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第3章-49話「削られた女神」

 壁画の光は、呼吸していた。


 藍と銀と金。三色の発光が広間を満たし、天井の闇すら押し上げている。壁面に埋め込まれた魔導回路を流れるマナが脈動するたび、光が強まり、弱まり、また強まる。その間隔が呼吸に似ていた。眠っていたものが、ゆっくりと目を開けていくような。

 燐は広間の入り口に立ったまま、三面の壁画を見渡した。


 右壁。正面壁。左壁。


 右壁の壁画から見ていく。頭の中で、戦場の地図を読み取る時と同じ手順が動いた。全体を把握してから、細部に入る。感情を挟まない。


 右壁は、天だった。

 壁面の上方に広がる金色の光の中に、一つの人影が描かれている。天から降りてくる姿。銀の髪が光の中で広がり、両腕を開いている。降臨。そう呼ぶしかない構図だった。地上には人々が描かれ、その顔は一様に上を向いている。歓喜の表情。膝を折り、両手を掲げ、天から降り立つ存在を迎える群衆。

 壁画の保存状態は、数千年の歳月を考えれば驚くほど良好だった。金色の顔料が光に照らされて輝き、銀の髪を描いた線の一本一本まで判別できる。しかし天から降り立つ存在の顔はぼやけていた。意図的にぼかしたのか、風化なのかは分からない。ただ、銀の髪と開かれた両腕の構図が、記憶の奥で何かに引っかかった。


「リディア」


 声が低くなっていた。自覚はない。燐は右壁から視線を切らずに言った。


「右壁の人物。特徴を見てくれ」


 リディアは端末を構え、壁画のスキャンを開始していた。画面を覗き込む目が、既に学者の目になっている。ポニーテールが揺れるのも忘れて、壁面の細部を追っている。


「銀の髪。両腕を広げた降臨の構図。地上の群衆が歓迎している。宗教画の典型的な——」


 リディアの声が止まった。端末の手が下がり、壁画とロリを交互に見た。


「……似てるわね」


 誰にとも言わず、呟いた。


 燐は答えなかった。似ている。壁画に描かれた存在と、今ここに立っている少女が。銀の髪。小柄な体躯。数千年前の壁画に描かれた存在が。それが何を意味するのか、燐には分からなかった。分かるはずがない。壁画の存在がロリに似ているということは、昨夜の時点で既に見ている。正面壁の存在の青い瞳を。

 似ているという事実だけがある。結論は出せない。


「左壁」


 燐は視線を移した。


* * *


 左壁の壁画は、右壁とは異なる場面を描いていた。


 人々が跪いている。それは右壁と同じだ。しかし右壁の歓喜の跪きとは質が違う。左壁の群衆は、もっと近い位置にいた。壁画の中央に描かれた存在、やはり銀の髪を持つ人影の前に、手の届く距離で跪き、両手を差し出している。

 そして中央の存在が、民に何かを差し出していた。


 盃だった。


 銀の存在の右手が、跪く人々の方に盃のようなものを掲げている。金と藍の顔料で丁寧に描かれた盃の縁から、赤い液体が溢れ出している。いや、赤ではなかった。壁画の色彩に従えば、金がかった深い紅。光を受けて輝く液体。

 跪く人々の顔は、歓喜に満ちていた。感謝の涙を流している者もいる。盃を受け取った者は、両手で恭しく口元に運んでいる。


 リディアが端末を下ろし、壁画に近づいた。


 数歩。壁画の前で膝をつき、中央の存在の顔の高さに目線を合わせた。端末のライトを当てる。白い光が壁面の細部を照らし出した。


 リディアの手が、止まった。


「何だ」


 燐が近づいた。リディアの視線を追い、壁画の中央に描かれた存在の顔を見た。


 口元がなかった。


 いや、あったのだ。顔の輪郭は残っている。目も鼻も描かれている。けれど口元の部分だけが欠落していた。石の表面に不自然な凹みがあり、顔料も石も一緒に削り取られている。


「これ……」


 リディアの指が、削られた跡をなぞった。指の腹で傷の縁を確かめている。端末のライトが、傷の断面を照らした。


「自然風化じゃないわ。道具で削ってる。金属の刃か鑿……硬いもので石ごと抉ってる。口元だけ。この部分だけを」


 リディアの声が、学者の冷静さの中に震えを含んでいた。壁画全体の保存状態は極めて良好だ。天井からの雨漏りもなく、湿気による劣化も最小限。にもかかわらず、この一箇所だけが明確に破壊されている。


「意図的よ。誰かが……後から……この壁画の口元だけを消した」


 バルカスが近づき、削られた跡を一瞥した。


「何を消したかったんだ」


「牙よ」


 リディアの声が、広間に反響した。


「口元に牙が描かれていたのよ。それを消したかった。だからここだけを削り取った」


 沈黙が落ちた。


 壁画の中央に描かれた存在。銀の髪を持ち、民に盃を差し出す存在。その口元に牙が描かれていた。それを誰かが、後世になって、石ごと削り取った。


 燐は息を吐いた。空気が歯の隙間を通り、微かに甲高い音を立てた。


 碑文の一節が頭の中に蘇った。回廊で見た、あの古代ルーンの銀文字。「母なる者の血は民を癒し、民は歓び、盃を掲げた」。リディアが解読した碑文。あの時は意味が掴みきれなかった。けれど今、この壁画を見れば。


 血は民を癒し。盃を掲げた。


 燐の視線が盃に戻った。金がかった深い紅。光を受けて輝く液体。あれは酒ではない。ワインでも聖水でもない。


 血だ。


 あの盃の中身は、血だ。壁画の存在が民に差し出している液体は、自分の血だ。そして民は歓んで、それを飲んでいる。感謝して。涙を流して。


 聖教の聖餐式。信者が聖水を飲む儀式。連合でも帝国でも行われている、アステリア聖教の根幹を成す儀式。あれの起源が。


「カイ」


 声が出ていた。


「近づくな。そこにいろ」


 カイは広間の入り口付近で大剣の柄に手を置いたまま、壁画を見上げていた。顔色が変わっている。意味が分からなくても、壁画の異様さは伝わっている。


「セレス。カイの位置を離れるな」


 セレスは黙って頷いた。ライフルを胸の前に抱えたまま、灰色の目で壁画を見上げている。表情は読めない。


* * *


 正面壁に目を向けた。


 三面の壁画の中で、正面壁だけが保存状態が際立って良かった。金と銀と藍の色彩が鮮烈に残り、数千年の歳月が嘘のように壁面を覆っている。

 描かれているのは別れの場面だった。


 銀の髪を持つ存在が、天へ帰ろうとしている。右壁では天から降り立った姿が描かれていた。正面壁ではその逆。地上から離れ、光の中に消えていく。両腕は広げられていない。胸の前で組まれている。うつむいた顔。静かな表情。

 地上の民が、泣いていた。手を伸ばし、去りゆく存在に縋ろうとしている者もいる。膝を折って顔を覆っている者もいる。涙の描写は驚くほど精緻で、頬を伝う雫の一筋一筋が、金色の光を受けて宝石のように輝いている。


 愛されていた。


 燐の脳の奥で、その認識が静かに組み上がった。分析ではない。壁画を見た瞬間に身体が理解したことだ。三面の壁画が語っている物語。天から降り立ち、民に血を差し出し、そして天に帰った存在は、民から愛されていた。崇拝ではなく、もっと原始的な、温かい何かで。


「リン」


 ロリの声が、すぐ隣から聞こえた。


 少女は壁画を見上げていた。正面壁の、天に帰る存在の顔を。うつむいた表情の中にある寂しさと、決意と、静かな微笑みを。

 ロリの青藍の瞳に、壁画の金色の光が映り込んでいた。


「あの人は、悲しかったのです」


 ロリの声は囁くように小さかった。けれど確信があった。


「帰りたくなかったのです。けれど……帰らなければいけなかった」


 燐はロリの横顔を見た。壁画の光に照らされた銀の髪。白い横顔。長い睫毛が壁画の光を受けて影を落としている。少女が壁画の存在と同じ髪の色をしている。その事実が、燐の胸の奥に、今まで感じたことのない重みを落とした。


 偶然の一致。そう処理するのが合理的だ。しかし、この遺跡の壁が少女に反応している。回廊の碑文が、少女の存在で光を増す。ゴーレムを突破した後に扉が開いた。そして今、三面の壁画が。


「触りたい……」


 ロリが呟いた。右手が持ち上がりかけ、正面壁の方に伸びかけて、止まった。少女自身の意志で止めていた。燐の方を見上げる。


「リン。触っても、いいですか」


 許可を求める目だった。花畑で「戦いたい」と言った時の、あの目。けれど今日の瞳には、花畑の時にはなかったものが混じっていた。覚悟だ。自分が何に触れようとしているのか、完全には分かっていない。それでも手を伸ばす。その選択の重みを、少女は理解していた。


 燐は広間を見渡した。脳内魔法式を最低出力で起動。探査。壁画のマナは安定している。攻撃性のある反応はない。床の魔導回路も同様。待機状態だ。何かに備えている。何かを待っている。


 ロリを待っている。


 燐の歯が噛み合った。こめかみの奥で、まだ昨日の火花の残滓がくすぶっていた。ゴーレム戦の負荷が完全には抜けていない。もし何かが起きた時、即座に動ける保証はなかった。


「バルカス」


「ここにいる」


 バルカスは壁画の手前二メートルに立っていた。大斧を肩に戻さず、右手で柄を握ったままだ。視線は壁画ではなくロリに向いている。広間の出入り口と、壁画と、少女の三点を結ぶ線上に、意図的に立っていた。何かあれば、ロリを掴んで退かせられる位置。


「リディア。ロリが壁画に触れた場合、どういう反応が予測される」


 リディアが端末を確認した。画面に数値を走らせ、壁画のマナパターンとロリの周囲のマナ密度を照合している。


「分からないわ、正直。ただ、敵意のあるパターンじゃない。回廊の壁がロリに反応した時と同種の波形。拒絶じゃなく応答。それだけは言える」


 燐は息を吸った。肺の奥まで、古い石と微かな甘い香り、扉を開いた時に漂っていた果実酒の澱のような匂いが沁みた。


「行け」


 短く言った。


 ロリの目が、一瞬だけ見開かれた。それから、静かに頷いた。


* * *


 ロリが正面壁に向かって歩き出した。


 六人の誰も動かなかった。息を詰めて、銀の髪の少女が壁画に近づいていくのを見ていた。小さな革靴が石畳を踏む音だけが、広間に響いていた。


 三歩。五歩。七歩。


 壁画まであと一メートル。少女の足が止まった。


 壁画が変わっていた。


 ロリが近づくにつれて、正面壁の魔導回路を流れるマナが密度を増していた。壁面全体が淡い金色の光に包まれ、描かれた天の光と現実の光が混じり合っている。壁画の中の存在、天に帰ろうとする銀髪の人影の輪郭が、光の中で揺らいで見えた。動いたわけではない。光の加減だ。それでも、まるで。


 ロリが右手を伸ばした。


 白い指先が、壁画の表面に触れた。


 光が弾けた。


 壁画の中心から、金と藍と銀が混ざり合った光の波が放射された。床の魔導回路が一斉に輝き、広間全体が昼のように明るくなった。


「ッ——」


 燐は一歩踏み出した。右手が刀の柄にかかる。攻撃ではなかった。光に攻撃性はない。痛みもない。ただ、圧倒的なマナの密度が広間を満たし、肌を撫で、髪を揺らし、温かかった。冬の陽だまりに似た、柔らかい温もり。


 ロリは壁画から手を離さなかった。


 少女の指先が壁面に触れたまま、目を閉じていた。銀の髪が持ち上がっている。マナの流れが少女の周囲で渦を巻き、髪を風もないのに揺らしている。

 その顔に苦痛はなかった。恐怖もなかった。ただ、何かを受け取っている顔。耳を澄ませているような、遠いものに手を伸ばしているような。


 二秒。三秒。五秒。


 ロリの唇が開いた。


「——温かい」


 声が震えていた。


「たくさんの手が、ロリの手を握っている。笑っている。みんな笑っている。ありがとう、と言っている……」


 ロリの指が壁面を離れなかった。目は閉じたまま。声だけが、広間の光の中に落ちていく。


「何かを……飲んでいます。温かくて、甘い。舌の上で広がって……みんなが、ありがとうと言って……涙を流して……」


 ロリの声が途切れた。閉じた瞼の下で、眼球が動いていた。夢を見ている時の動きだ。何かを見ている。壁画を通して流れ込んでくる記憶の断片を。


 リディアが端末を見た。画面が白く飛んでいた。マナ密度が計測上限を振り切っている。


 燐は動かなかった。動けなかった。ロリの表情に、見たことのない色が浮かんでいた。悲しみでも恐怖でもない。もっと複雑な、理解と困惑が絡み合ったもの。

 自分が知らないはずの記憶を、身体が覚えている。そういう顔だった。


「みんな、私の血を飲んで……」


 ロリの声が、一段低くなった。


「——笑っている……」


 光が消えた。


 唐突に。壁画の光が一斉に落ち、広間がバルカスの発光石だけの薄暗さに戻った。床の魔導回路の脈動も止まり、壁面の藍色の回路が余韻のように淡く明滅してから、それも消えた。


 ロリの手が壁画から離れた。


 少女の膝が折れた。


「ロリッ!」


 燐が駆け寄った。膝をつく前に、少女の肩を掴んだ。小さな身体が、腕の中に倒れ込んできた。重みがない。羽のように軽い。体温はあった。冷たくはない。けれど、掌に触れた少女の肌が薄い汗で濡れていた。


 青藍の瞳が開いている。目の焦点は合っている。意識はある。


「リン……」


「ここにいる」


「ロリは今……何を、見ていたのですか……」


 ロリの声が震えていた。指先が震えていた。燐の袖を掴む手が、力を入れすぎて白くなっている。


「分からない。けど、お前は安全だ。ここにいる」


 燐はロリの髪に触れないように注意しながら、少女の身体を支えた。膝をついた姿勢のまま、周囲を確認する。バルカスが広間の入り口を固めている。カイが大剣を抜いたまま、壁画を睨んでいる。セレスがライフルを壁画に向けている。リディアが端末を握りしめたまま、ロリの傍に寄ってきた。


「ロリ。今見たものを、話せるか」


 リディアの声は優しかったが、学者の目をしていた。端末のセンサーはまだロリに向けられている。記録している。


 ロリは燐の腕の中で身体を起こした。両手で自分の肩を抱き、小さくなっている。青藍の瞳が壁画を見上げた。光を失った壁画は、ただの石に描かれた絵に戻っている。それでも少女の目に映る壁画は、まだ光っているように見えた。


「……記憶です」


 ロリの声が、薄暗い広間に落ちた。


「ロリの記憶では、ないと思います。でも……ロリの身体が知っている記憶です」


 少女は自分の右手を見つめた。壁画に触れていた手。指先がまだ温かい。


「温かいものが、ありました。たくさんの手が、ロリの手を包んでいました。みんな笑っていて、泣いていて……感謝していました。ありがとう、ありがとうと。何度も」


 ロリの声が掠れた。唇を舐めた。乾いている。


「それで、みんなが……何かを飲んでいました。温かくて、甘くて……舌の上で広がるような。ロリの……ロリが差し出したものを、みんなが受け取って、飲んでいました」


 少女の手が、自分の首筋に触れた。無意識の動作だった。白い指先が、頸動脈の上を撫でている。


「血です。ロリの血を、みんなが飲んでいたのです」


 広間が沈黙した。


 カイの大剣を握る手が、白くなった。セレスのライフルの銃口が、僅かに下がった。リディアの端末を持つ手が、止まった。バルカスだけが表情を変えなかった。大斧を持ったまま、ロリの言葉を聞いていた。


 燐は、何も言えなかった。


 血を飲む。聖教の聖餐式。信者が聖杯から聖水を飲む儀式。あれは。


 碑文の言葉が、こめかみの奥で鳴った。「母なる者の血は民を癒し、民は歓び、盃を掲げた」。壁画の盃。左壁に描かれた、削られた口元の存在が民に差し出していた盃。あの中身は聖水ではなかった。


 歴史は改竄されている。


 燐の脳が、回路の炭化した痛みとは別の圧迫を感じた。思考が渦を巻いている。整理しろ。事実だけを並べろ。


 一つ。壁画には「銀の髪を持つ存在が民に血を差し出す場面」が描かれていた。

 二つ。その存在の口元は、後世に意図的に削り取られていた。牙を消すために。

 三つ。ロリだけが壁画に触れることができ、記憶の断片を受け取った。

 四つ。その記憶の中で、人々はロリの血を飲み、感謝していた。


 聖餐式の起源。聖教が何千年もかけて隠してきた、あるいは忘れてしまった真実が、この壁画の中にある。


「リン」


 ロリの声が、燐の思考を断ち切った。


 少女は自分の右手を見つめていた。指先が震えている。


「あの人たちは……悪い人ではなかったのです。笑っていました。泣いていました。感謝していました。ロリの血を飲んで、身体が温まると……。痛みが消えたと。子供を抱いた人が、この子が生きられると泣いていました」


 ロリの声が、どんどん小さくなっていった。


「けれど……」


 少女の青藍の瞳が、壁画を見上げた。光を失った壁面。石に描かれた絵。天に帰る存在の、うつむいた顔。


「どうして消したのですか。どうして口を削ったのですか……。あんなに感謝していたのに」


 ロリの問いに、誰も答えなかった。


* * *


 バルカスが動いた。


 大斧を肩に戻し、ゆっくりと歩み寄った。ロリの前で片膝をついた。少女と同じ目線の高さになった。歴戦の軍人の、日焼けした顔。古傷の走る頬。厳しいが、残酷ではない目。


「小娘。立てるか」


 ぶっきらぼうな声だった。壁画の衝撃にも記憶の断片にも触れない。少女の目の前にある一つの事実だけを問うている。今、立てるか。それだけだ。


 ロリは少し目を瞬いた。それから、小さく頷いた。


「……はい」


「なら立て。地面に座っていても、答えは出ない」


 バルカスの手が差し出された。節くれだった大きな手。斧を振るう手だ。人を殺す手だ。けれど今、その手はただ少女が立ち上がるための支えとして差し出されていた。


 ロリがその手を取った。引き上げられるように立ち上がった。小さな手が、兵士の掌の中で一瞬だけ強く握られた。


 バルカスは何も言わず、手を離した。立ち上がり、入り口の方に戻っていく。それだけだった。


 燐はその背中を見た。「目の前の人間を見ろ」。バルカスの行動原理が、そのまま形になった一瞬だった。壁画の意味も聖教の秘密も、今のバルカスには関係ない。目の前の少女が座り込んでいる。だから立たせる。それだけ。


 カイが大剣を鞘に戻した。握りしめていた左手を開き、包帯の巻かれた掌を見下ろしている。


「聖餐式って……」


 声が掠れていた。


「俺たちが砦の礼拝堂で……あれが……」


 カイは言葉を飲み込んだ。大きな身体が僅かに揺れた。足元が覚束なくなったのではない。自分が生まれてから当たり前に信じてきた儀式の意味が、根こそぎ揺さぶられたのだ。

 カイは砦の礼拝堂で聖餐式に参加していた。兵士たちの多くがそうだ。聖杯から聖水を飲み、「原初の恵みに感謝する」と唱える。あれは。あれの起源が。


 セレスがカイの隣に立っていた。何も言わなかった。ただ、肩が触れるほどの距離にいた。それがセレスの最大限だった。


* * *


 リディアが壁画の前に膝をつき、端末を操作し始めた。


 指が震えていた。それでも動きは正確だった。壁画全体のスキャンデータを記録し、削られた口元のクローズアップ画像を複数角度から撮影し、碑文区画のデータと照合している。


「リディア」


 燐が声をかけた。


「記録はあとでいい。今は」


「いいえ。今やるわ」


 リディアの声は、いつもの軽さを完全に失っていた。端末を握る手の震えが止まらない。それでも目は画面から離れない。


「この壁画の解読、碑文との照合、古代ルーンの言語体系の特定……これ全部、帝国の古文書研究がなきゃできないのよ。アルカディアの大書庫のルーン文字対照表。帝国学術院の古代言語辞典。全部、帝国の体系」


 リディアの指が画面の上で止まった。


「私の家が……ベルゲン家が帝国で研究していたのは、こういうものだったのかもしれない」


 声が落ちた。端末を抱えたまま、リディアは壁画を見上げていた。削られた口元。意図的に消された牙。数千年前の壁画を、誰かが後世に破壊した。真実を隠すために。


「父さんと母さんも、この真実に辿り着いたのかしら。帝国の中で。そして……」


 リディアは言葉を切った。唇を噛んだ。端末の画面に視線を戻し、データの記録を再開した。指の震えは止まらなかったが、撮影の精度は落ちていなかった。


 燐はリディアの横顔を見ていた。帝国からの亡命者。連合の技術士官。快活で知的好奇心が強く、軽口とツッコミで場の空気を変える女性。その内側に、両親への問いを抱えている。帝国で何を研究していたのか。何を見つけたのか。何故、連合に来たのか。


 この遺跡が、その問いの入り口を開いたのかもしれない。


* * *


 リディアの記録作業が続く間、燐は広間の隅に座った。


 壁にもたれ、右手の指で左のこめかみを押さえている。鈍い圧迫感がまだ脈打っている。ゴーレム戦で使った擾乱の負荷は軽微だったが、炭化した魔導回路は完全には回復していない。脳内魔法式を再起動できるのはあと二回が限度だろう。出力の上限は、岩蜥蜴の時に思い知った。


 ロリが燐の隣に座っていた。膝を抱え、壁画を見つめている。


 少女の横顔は、落ち着いていた。震えは止まっている。けれど目が遠い。壁画の向こうに、まだ記憶の残滓が見えているかのような。


「リン」


「ああ」


「壁画の人と、ロリは……」


 ロリは自分の銀色の髪を一房、指で掬った。壁画の存在と同じ色の髪。


「同じなのでしょうか」


 燐は少女の顔を見た。


 答えるべき言葉がなかった。分からない、が正直なところだ。壁画の存在がロリに似ているのは事実だ。ロリだけが壁画に触れて記憶を受け取ったのも事実だ。しかし「同じ」とは何を意味するのか。燐にはそれを判断する材料がなかった。


「分からない」


 正直に言った。


「けど、一つだけ分かった」


 ロリが顔を上げた。


「お前にしかできないことがある。この壁画に触れられたのは、お前だけだ。俺もリディアもバルカスも……誰も触れられなかった」


 それは推測ではなかった。壁画が光り始めてから、燐はずっと広間のマナの流れを追っていた。壁画のマナはロリにだけ反応していた。他の五人が近づいても、壁画は石のままだった。


 こいつが鍵だ。


 その認識が、燐の中で静かに形を変えていた。


 守る対象。保護すべき少女。力を持つが制御できない子供。脆く、危うく、常に手を引いていなければ壊れてしまう存在。燐がロリをそう見ていた。ここまでは。


 しかし、この壁画の前で。ロリが光に包まれ、記憶を受け取り、震えながらもその言葉を伝えた瞬間、何かが変わった。


 ロリは鍵だ。


 この遺跡だけではない。おそらく、もっと大きなものの鍵だ。古代の真実への。歴史が隠してきた秘密への。燐たちが辿ろうとしている道の先にあるものへの。

 ロリにしか開けられない扉がある。ロリにしか読めない歴史がある。


 守る対象から、導き手へ。


 燐はまだその認識を言語化していなかった。胸の奥で形を成し始めた何かを、まだ言葉にできていない。それでもロリの手を引く力の加減が、微かに変わったことは自覚していた。引っ張るのではなく、並んで歩くための力加減に。


「ロリ。お前がこの先の道を開くかもしれない」


 その言葉が、燐の口から出た時、自分でも驚いていた。


 ロリが目を見開いた。


「……ロリが?」


「ああ。俺たちに読めないものを、お前は読める」


 少女の青藍の瞳が揺れた。恐怖ではなかった。戸惑いだった。自分が「鍵」であるという認識を、受け止めきれない。それでも拒絶はしなかった。


「……はい」


 ロリは小さく頷いた。膝を抱えた手を解き、自分の右手を見た。壁画に触れた手。記憶を受け取った手。カイの足元を支えた手。


「ロリ、頑張ります」


 声は小さかった。けれど、震えてはいなかった。


* * *


 リディアが記録を終えた。


 端末をポーチにしまい、立ち上がる。膝についた石の粉塵を払いながら、壁画を最後にもう一度見上げた。削られた口元。沈黙した壁面。


「記録は全部取った。碑文データとの照合は帰ってから。撤収しましょ」


 バルカスが頷いた。


「地上の索敵陣は二時間設定だ。そろそろ切れる」


「カイ、セレス。先に地上に戻って周辺を確認しろ。俺たちは後から上がる」


 六人が広間を出る準備を始めた。リディアがロリの肩を軽く叩き、立ち上がりを促した。ロリが立ち上がり、燐の隣に戻った。


 その時、セレスがロリの前に歩み出た。


 灰色の目が、真っ直ぐにロリを見た。セレスの手が動き、ロリの左肩にそっと置かれた。軽い力。けれど確かな重み。


 セレスは何も言わなかった。


 五秒。それだけの時間だった。セレスの手がロリの肩を離れ、狙撃手は元の位置に戻った。ライフルを抱え直し、回廊の方に向き直る。


 ロリは肩に残った手の温もりに、一瞬だけ目を閉じた。


 セレスにとって、それが「よくやった」であり、「大丈夫」であり、「ここにいる」であることを、ロリは知っていた。花畑で花冠を一緒に編んだ時間が、それを教えていた。


* * *


 回廊を戻った。


 螺旋の石段を登りながら、六人の足音が壁に反響する。来た時よりも足取りが重い。疲労だけではない。壁画が見せたものの重量が、一人ひとりの背中に載っている。


 燐は先頭を歩きながら、自分の思考を整理していた。


 聖教の聖餐式の起源。壁画の存在とロリの類似。削られた牙。改竄された歴史。碑文の「母なる者の血」。ロリが受け取った記憶。血を飲む人々の感謝。


 点と点が線になりかけている。しかし全体像はまだ見えない。見えないものを無理に繋げれば、誤った結論に至る。燐は自分の推論に蓋をした。今は情報を集める段階だ。結論は、もっと多くの欠片が揃ってからでいい。


 螺旋の出口が見えた。地上からの光が差し込んでいる。薄曇りの空の白さが、遺跡の藍色の光に慣れた目には眩しかった。


 地上に出た。


 盆地の赤い砂の上に、六人の靴跡が残っている。行きにつけた足跡だ。霧はすでに消え、石柱の群れが乾いた空気の中に立ち並んでいる。


 カイが東の岩壁の上から降りてきた。足場を確認しながら、器用に岩を伝って降りてくる。表情が硬い。


「燐殿。東の丘陵に動きがあります」


 燐の足が止まった。


「詳しく」


「セレスが確認しました。丘陵の稜線上に、複数の人影。少なくとも三つ。動いている。こちらに向かっている可能性がある」


 カイの声は冷静だったが、額に汗が浮いていた。


 燐は東を見た。盆地の縁を取り囲む赤い岩壁の向こうに、丘陵の稜線が覗いている。目視では何も見えない。セレスのスコープなら。


「セレス。確認は」


 セレスが岩壁の上から、ライフルのスコープを覗いたまま答えた。声は平坦だったが、報告の速度がいつもより速い。


「人影五。稜線沿い、移動中。武装あり。距離二キロ。方向はこの盆地」


 二キロ。徒歩なら三十分。騎乗なら十五分。


 燐の歯が噛み合った。脳が自動的に戦術を組み始めている。退路は密使の道のみ。盆地は防衛に適しているが、包囲されれば逃げ場がない。正体不明の人影が五つ。敵か味方か。


「帝国か」


「不明。距離が遠すぎて紋章が見えない」


 燐は振り返った。壁画の真実を抱えた五人の仲間が、地上の光の中に立っている。リディアが端末を握り、カイが大剣の柄に手をかけ、バルカスが大斧を構え直している。


 ロリが燐の袖を掴んでいた。小さな手が、布を引いている。


「リン」


 少女の声は静かだった。壁画の記憶の余韻がまだ残っている目。けれどその目は地上に戻っていた。今、ここにある現実を見ている目だった。


「あの人たちは、悪い人ではなかったのです。笑って、ありがとうと……」


 ロリの青藍の瞳が、燐を見上げた。


「けれど……どうしてそれが、こんなに怖いのですか」


 燐の口が開きかけ、閉じた。


 答えられなかった。


 真実は怖い。優しかったものの正体が怖い。感謝されていたという記憶が怖い。なぜならその真実を、誰かが消そうとしたからだ。牙を削り、歴史を書き換え、何千年もかけて隠した。感謝されていたものを、恐怖の対象に変えた。


 なぜそうなったのか、燐には分からない。分からないから、怖い。


 けれど今、ロリの問いに答えている余裕はなかった。


「全員、撤収する。密使の道を北に戻る。急げ」


 燐の声が盆地に響いた。六人が動き出す。石柱の間を抜け、密使の道の入り口に向かって走る。


 ロリの問いが、燐の胸の奥に鈍い重みとなって残っていた。


 東の丘陵で、人影が動いている。複数。こちらに向かっている。


 壁画の真実と、迫りくる脅威。二つの重みを背負ったまま、六人は赤い岩壁の隙間に身を滑り込ませた。

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