肌巻きの凹凸が指の間に食い込み、滑り止めになった。レオンハルトの右斜め後方に、自然とその位置に立っていた。
背中合わせではなかった。正確に言えば、斜め後方。レオンハルトの右肩の延長線上に、燐の左肩がある。互いの死角を補い合う位置。
士官学校の夜間訓練で、無数に繰り返した隊列の配置だった。
「二名一組の対多数戦闘陣形」。教官が黒板に描いた図の通りの位置に、身体が勝手に収まっていた。言葉を交わすまでもなく。
レオンハルトの背中が、視界の左端に映った。将校軍服の生地が汗で湿り、肩甲骨の輪郭が布の下で動いている。その背中から放射される治癒術式の微かな波動が、燐の左肩の筋肉に触れた。治癒の残滓ではなかった。意図的だった。
この距離にいる限り、治癒圏内だ。
レオンハルトの治癒術式の有効範囲は、本人を中心にした半径三メートル。燐の立っている位置は二メートル半。ぎりぎり圏内。
消耗した身体に、微量の回復が流れ込んでいた。筋繊維の損傷が少しずつ修復されている。完全な回復ではない。それでも戦闘を継続できる程度には。
白銀の青年が二人を見据えた。蒼い瞳が、燐とレオンハルトの位置関係を冷静に分析している。
「反逆者と、その共犯者。まとめて浄化する」
聖炎が膨張した。
剣から溢れた青白い炎が、青年の全身を覆った。板金甲冑の表面を炎が這い、肩当ての翼の意匠が炎の中で揺れた。聖印の太陽の紋章が青白く発光し、光の線が甲冑の継ぎ目に沿って全身に走った。
空気が、燃えた。
青年の周囲三メートルの空気が、目に見える形で歪んでいた。陽炎ではなかった。酸素が燃焼して消費されているのだ。呼吸が苦しくなった。空気が薄い。高山にいるかのように、肺が十分な酸素を得られない。
青年が踏み込んだ。
板金甲冑の重量を感じさせない速度で地面を蹴った。礫が蒸発し、足跡が岩盤に焼き付けられた。聖炎を纏った剣が、水平に薙がれた。
燐とレオンハルトが同時に動いた。
燐は左に。レオンハルトは右に。聖炎の斬撃が二人の間を通過し、背後の石柱を両断した。砂岩が溶けながら崩れ、橙色の溶岩が地面に散った。
レオンハルトが右から回り込んだ。身体強化の加速で青年の側面に出て、拳を繰り出した。治癒術式の白い光を纏った右拳が、板金甲冑の脇腹を狙う。
青年が剣で拳を弾いた。金属の衝突音が荒れ地に響き、治癒術式の光が砕けて散った。レオンハルトの腕が弾かれ、体勢が崩れた。
その隙に燐が踏み込んだ。
左から。レオンハルトが弾かれて青年の注意が右に向いた瞬間、刀を横薙ぎに振り抜いた。刃が板金甲冑の腹部を狙い、聖炎と金属の間をすり抜けるように走った。
刃が甲冑に触れた。
弾かれた。
板金の表面を覆う聖炎が、刀身を弾いた。物理的な硬度ではなかった。炎そのものが障壁になっていた。刀が跳ね返され、衝撃が手首を通して肘まで走った。
通らない。
白銀の青年の蒼い瞳が、燐を見下ろした。至近距離。二メートル。聖炎の熱が顔に叩きつけられ、眉毛が焦げる匂いがした。
「脆い」
青年の声は静かだった。感情が混じっていなかった。判定だった。
剣が振り上げられた。聖炎が膨張し、刀身の幅を超えて炎の壁が広がった。
レオンハルトの拳が、青年の背中を叩いた。
背後から。弾かれた体勢を立て直したレオンハルトが、身体強化の最大出力で板金甲冑の背面を殴っていた。治癒術式の光が甲冑の表面で弾け、白と青白の光が衝突して火花を散らした。
青年の身体が、揺れた。
一歩だけ。前に。
その一歩で、剣を振り下ろす動作が遅れた。燐は後ろに跳び、斬撃の範囲から離脱した。聖炎が地面に叩きつけられ、燐が立っていた場所の礫が一瞬で蒸発した。
「——やるな」
青年がレオンハルトを振り返った。蒼い瞳に、初めて関心の色が浮かんだ。苛立ちではなかった。猟犬が予想以上に抵抗する獲物に対して見せる、あの冷たい興味。
「治癒術式で戦う将校か。珍しい」
レオンハルトは答えなかった。拳を構え直し、燐との位置関係を再調整した。右斜め前方にレオンハルト。左斜め後方に燐。青年を挟む形で、再び二方向から圧力をかける位置に収まった。
言葉は要らなかった。
燐の足が動き、レオンハルトの足が動いた。同じタイミングで。同じ呼吸で。士官学校の訓練場で千回繰り返した連携が、身体に刻まれたままだった。錆びついていると思っていた。一年半の断絶で、失われたと思っていた。足が覚えていた。レオンハルトが踏み込めば、燐が下がる。燐が踏み込めば、レオンハルトが横に回る。互いの動きを予測するのではなく、互いの動きが自分の動きの一部になっている。
白銀の青年が剣を構えた。聖炎が再び膨張し、周囲の空気を灼き始めた。
「小細工を」
聖炎が放射された。今度は斬撃ではなかった。剣を中心に、全方位に炎の波が放射された。
球状に広がる聖炎。
逃げ場がなかった。
燐は刀を正面に構え、炎の波に対して刃を立てた。防げるとは思っていなかった。少しでも威力を削ぐために。刀身の表面を聖炎が覆い、鮫肌巻きの柄が赤熱し始めた。掌が焼ける。皮膚が灼ける。
レオンハルトが燐の前に出た。
右手を突き出し、治癒術式の光を掌から放射した。通常の治癒術式ではなかった。広域展開。自分の前方に半円形の治癒の場を展開し、聖炎の波を。
相殺はできなかった。
減衰させた。治癒術式の波動が聖炎と干渉し、炎の温度が微かに下がった。致死の熱が、重度の火傷の熱に。致命的な量の炎が、耐えられる量に。
それでも熱かった。
聖炎の残滓が二人の身体を打った。燐の革鎧の表面が焦げ、左腕の袖口が燃え上がった。火を叩き消す余裕もなく、燃える袖口ごと地面に転がった。礫の上で回転し、炎を窒息させた。煙が上がり、焦げた革と布の臭いが鼻を塞いだ。
レオンハルトは片膝をついていた。将校軍服の右肩が焦げ、月桂樹の肩章が半分溶けている。自己再生が即座に働き、火傷した皮膚が修復されていく。右手の甲に走った火傷の痕が、白い光に包まれながら消えていった。
「……化け物だな」
レオンハルトの声が低く漏れた。決闘の時に燐に向けられた言葉と同じだったが、今度は敬意ではなく、純粋な脅威の評価だった。
燐は立ち上がった。左腕の袖口が焼け焦げ、その下の皮膚が赤く腫れている。火傷。治癒術式の圏内にいたおかげで最小限に抑えられたが、痛みが腕全体に広がっていた。
白銀の青年が、二人を見下ろしていた。
無傷だった。板金甲冑の表面に傷一つなく、聖炎が青年の全身を包んでいる。呼吸すら乱れていない。レオンハルトの全力の拳も、燐の刀も、甲冑の表面を覆う聖炎の障壁を突破できていない。
——勝てない。
冷静な判断が、燐の頭蓋の中で響いた。このまま戦い続けても、消耗するのはこちらだけだ。あの聖炎の障壁を突破する手段がない限り、ただ削られていくだけ。
脳内魔法式が残り一回。封印術式で聖炎を無力化できるかもしれない。しかし使えば回路が限界を超える。ここで使い切ることはできない。
白銀の青年が、剣を構え直した。蒼い瞳が燐を捉え、それからレオンハルトに移った。
荒れ地の、別の方角を見た。
灌木の茂みの向こう。カイがロリを背負ったまま伏せている場所の方角を。
燐の背筋が凍った。
見つけた。
青年の蒼い瞳が変わっていた。燐やレオンハルトを見る時のそれとは、質が違った。冷徹な戦闘の目ではなかった。もっと深い場所にある嫌悪。根源的な拒絶。聖職者が穢れを見た時の目。
「——あれが。闇の眷属か」
声が変わっていた。祈りの声でも判定の声でもなかった。確信の声だった。使命を果たそうとする者の、揺るぎない確信。
聖炎の剣が灌木の方角に向けられた。
「やめろ!」
燐の声が裂けた。
走った。消耗した身体が悲鳴を上げた。太腿の筋肉が痙攣し、膝が折れかけた。それでも止まらなかった。止まれなかった。刀を構えたまま、白銀の青年の背中に向かって走った。
遅かった。
聖炎が放たれた。青白い炎の波が、灌木の茂みに向かって射出された。カイがロリを抱え上げて跳んだ。大剣を背中に担いだまま、少女を胸に抱いて地面を転がった。灌木が一瞬で炎に包まれ、緑の枝葉が黒い灰に変わった。
炎の波は広かった。
カイの転がった先にも、聖炎が迫っていた。リディアがカイとロリの間に割り込み、端末を盾のように構えた。無駄だと分かっていても、身体が動いたのだろう。
聖炎がロリに届いた。
青白い炎の先端が、少女の身体に触れた。
カイの腕の中で、ロリが炎に包まれた。銀色の髪が炎の光に照らされ、白いローブの裾に炎が触れた。
燐の心臓が止まった。
一拍。世界が停止した。視界の端が白く飛び、音が消えた。聖炎に包まれた少女の姿が、網膜に焼きついた。
——ロリ。
声にならなかった。喉が閉じていた。肺に空気がなかった。
そして。
炎が、消えた。
消えた、というのは正確ではなかった。聖炎がロリの身体に触れた瞬間に霧散した。燃え続けるはずの青白い炎が、少女の肌に触れた瞬間に力を失い、霧のように散逸した。ローブは燃えていなかった。髪は焦げていなかった。肌には火傷の痕一つなかった。
聖炎が効いていない。
カイの腕の中で、ロリが目を開けていた。青藍の瞳が大きく見開かれ、自分の身体を見下ろしていた。炎に包まれたはずなのに何も感じなかった、という表情。痛みもなく、熱さもなく。ただ温かかっただけ。風呂の湯に浸かった時のような、穏やかな温もりが一瞬だけ全身を包んで、消えた。
白銀の青年の足が止まった。
蒼い瞳が見開かれていた。
板金甲冑の肩当ての翼が微かに震え、聖炎を纏った剣の切っ先が下がった。下がったのではなく、握る手の力が抜けたのだ。剣が傾ぎ、地面に向けて垂れ下がった。
蒼い瞳に浮かんでいたのは、理解不能。
聖炎が効かなかった。闇の眷属を浄化するはずの聖なる炎が、あの子供に触れただけで消えた。聖教の教義が定める最も強力な浄化の手段が、何の効果も示さなかった。
「……馬鹿な」
声が漏れた。
祈りの声でも、判定の声でも、確信の声でもなかった。震えていた。青年の声が初めて、震えていた。
「聖炎が——効かない——?」
一歩、後退した。
板金甲冑の踵が礫を踏み、金属が石を擦る乾いた音が荒れ地に響いた。蒼い瞳がロリの姿を凝視していた。閉じることも、逸らすこともできないように。少女の銀色の髪が、朝日の中で乱れたまま輝いていた。火傷一つない。白いローブの裾に、焦げ跡一つない。
もう一歩、後退した。
聖炎が揺らいだ。青年の全身を覆っていた青白い炎が、炎の勢いを失い始めた。心臓の鼓動に同期していたはずの脈動が乱れ、炎の端が千切れるように散っていく。
蒼い瞳の奥で、何かが罅割れていた。
燐にはその正体が分からなかった。分かるはずもなかった。しかし目の前で崩れかけているものの影は、見えた。あの青年の動作の全て。降臨の仕方。言葉の選び方。聖炎の使い方。その一つ一つに宿っていた絶対的な確信が、今、足元から崩れ始めている。
聖炎は闇を灼く。闇の眷属を浄化する。それが教義であり、真理であり、あの青年の存在の基盤だった。
その基盤に、罅が入った。
白銀の甲冑を纏った青年が、灰色の礫の上で後退していた。聖炎の剣の光が揺れ、蒼い瞳が少女を凝視したまま動けなくなっていた。
朝日が東の空を白く染めていた。荒れ地の石柱の影が短くなり、溶けた礫が橙色の光を放ちながら冷え始めている。焦げた灌木の残骸から、白い煙が細く立ち昇っていた。
その煙の向こうで、ロリがカイの腕の中から身を起こした。
少女の青藍の瞳が、白銀の青年を見つめていた。恐れはなかった。怒りもなかった。ただ、不思議そうに。自分を焼こうとした炎が消えた理由を、少女自身も分かっていなかった。
小さな右手が、自分の胸に触れた。心臓の上に。ローブの布越しに、自分の鼓動を確かめるように。
白銀の青年の蒼い瞳と、少女の青藍の瞳が交差した。
聖炎の剣が、震えていた。青年の握る手が、震えていた。板金甲冑の指関節が、金属が軋る音を立てて震えていた。




