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第3章-53話「鉄錆の友情」

 岩壁の上の金髪の青年が、一歩前に出た。


 朝日のシルエットの中で、その顔が見えた。レオンハルト・クレイグ。金髪の短髪。精悍な顎の線。口元は引き結ばれているが、目だけが、目だけが別の言葉を発していた。


 レオンハルトが岩壁の縁に手をかけた。真鍮のボタンが一列に並んだ将校軍服の襟元が、動作に合わせて光を弾く。月桂樹の肩章が朝日を受け、金の刺繍が一瞬だけ燃えるように輝いた。左腰にはサーベルの鞘が提げられている。けれどその手は柄にかかっていなかった。


 岩壁を降り始めた。


 砂岩の段差を、軍靴の底が正確に踏んでいく。体重を片足に移すたびに、軍服の裾が乾いた風に煽られた。高さ十メートルほどの岩壁を、ためらいなく降りていく。その動作には訓練で叩き込まれた身体操作の基礎が滲んでいた。足場を選ぶ速度が正確で、一度も手を滑らせない。


 燐は動かなかった。


 隣のバルカスが、視界の端で大斧の柄を握り直すのが分かった。けれど燐は目を逸らさなかった。降りてくるレオンハルトの顔だけを、見ていた。


 十メートルが八になり、五になり、三になった。レオンハルトが最後の段差から砂の地面に降り立った。軍靴の底が赤い砂を踏み、薄い煙のような砂塵が足元で舞い上がった。


 二人の間の距離は、およそ三十メートル。


 盆地の空気が、張り詰めていた。岩壁の上の兵士たち、二十八の影がその二人を見下ろしている。誰も動かない。誰も声を発しない。朝の風だけが石柱の間を低く唸り、赤い砂を盆地の表面で滑らせている。


 レオンハルトが歩き出した。


 真っ直ぐに。こちらに向かって。


 将校軍服の前合わせは隙なく閉じられ、真鍮のボタンが上から下まで八つ並んでいる。革のベルトが腰を締め、サーベルの鞘が左腿に沿って揺れた。肩幅の広い体躯が、軍服の布地の下で動くたびに、筋肉の輪郭を浮かび上がらせている。かつて士官学校の訓練場で見た身体よりも、一回り大きくなっていた。


 二十メートル。


 十五メートル。


 十メートル。


 レオンハルトが足を止めた。


 燐の目の前、十メートルの距離を置いて。


 至近距離で見るその顔は、記憶の中の顔と重なり、そしてずれた。骨格は変わっていない。真っ直ぐな眉と、切れ長の目と、意志の強い顎の線。しかし頬の肉が落ちていた。目の下に薄い隈が走り、口元の線が記憶よりも深く刻まれている。一年半の間に、この男の上を何が通り過ぎたのか。その痕跡が、顔に刻まれていた。


 レオンハルトの目が、燐を見た。


 青灰色の瞳。冷たくはなかった。しかし読めなかった。何かを探している目だった。確かめようとしている目。けれどその奥に、どんな感情が渦巻いているのか、燐には掴めなかった。


 沈黙が、二人の間に落ちた。


 レオンハルトの声が、その沈黙を断ち切った。


「リン・アッシュ」


 声は低く、硬かった。指揮官の声。先刻の拡声術式越しの声とは違う、生身の声だった。しかしその声には温度がなかった。意図的に、温度を消している声だった。


「帝国軍第3機甲魔導大隊長、レオンハルト・クレイグ。お前を帝国への反逆罪及び機密漏洩の容疑で拘束する」


 公式の言葉だった。命令書に記された定型句。岩壁の上の兵士たちに向けた、公式の宣言。


 しかし。


 レオンハルトの右手が、微かに動いた。


 その動きは、岩壁の上からは見えなかっただろう。右手の人差し指と中指が、軍服のベルトの横で二度、短く叩かれた。


 燐の視線が、その指に吸い寄せられた。


 知っている。この合図を。士官学校の夜間訓練で使った、二人だけの即席の暗号。言葉を交わせない状況で、互いに意思を伝えるために作った合図。


 「注意しろ」。


 合図の意味は、それだった。


 燐の喉が鳴った。乾いた唾を飲み下す音が、自分の耳の中で響いた。


 こいつは。


 レオンハルトの目を見た。青灰色の瞳が、燐を射貫いている。公式の冷徹さで塗り固められた目。けれどその目の奥に、ほんの一瞬だけ別の光が走った。士官学校の食堂で、隣の席に水筒を置きながら見せた、あの実直な光。


 消えた。光は一瞬で引っ込んだ。レオンハルトの顔が、再び帝国将校の無表情に戻った。


「武装を解除し、投降せよ。抵抗すれば——」


「レオン」


 燐の声が、レオンハルトの言葉を遮った。


 自分でも驚くほど、静かな声だった。怒りもなく、懇願もなく。ただ名前を呼んだだけだった。


 レオンハルトの口が閉じた。


 十メートルの距離を挟んで、二人の視線が交錯した。岩壁の上の兵士たちが見ている。バルカスが背後に立っている。盆地の空気が、二人の呼吸を待っている。


「……話がしたいと言っただろう」


 燐は半歩だけ前に出た。靴底が赤い砂を踏み、微かな音を立てた。


「話をしよう」


 レオンハルトの青灰色の瞳が、一瞬だけ揺れた。それから口元が引き結ばれ直した。顎の筋肉が一度だけ動き、歯を噛み合わせた音が聞こえそうだった。


「話をする前に」


 レオンハルトの声が変わった。公式の冷たさではなく、訓練場で技を仕掛ける前に発した、あの声だった。低く、落ち着いていて、けれど有無を言わせない。


「確かめたいことがある」


 レオンハルトの軍靴が一歩、前に出た。


 その瞬間——燐の全身が反応した。


 右手が腰の鞘に走った。鮫肌巻きの柄が掌に吸いついた。親指が鍔を押し、刀身が鞘から一寸だけ浮いた。金属と木が擦れる微かな音が、盆地の静寂の中に響いた。


 レオンハルトは止まらなかった。


 歩みが加速した。二歩目。三歩目。将校軍服の裾が風を切り、真鍮のボタンが朝日の中で明滅した。左腰のサーベルの鞘に手をかけなかった。


 代わりに、右の拳を握った。


 その拳が淡い光を帯びた。白く、温かみのある光。治癒術式の光だった。しかしその光が拳の表面に張りつき、筋繊維の隆起に沿って脈動している。治癒の光を、攻撃に纏わせている。


 やはりそう来るか。


 燐の刀が鞘から抜けた。


 引き抜く速度は意識したものではなかった。身体が勝手に動いた。焦げ茶の木鞘から滑り出た直刃の片刃が、朝日を一筋の白い線として弾いた。質素な円形の鍔の向こうに、レオンハルトの拳が迫っている。


 ぶつかった。


 金属と肉の衝突。刀の腹、刃ではなく平たい面で、レオンハルトの右拳を受けた。衝撃が刀身を伝い、柄を通して掌に走り、肘、肩、背骨を突き抜けた。歯が鳴った。両足が砂の上で半歩滑った。靴底が赤い砂を掻き、左右に弧を描いた。


 重い。


 記憶の中のレオンハルトよりも、遥かに重い拳だった。身体強化の出力が上がっている。士官学校時代の組み手とは比較にならない威力が、刀身の金属を通して骨格全体に響いた。


「……お前」


 燐の声は、衝撃を噛み殺した低い声だった。


「サーベルを抜かないのか」


「抜く必要がない」


 レオンハルトの声は平坦だった。けれど拳を引く動作には、一瞬の間があった。その一瞬を、燐は見逃さなかった。


 サーベルを抜けば、殺傷する意図を示すことになる。拳なら。


 拳なら、「制圧」だ。


 レオンハルトは最初から、殺す気がない。


 その確信が胸の奥で閃くのと同時に、レオンハルトの二撃目が来た。左の拳。身体強化で加速された腕が、空気を圧縮するほどの速度で振り抜かれた。拳の表面を覆う治癒術式の白い光が、軌跡を描いて残像を残す。


 燐は刀を下段に構え直し、身体を右に捌いた。左拳が頬の横を掠めた。風圧が前髪を押し上げ、頬の産毛を逆撫でした。同時に、拳から放たれた治癒術式の波動が、燐の左肩の筋肉に触れた。


 左腕が硬直した。


 筋繊維が修復されている。損傷していない筋肉を強制的に「修復」することで、筋繊維の配列を乱し、収縮機能を一時的に奪う。痛みはない。けれど左腕が言うことを聞かなくなった。肩から指先まで、力が入らない。まるで長時間正座した後の足のように、感覚はあるのに動かせない。


 こういう使い方をするのか。


 燐の背筋に冷たいものが走った。治癒術式の攻撃転用。広域治癒を接触型に収束させ、相手の筋肉を「治す」ことで無力化する。理論としては知っていた。実戦で使えるレベルに仕上げているとは。


「三秒で元に戻る」


 レオンハルトの声が、短く告げた。


 三秒。燐は歯を噛み、右手一本で刀を構え直した。左腕がぶら下がったまま、重心を右足に寄せる。赤い砂の上に残された自分の足跡が、乱れた弧を描いている。


 レオンハルトが踏み込んだ。


 右の拳。今度は上段、顔面を狙う軌道。燐は刀の鍔で拳の軌道を逸らし、半身をずらして避けた。拳が空を切り、レオンハルトの体重が前に流れた。その隙に、燐は二歩下がった。距離を取る。時間を稼ぐ。


 一秒。


 左腕の硬直が薄れ始めた。指先に微かな感覚が戻ってくる。血流が再開するような、温かい痺れ。


 二秒。


 レオンハルトが追撃しなかった。三十メートルの距離が十二メートルに縮まった地点で、足を止めていた。右拳を下ろし、左手をベルトの横に垂らしている。拳の治癒術式の光が消え、汗に濡れた指が開かれた。


 三秒。


 左腕が動いた。燐は刀を両手で握り直した。鮫肌巻きの柄に、両掌の汗が染みた。柄の表面が微かに湿り、握りの感触が変わっている。


 呼吸を整えた。鼻から吸い、口から吐く。肺の中で、盆地の乾いた空気が燃えるように熱かった。汗が額から流れ、右の眉を伝って瞼の縁に溜まった。塩辛い雫が目の端を刺し、視界が一瞬だけ滲んだ。


「レオン」


 燐は刀を構えたまま、声を投げた。


「お前は——何を確かめたい」


 レオンハルトは答えなかった。


 代わりに、再び拳を構えた。今度は両拳。身体強化の術式が全身を覆い、将校軍服の布地の下で筋肉が膨張した。ボタンの糸が軋む音が、微かに聞こえた。足元の赤い砂が、身体強化の圧力で小さな円状に押し退けられている。


 三撃目が来た。


 速かった。身体強化に加えて、自己再生が常時発動しているのだろう。筋繊維の微細な断裂をリアルタイムで修復しながら、限界を超えた出力を維持している。人体のリミッターを治癒で解除する。それがレオンハルト・クレイグの戦い方だった。


 右拳。左拳。右拳。連続三撃。


 燐は刀の腹で一撃目を弾き、二撃目を身体の軸をずらして避け、三撃目を受けた。


 刀の刃が、レオンハルトの拳に触れた。瞬間、治癒術式の白い光が刃の表面を走り、金属に沿って柄まで伝播した。鮫肌巻きの下で、柄の木が微かに軋んだ。


 燐の両腕が痺れた。


 しかし今度は硬直ではなかった。切れた。刃が拳の表面を浅く裂いている。レオンハルトの右拳の甲に、一筋の赤い線が走った。


 血が落ちた。赤い砂の上に、赤い点が一つ。


 レオンハルトは拳を見下ろさなかった。傷口から流れる血を無視して、いや、もう塞がっていた。自己再生。切られた皮膚が、見ている間に閉じていく。傷口の周囲の皮膚が微かに光を帯び、裂け目が引き絞られるように閉じた。三秒もかからなかった。


「……化け物め」


 燐の唇が、無意識に言葉を紡いだ。


 レオンハルトの口元が一瞬だけ歪んだ。笑いではない。苦みを帯びた何かが、口角に走った。


「お前に言われたくない」


 公式の冷たさが、初めて剥がれた声だった。


 燐の胸の奥で、何かが軋んだ。訓練場で組み手をした後に、同じ言葉を聞いた記憶が蘇った。「お前に言われたくない」。あの時は笑いながら言っていた。互いに地面に転がりながら、肩で息をしながら。水筒を投げ合いながら。


 けれど今は。


 二人の間に、赤い砂と朝日と、二十八人の兵士の視線がある。


 レオンハルトが、息を吸った。胸が膨らみ、将校軍服の前合わせが張った。呼吸を整える動作ではなく、何かを言おうとしている。


「一年半だ」


 レオンハルトの声は低かった。


「一年半前、お前は消えた。一言もなく。星見の塔の報告書だけが残った。部隊壊滅。作戦失敗。主犯——リン・アッシュ」


 燐は答えなかった。刀を構えたまま、レオンハルトの言葉を受け止めていた。


「報告書は嘘だと分かっていた。あの作戦の中身を知っている人間なら、お前が何をしたのか見当がつく。だが——」


 レオンハルトの声が途切れた。青灰色の瞳が、一瞬だけ揺れた。そして声を絞り出すように。


「一言くらい、言えなかったのか」


 その声に、怒りはなかった。


 あったのはもっと単純なものだった。友が消えた、という事実への、一年半分の重み。


 燐の刀を握る指が、鮫肌の上で震えた。一瞬だけ。それから握り直し、震えを殺した。


「……言えなかった」


 声が掠れていた。


「巻き込むわけにはいかなかった。お前は——帝国に残る人間だ」


「それは理由にならない」


 レオンハルトの拳が再び光を帯びた。白い治癒の光。しかし攻撃のためではなかった。自分の拳を照らすように、あるいは自分自身を治すように、光が両手の甲を包んでいた。


「お前の理由はいつもそうだ。合理的で、筋が通っていて、正しい。けれど——」


 踏み込んだ。


 四撃目。


 右の掌底が燐の胸を狙った。燐は刀の鍔で軌道を逸らそうとした。しかしレオンハルトの左手がそれを読んでいた。左手が刀身を掴んだ。治癒術式の光が刀身を包み、金属の表面に白い脈動が走った。


 刀が動かなくなった。


 レオンハルトの左手が、刀身を握ったまま固定している。刃が掌を裂いているはずだ。血が柄まで伝い、鮫肌巻きの隙間に赤い筋を作っている。それでもレオンハルトは微動だにしなかった。自己再生が、刃で裂かれた掌の傷を切られる端から修復している。


 二人の顔が、刀身一本分の距離に近づいた。


「正しい判断をしているはずなのに」


 レオンハルトの目が、至近距離から燐を見た。青灰色の瞳に、怒りでも憎しみでもなく、問いかけが渦巻いていた。


「お前の周りから、人が消えていく」


 燐の呼吸が止まった。


 心臓が一拍、跳ねた。胸の奥で鋭い痛みが走り、肋骨の裏側を引っ掻くような感覚が広がった。


 その言葉は正確だった。残酷なほどに。


 時雨の部隊員。帝国を裏切った時に切り捨てた全ての繋がり。そして今、この男の前からも、一言もなく消えた。


 燐は刀を引いた。力任せではなく、角度を変えて滑らせた。レオンハルトの掌から刀身が抜ける。血に濡れた刃が赤い砂の上に雫を落とした。鉄錆の匂いが、朝の乾いた空気に混じった。生臭いのに、どこか懐かしい匂いだった。訓練場で拳を交わした後に嗅いだ、あの匂い。


 レオンハルトの掌の傷が、目の前で塞がっていく。


 血の滲んだ皮膚が、白い光に包まれながら閉じた。五秒後には、傷の痕跡すら残っていなかった。


 燐は三歩下がった。刀を正眼に構え直す。刃に残ったレオンハルトの血が、朝日を受けて黒く光っている。


「答えろ、リン」


 レオンハルトの声が変わった。将校の声でも、旧友の声でもなかった。ただ一人の人間が、別の人間に向ける、剥き出しの問いだった。


「お前は今、何を守っている」


 風が止んだ。


 盆地の空気が凍りついた。岩壁の上の兵士たち、遠い影が微動だにしない。バルカスの呼吸が、背後で止まったのが分かった。大斧の柄を握る手が、力を込めたまま動かない。


 燐は刀を構えたまま、口を開こうとした。


 開かなかった。


 何を守っている。


 その問いに、今まで言葉を与えたことがなかった。考えたことはあった。何度も。夜の野営で、焚き火の燠火を見つめながら。朝の行軍で、少女の小さな背中を見ながら。壁画の前で、青藍の瞳が光を受けて濡れるのを見ながら。


 けれど言葉にしたことは、一度もなかった。


 言葉にしてしまえば、それは形を持つ。形を持てば、失った時の痛みも形を持つ。だから言わなかった。言わないことで、守っていた。自分自身を。


 レオンハルトが待っていた。


 構えを解かずに。拳に治癒の光を灯したまま。十メートルの距離を挟んで、答えを待っている。


 こいつは、いつもそうだった。


 思考が、一年半の壁を越えて過去に滑った。


 士官学校の夜。兵舎の共有寝室で、消灯時刻を過ぎた後のこと。レオンハルトは隣のベッドから、暗闇の中で問いかけてきた。「お前はなんで軍にいるんだ」。燐は答えなかった。答える代わりに背中を向けた。レオンハルトは追わなかった。けれど次の朝、訓練場で、何事もなかったように水筒を差し出した。その横顔は怒ってもいなければ、傷ついてもいなかった。ただ待っていた。答えが来るまで、何日でも、何ヶ月でも。


 今も、同じだ。


 十メートルの距離を挟んで。刃と拳を構えたまま。帝国兵二十八人の目の前で。この男は待っている。


 燐の口が開いた。


 声が出なかった。


 唇が乾いていた。舌で唇を湿した。赤い砂の粉が微かにざらつき、その苦さが舌に残った。喉の奥から、声を引きずり出すようにして。


「……あの子の笑顔だ」


 声は小さかった。


 だが、盆地の静寂が、その言葉を拾い上げた。赤い岩壁に反響し、石柱の間を渡り、レオンハルトの耳に届いた。


「あの子の笑顔を——守っている」


 言葉が、空気の中に残った。


 燐は自分が今、何を言ったのかを理解するのに数秒かかった。あの子。ロリ。フード付きのローブを被った少女。壁画に触れて記憶を受け取った手。石パン粥を小さな口で食べる姿。朝日を初めて見た時の、あの息を呑むような驚嘆。


 それが燐の戦う理由だった。


 帝国への復讐でもなく、一族の呪縛からの解放でもなく、真実の探究でもなく。もっと単純で、もっと原始的なもの。あの子が笑っていること。それだけが。


 レオンハルトの表情が変わった。


 変わった、というよりも崩れた。将校の無表情が、一瞬だけ、ひび割れた。青灰色の瞳が見開かれ、口元の力が抜け、顎の線が微かに震えた。


 士官学校の食堂で、燐が崖で負傷した同期を背負って戻ってきた時に見せた顔と、同じだった。驚きと、理解と、名前のつけられない何かが、全て同時に浮かんだ顔。


 レオンハルトの拳の光が、一瞬だけ揺らいだ。


 しかしすぐに戻った。表情が引き締まり、将校の顔が被さった。青灰色の瞳から感情が消え、口元が再び引き結ばれた。


 岩壁の上の兵士たちが見ている。


 燐にはそれが分かった。レオンハルトが感情を消したのではなく、覆い隠したのだと。部下の前では見せられない表情があるのだと。


「……そうか」


 レオンハルトの声は平坦だった。けれどその平坦さの下に、震えが埋まっていた。声の最後の一音が、微かに長く伸びた。それだけで燐には十分だった。


 次の瞬間、レオンハルトが動いた。


 五撃目。


 今までとは違った。身体強化の出力が跳ね上がり、軍靴が地面を蹴る衝撃で赤い砂が半径二メートルに吹き飛んだ。将校軍服の肩章が風圧でばたつき、月桂樹の金の刺繍が光の筋を残した。


 速い。


 燐は刀で受けた。衝撃が両腕を突き抜け、肩の関節が悲鳴を上げた。足が砂を掘り、後方に一メートル押された。靴底が赤い砂にのめり込み、足首まで埋まった。


 六撃目。間髪入れず。右の拳が燐の腹を狙った。


 避けきれなかった。


 刀の柄尻で逸らそうとしたが、角度が足りず、拳が革鎧の胸当ての端に触れた。治癒術式の波動が肋骨の上の筋肉に侵入した。右の脇腹の筋肉が硬直し、呼吸が詰まった。横隔膜の動きが鈍り、肺が半分しか膨らまなくなった。


 息が、できない。


 燐は膝をつきかけた。右膝が砂の表面に触れ、赤い粒が膝当ての革に食い込んだ。刀を地面に突き刺して体を支えた。刃が砂に沈み、柄が傾いだ。


 視界の端が暗くなった。酸素が足りない。脇腹の筋肉の硬直が、呼吸を奪っている。


 三秒。


 三秒で元に戻る。レオンハルトがそう言った。三秒だけ耐えろ。


 一秒。


 レオンハルトが追撃しなかった。十メートルの距離に戻り、構えたまま立っている。将校軍服の胸が激しく上下している。自己再生を含めた身体強化の連続使用で、レオンハルト自身にも負荷がかかっているのだろう。額に汗が浮き、金髪の生え際を伝って頬に流れている。


 二秒。


 脇腹の硬直が緩み始めた。横隔膜が痙攣するように動き、肺に空気が流れ込んだ。砂と汗と血の匂いが鼻腔を満たした。赤い砂の焼けた匂い。自分の汗の酸っぱさ。そしてレオンハルトの血の、鉄錆の匂い。


 三秒。


 燐は立ち上がった。刀を砂から引き抜き、構え直した。刃に砂粒が付着し、朝日の反射が鈍くなっている。


 身体が重かった。


 魔力の枯渇が、じわじわと足を引っ張っている。脳内魔法式を使わずに戦っているが、身体強化の余波を受け続けるだけで、体力が削られていく。レオンハルトは自己再生で回復しながら戦える。こちらには回復手段がない。


 ジリ貧だ。


 分かっていた。最初から分かっていた。レオンハルト・クレイグと正面から打ち合って、今の自分が勝てるはずがない。脳内魔法式を使えば、封印術式で相手の身体強化を無力化できるかもしれない。しかし残りは一回。使えば回路が限界を超える。ここで使い切るわけにはいかない。


 遺跡の入り口で、四人が待っている。ロリが待っている。「戻ってくる」と言った。約束はしなかったが、戻るつもりで来た。


 戻らなければならない。


 燐の左手が鞘に触れた。空になった鞘が腰で揺れ、革の帯が汗で湿っている。右手だけで刀を構え、切っ先をレオンハルトに向けた。


「レオン」


 声は掠れていた。けれど震えてはいなかった。


「お前の答えも聞かせろ」


 レオンハルトの動きが止まった。拳を構えたまま、青灰色の瞳が燐を捉えている。


「お前は——何のためにここにいる」


 沈黙が落ちた。


 岩壁の上の兵士たちの影が、朝日の角度が変わるにつれて短くなっている。時間が経過している。包囲が始まってからどれほど経ったか。十分か。十五分か。


 レオンハルトの唇が動いた。


「命令だ」


 短い答えだった。


 燐は目を細めた。嘘ではない。けれど全てでもない。


「命令だけで三十名を率いてここまで来たのか」


「それが軍人だ」


「お前は——」


 燐の声が低くなった。


「命令に従うだけの人間じゃなかっただろう」


 レオンハルトの顎の筋肉が動いた。歯を噛み合わせる音が、十メートルの距離を越えて聞こえそうだった。


「……変わったな」


 レオンハルトの声が、微かに揺れた。


「お前は、士官学校にいた頃は、そんなことを言わなかった」


「変わった」


 燐は認めた。


「あの子に出会って——変わった」


 その言葉は、計算ではなかった。作戦でもなく、交渉術でもなく、ただの事実だった。


 レオンハルトの目が、燐を見つめていた。


 長い間。


 十秒。二十秒。三十秒。盆地の風が二人の間を通り過ぎ、赤い砂を巻き上げた。砂粒が将校軍服の真鍮のボタンに当たり、微かな金属音を立てた。


 レオンハルトが構えを解いた。


 拳を下ろし、両腕を体の横に垂らした。身体強化の術式が薄れ、軍服の下で膨張していた筋肉が通常の輪郭に戻った。治癒の白い光が消えた。


 しかし。


「もう一度だ」


 レオンハルトの声は静かだった。


「もう一度だけ、確かめさせろ」


 踏み込んだ。


 今度は違った。


 身体強化も、治癒術式の攻撃転用もなかった。ただの素の拳。訓練場で何百回と交わした、あの組み手の拳だった。


 燐の身体が、反射で動いた。


 刀を構え——止めた。鞘に収めた。鮫肌巻きの柄から手を離し、焦げ茶の木鞘に刀身を収める金属音が響いた。


 右の拳を握った。


 レオンハルトの拳が来た。燐の右拳が迎えた。拳と拳が交差した。ぶつかり合う瞬間、互いの拳の骨が軋み、皮膚の下で衝撃が弾けた。


 痛かった。ただ、痛かった。魔法も術式も関係のない、ただの肉と骨の衝突。


 ああ。


 燐の胸の奥で、何かが震えた。


 この感触を知っている。士官学校の訓練場で、何百回と交わした感触だ。組み手の後に地面に転がりながら、肩で息をしながら、空を見上げた、あの頃の感触。


 レオンハルトの表情が見えた。


 至近距離。拳を交えた瞬間の、一瞬の表情。将校の仮面が完全に剥がれた、素の顔。青灰色の瞳に浮かんでいたのは——。


 安堵だった。


 友がまだ、友であることへの安堵。


 二人の拳が離れた。


 燐が三歩下がった。レオンハルトが二歩下がった。


 互いに肩で息をしていた。燐の右拳の皮が裂け、拳の山に血が滲んでいる。レオンハルトの右拳にも、自己再生を使わずに、同じ傷があった。血の雫が赤い砂に落ち、二人分の血痕が、朝日の中で黒い点を作った。


 バルカスが、十メートル後方に立っていた。大斧の柄を握ったまま、微動だにしていなかった。日焼けした顔に表情はなかったが、目の奥に何かを理解した光があった。古傷の走る頬の筋肉が、一度だけ微かに動いた。


 レオンハルトが右手を上げた。岩壁の上に向けて。


「撤収準備」


 声は指揮官の声に戻っていた。冷徹で、明瞭で、揺るぎない。


「対象は抵抗を続けている。制圧には追加戦力が必要と判断する。本隊に報告——次の指令を待て」


 岩壁の上で、兵士たちが動き始めた。影が動いた。通信結晶を持った兵士が、南の高台で何かを操作している。偏向障壁の結晶架台の光が、微かに揺らいだ。


 レオンハルトが燐を見た。


 十メートルの距離を挟んで。


 その目がもう一度だけ、素の光を見せた。


「時間は稼いだ」


 声は部下に聞こえない音量だった。唇の動きと、盆地の反響が拾い上げた微かな振動だけが、燐の耳に届いた。


「次は——ないかもしれない。東に抜けろ。密使の道の北は三時間後に解放される」


 言葉の意味を、燐は数秒かけて咀嚼した。


 こいつは。


 最初から。この戦いは。


 レオンハルトの背中が、振り返った。将校軍服の背中。月桂樹の肩章が朝日に光っている。真鍮のボタンが並んだ袖口から覗く手の甲に、乾きかけた血の筋が残っていた。


 その背中が、岩壁に向かって歩き始めた。


 燐は立っていた。


 刀を鞘に収めたまま。右拳の血が指の間を伝い、鮫肌巻きの柄の上に落ちている。足元の赤い砂に、二人分の血痕が朝日の中で乾きかけている。鉄錆の匂いが、盆地の乾いた空気に溶けていく。


 膝が笑っていた。


 太腿の筋肉が痙攣するように震え、立っているだけで全身の力を使っている。呼吸が浅く、速い。肺が十分に膨らまない。脇腹の筋肉にまだ硬直の残滓が残り、横隔膜の動きが鈍い。額から流れる汗が顎先に溜まり、赤い砂の上にぽたりと落ちた。


 視界の端が明滅していた。酸欠か、疲労か。朝日が盆地の中央を照らし、石柱の影が短くなっている。その光の中に立つ自分の影が、揺れていた。


「……燐」


 バルカスの声が、背後から聞こえた。


 いつもの低い声だった。けれどその声の底に、聞いたことのない温度が混じっていた。


「立てるか」


「立てている」


 燐の声は掠れていた。それでも足は止まらなかった。


 遺跡の入り口に向けて一歩を踏み出した。右拳から落ちる血の雫が、赤い砂の上に点々と続いている。


 バルカスが、何も言わずに隣を歩いた。大斧を背中に回したまま。燐が倒れたらいつでも支えられる距離に。けれど手は出さずに。


 遺跡の入り口が近づいた。石柱の間を抜け、アーチの影が頭上に差しかかった時。


 カイの大きな影が、階段の手前に立っていた。大剣の柄を握る右手の力が緩み、包帯の巻かれた左手が微かに開いた。その横で、セレスがライフルのスコープから目を離し、銀灰色の髪が風に揺れた。


 リディアが駆け寄ってきた。フィールドジャケットの裾がはためき、ゴーグルのストラップが首元で跳ねている。


「傷は——」


「大したことない」


 燐は短く答えた。声を出すのが辛かった。


 ロリが立っていた。


 遺跡の入り口の最も奥。アーチの影の中に。フード付きのローブの少女が、両手を胸の前で組み、真っ直ぐにこちらを見ていた。青藍の瞳が、朝日とアーチの影の境界で、微かに光を帯びている。


 燐は少女の前で足を止めた。


「戻ってきた」


 声は掠れていた。約束はしなかった。けれど戻ると言った。戻ってきた。


 ロリの唇が震えた。一瞬だけ。それから少女の口元が、微かに、ほんの微かに持ち上がった。泣きそうな顔の中に、小さな笑みが灯った。


「……おかえりなさい」


 その声は震えていた。けれど温かかった。


 燐の右手がロリの頭に伸びた。血に汚れた拳を開き、掌を少女の銀の髪の上にそっと載せた。汗と血と赤い砂で汚れた手。それでも少女は避けなかった。


 小さな頭の温かさが、掌を通して燐の全身に伝わった。その温度が膝の震えを止めた。


 けれど止まったのは震えだけだった。


 身体の内側で、何かが尽きかけていた。視界の端が暗くなり、肺が十分に膨らまない。右拳の傷から流れる血が、指先を赤く染めている。乾いた唇を舌で湿しても、唾液がほとんど出なかった。


 燐はロリの髪から手を離し、岩壁に背中を預けた。冷たい石の感触が、汗に濡れた革鎧を通して背中に沁みた。ゆっくりと、体を滑らせるように座り込んだ。


 目を閉じた。


 瞼の裏に、レオンハルトの表情が焼きついていた。拳を交えた瞬間の、あの安堵の表情。


 「東に抜けろ」。


 あの言葉の意味を、燐は理解していた。レオンハルトは逃がそうとしている。帝国の将校として包囲し、旧友として道を開ける。その二重の立場に引き裂かれながら。


 それでも身体が動かなかった。


 膝の上に置いた両手が、微かに震えている。右拳の傷が固まりかけた血で覆われ、鉄錆の匂いが鼻腔にこびりついていた。呼吸が浅く、意識の端が溶けるように暗くなっていく。


 「あの子の笑顔だ」。


 自分が言った言葉が、頭の中で反響していた。初めて言葉にした。初めて誰かに伝えた。


 ロリの小さな手が、燐の膝の上の手に重ねられた。冷たい指先。けれど握る力は、強かった。


 燐はその手の温度を感じながら、盆地の空を見上げた。薄曇りの空に朝日が滲み、岩壁の赤が空の灰色に溶けている。岩壁の上の兵士たちの影が一つ、また一つと、稜線の向こうに消えていく。


 レオンハルトの背中は、もう見えなかった。

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