第3章-51話「包囲網」
密使の道の空気が変わっていた。
赤い岩壁に挟まれた裂け目を北に走る六人の足音が、石の壁に跳ね返り、幾重にも重なって戻ってくる。行きに通った時と同じ道だ。同じ幅、同じ高さ、同じ乾いた岩の匂い。けれど空気の質が違う。
燐の鼻腔が、それを捉えていた。
赤い砂塵と、灼けた石と、何千年もの乾燥が凝縮された匂い。その中に、別の匂いが混じっている。油だ。金属の防錆油。鍛冶場の煤に似た、鉄と獣脂の混合臭。この匂いは、岩壁の裂け目には存在しないものだった。
「止まれ」
燐の声が低く、短かった。右手が無意識に腰の鞘に伸び、焦げ茶の木鞘の表面を指先が撫でた。鮫肌巻きの柄が掌に馴染む位置を確かめる。抜かない。まだ抜く局面ではない。
六人の足が止まる。密使の道の幅は人ひとりがやっと通れる程度で、前後に縦一列に並ぶしかない。先頭の燐、二番目にロリ、三番目にリディア。後方をバルカス、カイ、セレスが固めている。
前方、北の出口まであと百メートルほどの地点だった。裂け目の先に薄曇りの空が覗いている。しかしその出口の手前で、光の帯が揺れていた。人の影ではない。反射光だ。金属の。
「セレス」
「見えている」
セレスの声が背後から飛んだ。ロングバレルの黒い銃身を岩壁の隙間に差し入れ、木製ストックを肩に押し当てている。スコープのレンズが裂け目の先の薄明を拾い、淡い円を灰色の目の周囲に落としていた。
「出口の手前、岩棚の上。三名。武装あり。紋章は——帝国鷲」
燐の歯が噛み合った。
帝国。東の丘陵にいた人影。あれは偵察だった。その間に、本隊が密使の道の出口を押さえた。
「南はどうだ」
バルカスの声だった。振り返らずに、後方に向けた問い。密使の道には南北に二つの出口がある。南はポルタ・ルイナの盆地に繋がる入り口。北は荒野に抜ける出口。今、北が塞がれた。
「確認する。全員、そのまま動くな」
燐は身体を反転させた。革鎧の胸当てが岩壁に擦れ、乾いた音を立てた。使い込まれた革の表面には、旅路で刻まれた傷跡がいくつも走っている。ロリの肩に一瞬だけ手を置き、少女が顔を上げる前に離し、縦列の間をすり抜けて南に走った。
密使の道を戻る足音が、自分のものだけになる。岩壁が頭上で狭まり、空が細い線になっている。赤い石の表面に、朝の光が斜めに差し込んで、裂け目の底に薄い影を落としていた。岩肌は乾いた砂岩で、手を触れると表面が微かに崩れ、赤い粉が指に残った。
南の出口が見えた。赤い岩壁の切れ目から、盆地の乾いた空気が流れ込んでいる。
燐は出口の手前で足を止めた。岩壁に背中を押しつけ、身体を横にして、裂け目の縁から盆地を覗いた。革鎧の背が冷たい岩に当たり、その冷気が背筋を伝って首筋に抜けた。
人影が見えた。
盆地の東の岩壁の上。稜線に沿って、等間隔に。
燐は目を細めた。数える。三、五、七。東の岩壁だけで七つ。視線を南に移す。盆地の南端、石柱群の向こうにも人影がある。四、五、六。そして西。岩壁の影に溶け込むように、さらに数名。
包囲されている。
燐は密使の道の中に身体を戻した。岩壁の冷たさが革鎧を通して背中から沁みた。朝の気温はまだ低く、石の表面に夜の冷気が残っている。
考えろ。
北の出口に三名。南の盆地に二十名以上。合計三十名前後。東の丘陵にいた五名の偵察隊は、おそらくその先遣だった。本隊がこの短時間で展開したということは、作戦行動だ。偶発的な遭遇ではない。最初からこの場所を知っていた。
脳内魔法式を最低出力で起動した。こめかみの奥で、微かな熱が灯る。探査範囲を絞り、密使の道の北の出口周辺だけを走査する。三名の気配。マナの残滓はない。魔導師はいない。少なくとも、出口付近には。しかし盆地の方角からは、複数のマナ反応が微かに感じ取れた。魔導結晶式の装備だ。通信器か、偏向障壁か。
脳内魔法式を落とした。起動から走査、停止まで四秒。負荷は最小限に抑えたが、こめかみの奥に残った熱が、昨日のゴーレム戦の残滓と重なった。あと一回。それが限度だ。次を使えば。
考えるな。今は動け。
燐は密使の道を北に走った。
* * *
仲間のところに戻った時、五人は燐が残した位置から微動だにしていなかった。
バルカスが大斧の柄を右手で握ったまま、燐の顔を見た。使い込まれた柄は、男の掌に合わせて表面が磨り減り、握った跡が黒く染みついている。一言も発さずに、状況を読み取ろうとしている目だった。
「南も塞がれている。盆地に二十以上。東、南、西の岩壁上に展開。重装備。帝国の正規軍だ」
燐の報告は簡潔だった。密使の道の狭い空間に、六人分の呼吸音が重なっている。
カイの左手が大剣の革巻きの柄を握りしめた。包帯が巻かれた掌、ゴーレム戦で皮がめくれた傷を覆う白い布が、力を込めた拍子に赤く滲んだ。
「逃げ場は」
「ない」
燐は即答した。嘘をつく余裕はなかった。
「密使の道は南北を塞がれた。盆地は包囲されている。遺跡の地下に戻れば時間は稼げるが、出口はここだけだ。籠城しても干上がる」
リディアがフィールドジャケットの胸ポケットから端末を引き出した。無骨な筐体の画面が起動し、その光が密使の道の赤い岩壁を微かに照らしている。指先が画面を滑り、通信状況を確認している。
「通信は? 砦に連絡取れる?」
「この岩壁に囲まれた場所からじゃ無理ね。盆地に出れば通信結晶が使えるかもしれないけど……盆地に出た瞬間に射線が通る」
リディアは自分で答えて、自分で唇を噛んだ。端末を握る指先が、微かに震えていた。首から下げたゴーグルのストラップを、もう片方の手が無意識に締めている。
セレスがスコープから目を離し、燐の方を見た。銀灰色の髪が後ろで一つに束ねられ、迷彩外套の襟に押し込まれている。
「北の三名。排除すれば突破は可能」
「三名だけなら、な。だが北の出口を抜けた先に、後続がいない保証がない。三十名を動かせる指揮系統があるなら、退路にも伏兵を置いている」
セレスは無言で頷いた。淡いグレーの目が、状況を数字に変換している。六対三十。弾薬の残数。地形。射線。その全てが、不利を示していた。
ロリが燐の袖を握っていた。フード付きのローブの袖口から覗く小さな指が、布地を通して燐の手首に触れている。ローブの袖は少女の腕に対して長すぎ、指先を半分隠している。白い生地の裾には、盆地の赤い砂が染みのように広がっていた。指先が冷たかった。
「リン」
少女の声は小さかったが、震えてはいなかった。
「あの人たちは、何をしたいのですか」
燐は少女の顔を見下ろした。フードの影から覗く青藍の瞳が、密使の道に差し込む細い光の中で、淡く光っている。壁画の記憶を受け取ったばかりの目。その目が今、別の現実を見つめている。
「俺を捕まえたいんだろう。帝国を裏切った人間だ」
「リンだけ、ですか」
「ああ。お前たちは——」
燐は言葉を切った。お前たちは巻き込まれただけだ。そう言いかけて、止めた。嘘ではない。けれど今この状況で、その言葉は何の意味もなかった。
「今は全員で動く。散れば各個撃破される」
バルカスが頷いた。
「盆地に戻るしかない。ここでは身動きが取れん。盆地なら遺跡の入り口がある。地下に退けば防衛線を引ける」
「遺跡に立て籠もるのか」バルカスの提案に、燐が問い返した。
「時間を稼ぐ。状況を見極めてから動く」
バルカスの判断は軍人のものだった。不利な状況で最優先すべきは情報だ。敵の意図、兵力の配置、指揮官の性格。それを掴むまでは動かない。
燐は数秒だけ目を閉じた。密使の道の岩壁を吹き抜ける風が、頬の産毛を撫でていった。乾いた風に、まだ防錆油の残り香が混じっている。
「盆地に戻る。遺跡の入り口を確保しろ。カイとセレスが先行。バルカス、殿を頼む」
六人が動き出した。
* * *
盆地に出た瞬間、空気が変わった。
密使の道の裂け目を抜けると、周囲を赤い岩壁に囲まれた直径三百メートルの盆地が広がっている。岩壁は砂岩の断層が幾重にも折り重なった構造で、表面に朝の斜光が当たると、赤褐色と灰白色の縞模様が浮き上がる。十数本の石柱が朝靄の名残の中に立ち並んでいる。風化で角が丸まった石柱の一本一本が五メートル近い高さまで伸び、長い影を砂の上に落としている。その向こうに遺跡の入り口が見えた。地下へ降りる階段。三日月の紋章が頂点に載ったアーチが、赤い岩壁に刻まれている。
岩壁の上に、人影があった。
東。南。西。三方向の稜線に、等間隔で兵士の影が並んでいる。朝日が盆地の東の岩壁の上から差し込み始めていた。逆光のシルエットが岩壁の上に黒い点として刻まれ、遠すぎて装備の詳細は見えないが、銃身の反射光が時折きらめく。
カイとセレスが先行して遺跡の入り口まで駆けた。カイが背中の背負い紐から大剣を引き抜いた。全長百五十センチを超える黒鉄の両刃が、乾いた風を切って低く鳴った。片膝をついて階段の手前に構え、幅広の刃を盾のように前方に向けて周囲を警戒する。セレスが階段の脇の岩陰に伏せ、ライフルの黒い銃身を岩壁の上に向けた。木製ストックの端が肩の迷彩外套に食い込んでいる。
燐はロリの手を引いて走った。少女のローブの裾が足元で翻り、赤い砂を巻き上げる。小さな革靴が石柱の間を駆け抜け、乾いた音を立てた。リディアがその後ろを走り、フィールドジャケットのポケットの端末が足の動きに合わせて揺れている。最後尾をバルカスが大斧を右肩に担いだまま走っている。斧の刃が鈍い光を放ち、柄の太さが男の肩幅とほぼ同じだった。
遺跡の入り口に辿り着いた。六人が階段の手前の窪みに身を寄せる。アーチの影が六人の頭上に落ちていた。
「セレス。敵の配置を報告しろ」
セレスがスコープを覗いたまま、声だけを返した。ライフルのロングバレルが岩陰から僅かに突き出ている。
「東の岩壁に十二。南に八。西に六。北は出口に三。合計二十九。重装備。偏向障壁の結晶架台、東に二基。通信結晶持ちが南の高台に一。……指揮官らしいのが、東の最高地点」
「見えるか」
「距離約二百メートル。金髪。短髪。将校の肩章。月桂樹の——」
セレスの声が止まった。
スコープから目を離し、燐の方を見た。灰色の目に、珍しく感情の色が浮いていた。
「少佐の肩章だ」
燐は答えなかった。
少佐。第3機甲魔導大隊長。金髪短髪。月桂樹の肩章。
まさか。
思考が走るより先に、身体が反応していた。右手が腰の鞘に伸び、焦げ茶の木鞘の上で指が刀の柄を掴んだ。黒い鮫肌巻きの感触が掌に食い込む。歯が噛み合い、肩の筋肉が硬直した。
その時だった。
声が聞こえた。
岩壁に反響し、盆地全体に響き渡る声。拡声の術式を使っているのだろう。遠くから発された声が、不自然なほど明瞭に、赤い岩壁に囲まれた盆地の空気を震わせた。
「——出てこい、リン・アッシュ」
燐の身体が凍った。
指先の感覚が消えた。刀の柄を握っている手の力が、一瞬だけ抜けた。背中から首筋にかけて、冷たいものが一本の線になって走り抜けた。
この声を、知っている。
何百回と聞いた声だ。訓練場で、食堂で、夜の兵舎で。組み手の後に水筒を投げてよこしながら、「お前は強い」と笑った声。崖から引き上げてもらった後に、「合理的だろう」と口元だけで笑い返した声。
声が続いた。
「帝国軍第3機甲魔導大隊長、レオンハルト・クレイグだ。お前たちは包囲されている。武装を解除して投降すれば、命は保証する」
岩壁に反響する声は、軍人の声だった。指揮官の声だった。命令に慣れた声。部下に向けるのと同じ、明瞭で、揺るぎのない声。
しかし次の言葉で、声の質が変わった。
「……いや、我が友よ」
反響が消えるまでの数秒、盆地が静まり返った。
拡声の術式が落とされたのか、声量が下がった。けれど岩壁に囲まれた盆地の反響が、その声を拾い上げ、増幅し、燐の耳に届けた。
「話がしたい。出てきてくれ」
声が途切れた。
盆地の静寂が戻った。朝の風が石柱の間を吹き抜け、赤い砂を微かに巻き上げている。砂粒が石柱の表面を叩き、乾いた音を連ねた。
燐は動けなかった。
右手は刀の柄を握ったままだった。けれど力が入っていない。握っているのではなく、縋りついている。指の関節が白くなり、鮫肌の粒が掌に痕をつけている。
「燐殿」
カイの声が、すぐ近くから聞こえた。けれど遠かった。分厚い壁の向こうから呼ばれているように聞こえた。大剣を片膝の横に立て、黒鉄の刃に自分の影を映したまま、カイが燐を見上げていた。
「あの声——知っている方ですか」
燐の唇が開いた。乾いていた。舌で唇を湿すと、赤い砂の粉が微かにざらついた。
「……ああ」
一語だけだった。
バルカスが燐の横顔を見ていた。大斧を右肩に載せ、岩壁にもたれた姿勢のまま、一言も発さなかった。斧の刃、使い込まれた鉄に細かな刃こぼれが幾筋も走っている刃が、朝日を受けて鈍い銀色に光っている。けれどバルカスの目が、いつもと違う光を帯びていた。燐を値踏みする目でも、監視する目でもなかった。何かを確かめようとしている目だった。
「知り合いか」
バルカスの声は平坦だった。問い詰める響きはない。ただ事実を確認する声。
「士官学校の同期だ」
「友か」
燐の口が開きかけ、閉じた。
友。その言葉が正確かどうか、燐には分からなかった。命を救った相手。命を救われた相手。訓練場で拳を交わし、夜の兵舎で術式の原理を語り合い、食堂で隣に座った相手。友と呼べるのか。一年以上前に帝国を裏切った時、一言も告げずに消えた相手を。
「……かつては」
それ以上は言えなかった。
リディアが燐の表情を見ていた。端末をジャケットのポケットに戻し、ポニーテールが風に揺れている。
「レオンハルト・クレイグ。第3機甲魔導大隊長。帝国でも精鋭中の精鋭よ。『戦う衛生兵』……治癒と格闘を両立する珍しいタイプ。将校名簿の情報だけでも、相当な実力者ね」
リディアの声は情報提供の調子だった。けれどその声の下に、緊張が隠れていた。帝国からの亡命者であるリディアにとって、帝国軍の精鋭が目の前にいるという事実は、別の重みを持っていた。
「三十名の精鋭に、指揮官が少佐。大隊の一部を割いてきたわね。これだけの戦力を送り込んでくるってことは……最初からこの場所を把握してた。偵察じゃない。確保作戦よ」
「ポルタ・ルイナの位置を知っていたのか」
「帝国の偵察報告にこの盆地が載ってても不思議じゃないわ。鉄門峡の南西方面は帝国の作戦行動域よ」
燐は頷いた。五名前後の移動痕。ポルタ・ルイナ付近。偵察報告からここに辿り着いたのだろう。
お前は優秀だったな、レオン。
思考が、一瞬だけ過去に滑った。すぐに引き戻した。
「状況を整理する」
燐は岩壁にもたれたまま、五人の顔を順に見た。カイ。セレス。リディア。バルカス。そしてロリ。
「敵は二十九名。重装備。偏向障壁あり。指揮官は帝国の正規少佐。俺を知っている……個人的に。投降を呼びかけている以上、すぐには撃ってこない。だが応じなければ、最後は実力行使だ」
燐は自分の右手を見た。刀の柄を握ったままの手。鮫肌巻きの目に沿って、赤い砂が入り込んでいる。
「こちらは六名。俺の脳内魔法式は残り一回。セレスの貫通弾はゼロ。カイの左手も完治していない。遺跡に籠もっても、水と食料に限界がある」
数字を並べた。感情を挟まなかった。しかし数字が語る結論は明白だった。
六対二十九。脱出は不可能に近い。
沈黙が落ちた。
朝の風が石柱の間を吹き抜けていく。岩壁の上の兵士たちの影が、微動だにしない。包囲網は静かだった。急がない包囲だった。逃げ場がないことを知っている者の余裕が、その静けさの中にあった。
ロリが、燐の手を握った。
右手。刀の柄の上に重ねるように、小さな手が置かれた。ローブの袖口から覗く白い指先は冷たかった。けれど握る力は強かった。
「リン」
少女の声が、盆地の静寂の中に落ちた。
「あの声の人は、リンの大切な人ですか」
燐の喉が鳴った。飲み込んだものが何だったのか、自分でも分からなかった。
「……昔の話だ」
「昔の大切な人が、今、リンを捕まえに来ているのですか」
ロリの問いは残酷なほど正確だった。核心を突く直感。それが、この少女の持つものだった。嘘を見抜き、本質を掴み取る。壁画に触れて記憶を受け取った手と同じ手が、今、燐の手の上にある。
「ああ。そうだ」
「それは……とても悲しいことです」
ロリの青藍の瞳が、燐を見上げていた。フードが後ろにずれ、銀の髪が朝の光の中で白く浮いている。壁画の光の余韻はもう消えている。今そこにあるのは、目の前の現実だけを見ている少女の目だった。
燐は少女の手に、一瞬だけ力を込めた。それから、手を離した。
「全員、聞いてくれ」
燐は岩壁から背中を離し、立ち上がった。革鎧の裾が岩肌に引っかかり、微かに擦れる音を立てた。
「俺が出る」
五人の視線が、燐に集まった。
「レオンハルトは俺を名指しで呼んだ。帝国が欲しいのは俺だ。お前たちは関係ない……少なくとも、あいつの目にはそう映っているはずだ。俺が出て行けば、交渉の余地がある」
「交渉?」リディアが眉を上げた。「三十人の武装兵の前に一人で出ていくのを『交渉』と呼ぶの?」
「レオンハルトは話がしたいと言った。あいつは……出てきた瞬間に撃つような奴じゃない」
「それは少佐殿の判断でしょ。部下が従うとは限らない。命令書に何て書いてあるか分からないのよ」
リディアの指摘は正しかった。燐はレオンハルトの人柄を知っている。しかし命令書の内容は知らない。
「リディアの言う通りだ。保証はない。だが——」
燐は盆地を見渡した。岩壁の上の影。石柱の群れ。遺跡の入り口。ここに六人で籠もっていても、事態は悪化するだけだ。
「このまま黙っていれば、向こうが動く。三十名で遺跡に突入されたら勝ち目はない。時間が経つほど、先に動かれる。動くならこちらからだ」
「一人で、か」
バルカスの声だった。
大斧を持ったまま、岩壁にもたれている。斧の柄を握る右手が、太い指の間に古い血の痕が染みついた節くれだった手が、微かに力を込めた。その姿勢は変わっていない。けれど声の響きが、いつもと違った。問い詰めるのでもなく、制止するのでもない。確認するような声だった。
「お前たちは遺跡の中で待て。俺が交渉する。時間を稼ぐ。その間にセレスは北の出口を確認しろ。三名を排除できるなら、全員で北に抜ける」
「それは——」
カイが口を開きかけた。大剣の革巻きの柄を握る右手が震えている。言葉を探している目だった。言うべきことがあるのに、言葉が見つからない。
「燐殿が一人で出たら……戻ってこないかもしれない。そうですよね」
カイの声は、率直だった。不器用なほどに。
燐は答えなかった。答える代わりに、カイの顔を見た。大柄な青年の目に、恐怖はなかった。仲間を失うことへの怒りがあった。
「リン」
ロリの声が響いた。
少女が燐の前に立っていた。いつの間に動いたのか。小さな身体が、燐の行く手を遮るように、遺跡の入り口と盆地の間に立っている。ローブの裾が朝風に翻り、赤い砂で染まった布地がはためいた。
青藍の瞳が、真っ直ぐに燐を見上げていた。
「行かないでください」
声は震えていなかった。命令でもなく、懇願でもなかった。ただ、真っ直ぐな意志が少女の全身から、言葉になって立ち上がっていた。
「リンがいなくなったら、ロリは——」
言葉が途切れた。少女の唇が震えた。一瞬だけ。それから、唇を引き結んだ。涙は流さなかった。両手が体の前でローブの布を握りしめている。袖に隠れた指先が、白い生地を引き絞っていた。
「ロリはまだ、リンに返せていないものがあります」
燐の足が止まった。
返せていないもの。それが何を指すのか、燐には分からなかった。温石か。毛布か。森で差し出した手か。「よくやった」の言葉か。あるいは壁画の前で言った「お前にしかできないことがある」という、あの言葉への答えか。
分からなかった。それでも少女の目が、燐の足を止めた。
「戻ってくる」
燐の声は低かった。
「必ず戻る。約束はしない。だが……戻るつもりで行く」
ロリの目が揺れた。約束しないと言った男の言葉を、少女はそのまま受け取った。嘘をつかなかったことを、信じるかのように。
ロリの手が、燐の袖から離れた。
「……待っています」
小さな声だった。けれどその声には、壁画に触れた時と同じ覚悟があった。
燐はロリの銀の髪に手を伸ばしかけ、止めた。代わりに、少女の肩に手を置いた。ローブ越しに伝わる体温は、指先が冷たかった割に温かかった。軽く。ほんの一瞬だけ。
「リディア。ロリを頼む」
「任せなさい」
リディアの声は軽かったが、目は笑っていなかった。フィールドジャケットの襟を立て、腰のベルトに手をかけている。
「カイ。セレス。遺跡の入り口を固めろ。誰が来ても、中には入れるな」
「了解です」
カイが大剣を構え直した。黒鉄の刃面に朝日が走り、一瞬だけ白い光が散った。セレスが無言で頷き、ライフルの位置を微調整した。スコープのレンズが小さく回転し、焦点距離を変えている。
燐は盆地の方に向き直った。赤い岩壁に囲まれた盆地。石柱の群れ。その向こうに、帝国兵の包囲線。
一歩を踏み出そうとした。
「待て」
バルカスの声が、背中から飛んだ。
燐が振り返った。
バルカスが岩壁から背中を離し、立ち上がっていた。大斧を右肩から降ろし、左手で柄の中ほどを握り直している。斧の刃が体の前で一度だけ揺れ、重心が定まった。左手で腰のベルトを締め直す。その動作が出発前の兵士の動作だった。
「一人で死にに行くな」
バルカスの声は低かった。感情を殺した声ではなかった。感情を押し込めるのを止めた声だった。
「軍曹」
「交渉すると言うなら、しろ。だが——」
バルカスが一歩、踏み出した。大斧の柄が太い指の間で僅かに回り、握りの角度が変わった。
「背中は俺が見る」
燐の口が開きかけ、閉じた。
バルカスの目を見た。日焼けした顔。古傷の走る頬。軍人の目。けれどその奥に、今まで見たことのないものがあった。
ここまで、バルカスは燐を監視していた。任務対象の護衛を命じられた軍人として、燐の行動を見張り、ロリの安全を確保し、パーティの生存を管理していた。信頼ではなかった。管理だった。必要だから組んでいる。それ以上でも以下でもないはずだった。
しかし今、バルカスは言った。背中は俺が見る、と。
それは管理者の言葉ではなかった。背中を預ける。それは戦友にしか言わない言葉だった。
「……来るのか」
「来るに決まっているだろう」
バルカスの声に、苛立ちが混じっていた。不器用な苛立ち。自分がなぜそう言ったのか、自分でも掴みきれていない。そういう種類の苛立ちだった。
「お前一人で出て撃たれたら、部下二人と民間人三人が残る。指揮官が死んだ後の交渉など成立しない。俺がいれば、最悪でも時間は稼げる」
合理的な理由を並べている。けれど燐は知っていた。合理的な理由は後から組み立てたものだ。最初にあったのは「一人で行かせるな」という、ただそれだけの衝動だったことを。
燐の唇が、微かに緩んだ。士官学校以来の、あの目元は変わらないのに口元だけが動く、ほとんど気づかれない笑みだった。
「……合理的だな」
「当然だ」
バルカスは目を逸らした。大斧の位置を直すふりをして、視線を盆地の方に投げた。
カイが何か言いかけたが、バルカスの目を見て口を閉じた。上官の決定だった。カイはそれを受け入れた。大剣の革巻きの柄を握り直し、遺跡の入り口で姿勢を正した。包帯の巻かれた左手が、柄の上で強く締まった。
セレスがバルカスの背中を見ていた。灰色の目が、微かに細くなった。それがセレスなりの肯定だった。
リディアがロリの肩に手を置いた。少女は二人の背中を見つめていた。青藍の瞳に、何かが溢れかけて、堪えた。唇を噛んで、堪えた。ローブの袖の中で、見えない拳を握りしめていた。
* * *
燐とバルカスが、遺跡の入り口から盆地に出た。
石柱の間を歩いた。足元の赤い砂が、二人分の足跡を刻んでいく。砂は乾燥して細かく、踏むたびに薄い煙のように舞い上がった。朝日が盆地の東の岩壁の上から差し込み始めていた。斜めの光が石柱に長い影を落とし、赤い砂の上に縞模様を描いている。石柱の影の角度が、太陽が稜線に近い低さにあることを示していた。影は石柱の三倍以上の長さで盆地を横切り、二人の足元まで届いている。
風が止んでいた。盆地の空気が、奇妙なほど静かだった。岩壁の上の兵士たちの装備が時折金属音を立てる以外、何も聞こえない。
燐は刀を鞘に収めていた。焦げ茶の木鞘が腰で微かに揺れている。柄に手はかけていない。バルカスも大斧を背中に回し、両手を空けている。斧の刃が背中で朝日を弾き、影の中に銀の一閃を落とした。武装解除はしていない。それでも即座に攻撃する意図がないことを示す姿勢だった。
盆地の中央まで歩いた。石柱の群れを抜け、遺跡の入り口から約百メートル。足元の砂が、ここでは風に吹き寄せられて薄い畝を作っている。靴底に砂の硬い層の感触があった。ここからなら、岩壁の上に立つ人影が明確に見える。
東の岩壁の最高地点に、人が立っていた。
朝日を背にしたシルエット。逆光の中に、輪郭だけが浮かび上がっている。金色の髪が、朝の光を受けて燃えるように輝いていた。将校の軍服。月桂樹の肩章。真鍮のボタンが一列に並んだ襟元が、光の角度が変わるたびにちらちらと瞬く。その下に、整った顔立ちが光の中から浮かび上がった。
精悍な顔。真っ直ぐな目。口元に、かつて殴り合った後に見せていた、あの実直な。
燐の喉が詰まった。
視界の端が滲んだ。涙ではない。朝日が眩しかっただけだ。岩壁の上から差し込む光が、目に痛かった。
バルカスが隣に立っていた。大斧を背負った傭兵の影が、燐の影と並んで赤い砂の上に伸びている。二つの影が、石柱の影と交差しながら西に長く伸びていた。
燐は口を開いた。
乾いた唇が、名前を形作った。
「——レオン」
声は小さかった。盆地の静寂に吸い込まれ、岩壁に反響し、返ってきた。自分の声が自分の耳に届く頃には、その名前はもう、ただの音ではなくなっていた。
岩壁の上の金髪の青年が、一歩前に出た。
朝日のシルエットの中で、その顔が見えた。




