第3章-48話「古代の幻影」
翌朝、盆地に霧が出ていた。
石柱の頂が乳白色の帳の中に沈み、遺跡の入り口は灰色の靄に覆われて輪郭を失っている。岩壁を伝って降りてきた夜の冷気と、地下の回廊から吹き上がる温かい空気がぶつかり合い、盆地の底だけに薄い雲を作っていた。
革靴の先が濡れている。草のない赤い砂の上にも結露が降り、一歩ごとに足跡が刻まれていく。
「全員、装備を確認しろ。昨日とは配置を変える」
燐の声は低く、簡潔だった。携行食糧の残りを口に押し込みながら、六人を見渡す。
「カイ、セレス。今日は内部に入れ。見張りは交代制にする。遺跡の入り口に遅延式の索敵陣を仕掛けておく——出力は最低限だが、二時間は持つ。何か来れば振動で警報が鳴る」
「了解です」カイが大剣の柄を叩いて確認した。金属が硬い音を返す。
セレスは黙って魔導ライフルの弾倉を抜き、残弾を数えてから装填し直した。スコープのレンズを布で拭う。その手つきは花冠を編んでいた時と同じく、迷いがなかった。
「昨日の反射——東南東の丘陵に出た光は、その後は」
「ない」セレスが短く答えた。「だが、なかったことにはしない」
「同感だ」
バルカスが大斧を肩に担ぎ上げた。昨夜の見張り当番は彼が最後の交代を務めている。目の下に僅かな影があったが、動きには緩みがない。
「索敵陣を仕掛けたら、入り口の近くに水と食糧を置いておけ。急ぎ戻った時、補給に走る余裕はない」
燐は頷いた。バルカスの助言は実戦から削り出されたものだ。砦の斥候部隊を長年率いてきた男の判断に、無駄はなかった。
遺跡の入り口で索敵陣を設置する間、ロリはその傍にしゃがみ込んで燐の手元を見つめていた。昨夜、少女は焚き火の傍で長い間起きていた。燐が見張りの合間に確認した時、ロリは毛布にくるまったまま、自分の掌をじっと見つめていた。指を開いたり閉じたりしている。何をしているのか問いかけようとして、やめた。その横顔に、花畑で「戦いたい」と言った時と同じ真剣さが浮かんでいたからだ。
「リン。索敵陣は、目に見えないのですね」
「ああ。マナの振動を感知する仕掛けだ。物理的には何もない」
「けれど、壊されたりしないのですか。敵が魔術を使える人なら」
燐は手を止めて、ロリを見た。いい質問だった。
「使える奴なら壊せる。ただ、壊した瞬間にこっちへ信号が来る。数秒あれば十分だ」
「壊されても、意味がある……」
ロリは小さく頷いた。何かを考えている目だった。白い指が、掌の上で開いたり閉じたりしている。昨夜と同じ仕草だった。
* * *
六人が地下に降りた。
昨日と同じ螺旋回廊だが、六人で歩くと空気が変わる。足音の密度が増し、石壁に反響する靴音の層が厚くなる。カイの重い長靴とセレスの軽い足音が、昨日はなかった音色を加えていた。
バルカスの発光石が回廊を照らす。藍色の壁面が光を受け、刻まれた魔導回路の溝が銀の線のように浮かび上がった。
「うわ……すごいな」
カイが壁に手を伸ばしかけ、バルカスの視線に気づいて引っ込めた。
「触るな」
「はい。すみません」
リディアが先頭近くで端末を操りながら、昨日のスキャンデータと照合していた。
「マナの流量が昨日より微増してるわ。壁面の回路が、少しずつ出力を上げてる。私たちが来ることを……いえ、ロリが来ることを、遺跡全体が認識し始めてるのかも」
燐はロリの手を取ったまま歩いていた。少女の指は今日は温かかった。昨日の冷たさはない。むしろ指先に微かな熱がある。脈拍を指先で感じる。速い。緊張だろうか。いや——期待に近い鼓動だった。
碑文の区画を過ぎ、螺旋が深くなった。足元の石畳に刻まれた矢印が、等間隔で前方を指し示している。
「この先が昨日引き返した広間だ。全員、警戒を——」
言いかけた時、空気が変わった。
変わったのは空気だけではない。足の裏に伝わる振動が、微かに——だが確実に——揺れた。地鳴りのような低周波が、石畳を伝って六人の靴底に触れた。
バルカスの大斧が構えられた。カイの手が大剣の柄を握った。セレスがライフルの安全装置を解除した。三つの動作が、ほぼ同時だった。
「リディア。何だ」
「待って——マナの流量が急上昇してる。壁面の回路に大量のマナが流れ始めた。これは——」
回廊の奥から、音が聞こえた。
石が擦れる音。重く、硬く、長い。何かが動いている。数千年の沈黙を破って、この遺跡の中で何かが起動している。
「広間だ。広間の中で動いてる」
燐が脳内魔法式を最低出力で起動した。探査モード。広間の方角にマナの塊が二つ。昨日はなかった反応だ。大きい。人間よりもはるかに。
「敵か」バルカスが問うた。
「分からない。だが——動いている」
六人が回廊の最後の曲がり角に到達した時、広間の入り口から光が漏れていた。昨日は暗かったはずの空間が、藍色の淡い光に満ちている。壁面の魔導回路が起動したのだ。血管のような溝を流れるマナが、光となって広間全体を照らしている。
その光の中に——二つの影が立っていた。
* * *
ゴーレムだった。
石と金属の複合体。人間の二倍以上の高さがある巨躯が、広間の中央に二体、向かい合うように直立していた。
灰色の石材で形作られた胴体に、青銅に似た金属の装甲が嵌め込まれている。腕は石の柱のように太く、関節部には藍色に光る結晶が露出していた。頭部と呼ぶべき部分には顔がない。代わりに、正面に三日月の紋章が刻まれている。あの紋章。扉にあったものと同じだ。
足がない。腰から下は円錐形の石の台座と一体化しており、台座の底面が床から数センチ浮いている。浮遊している。床面の魔導回路から供給されるマナが、台座と床の間に青い光の膜を作り、ゴーレムの巨体を空中に保持していた。
壁面の碑文の前を通過した時に反応したのか。あるいは、ロリの存在を遺跡が認識した結果、防衛機構が起動したのか。どちらでもいい。重要なのは、二体のゴーレムが入り口を塞ぐように回転し、六人に正面を向けたことだった。
最初の攻撃は、警告なしに来た。
右のゴーレムの石の腕が、振り上げられた。
速い。巨体に見合わない速度で腕が振り下ろされ、広間の床が爆ぜた。石畳が砕け、破片が放射状に飛び散る。衝撃波が足元から突き上がり、全員の体勢を揺らした。
「散開!」
燐の指示に従い、六人が散った。
カイが左に飛び、大剣を引き抜いた。バルカスが右に回り込み、大斧を構える。セレスは回廊の入り口付近まで後退し、膝をついてライフルを構えた。リディアがロリを掴んで壁際に引き寄せ、二人で柱の影に身を隠した。
燐は刀を抜いた。
岩蜥蜴の教訓が脳裏にある。中出力の封印で膝をついた。あの日から、回路の限界線は思い知っている。ここは刀で行く。
「リディア! あれの構造を見てくれ! 弱点がどこか!」
「見てる! 端末回してる! ——関節部よ! 腕と胴を繋いでる部分に魔導結晶が露出してる! あそこからマナが供給されてるわ! 結晶を壊せば腕が止まる!」
リディアの声は緊張で上ずっていたが、分析は正確だった。端末の画面を睨みながら、ゴーレムの構造をリアルタイムで解析している。
関節部。結晶。燐は二体のゴーレムの構造を目で追った。肩と胴を繋ぐ接合面に、藍色の光を帯びた結晶が嵌まっている。装甲の隙間——溝に沿って刃を入れれば、届く可能性がある。
「カイ、左を引きつけろ。俺が右の関節を狙う」
燐は右のゴーレムに向かって走った。
左のゴーレムがカイに向かって台座を滑らせた。浮遊する巨体が床の上を滑走する動きは不気味なほど滑らかだった。音がない。石と金属の塊が、無音で迫ってくる。
カイは逃げなかった。
大剣を正面に構え、ゴーレムの石の腕を受け止めた。
衝撃が腕を伝って全身に走った。膝が数センチ沈む。靴底が石畳を削る。だがカイは一歩も退かなかった。大剣の刃がゴーレムの腕の石を噛み、火花が散った。
「硬いッ——!」
カイの歯が食いしばられていた。額に血管が浮く。腕の筋肉が軍服の下で盛り上がる。岩蜥蜴の鱗とは次元が違う硬さだった。大剣の刃が弾かれ、カイが横に転がる。
「カイ! 腕を狙うな! 関節部だ! 肩の付け根の青い結晶!」
リディアの声が飛んだ。
右のゴーレムが燐に向かって腕を振り上げた。二度目の打ち下ろし。
燐は前に出た。石の拳が振り下ろされる軌道を読み、半歩ずらす。衝撃波が足元から突き上がったが、踏み込みのタイミングで石畳を蹴っていた——波が来る前に空中にいる。ヴァルドの剣圧に比べれば、軌道は単純だった。
拳が床に激突した隙に、右のゴーレムの胴体に肉薄した。肩関節部の溝が目の前にある。藍色の結晶が光っている。刀を突き込んだ。
刃が石に当たった。硬い。結晶に届く前に、装甲の縁で刀身が弾かれた。手首に衝撃が走る。溝の幅が刀身より狭い。角度が合わない。
ゴーレムの腕が横薙ぎに払われた。燐は後方に跳んで回避したが、風圧だけで革鎧の裾がはためいた。一撃の重さが違う。当たれば骨が砕ける。
——刀では角度が足りない。溝に沿って刃を入れるには、もっと背面から——。
「セレス! 右の肩の結晶、見えるか!」
回廊の入り口付近で、セレスはすでにスコープを覗いていた。
「見えてる。角度が悪い。正面からだと結晶が腕の影に——」
「背面を向かせる。バルカス、右を回してくれ」
バルカスが頷いた。大斧を片手に持ち替え、右のゴーレムの正面に走り込んだ。燐と挟む形だ。バルカスの大きな身体が右のゴーレムの視界を横切り、ゴーレムの頭部——三日月の紋章が刻まれた無表情な正面——がバルカスを追って回転した。燐が背後から刀で装甲を叩き、音で注意を引き戻す。ゴーレムが迷った。どちらを向くべきか、無機質な判断が揺れている。
「カイ! 左を押さえていろ!」
カイは左のゴーレムと対峙しながら、叫び返した。
「了解——こっちは押さえてます!」
左のゴーレムが再びカイに向かって滑走した。カイは大剣を盾のように構え、石の腕の打撃を受け止める。衝撃で後退する。靴底が石を削り、足跡が二本の線を引いた。
右のゴーレムが、燐とバルカスの挑発に翻弄されて回転を続けた。台座が床の上を滑り、巨体の背面がセレスのいる方角に向いた。
「今よ!」リディアが叫んだ。「セレス! 右のゴーレム、背中の肩関節部に結晶が見えてるはず!」
乾いた破裂音が広間に反響した。
セレスの魔導ライフルが火を噴いた。弾丸がゴーレムの背面を走り、右肩の関節部に露出した藍色の魔導結晶に吸い込まれた。
結晶が——割れなかった。
弾丸が結晶の表面で弾かれ、火花を散らして床に落ちた。
「硬い……! 通常弾じゃ抜けない」
セレスの声に焦りはなかった。だが、次弾の装填速度がいつもより速い。弾倉を抜き、別の弾を込め直している。
「セレス、持ってるか。貫通弾は」
バルカスが右のゴーレムの打撃を大斧で受け流しながら問うた。ゴーレムの拳がバルカスの頭上を通過し、壁面を抉った。石の破片が降り注ぎ、バルカスの灰色の短髪に粉塵が積もる。
「あと二発」
「一発でいい。当てろ」
「当てる。だが——もう一度背中を向けさせて」
バルカスは歯を剥いた。笑いではない。闘志だった。大斧を振り回し、ゴーレムの台座に叩きつける。金属と石がぶつかる鈍い衝撃音。ゴーレムの巨体が揺れ、再びバルカスを追って回転した。
その時、左のゴーレムがカイの防御を突破した。
カイの大剣を弾き、二撃目の打ち下ろしがカイの足元を狙った。石畳が炸裂し、瓦礫が噴き上がった。カイは横に跳んで直撃を避けたが、足元に散乱した石の破片に革靴の底が滑った。
体勢が崩れた。
左足が瓦礫の上に着地した瞬間、崩れた石畳の端を踏み、足首がねじれるように傾いた。大剣の重みが体のバランスを引き裂き、カイの身体が左に倒れかける。
左のゴーレムが、倒れかけたカイに向かって石の拳を振り上げた。
その瞬間——。
ロリが手を伸ばした。
柱の影から。リディアの腕の中から。少女の右手が、カイの方に向かって突き出された。
考えて行動したのではなかった。身体が動いた。カイが倒れる姿を見た瞬間、胸の奥から何かが走り、腕を伝って指先に集まった。温かかった。焚き火の残り火を掌に包んだ時のような、じんわりとした熱。
ロリは何が起きているのか理解していなかった。
ただ——カイが倒れてはいけないと思った。あの大きな人が、瓦礫の上で膝を折って、あの石の拳に潰されてはいけないと、胸が叫んだ。
指先から、マナが溢れた。
目に見える光ではなかった。リディアの端末だけが、その瞬間のマナ密度の急激な跳ね上がりを記録していた。ロリの右手から放たれた力が、カイの足元に到達し——空気が、変わった。
カイの崩れかけた左足の下で、瓦礫の間に何かが生まれた。風のような。クッションのような。目には見えないが、カイの靴底を押し返す力。崩れた石畳の上で滑りかけた足が、突然安定した。まるで見えない手が足首を支えたように。
カイの体勢が立ち直った。
傾いていた体が、瞬間的に垂直に戻った。大剣を握り直す。左足が瓦礫の上にしっかりと踏ん張り——次の瞬間、カイは跳んだ。
振り下ろされた石の拳の軌道から横に飛び退き、着地と同時に大剣を横薙ぎに振り抜いた。刃が左のゴーレムの肩関節部を捉えた。正面からの一撃ではない。リディアが指摘した弱点——結晶が嵌め込まれた溝に沿って、刃が滑り込む角度。関節の隙間に鋼が食い込み、魔導結晶の固定部分を抉った。
青い光が弾けた。
結晶が台座から剥がれ、砕けた破片が床に散らばった。左のゴーレムの右腕が——だらりと垂れた。関節を失った石の腕が、もう持ち上がらない。マナの供給が途切れ、腕全体が石の塊に戻っている。
「片腕ッ! 落とした!」
カイの声が広間に響いた。
同時に、セレスの二発目が鳴った。
貫通弾。通常弾とは異なる、甲高い金属音を含んだ銃声。弾丸が空気を裂き、バルカスが回転させた右のゴーレムの背面——肩関節の魔導結晶に、正確に突き刺さった。
今度は——砕けた。
結晶が内側から弾けるように崩壊し、藍色の光が一瞬だけ強く輝いてから消えた。右のゴーレムの左腕が脱落した。石と金属の塊が床に落下し、轟音を立てた。広間全体が揺れる。
「二体とも片腕だ! 押せるぞ!」バルカスが叫んだ。
残った腕で攻撃を続けようとするゴーレムに、カイとバルカスが二方向から迫った。カイが正面を引きつけ、バルカスが側面から大斧を叩き込む。カイの大剣がもう一方の肩関節を狙い、バルカスの斧が台座を揺らす。セレスが最後の通常弾で結晶のひび割れた表面を撃ち抜き、剥離した装甲の隙間からカイの刃が入る。
リディアは壁際で端末を操りながら、リアルタイムで情報を叫び続けた。
「右のやつ、台座のマナ供給が不安定になってるわ! 床との接続が切れかけてる! あと一撃で浮遊力が——」
バルカスの大斧が台座の底面を打った。浮遊していた巨体が傾き——床に落ちた。台座と床の間の青い光の膜が消え、石と金属の塊が自重で石畳に激突した。動かない。マナの供給が完全に途絶え、右のゴーレムは石の彫像に戻った。
残る左のゴーレム。片腕を失い、もう一方の腕も関節部にカイの刃を受けて動きが鈍っている。
「燐。拘束できるか」
バルカスが振り返った。
燐は刀を鞘に戻し、壁に背を預けていた。こめかみの奥に鈍い圧迫感が残っている——岩蜥蜴の時の焼けるような激痛とは違う。低出力なら、まだ回路は応えてくれる。
左のゴーレムを見た。片腕を失っても、残った腕の打撃は健在だった。カイの大剣を弾き返し、バルカスが側面から斧を振るっても台座が滑って距離を取る。攻撃は当たっている。だが、台座が浮遊している限り、打撃のたびにゴーレム自身が後退して衝撃を逃がしてしまう。浮いているものは押せない。力が伝わらない。
——あれを地面に縫い付ければいい。
拘束陣は無理だ。中程度の出力を出せば、また膝をつく。だが——擾乱なら。台座と床の間のマナの膜を乱せば、浮遊力が不安定になる。不安定になった瞬間に二人が台座を叩けば、接続が断てる。
「カイ、バルカス。合図で台座を叩け。上と下から同時に」
バルカスが一瞬だけ振り返り、燐の目を見た。壁に寄りかかっている男の目が、まだ戦場を読んでいることを確認して——頷いた。
「行ける」
脳内魔法式を最低出力で駆動した。
封印術式ではない。干渉型の擾乱——左のゴーレムの台座に流れ込むマナの波形に、逆位相のノイズを混ぜる。浮遊力を止めるのではなく、揺らす。衝撃を逃がせなくする。
左のゴーレムの台座が揺れた。滑走の軌道がぶれ、巨体が僅かに沈み込む。床との隙間が狭まった。浮いていた石の塊に、重力が戻りかけている。
「今だ!」
カイとバルカスが同時に動いた。カイの大剣が台座の側面を叩き、バルカスの大斧が底面を打ち上げた。上下からの挟撃——浮遊力が安定していれば衝撃を逃がされていたはずの一撃が、揺らいだ台座を直撃した。接続面に亀裂が走り、青い光の膜が瞬いて——消えた。
左のゴーレムが崩れ落ちた。石の巨体が広間の床を叩き、反響が遺跡全体を震わせた。石畳に広がるひび割れ。粉塵が舞い上がり、藍色の壁の光に照らされて白い靄となった。
動かない。
二体とも。
広間に、六人の荒い呼吸だけが残った。
* * *
カイが大剣の柄に両手を置き、刃を床に突き立てたまま膝を折った。腕が震えている。額から汗が顎に垂れ、石畳に落ちた。
「……堅かった」
声が掠れていた。カイは自分の左手を見下ろした。大剣の衝撃を受け続けた掌の皮がめくれ、赤い肉が覗いている。握力がもう戻らない。
バルカスは大斧を肩に戻し、二体のゴーレムの残骸を見渡していた。
「古代の防衛兵器か。封鎖術式といい……守りが硬い。——浮いている間は、いくら叩いても滑って逃げやがった。お前が揺らさなければ落とせなかったぞ」
最後の一言は燐に向けられていた。
「守る価値のあるものが、この先にあるってことよ」
リディアが柱の影から出てきた。端末を片手に、データを確認しながら歩いている。もう片方の手でロリの肩を押さえていた。
「ロリ。大丈夫?」
「はい……」
ロリの声は小さかった。少女は自分の右手を見つめていた。指先が震えている。寒さではない。自分の手が、先ほど何をしたのか——分かっていない。分かっていないが、何かが起きたことは感じている。掌の中心がまだ温かい。焚き火の残り火を包んだ後のような余韻が、指先まで沁みている。
カイが立ち上がり、大剣を鞘に戻した。左手をぶらぶらと振って血流を戻しながら、ロリの方を見た。
「ロリ」
「……はい」
「さっき、俺が瓦礫で転びかけた時だ。足元で何かがあった」
カイの声は穏やかだったが、真剣さがあった。ゴーレムの拳に叩き潰されかけた自分を救ったものが何だったのか、カイにも分かっていない。だが、足の裏に確かな感触が残っていた。崩れた石の上で滑った靴底が、何かに——見えない何かに——支えられた瞬間。
「あれ、お前がやったのか」
ロリの体が固まった。
青藍の瞳が見開かれ、カイを見上げている。唇が微かに開いたが、言葉が出ない。
「ロリ」
リディアが屈んで、少女の目線に合わせた。端末を見せた。画面には、マナ密度の時間推移グラフが表示されている。
「ここ。カイが瓦礫で体勢を崩した瞬間——ロリのマナ出力が、一瞬だけ跳ね上がってるわ。しかも方向性がある。ロリからカイの足元に向かって、指向性を持ったマナの放出が記録されてる」
リディアの声は冷静だったが、端末を持つ手が微かに震えていた。興奮を抑えている。
「あなたがカイを助けたのよ。意識して手を伸ばして、カイの足元にマナを送った」
ロリは自分の右手を見つめていた。
開いた掌。五本の白い指。その指先に、さっきの温かさがまだ残っている。
「ロリは……」
声が震えた。
「カイさんが倒れると思って……それで、手を……」
言葉が途切れた。自分でも何をしたのか説明できない。ただ、倒れてはいけないと思った。石の拳に潰されてはいけないと思った。その気持ちが腕を伝って、指先から——。
「守りたかった……のです」
ロリの声は、囁くように小さかった。だが、その声には掠れも震えもなくなっていた。
カイは数秒、ロリを見つめた。それから、大きな手をロリの頭に載せた。銀色の髪に指を沈ませ、一度だけ軽く撫でた。
「お前が助けてくれたんだな」
「……え」
「ありがとう。お前のおかげで、俺はまだ立ってる」
カイの声は素朴だった。飾りがなかった。ゴーレムの拳から守られたことへの、ただ真っ直ぐな感謝だった。
ロリの目が潤んだ。
唇が震え、こらえきれずに一度だけ瞬きをした。睫毛の先に溜まった水滴が、頬に一筋の線を引いた。泣いているのではなかった。もっと深い場所から込み上げてきたものが、目から溢れただけだった。
「……ロリにも、できることがあったのですね」
誰かの手を。守りたいと思った時に、指先から力が出た。それは剣ではなかった。ライフルでもなかった。斧でも術式でもなかった。ただ——風のような。クッションのような。倒れかけた人の足元を支える、小さな力。
リディアがロリの肩をそっと抱いた。
「あったわよ。ちゃんとあった」
リディアの声が温かかった。学者の声ではなく、姉の声だった。
燐は壁に背を預けたまま、ロリの横顔を見ていた。こめかみの鈍い圧迫感がまだ残っている。だが——少女が自分の手を見つめる目の中に、花畑で「何もできない」と言った時の翳りはなかった。
あの時、ロリは「戦いたい」と言った。燐は「守られていろ」と押し返した。リディアが「決めるのはこの子よ」と言った。
そして今日。ロリが伸ばした手は、戦うためではなく、守るためだった。
バルカスがゴーレムの残骸を回り込みながら、一度だけロリの方を見た。何も言わなかった。だが、大斧を肩に戻す動きが、一拍だけ緩んでいた。
燐は壁から背を離した。
「全員、怪我の確認をしろ。カイ、左手を見せろ」
「大丈夫です。皮がちょっとめくれただけ——」
「見せろ」
カイが大人しく左手を差し出した。掌の皮が裂けて血が滲んでいる。燐は腰のポーチから布を取り出し、カイの手に巻いた。消毒薬はないが、清潔な布で圧迫すれば出血は止まる。
その間に、セレスが降りてきた。ライフルの弾倉を外し、残弾を確認する。
「貫通弾、使い切った」
声は平坦だったが、セレスは一度だけライフルの銃身を指先で撫でた。弾薬の補充が効かない前線で、切り札を使い切った重みを、静かに受け止めている。
「すまない。消費させた」
「……謝らない。使うべき時に使った」
セレスの視線がロリに向いた。一瞬だけ、その灰色の目に何かが過ぎった。
「カイを助けたの、見えた」
ロリが顔を上げた。
セレスは何も付け加えなかった。ただ小さく頷いて、弾倉を装填し直した。セレスにとって、それが最大限の言葉だった。
* * *
ゴーレムの残骸の向こう側に、あの扉があった。
昨日と同じ石の扉。三日月と牙の紋章。だが——何かが違う。
紋章が光っている。
藍色の壁面の魔導回路と同じ光が、扉の表面を走っていた。昨日は発光石の光を反射するだけだった銀色の線が、今は自ら発光している。三日月の弧が青白く輝き、二本の牙の意匠がその中で脈動していた。
そして、扉の中央に——亀裂が走っていた。
開きかけている。
一枚岩の扉の合わせ目が、指一本分ほど開いていた。その隙間から、微かな風が吹き出している。乾いた、だが不思議に甘い香りを含んだ風。古い石の奥に眠っていたものの匂い。果実酒の底に残った澱のような、何千年もの歳月が凝縮した気配。
「扉が……開いてる」
リディアが呟いた。
「ゴーレムの起動と連動してるのかしら。防衛機構を突破したことが、トリガーになった……?」
燐は扉に近づいた。三メートルの距離で足を止める。脳内魔法式を最低出力で起動——探査。扉の向こうに、昨日感じた巨大なマナの塊がある。だが、その質が変わっていた。密度はそのままに、圧力が和らいでいる。拒絶ではなく——門が開いたのだ。
「ロリ。扉を見てどう感じる」
燐は振り返った。
ロリは扉を見つめていた。昨日のような恐怖の反応はなかった。顔色は白いが、唇には血の色が残っている。瞳孔も開いていない。三日月と牙の紋章を見つめる目には、恐怖ではなく——問いかけがあった。
「こわい……のは、少しだけあります。けれど、昨日とは違います」
少女の右手が、自分の胸に触れた。心臓の位置を押さえる仕草。昨日と同じだが、今日の指は震えていなかった。
「昨日は、牙が怖かったのです。けれど今日は……知りたい。この先に何があるのか」
ロリの視線が、自分の右手に落ちた。さっきカイの足元にマナを送った手。掌の温かさは消えていたが、記憶は残っている。守りたいと思った時に、指先から力が生まれた。自分には何もないと思っていた。だが——あった。
「ロリにできることがあったなら……この先にあるものも、ロリに関係があるかもしれません」
燐はロリの言葉を聞き、数秒だけ黙った。それから扉に向き直った。
「全員、臨戦態勢のまま入る。俺が先頭だ。バルカス、殿を——」
「言われんでもやっている」
燐は扉の隙間に手をかけた。石の表面は冷たいが、紋章が光る部分だけが微かに温かかった。力を込めると、扉はゆっくりと動いた。数千年の歳月を閉じ込めてきた石が、低い軋みを上げながら開いていく。
光が溢れた。
扉の向こうは——広間だった。昨日見た円形の広間よりもはるかに大きい。天井は闇の中に消え、バルカスの発光石の光でも届かない高さまで上がっている。だが発光石は必要なかった。
壁が光っていた。
三面の壁。正面と左右。三方の壁面に描かれた壁画が、壁面に埋め込まれた魔導回路から供給されるマナの光によって、藍と銀と金の色彩で浮かび上がっていた。
壁画だった。
巨大な壁画が三面を覆い、広間全体を絵の中に閉じ込めている。右の壁には天から光が降り注ぐ場面。左の壁には人々の群れが何かの前に跪く場面。正面の壁には——。
「あれは——」
リディアの声が凍った。
正面の壁画に描かれた人物。いや、人ならぬ存在。天から降り立つ姿が、壁一面を使って描かれている。銀の髪が光の中に広がり、青い瞳が——。
燐の視線がロリに向いた。
ロリは壁画を見上げていた。
その青藍の瞳に、壁画の光が映り込んでいる。三面の壁画が少女の目の中で重なり合い、藍と銀と金の色が混じった。
壁画の中の存在が——こちらを見ていた。
いや。壁画の目が動いたわけではない。石に描かれた絵が動くはずがない。だが——視線を感じた。壁面の彼方から、数千年の時間を越えて、この瞬間のロリを見つめている何かの気配。
ロリの足が、一歩前に出た。
壁画に向かって。銀の髪が藍色の光を受けて蒼く輝き、差し出された右手の指先が——壁画の方へ伸びかけた。
「ロリ」
燐の声が、少女の足を止めた。
ロリが振り返った。目が覚めたような顔をしていた。引き寄せられていたのではない。自分の意志で歩き出した。だが、その意志がどこから来たのか——自分でも分からない。
「……すみません。けれどリン、あの壁の絵が——」
ロリの視線が、もう一度壁画に向いた。
「ロリを見ています。ロリのことを、知っている目で」
広間の三面の壁画が、古代の光に照らされて静かに輝いていた。その光の中で、正面の壁画に描かれた存在の瞳——石に刻まれた、動くはずのない瞳が、ロリの青藍の目と向き合っていた。
六人の足元で、床に刻まれた魔導回路が新たに明滅し始めた。脈動するマナの光が、壁画の光と呼応するように、ゆっくりと広間全体に広がっていく。
遺跡が、目を覚まそうとしていた。




