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第3章-54話「戦う衛生兵」

 意識が溶けかけていた。


 岩壁に背中を預け、座り込んだ姿勢のまま、燐の視界の端が黒く滲んでいた。瞼の裏側で白い火花が明滅している。こめかみの奥にある炭化した回路が、決闘中の微弱な駆動の残滓に軋んでいた。鼻血を拭った右手の指が、乾きかけた血で赤黒く染まっている。鉄錆の匂いが鼻腔にこびりつき、呼吸のたびに肺の奥まで這い込んできた。


 膝の上に置いたロリの手が温かかった。少女の冷たい指が、汗と血で汚れた燐の掌を握っている。その温度だけが意識を繋ぎ止める錨になっていた。


 岩壁の上の兵士たちの影が、一つ、また一つと稜線の向こうに消えていく。レオンハルトの撤収命令。次の指令を待つ、という公式の判断。その裏にある意図を燐は理解していた。あいつは時間を稼いだ。東に抜けろ、と。


 けれど身体が動かなかった。


 太腿の筋肉が痙攣し、ふくらはぎに鈍い痛みが脈打っている。呼吸が浅く、肺が半分しか膨らまない。脇腹に残ったレオンハルトの治癒術式の余波が、横隔膜の動きを鈍らせている。両腕の筋繊維がまだ完全には回復しておらず、刀の柄を握り直す力すら危うかった。


「燐。動けるか」


 バルカスの声が、すぐ隣から聞こえた。大斧を背中に回したまま、片膝をついてこちらを見下ろしている。日焼けした顔に表情はなかったが、額に刻まれた古傷の横で、目が何かを探っていた。


「……少し、待ってくれ」


 声が掠れていた。唾を飲み込もうとしたが、口の中が乾いて舌が上顎に張りついた。砂と汗の味しかしない。


 遺跡の入り口のアーチの下で、リディアが端末の画面を睨んでいた。ゴーグルを額に押し上げ、フィールドジャケットの袖で汗を拭いながら、指先が画面の上を忙しく走っている。


「岩壁の上の通信結晶が動いてるわ。偏向障壁はまだ展開中。撤収命令が出たはずだけど——障壁を落とすまでには至っていない」


「どういうことだ」バルカスの声が低くなった。


「分からない。でも——」


 リディアの指が止まった。端末の画面の色が変わった。青から赤。警告色。


「——来るわ。新しい通信が入った。南の高台から、岩壁の上の兵に向けて。暗号化されてる。解読には時間が——」


 その言葉が終わらないうちに、盆地の空気が変わった。


 変わった、というのは比喩ではなかった。空気そのものが震えた。耳の奥で低い振動が始まった。地鳴りのような低周波が、地面から足の裏を通して全身に伝わってきた。座り込んだ姿勢の燐の臀部と背中に、岩壁の石が震える感触がじかに押し寄せた。


 ロリの指が、燐の掌の上で強く握り締められた。


「リン——」


 少女の声が震えていた。けれど恐怖の震えではなかった。何かを感じ取っている声だった。青藍の瞳が見開かれ、盆地の上空を、何もないはずの空を見つめている。


 カイが遺跡の入り口の階段で身構えた。大剣の柄に右手をかけ、包帯の巻かれた左手が鍔の下を支えている。セレスがライフルのスコープに目を当て、岩壁の上を素早く走査した。迷彩外套の裾が朝の風に揺れ、銀灰色の髪が頬に張りついている。


「岩壁の兵、動き直してる。再配置」


 セレスの声は平坦だったが、スコープから目を離した瞬間、灰色の瞳が微かに細くなった。


「上の命令が変わった」


 燐の背筋に冷たいものが走った。


 レオンハルトは撤収命令を出した。しかしその上に、別の命令が降りてきた。レオンハルトの判断を覆す、より上位の命令が。


 座り込んだ身体を持ち上げようとした。右手を岩壁に押し当て、足に力を込めた。太腿の筋肉が悲鳴を上げ、膝が震えた。立てた。けれど立っているだけで、全身の力を使い切っている。


 刀を抜く余裕があるか。分からなかった。鞘に収めた刀の重さが、腰から足元に向かって引きずり下ろすような重力になっていた。


「バルカス。密使の道の北側は——」


「三時間後に解放される。あいつが言った通りなら」


 バルカスの声が低く、硬かった。大斧を背中から下ろし、両手で柄を握り直している。


「だが三時間は持たないかもしれん。上の命令が変わったなら、北側の配置も変わる」


 燐の歯が噛み合わされた。レオンハルトが作った脱出の道が、レオンハルトの権限を超えた場所から閉じられようとしている。


 岩壁の上で、兵士たちが再び動き始めていた。稜線の向こうに消えかけていた影が戻ってきている。東の岩壁に十人以上の影が並び直し、南の高台では通信結晶を持った兵士が別の結晶を取り出して操作している。偏向障壁の結晶架台が再び光を強め、盆地の上空に薄い膜のようなものが広がりかけていた。


 盆地の反対側の岩壁の上に、レオンハルトの姿が見えた。


 金髪の短髪。将校軍服の肩章が朝日に光る。しかしその姿勢が変わっていた。さっきまでの指揮官の堂々とした立ち姿ではなく、通信結晶に向かって何かを言い返している姿だった。肩の線が強張り、右手がベルトの横で拳を握っている。


「レオンハルトが命令と揉めている」


 セレスがスコープ越しに報告した。


「兵が降りてくる」


 東の岩壁から、最初の一人が降り始めた。砂岩の段差を軍靴で踏みながら、盆地の底に向かって降下してくる。その手にはサーベルが抜き身で握られていた。


 二人目。三人目。四人目。


 南からも。西からも。


 包囲が再び締まり始めていた。


「全員、遺跡の中に入るか」カイの声が緊張で硬かった。


「入っても行き止まりよ。壁画の広間の先に通路はなかった」リディアが首を振った。


「なら——ここで迎え撃つ」バルカスが大斧を構えた。


 燐は岩壁に手をついたまま、兵士たちが降りてくるのを見ていた。


 十人。十五人。さらに増える。全方位から。レオンハルトが岩壁の上で何かを叫んでいるのが見えたが、声は届かなかった。偏向障壁が音を遮り始めている。レオンハルトの口が動いているが、言葉にならない。


 身体が、限界だった。


 脳内魔法式の残りは一回。使えば回路が限界を超える。しかし使わなければ六人全員がここで捕まる。ロリが捕まる。帝国に。帝国の手に。


 膝が折れかけた。


 右膝が内側に曲がり、赤い砂の上に落ちかけた。左手が岩壁を掻き、指先の爪が石の表面を引っ掻いた。乾いた擦過音が、耳の中で異様に大きく響いた。


「燐ッ!」


 バルカスが踏み出しかけた。しかし兵士たちの先頭が盆地の底に降り立ち、こちらに向かって歩き始めている。バルカスが背中を向ける余裕はなかった。


 視界が暗くなった。


 酸素が足りない。筋肉が震えている。指先が冷たくなっていく。掌に残っていたロリの温もりが、急速に薄れていく。


 その時。


「——リン」


 声が聞こえた。


 足元から。真下から。しゃがみ込む姿勢で、こちらを見上げている声だった。


 ロリだった。


 少女がアーチの影から前に出ていた。燐の膝の前に立ち、両手を燐の革鎧の前面に押し当てている。白いローブの裾が赤い砂で汚れ、フードが肩まで落ちて銀色の髪が朝日の中に溢れていた。


「立てますか」


 声は震えていなかった。


 燐は少女の顔を見下ろした。青藍の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。涙はなかった。唇は引き結ばれ、小さな顎の線に力が込められている。


「ロリ——中に戻れ」


 声が掠れた。声にならない声だった。


「戻りません」


 ロリの指が、革鎧の表面を握り締めた。爪が革の擦れた面に食い込んでいる。


「リンが倒れそうなのに……ロリだけ隠れているなんて、できません」


 少女の声には決意があった。恐怖を押し殺した決意ではなく、恐怖の先にある何かに手を伸ばそうとしている声だった。花畑で「戦いたい」と言った時よりも、ゴーレム戦でカイの足元にマナを送った時よりもはるかに明確な意志が、その声の底に座っていた。


「ロリにも、できることがあります」


 少女が両手を燐の革鎧から離した。そして身体を燐と兵士たちの間に割り込ませるように、一歩前に出た。


「ロリ——!」


 燐の手が伸びた。少女の肩を掴もうとした。しかし指が空を切った。消耗した腕が、少女の速さに追いつかなかった。


 ロリが盆地の赤い砂の上に立った。


 遺跡のアーチの影から、朝日の中に踏み出した。フードの落ちた銀色の髪が風に揺れ、白いローブの裾が赤い砂を擦った。小さな革靴が砂を踏む音が、燐の耳に届いた。


 兵士たちの先頭集団が足を止めた。


 二十メートル先。五人の兵士がサーベルを構えたまま、前方に突然現れた小さな影を見つめている。子供だった。銀色の髪の、子供だった。こんな場所にこんな子供が。兵士たちの動きに、一瞬の迷いが走った。


 しかし一瞬だけだった。先頭の兵士が再び歩き始めた。帝国軍の正規兵だ。命令に従うことに躊躇はない。サーベルの刃が朝日を受け、盆地の空気の中に白い光の線を引いた。


 ロリは動かなかった。


 赤い砂の上に立ったまま。両手を身体の横に垂らしたまま。兵士たちを見つめていた。


 少女の右手が、持ち上がった。


 ゆっくりと。指を開きながら。カイの足元にマナを送った時と同じ手。しかし今回は意図が違った。あの時は「支えたい」だった。今は「守りたい」だった。


 守りたい。リンを。倒れかけているリンを。後ろで大斧を構えているバルカスを。端末を握り締めているリディアを。大剣の柄に手をかけたカイを。スコープから目を離さないセレスを。


 この人たちを守りたい。


 ロリは自分の手を見つめた。開いた掌の中心に、温かさが生まれた。焚き火の残り火ではなかった。もっと奥から、胸の中心から腕を伝って指先に昇ってくる熱。じわりとした温もりではなく、鳴動するような脈拍を持った力だった。心臓の鼓動に同期して、指先の温度が上下した。


 少女は怖くなかった。


 不思議だった。ゴーレム戦の時は、自分に何が起きたか分からなかった。けれど今は何をしようとしているか分かっていた。分かっている、というより身体が覚えていた。カイの足元に風を送った時の、あの感覚。掌から外に押し出す感覚。それをもっと大きく。もっと広く。


 空気の中にマナが満ちている。


 いつもそうだった。ロリの周りには、いつも何かが漂っていた。森の中でも、砦の中でも、盆地の乾いた空気の中でも。言葉にできない何かが、少女の肌の表面を撫でるように流れていた。それが何なのか、分からなかった。けれど今は分かる気がした。空気の中に漂うものを、自分の手で集められる。集めて、外に押し出せる。


 ロリの右手が、宙に向かって開かれた。


 指先から何かが溢れた。


* * *


 燐の耳が鳴った。


 高周波の、鋭い耳鳴り。鼓膜の裏側で金属片が振動するような、硬い音だった。頭蓋骨の内側に反響し、こめかみの奥の炭化した回路が痛みを訴えた。


 同時に肌がざわついた。


 腕の産毛が逆立った。首筋に電気が走ったような痺れが這い上がり、頭皮が引き攣った。空気が変わっていた。呼吸するたびに肺に入り込む空気の質が変わっていた。濃い。乾いた盆地の空気が、突然水分を含んだかのように重くなっていた。


 けれど水分ではなかった。


 マナだ。


 燐の脳内魔法式が、起動していないのに反応した。回路が勝手に振動している。炭化した魔導神経の残骸が、外部からのマナの急激な変動に共鳴していた。痛みはあった。けれど痛み以上に驚愕があった。


 こんな密度のマナを、野外で感じたことがない。


 盆地の空気の中に、マナが凝縮されていた。地面から吹き上がるのではなく、空気そのものの中に含まれるマナの密度が跳ね上がっていた。遺跡の壁画の広間の中に立っているかのような、あの藍色の光に包まれた空間と同じ圧力が、野外の盆地に。


 ロリの立っている場所を中心にして。


 燐の目が少女の背中を捉えた。


 ロリの銀色の髪が逆立っていた。風ではなかった。下から吹き上げるものではなく、少女の身体から放射されるものに反応して、一本一本の髪が微かに浮き上がっている。白いローブの裾が揺れ、生地の表面を微かな光が走った。光と呼べるかどうかも怪しい、空気の揺らぎのような、蜃気楼のように不安定な、けれど確かにそこにある何かの放射。


 少女の右手が、宙に向かって開かれたまま震えていた。


 兵士たちが足を止めた。


 今度は一瞬ではなかった。先頭の五人が、明確に足を止めた。サーベルを構えた手が下がり、自分たちの身体に何が起きているか理解しようとする表情が浮かんでいた。一人が自分の手を見下ろした。二人目が耳を押さえた。三人目がよろめいた。


 マナの密度が急変したのだ。訓練された帝国の正規兵であっても、体内のマナが外部の急激な変動に引きずられる。平衡感覚が揺さぶられ、筋肉の制御が乱れる。まるで水中で急に水圧が変わったかのような、内側からの圧迫。


 燐の視線が岩壁の上を走った。


 レオンハルトが凍りついていた。


 岩壁の縁に立ったまま、盆地を見下ろしている。通信結晶を握った手が下がり、青灰色の瞳が見開かれていた。口が微かに開いている。将校の無表情が完全に剥がれ、素の、生身の人間の驚愕が、金髪の下の顔に刻まれていた。


 あの男が驚いている。帝国軍第3機甲魔導大隊長が、実戦で鍛え抜かれた男が足を止めるほどの何かを、感じている。


 ロリの背中が、朝日の中で光を纏っていた。


 銀色の髪が広がり、白いローブの表面を不安定な光が伝い、小さな革靴の下の赤い砂が微かに浮き上がっていた。砂粒が少女の足の周囲で旋回し、見えない力に引き寄せられるように渦を描いている。


 リディアの端末が、悲鳴のような電子音を発した。


「——マナ密度が——ロリを中心に半径三十メートル、通常の四倍……いえ、まだ上がってる——」


 リディアの声が上擦っていた。端末を両手で握り締め、画面を食い入るように見つめている。ゴーグルが額からずり落ちて鼻の上に引っかかっていたが、直す余裕もないらしい。


「何これ——野外でこんなマナ密度、あり得ない——」


 バルカスが大斧を構えたまま、ロリの背中を見ていた。日焼けした顔から血の気が引いていた。古傷の白い線が、いつもより鮮明に浮き出ている。


「……あの嬢ちゃんが、やっているのか」


 声は低かった。確認ではなく、自分の目で見ているものを言語化しようとしている声だった。


 カイが大剣の柄から手を離しかけていた。握るのを忘れたのではなかった。目の前で起きていることに、身体が反応しきれなかったのだ。


「ロリが——」


 カイの声が途切れた。言葉が見つからなかった。


 セレスだけが動いていた。スコープ越しに兵士たちの状態を確認し、ライフルの銃口をゆっくりと旋回させている。灰色の瞳は冷静だったが、銃身を支える指先が微かに震えていた。


 燐は少女の背中を見ていた。


 ロリ。


 あの小さな身体から、これほどの力が溢れている。ゴーレム戦で見せた「風のクッション」は、カイの足元を支える微細な力だった。けれど今は盆地全体のマナの密度を書き換えている。規模が違う。根本的に。


 燐の脳内魔法式が、起動していないのにデータを拾い上げていた。炭化した回路の残骸が、外部マナの変動に共鳴して情報を生成している。断片的で不安定な情報だったが、一つだけ明確に分かることがあった。


 ロリは空気中のマナの密度を「操作」している。


 マナを生成しているのではない。既に空気の中にあるマナを、自分の周囲に引き寄せ、凝縮している。密度を強制的に上げている。それは物理法則の書き換えに近い何かだった。


 けれど燐はその力の正体に名前をつけなかった。つけられなかった。


 分からないものは分からないままにしておく。今はただ目の前で起きていることだけを、見ていた。


* * *


 ロリの右手が震えていた。


 指先の温かさが、掌を越えて腕全体に広がっていた。肩まで昇り、胸の中心を通過し、背骨に沿って全身に染み渡っている。気持ちよかった。怖くなかった。身体の隅々まで温もりが行き渡る感覚は、温石を抱いて眠った夜の安堵に似ていた。


 けれど温石とは違う。温石は外からの熱だった。これは、内側からの。自分の胸の奥から湧き上がってくる、自分自身の温度だった。


 兵士たちが動けなくなっていた。


 足を止めた五人だけではなかった。後続の兵士たちも、盆地の底に降り立った瞬間から足取りが鈍っている。サーベルを握る手が重くなり、膝が微かに折れかけている者もいた。マナの急変に身体が適応できないのだ。


 ロリは兵士たちを攻撃する気はなかった。攻撃の仕方を知らなかった。ただこの場所の空気を、変えたかった。倒れかけているリンの周りの空気を。リンを捕まえに来る人たちの足を、止めたかった。


 少女の意志はそれだけだった。


「リン」


 ロリの声が、後ろに向けて投げられた。震えてはいなかった。けれど息が荒かった。指先から力が溢れ続けている感覚は、走り続けているようなものだった。息が切れる。長くは持たない。


「リン——今です」


 今、何をすべきか。少女にはそれが分かっていた。ゴーレム戦でリディアが叫んだように。バルカスが指示を出したように。戦いの中では一瞬の隙が全てを変える。ロリは戦えない。けれど隙を作ることはできる。


 燐は少女の声を聞いた。


 岩壁から背を離した。膝が震えていた。太腿の筋肉が痙攣し、ふくらはぎが引き攣っている。それでも立てた。少女の声が、枯渇した身体の底に残った最後の力を引きずり出していた。


 右手が腰の鞘に走った。


 鮫肌巻きの柄が掌に吸いついた。汗と血で湿った握りの感触が、反射的に全身の力を刀に集約させた。鞘から引き抜いた刀身が朝日の光を弾き、赤い砂の上に一筋の白い線を走らせた。


 マナの密度が上がっている。ロリが作り出したこの異常な空間の中で、燐の身体もその恩恵を受けていた。空気中のマナが濃くなったことで、枯渇しかけた体内のマナが微かに、ほんの微かに補填されている。走れるほどではなかった。けれど一撃なら。


 たった一撃なら。


 燐はロリの横を走り抜けた。少女の銀色の髪が視界の端で光を帯びて翻った。赤い砂を蹴った足が痛みを訴え、膝が軋んだ。けれど止まらなかった。


 先頭の兵士たちは動けなかった。マナの密度変動に身体が振り回されている。サーベルを構え直そうとする腕が重く、足が地面に縫いつけられたように動かない。燐は兵士たちの間を駆け抜けた。


 視線が、岩壁の上を探した。


 レオンハルト。


 金髪の将校が、岩壁の縁に立っていた。盆地を見下ろしている。青灰色の瞳が、駆けてくる燐を捉えた。


 燐はレオンハルトに向かって走っていたわけではなかった。兵士たちの包囲の隙間を、東の岩壁の低い箇所に向かって脱出路を探していた。しかしレオンハルトの視線が交差した瞬間、足が止まった。


 レオンハルトが岩壁を降り始めた。


 二度目だった。先ほどの決闘の時と同じように、砂岩の段差を軍靴の底が正確に踏んでいく。しかし今回は速かった。駆け降りている。将校軍服の裾が風を切り、真鍮のボタンが明滅した。


 盆地の底に降り立ったレオンハルトの右拳が、白い光を帯びた。


 治癒術式。身体強化。決闘の時と同じ構えだった。しかし何かが違った。光の質が違った。先ほどは拳の表面を覆うように張りついた攻撃的な光だった。今は拳全体を包み込むような、柔らかい光。


 二人の距離が十メートルに縮まった。


 レオンハルトが踏み込んだ。


 右拳が燐の胸を目がけて振り抜かれた。速い。身体強化の出力が最大だった。空気を圧縮する衝撃波が顔を叩いた。


 燐は刀を構えた。


 横薙ぎ。レオンハルトの拳の軌道を断ち切る角度で、刃を振り抜いた。刀身が拳の前を横切り、レオンハルトの軍服の胸元を浅く裂いた。


 将校軍服の布地が裂け、真鍮のボタンが一つ、赤い砂の上に転がった。


 同時にレオンハルトの拳が、燐の刀身の横をすり抜けた。掠めるように。胸の前を通過し、革鎧の表面を拳の光が撫でた。


 衝撃があった。


 けれど痛みはなかった。


 レオンハルトの拳は、燐の身体に触れていなかった。拳の周囲に展開した治癒術式の波動が、革鎧の上から燐の胸に触れた。それだけだった。拳そのものは、燐の身体から五センチの距離で止まっていた。


 わざと外した。


 燐の全身が凍りついた。


 今の一撃は当たっていなかった。当たるはずの距離で、当たるはずの角度で繰り出された拳が、最後の最後で軌道を逸らされていた。そしてその代わりに治癒術式の波動だけが、燐の胸に触れた。


 胸の筋肉が温かくなった。


 革鎧の下で治癒術式が浸透していた。決闘で蓄積した筋繊維の損傷が、修復されている。脇腹の硬直が薄れ、横隔膜が動き始めた。肺が深く膨らんだ。空気が、酸素が全身に回り始めた。


 レオンハルトは、攻撃のふりをして治している。


 燐の刀が、レオンハルトの胸元を裂いていた。将校軍服の前合わせが斜めに切れ、布地の下の白い肌が露出している。その切り傷から血が流れていた。浅いが、確実に出血している。


 深い傷に見える。将校軍服が裂け、血が流れている。岩壁の上から見れば、燐の刀がレオンハルトを斬りつけたように見える。致命傷ではないが、制圧に失敗したように見える。


 レオンハルトが膝をついた。


 片膝を赤い砂の上につき、胸元の裂傷を押さえている。自己再生を使えば一瞬で塞がる傷を使わずに。血を流したまま。


 演技だった。


 燐は理解していた。いや、理解しかけていた。何かがおかしい。最初から。この男は最初から。


 しかし確信は持てなかった。レオンハルトの意図を確定することはできなかった。ただ違和感だけがあった。鳩尾の奥に、溶けない氷のように居座る違和感。


 レオンハルトが顔を上げた。


 片膝をついたまま。胸元の血を押さえたまま。青灰色の瞳が、燐を射貫いた。


 その目に先ほどの決闘で見せた安堵はなかった。代わりにあったのは、冷静な計算だった。将校の目だった。けれどその計算の奥に、もっと深い場所に、燐にしか読めない温度があった。


「——行け」


 レオンハルトの声は、部下に聞こえない音量だった。唇の動きだけが言葉を刻んでいた。


「お前の答えは聞いた。——行け」


 燐の足が動いた。


 動かそうとしたのではなかった。身体が勝手に反応した。レオンハルトの言葉が、足の筋肉に直接指令を送ったかのように。


 振り返った。


 ロリが赤い砂の上に立っていた。右手を宙に向けたまま。銀色の髪が光を帯びて広がり、少女の周囲のマナの密度がまだ通常を超えていた。けれど揺れていた。少女の腕が微かに下がりかけている。息が荒い。額に汗が浮き、白い頬に赤みが差している。限界が近い。


 バルカスが遺跡の入り口で大斧を構えている。カイが階段に立ち、大剣を引き抜いている。セレスがライフルの銃口を兵士たちに向けている。リディアがロリの背後に立ち、少女の肩を支えようとしている。


「全員——東に抜ける」


 燐の声が、盆地に響いた。掠れてはいたが通る声だった。先ほどまでの消耗した囁きではなかった。レオンハルトの治癒が、声帯の周囲の筋肉まで修復していた。


「東の岩壁の低い箇所——南東の傾斜面から登れる。走れ」


「兵士たちは」カイが問うた。


「マナの変動で足が止まっている。今しかない」


 バルカスが大斧を背中に回した。一瞬だけ、レオンハルトの方を見た。片膝をついた金髪の将校の背中を。それから何も言わずに走り出した。


 燐はロリの元に戻った。少女の目の前にしゃがみ込み、右手を差し出した。刀を左手に持ち替え、空いた右手で少女の手を取った。


「もう止めていい」


 ロリの右手が下がった。指先の光が消えた。少女の身体が前のめりに傾き、燐の胸に倒れ込んだ。革鎧の表面に、少女の額が当たった。額が熱かった。汗に濡れた銀色の前髪が、革の上に張りついた。


 呼吸が荒い。けれど意識はある。青藍の瞳がまだ開いていた。


「リン——走れますか」


「走れる」


 嘘ではなかった。レオンハルトの治癒が効いていた。完全ではないが、走れる程度には。


 燐はロリを抱え上げた。左腕で少女の膝裏を支え、右手で刀を握ったまま走り出した。少女の体重は軽かった。けれど消耗した腕には十分に重かった。革鎧越しに少女の体温が伝わり、胸の前で心臓の鼓動が二つ重なった。


 バルカスが先行していた。大斧を構え、南東の傾斜面に向かって赤い砂を蹴り上げている。カイがその横を並走し、大剣を背に担いだまま長い脚で砂地を駆けている。セレスが後方を走りながら、ライフルの銃口を兵士たちに向けて牽制している。リディアがロリの小さな革靴を拾い上げた。片方が砂の上に脱げ落ちていたのだ。走りながらジャケットのポケットに押し込んだ。


 マナの密度が下がり始めていた。ロリが力を止めたことで、空気中のマナの凝縮が解け始めている。兵士たちの足が動き始める。時間がない。


 南東の傾斜面が近づいた。岩壁の高さが五メートルほどに下がる箇所。砂岩の段差が自然な階段状に崩れており、足場がある。バルカスが最初に取りつき、大斧を背中に固定したまま岩を登った。上で手を伸ばし、カイを引き上げた。


「燐! ロリを先に!」


 カイが上から手を伸ばした。包帯の巻かれた左手と、傷の残る右手。両方の手を、差し出していた。


 燐は刀を口に咥えた。鮫肌巻きの柄を歯で噛み、鉄と鮫肌の味が口の中に広がった。両腕でロリを持ち上げ、カイの手に渡した。少女の軽い身体がカイの太い腕に受け止められた。


「来い!」


 バルカスの手が燐の腕を掴んだ。握力が強く、前腕の皮膚が痛いほど締まった。引きずり上げられた。岩壁の上に出た瞬間、朝日が正面から顔を叩いた。目が眩んだ。


 盆地の反対側で兵士たちが動き出していた。マナの変動から回復し、サーベルを握り直している。走り始めている。けれど遅い。南東の傾斜面からの脱出に間に合うかどうか、際どい距離だった。


 セレスが最後に岩壁に取りつき、リディアの手を借りて登り切った。ライフルの銃口を一度だけ盆地に向けたが、撃たなかった。牽制だけで十分だった。


 六人が岩壁の外側に出た。


 盆地の東側。赤い砂ではなく、灰色の礫が敷き詰められた荒れ地が広がっていた。石柱が疎らに立ち、低い灌木が岩の隙間から枝を伸ばしている。朝日が東の地平線から射し込み、石柱の長い影が荒れ地の表面に縞模様を描いていた。


「密使の道は北だ。三時間後に解放される——はずだった。だが上の命令が変わっている。……走るぞ」


 燐の声は硬かった。レオンハルトの言葉を信じるなら北だ。しかし上の命令が変わった以上、北側の三人の配置もどうなっているか分からない。


「ロリ——大丈夫か」


 カイの腕の中で、ロリが小さく頷いた。顔色が白かった。額の汗が頬を伝り、顎先から雫になって落ちている。呼吸はまだ荒いが、目は開いていた。


「大丈夫……です。少し、疲れただけです」


 声は弱かったが、芯があった。


 リディアがポケットからロリの革靴を取り出し、少女の足に履かせた。小さな足首に砂がこびりついていた。リディアの指が、砂を払いながら靴の中に足を収めた。


「あとで、さっき何が起きたか教えてね」


 リディアの声は軽口のような響きだったが、端末を握る手が震えていた。


「リディアさん——ロリにも、よく分かりません」


「分からなくていいわ。今は」


 リディアがロリの銀色の髪から張りついた汗を指先で剥がした。姉が妹にするような手つきだった。


 燐は六人の先頭に立った。刀を鞘に収め、左手で鞘の位置を確かめた。腰の帯革が汗で湿り、鞘が微かにずれている。位置を直す。いつでも抜ける角度に。


 背後を振り返った。


 岩壁の向こうに、盆地の赤い砂が見えた。兵士たちがこちらに向かって走っている。けれど岩壁を越えるには時間がかかる。南東の傾斜面は燐たちが登った箇所だけが低い。他の場所は十メートル以上の高さがある。


 岩壁の向こう、東の最も高い地点に、金髪の人影が立っていた。


 レオンハルトだった。


 将校軍服の胸元が裂け、血の痕が残っている。けれど立っていた。膝はもうついていなかった。岩壁の縁に立ち、燐たちが脱出する方角を見ていた。


 その青灰色の瞳が一瞬だけ、燐と交差した。


 距離があった。五十メートル以上離れている。表情は読めなかった。けれどレオンハルトの右手が、微かに動いた。軍服のベルトの横で、人差し指と中指が二度、短く叩かれた。


 二人だけの暗号。


 「行け」。


 燐は前を向いた。


 走った。


 六人が荒れ地を東に向かって駆け始めた。石柱の影を縫い、灌木の枝を掻き分け、灰色の礫を蹴り上げながら。カイがロリを背負い直し、大剣の重みと合わせて二つの荷を負って走っている。バルカスが殿に回り、大斧を構えたまま後退していった。セレスが中間で走りながら、時折後方を振り返ってスコープで確認した。


「追ってきてる。距離は開いてる」


 セレスの報告が短く飛んだ。


 リディアが端末を走りながら操作し、方角を確認した。


「北北東に密使の道の入り口があるはず。二キロ先——」


「走れ」


 燐は走った。


 消耗した身体に、レオンハルトの治癒の残滓がまだ効いていた。完全ではない。筋肉の半分はまだ悲鳴を上げている。それでも走れた。


 カイの背中で、ロリが目を開けていた。少女の視線が燐の背中を追っていた。銀色の髪がカイの肩の上で風に揺れ、朝日を受けて白銀に光っている。


 少女の右手が、まだ温かかった。


 掌の中心に残った熱。内側から湧き上がってきた、自分自身の温度。少女はまだ、自分が何をしたのか正確には分かっていなかった。けれど一つだけ分かっていることがあった。


 助けたいと思った時に、力が出た。


 守りたいと思った時に、空気が変わった。


 それだけで、十分だった。


 六人が東の荒れ地を駆けていく。背後の盆地から、兵士たちの声が微かに聞こえていた。けれどその声は、少しずつ遠くなっていった。


 朝日が東の空を白く染めていた。荒れ地の礫が光を反射し、石柱の影が六つの走る人影の上を覆っては離れていく。


 燐が足を止めた。


 全員が止まった。燐の視線の先を追い、同じ方角を見た。


 北の空だった。


 朝日に染まった薄曇りの空の高い、高い場所。雲の切れ間の向こう側に、何かが光った。


 光、と呼ぶには鋭すぎた。輝き、と呼ぶには冷たすぎた。空の一点に、針で突いたような白銀の光点が生まれていた。星ではなかった。朝の空に星は見えない。空そのものの色が変わっていた。白銀の一点を中心に、雲が円形に押し退けられ、澄んだ空の色が露出していた。


 空気の温度が下がった。


 五月の朝の風が、一瞬だけ冬のような冷気を含んだ。燐の吐く息が白く曇った。鼻腔の粘膜が乾き、冷たい空気が気管を刺した。


「……何だ、あれは」


 カイの声が掠れた。


 セレスがスコープを空に向けた。レンズの奥に映るものを確認しようとして、スコープから目を離した。灰色の瞳が見開かれていた。セレスの口元が動いたが、言葉にはならなかった。


 リディアの端末が、再び悲鳴のような電子音を発した。


「マナ密度が——上がってる。ロリじゃない。外部から。空の上から——」


 リディアの声が途切れた。端末の画面を見つめたまま、凍りついていた。


 白銀の光点が——大きくなった。


 空の高い場所で、何かが降りてきている。降下している。雲を押し退け、空気を凍らせ、マナを圧縮しながら。


 燐の脳内魔法式の残骸が、激しく共鳴した。こめかみの奥で炭化した回路が軋み、神経に沿って鋭い痛みが走った。目を開けていられないほどの圧力。盆地のロリのマナ変動とは桁が違った。次元が違った。


 これは——何だ。


 バルカスが大斧の柄を握り直した。日焼けした手の甲に浮き出た血管が震えている。


「……ありゃ、人間か」


 白銀の光点が空の中央で止まった。雲の円形の穴の中心に輪郭が見えた。人の形をしていた。翼はなかった。けれど宙に浮いていた。白銀の光を纏い、朝日の光すら塗り潰すほどの輝度で。


 空が——割れた。


 光点から放たれた衝撃波が、雲の層を円形に吹き飛ばした。六人の頭上の空が、一瞬で晴れ渡った。澄んだ蒼穹の中央に、白銀の人影が浮かんでいた。


 ロリがカイの背中から顔を上げた。


 少女の青藍の瞳が空を見上げた。


 その瞳に映った白銀の人影を見て、少女の全身が硬直した。震えていた。恐怖ではなかった。もっと深い場所で本能が警鐘を鳴らしていた。


「リン——」


 ロリの声が、囁くように漏れた。


「あの人は——危ないです」


 六人の足元の灰色の礫が、白銀の光に照らされて影を失っていた。全方位からの光。太陽よりも近く、太陽よりも冷たい光源が、空の中央に座っていた。


 燐は刀の柄に手をかけた。


 鮫肌巻きの表面に、自分の汗が凍りかけているのを感じた。

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