第3章-50話「砦の暗号、最後の夜」
風が止んだ夜だった。
砦の東壁に立つと、荒野の向こうに広がる暗闇が、いつもと違う重さを持っていることが分かる。普段は感じない――空気そのものが膨らんでいるような、目に見えない圧力。
ゲルトは壁の縁に両手を置いた。日中の陽射しの残滓が石に篭もっている。掌で感じるその微かな温もりが、なぜか今夜は心許なかった。
「副指揮官殿」
背後からトーマスの声がした。階段を駆け上がってきたのだろう、息がわずかに乱れている。
「通信室からです。帝国の通信量が——急増しています」
ゲルトは壁から手を離した。
振り返る前に、一つだけ深く息を吸い込んだ。石と埃と、微かに鉄錆の混じった荒野の夜気。この匂いも、あと三日で火薬の煙に塗り潰されるかもしれない。
「数字は」
「過去六時間で通常の四倍。しかも、暗号パターンが変わりました。ヴォルフが詳細を纏めています」
四倍。
ゲルトの奥歯が、無意識に噛み合った。
* * *
通信室は砦の地下一階にある。分厚い石壁に囲まれた狭い部屋で、天井が低く、入った瞬間に肩が竦む。魔導結晶式通信器が三台並んだ机の前に、通信士官と斥候のヴォルフが立っていた。
ヴォルフは地図台の上に羊皮紙を広げ、その上に細かな符号を書き込んでいた。火傷痕の残る横顔に、魔導灯の緑がかった光が落ちている。
「状況を聞かせろ」
ゲルトが入るなり、ヴォルフは地図台の前を空けた。余計な前置きはしない。この男にはそういうところがある。
「二十時以降、帝国の魔導通信が急増した。通常は一時間に三から五本の定時通信だが、今夜に入ってから一時間あたり十五本を超えている。しかも」
ヴォルフの指が、羊皮紙の上をなぞった。
「暗号体系が完全に切り替わった。以前から帝国の暗号は読めなくなっていたが、今夜は構造そのものが変わっている。新しい鍵への一斉切り替え……攻勢直前の標準手順だ」
ゲルトは腕を組んだ。
通信量の急増と暗号体系の切り替え。いずれも攻勢準備の最終段階を示す兆候だった。先日の夜間偵察で焦げた紙片から読み取った「第4月初旬」という攻勢時期と、日数が合っている。あと三日。
「方向は特定できたか」
ヴォルフが頷いた。
「通信の発信源は三方向。東の鉄門峡方面が最も多い。南東と北東にもある。だが」
一瞬、ヴォルフが言葉を切った。火傷痕の下の片目が、ゲルトを真っ直ぐに見た。
「南東の通信量が異常に多い。鉄門峡を正面から突破する本隊とは別に、南東方面から回り込む部隊がいる可能性がある」
ゲルトの指が、腕を組んだまま上腕を掴んだ。
正面突破と迂回。二方向からの同時攻撃。教科書通りだ。しかし教科書通りだからこそ厄介でもある。帝国は奇策を弄する必要がないほど、兵力に余裕があるということだ。
「ヴォルフ。お前の読みでは、攻勢はいつだ」
「三日以内。暗号切り替えから攻撃開始までの帝国の標準は四十八から七十二時間だ。それは前の暗号が読めていた頃に掴んだパターンだから、信頼していい」
ゲルトは黙って頷いた。
通信士官に向き直り、短く指示を出した。
「ハロッドへ暗号通信を打て。最優先。内容は——」
一度、口を閉じた。
「帝国通信量が過去六時間で通常比四倍に急増。暗号体系の全面切り替えを確認。攻勢開始はD-3日以内と判断する。鉄門峡正面に加え、南東方面からの迂回攻撃の兆候あり。当砦は本日をもって最終警戒態勢に移行する。以上」
通信士官の指が、暗号変換表を繰り始めた。結晶が脈動するたびに、オゾンの鋭い匂いが部屋に染み出す。
ゲルトはヴォルフの方を見た。
「斥候小隊の夜間偵察。今夜からD-3日体制に切り替える。二時間交代、三方向同時。トーマスの班は東を任せる。お前は南東だ」
「了解した」
ヴォルフは余計な一言も挟まず、通信室を出ていった。足音がほとんどしない。年季の入った斥候の歩き方だった。
* * *
ハロッドからの返信は、一時間半で届いた。
報告を受領。最終警戒態勢への移行を承認する。防衛工事の完了状況を直ちに報告せよ。全戦力の即応態勢を確立し、前哨線から主陣地までの連絡線を再確認せよ。増援の追加はない。砦を保持せよ。
「増援の追加はない」。
二度目だった。前回の通信でも同じ文言があった。ゲルトはその一文の上に目を据え、それから静かに紙を折った。
分かっている。ここにいる千と五十七名で、やる。それだけだ。
「副指揮官殿」
通信室の入り口に、トーマスがまだ立っていた。
「防衛工事の完了報告、纏めてあります」
トーマスが差し出した書類を受け取った。日中の巡回で確認した内容を、几帳面な字で纏めてある。
「東壁——補強完了。偽装網を被せて損傷を装った状態を維持。南壁——傭兵弓兵陣地の構築完了。射線は確保済み。北壁——警戒陣地を整備。最小人員で運用可能。西の丘——予備隊陣地の構築完了。撤退路の確認済み」
ゲルトは書類を一枚ずつ捲った。
防御工事完了率、百パーセント。偽装は東壁を中心に全方位で施してある。帝国の偵察チームが見たのは、老朽化が進んだ弱い砦だ。実際には壁の内側に二重の補強を入れ、瓦礫で隠した射撃孔から弓兵が三方向を制圧できる。
「偽装の状態は」
「今朝、高所監視哨から確認しました。外からは依然として老朽化した砦に見えます。帝国の偵察が直近で飛来したのは二日前ですが……偽装への反応は確認されていません」
ゲルトは書類から顔を上げた。
「よくやった」
短い一言だった。けれどトーマスの肩から力が僅かに抜けたのが見えた。
* * *
通信室を出て、詰所に向かう途中の石段で、ブレナンと出くわした。
傭兵団の団長は、腰に短剣を差したまま巡回から戻ってきたところらしい。日焼けした顔の刀傷が、松明の光に浮かんでいる。
「副指揮官殿。傭兵の配置転換、完了した」
ゲルトは足を止めた。
「弓兵は」
「南壁に百二十名、北壁に百二十名。計二百四十名。射撃訓練は今日で六日目だが、的中率は正規兵の七割まで上がった。猟師出の連中は風の読み方を知ってる。それが効いてる」
「正面配置の傭兵は」
「東壁の後方支援に八十名。弾薬と矢の運搬、負傷者の搬送を担当する。正規兵との連絡手順は三回の実地訓練で叩き込んだ。残りは西の丘の予備隊と交代要員だ」
ゲルトは小さく頷いた。
ブレナンの報告には、もう最初の頃のぎこちなさがなかった。正規軍の報告形式を自分なりに咀嚼し、要点だけを簡潔に伝えている。十日前にこの男が砦に着いた時の、蛇行した隊列が頭をよぎった。同じ五百人とは思えない。
「ブレナン殿」
「なんだ」
「帝国が来る。三日以内だ」
ブレナンの顔から、一瞬だけ表情が消えた。すぐに戻ったが、喉仏が上下するのをゲルトは見逃さなかった。
「……そうか」
「朝になったら、あんたの口から傭兵に伝えろ。俺から正規兵には伝える。伝え方は任せるが、一つだけ頼む」
ゲルトはブレナンの目を見た。
「逃げる奴がいても、止めるな。この砦で死ねとは俺は言わん。だが、残る奴には全力で生き残る方法を教えてやれ」
ブレナンの刀傷が、引き攣るように動いた。それから、低い声で答えた。
「逃げる奴はいない」
「分かるのか」
「俺の連中はな、最初の三日は不満だらけだった。あんたの混成編成にも文句を言ってた。だが、あんたが一人で盾を持って突っ込んできた時……全員が黙った。使い捨てにしない指揮官ってのは、傭兵にとっちゃ初めてだったんだ」
ゲルトは何も言わなかった。言葉の代わりに、ブレナンの肩を一度だけ叩いた。拳の重さで伝わるものがある。十年前、バルカスがゲルトにそうしたように。
* * *
ブレナンと別れた後、ゲルトは詰所に向かわず、兵舎の前を通った。
夜半を過ぎているが、兵舎の中は明かりが残っていた。攻勢三日前の夜。眠れる者の方が少ないだろう。
兵舎の入り口を覗くと、正規兵と傭兵が入り混じって座っていた。
壁際で矢の羽根を整えている傭兵の弓兵がいた。その隣に正規兵が座り、黙々と鎧の繋ぎ目に油を塗っている。二人の間に会話はなかった。けれど矢を整え終わった傭兵が油壺を指差すと、正規兵は無言で傭兵の方に滑らせた。傭兵は頷き、自分の短刀の刃に油を塗り始めた。
十日前には、この二人は互いの顔も知らなかった。
奥の寝台では、若い正規兵が膝の上に紙を広げていた。手紙を書いている。蝋燭の灯りに照らされた字は丸っこく、行が曲がっている。宛先の名前は読めなかったが、書いている本人の表情は見えた。真剣で、どこか照れくさそうで、それでいて何かに急かされている顔。三日後の自分がどうなっているか分からないから、今のうちに書いておく。そういう種類の手紙だった。
隣の寝台で、古参の正規兵が毛布にくるまって天井を見つめていた。目が合うと、兵士は身を起こして敬礼しかけた。ゲルトは手で制した。
「寝ていろ。明日も長い」
「眠れんのですよ、副指揮官殿。隊長がいた頃は、あの人の鼾がうるさくて眠れんかった。いなくなったら、今度は静かすぎて眠れん。我ながら勝手なもんです」
ゲルトは鼻を鳴らした。バルカスの鼾。確かにあの人は、どんな状況でも五分で眠り、岩を削るような鼾をかいた。その音が兵舎中に響くと、皆が安心して目を閉じた。隊長が眠っているなら、今は安全だと。
「鼾なら俺がかいてやろうか」
「副指揮官殿のは小さすぎますよ。子猫みたいで」
周りの兵士が低く笑った。小さな笑いだった。それでも兵舎の空気が一度だけ緩んだ。
ゲルトは兵舎を出た。
出口の横に、傭兵の若者が一人、壁にもたれて座り込んでいた。両腕で膝を抱え、顔を伏せている。
泣いているのではなかった。目を閉じて、何かを口の中で繰り返し呟いている。祈りか。誰かの名前か。ゲルトには分からなかった。
声はかけなかった。代わりに、自分の水筒を傭兵の足元に置いた。音を立てないように。
兵舎を離れる時、背後で水筒の蓋が開く音がした。
* * *
詰所に戻ると、ゲルトは壁に掛けた自分の防衛配置図の前に立った。
十日前に描き上げた配置だ。東壁正面に正規兵主力。南北の側壁に傭兵弓兵隊。西の丘に予備隊。バルカスの配置図を基に、傭兵という新しい要素を組み込んだゲルトの配置。
十日間の訓練を経て、その配置図の上に新たな書き込みが増えていた。各小隊の連絡手順、弾薬の補給路、負傷者の搬送ルート。ゲルトの字は隊長のものほど端正ではないが、一つ一つが実地に基づいた判断の積み重ねだった。
机の上に、もう一枚の紙があった。
隊長が出発前に残した命令書だ。折り目が擦り切れかけている。何度も開いて読み返したからだ。
——砦の指揮はお前に任せる。信じている。
バルカスの几帳面な字が、最後の行にだけ僅かに崩れていた。急いで書いたのか、それとも。
ゲルトはその命令書を折り畳み、胸ポケットに戻した。
不意に、詰所の戸が叩かれた。
「副指揮官殿。夜食です」
トーマスだった。木の盆に、黒パンと温めた麦粥を載せている。
「お前は」
「もう食いました」
嘘だろう、とゲルトは思った。トーマスの頬は十日前より痩けている。配給は全員に平等に行き渡っているが、この若い斥候は自分の分を削って上官に回す癖がある。バルカスに対してもそうだったと、古参の兵から聞いたことがある。
ゲルトは盆を受け取り、黒パンを二つに割った。片方をトーマスに突き出した。
「座れ。食え」
「でも——」
「命令だ」
トーマスは一瞬口を開きかけ、それから小さく笑って腰を下ろした。二人で黒パンを齧る。硬い。歯に響くほど硬い。けれど麦粥に浸して少しずつ崩せば、穀物の素朴な甘みが舌の奥に広がった。
「副指揮官殿」
「なんだ」
トーマスは麦粥の碗を両手で包むように持っていた。湯気が、薄暗い詰所の天井に向かって立ち昇っている。
「俺——いや、自分は……三日後が怖いです」
ゲルトは黒パンを噛む手を止めなかった。
「そうか」
「でも」
トーマスの声が、少しだけ強くなった。
「副指揮官殿がここにいるなら、大丈夫だと……。すみません、変なことを」
ゲルトは黒パンを飲み込み、麦粥を一口啜った。熱い液体が、喉から腹の底まで降りていく。返事の代わりに、片手を伸ばしてトーマスの頭を一度だけ軽く叩いた。犬の頭を撫でるような、ぞんざいな仕草だった。
「怖いのは俺も同じだ。だが、怖くても飯は食え。隊長の受け売りだがな」
トーマスが目を見開き、それから慌てて粥を口に掻き込んだ。耳の先が赤くなっていた。
* * *
夜が更けた。
詰所を出たゲルトは、砦の中を一人で歩いた。最終巡回だ。
東壁の歩哨に声をかけた。正規兵の老兵と、傭兵の若者が二人一組で立っている。十日前には口もきかなかった組み合わせだ。
「異常は」
「ありません、副指揮官殿。ただ——」
老兵が東を指した。
「地平線の光が、いつもより多いです」
ゲルトは壁の縁から東を見た。地平線の際に、幾つかの光点が瞬いている。焚き火か、野営地の灯りか。帝国がもはや隠す必要を感じていないということだ。自分たちの存在を見せつけている。
「見えていることを記録しろ。数と位置を報告書に入れる」
「了解」
老兵の隣の若い傭兵が、こわばった顔でゲルトを見上げた。
「副指揮官殿。……本当に来るんですか」
ゲルトは一拍だけ間を空けた。
「来る。だが、こっちも準備はできている。お前の弓の腕は、閲兵で見た。悪くない」
若い傭兵の唇が震えた。それでも歯を食いしばって頷いた。隣の老兵が、黙って傭兵の背中を一度叩いた。
南壁を回った。ここには傭兵の弓兵が交代制で配置されている。射撃孔の前に矢筒が整然と並べられていた。十日前は地面に転がしていた矢筒を、正規兵の教えで架台に立てるようになっていた。小さな変化だけれど、矢を取る速度が全く違ってくる。
射撃孔の一つに、矢の束を確認している傭兵がいた。一本ずつ矢を回し、羽根の歪みを指で直している。その手つきは荒っぽいが、丁寧だった。猟師だったのだろう。獲物を仕留める一射に全てを賭ける者の指だ。
「何本ある」
ゲルトが声をかけると、傭兵は一瞬身を強張らせたが、すぐに居住まいを正した。
「百二十本です。副指揮官殿から支給された矢と、自前の猟矢を合わせて」
「猟矢?」
「革鎧くらいなら抜ける矢尻を付けてます。帝国の重装甲には通用しませんが、隙間を狙えば」
ゲルトは射撃孔から外を覗いた。月明かりに照らされた荒野が、射撃孔の切り取る長方形の中に広がっている。この視界の中に、三日後、帝国兵が現れる。
「隙間を狙えるか」
「百歩までなら。それ以上は——正規兵の弩に任せます」
弓兵は矢を筒に戻しながら、自分の手を見下ろした。指先の皮が厚くなっている。十日間の訓練で弦を引き続けた跡だった。
「副指揮官殿。一つ、聞いてもいいですか」
「なんだ」
「俺たちは傭兵で、金で雇われた兵隊です。けど……この砦の連中は違った。一緒に飯食って、一緒に射撃場に立って。あの正規兵のじいさんは、俺の矢の飛ばし方が間違ってるからって、休みの日に三時間も付き合ってくれた」
弓兵の声が、少し低くなった。
「金のためだけで立てるか、分からなかった。けど今は……あのじいさんが隣で矢を射ってるなら、逃げるわけにはいかないと」
ゲルトは黙って聞いた。それから、射撃孔の縁を拳で一つ叩いた。軽く。合図のように。
「いい腕だ。信じてる」
弓兵は目を丸くした。上官に信じていると言われたのは初めてだったのだろう。唇を引き結び、深く頷いた。
北壁。ここは最小人員での警戒だ。三名の兵士が松明も焚かず、暗闘の中に溶け込んでいた。声をかけると、闇の中から三つの声が返ってきた。
「異常なし」
「異常なし」
「……異常なし。ただ、副指揮官殿」
三人目の声は、古参のヴォルフだった。南東方面の偵察から戻ったばかりらしい。外套の裾に枯れ草がこびりついている。
「南東の偵察結果。帝国の陣地構築音を確認した。金属を打つ音が断続的に。距離は推定八キロ。移動式魔導砲の組み立てだろう」
ゲルトの胸の内側で、冷たい塊が転がった。移動式魔導砲。あれが砦に向けられたら、石壁ごと吹き飛ばされる。
「数は」
「音源から推定して、三門から五門。正面にも同様の準備があるはずだ。合計二十門前後」
二十門。
ゲルトは暗闇の中で、自分の拳を見下ろした。拳が震えていた。
「……ヴォルフ。お前、怖いか」
闇の中で、ヴォルフの沈黙があった。三秒ほどの、短い沈黙だった。
「怖くないと言ったら嘘になる。だが、隊長がこの砦を俺たちに任せた。その意味を考えれば……怖さは脇に置ける」
ゲルトは鼻で短く息を吐いた。笑ったのかもしれない。
「隊長の話をするな。あの人ならこうする、あの人ならああする。もう十分だ」
ヴォルフの気配が、僅かに動いた。
「俺はこの砦を落とさせない」
ゲルトの声は低く、静かだった。
壁に反響しない。闇に吸い込まれる前に、ヴォルフの耳に届けばいい。それだけの声だった。
「隊長の言葉じゃない。俺の言葉だ。隊長がいなくても、お前たちがいる。ブレナンの傭兵も。トーマスも、あの弓兵も。千と五十七名で、俺はここを守る」
闇の中で、ヴォルフの火傷痕のある横顔が僅かに動いた。口角が、微かに持ち上がったのかもしれない。暗くて見えなかった。
「……十年前のあんたには、そんなことは言えなかったな」
ゲルトは何も返さなかった。
十年前。入隊したばかりの自分は、隊長の影だった。隊長が右と言えば右、左と言えば左。自分の言葉を持たない兵士だった。それがいつから変わったのか。おそらく、この十日間だ。隊長がいない十日間で、自分は初めて自分の声で命令を出し、自分の判断で部下を動かした。間違えたこともあった。けれど間違えた時に自分の頭で立て直した。
ヴォルフの言葉は、それを認めたということだ。
「ヴォルフ。明朝の偵察は俺が出る。南東方面の砲の位置を確かめたい」
「副指揮官が砦を空けるのか」
「二時間だ。その間はお前が代理を務めろ」
闇の中で、ヴォルフの気配が微かに揺れた。了承の合図だった。
* * *
巡回を終え、ゲルトは東壁の上に戻った。
砦の中は静まり返っている。石壁の下で千名の兵士が眠っている。眠れない者もいるだろう。手紙を書いている者。矢を数えている者。仲間の背中を見つめている者。三日後を知っている者も、まだ知らない者も。明日の朝、全員に伝えなければならない。
伝え方は、もう決まっていた。
飾らない。誤魔化さない。帝国が来ること。三日以内であること。正面と南東の二方向であること。砲撃があること。増援はないこと。全て話す。その上で、自分たちにできることを一つずつ確認する。
バルカスなら、もっと短い言葉で全てを伝えただろう。あの人の一言には、百の言葉の重さがあった。自分にはそれがない。だから数を使う。一人一人の目を見て、一つ一つの持ち場を指さして、お前がここを守るんだと伝える。それが自分のやり方だ。
壁の縁に肘を置き、空を見上げた。
月が薄い雲の向こうに隠れている。星は幾つか見えたが、いつもの明るさがない。空気が湿り始めているのかもしれない。天候が崩れれば、帝国の攻勢は遅れるか。いや、砲撃の煙が地表に溜まり、視界が利かなくなる。どちらにとって有利かは分からない。
ゲルトは懐から魔導結晶片を取り出した。
掌に載せると、体温を吸ってゆっくりと温まる。隊長が出発前に渡した、緊急連絡用の予備品だ。使えば帝国に傍受される可能性がある。だから使わない。使わないが、手の中にあるだけで、細い糸が一本だけ繋がっている気がした。
——隊長。
口の中だけで呟いた。声にはしなかった。
こちらの準備はできました。あとは、来るものを受け止めるだけです。
結晶片を握り締める指に、力が入った。
隊長たちは……無事でいてくれ。
その時、東の空が光った。
星ではない。低すぎる。地平線の際、丘陵の稜線のすぐ上で、赤い閃光が一度、走った。
砲撃の試射か。陣地間の通信光か。あるいは、攻勢準備の最終確認か。
ゲルトには判別できなかった。それでも、あの光が意味するものは一つだ。
帝国は、もう隠れる気がない。
赤い閃光は二度目を瞬いた後、闇に呑まれた。
ゲルトは結晶片を胸ポケットに戻し、バルカスの命令書の隣に仕舞った。
壁の縁を掴む手の甲に、夜露が降り始めていた。冷たい水滴が、一つ、二つ、皮膚の上を伝い落ちる。
明後日の夜には、この壁の上で弓弦が鳴る。
石壁に矢が刺さり、魔導砲の炸裂音が荒野に轟く。
けれど今夜はまだ静かだ。
ゲルトは壁から手を離し、階段を降りた。
石段を踏む軍靴の音が、砦の壁に反響した。硬い音だ。けれどこの硬さを知っている。バルカスの軍靴も、同じ音を立てた。同じ石段を、同じ重さで踏んだ。
違うのは、今この石段を降りているのが自分だということだけだ。
あと三日。やれることを、全てやる。




