第3章-43話「花と魔獣と小さな嫉妬」
丘陵の頂を越えた瞬間、景色が裏返った。
灰褐色の乾いた大地が途切れ、斜面を下った先に浅い谷間が広がっている。そこだけが別の季節を生きていた。
草が、生えている。
緑とも黄とも言い切れない中間色の野草が谷底を覆い、その中に白い点。薄紫の点。ところどころに黄色い花弁が、乾季の陽光を受けて控えめに揺れている。
「……花?」
後部座席で身を乗り出したロリの声に、助手席のリディアが端末から顔を上げた。
「地下水脈よ。丘陵の基盤岩が割れてるところから伏流水が染み出してるの。だからここだけ植生が違うのね」
カイがハンドルを切り、車両の速度を落とした。谷間に入ると空気が変わる。乾いた岩埃の匂いの下に、湿った土と、草の青い匂いが混じった。鼻腔の奥にまで沁みるような、生きた土の気配。ここ数日ずっと嗅いできた荒野の乾きとは、明らかに別の層だった。
「バルカス。十分ほど停車したい。水の確認と車両冷却を兼ねて」
燐がフロントガラス越しに谷間を見渡しながら言った。沢筋は確認できないが、草の密度が濃い場所がある。その下に水源があるはずだ。
後部の荷台側に腰を据えていたバルカスが、大斧の柄を膝から下ろして周囲を見渡した。
「……十分だ。それ以上は動かん」
車両が草地の縁に停まると、ロリは待ちきれないように扉を押し開けた。
足元の草に革靴が沈む。乾いた砂利の地面とは違う、柔らかい抵抗。少女は一歩踏み出し、立ち止まり、足の下を見下ろした。草の間から白い小花がいくつも顔を覗かせている。
「リン。お花です」
振り返ったロリの表情は、廃村を離れた時の張り詰めた横顔とは別物だった。あの時は小石の花を握り締め、「強くなりたい」と呟いた。今は生きた花弁に向かって、白い指を伸ばしている。
「踏むなよ」
「はい。気をつけます」
セレスが車両の屋根に上がり、四方を確認した。魔導ライフルの銃口を一巡させた後、降りてくる。
「……脅威なし」
短い報告。だが、その視線がロリの足元で止まった。
しゃがみ込んだロリが、白い花を一輪、茎ごと摘もうとして手を止めている。摘むのが忍びないのか、指先で花弁の縁を撫でるだけで我慢しようとしていた。
セレスは何も言わず、ロリの隣にしゃがんだ。
草地の中からすでに折れかけた花をいくつか選び取る。茎の長いもの、短いもの、白いもの、薄紫のもの。手早く五本ほど集めると、ロリの前に並べた。
「これは……?」
「花冠」
セレスが言った言葉は、それだけだった。
細い指が花の茎を折り曲げ、別の茎に巻きつけていく。爪の先が薄紫の花弁に触れるたび、花粉がかすかに散った。一つ目の結び目を作り、二つ目に移る。その手つきはライフルの分解整備と同じく、迷いがなかった。
「セレスさん、お花を編むのが上手なのですね」
ロリが身を乗り出して覗き込んだ。セレスの手元と少女の銀髪が近づく。風が二人の髪を同じ方向に流した。セレスの銀灰色と、ロリの銀。似た色だった。
「……昔。やっていた」
セレスは手を止めず答えた。声は平坦だったが、「昔」の前にごく短い間があった。四文字の言葉の向こうに何があるのか、燐は聞かなかった。
「ここを、こう」
途中まで編んだ花冠をロリの手に渡す。次の茎をどう絡ませるか、実際にやって見せた。ロリが見よう見まねで茎をねじり、隙間からぽろりと花が落ちた。
「あ……」
「力を入れすぎ。ここだけ押さえて、回す」
セレスの指がロリの手に添えられた。力加減を教えるように、一緒に茎を回す。ロリの白い指とセレスの日焼けした指が、薄紫の花弁の上で重なった。
二度目。今度は落ちなかった。
「できました」
ロリの声が弾んだ。不揃いで茎の長さもばらばらだが、小さな花冠の形になっている。ロリがそれをそっと持ち上げ、自分の頭に載せようとして傾き、セレスが片手で直した。
「……うん」
セレスが頷いた。それだけだった。だが、その短い音は普段の業務報告とは違う温度を持っていた。
バルカスは車両の影で腕を組み、二人を見ていた。十分の休憩と宣言した当人だが、時計を見る気配がない。ロリが花冠を作り終えたのを確認してから、ようやく口を開いた。
「休憩は十分だと言った」
その声は、命令というよりは確認だった。
「バルカス、もう少しだけ——」
リディアが端末から顔を上げ、口を挟みかけた。
「十分だ。同じことを三度は言わん」
同じ言葉を繰り返した。だが、ロリが慌てて立ち上がるまでの数秒間、バルカスの視線は西の空の雲を数えるのに忙しいようだった。
カイが車両の点検を終え、手についた機油を布で拭きながら戻ってきた。ロリの頭の花冠を見て、少し目を丸くした。
「お、似合ってるな」
「カイさん、見てください。セレスさんが作り方を教えてくれたのです」
ロリが花冠を両手で押さえながら小走りに駆け寄った。カイは屈んでまじまじと見て、それから自分の大きな手を見下ろした。
「俺にはこんな細かいことはできんな。花より団子だ」
「お団子も好きです」
ロリの返しに、リディアが噴き出した。
* * *
全員が車両に戻ろうとした時だった。
足元が、揺れた。
地面を伝わる振動。一定のリズムではなく、断続的に、不規則に。
「止まれ」
バルカスの声が全員の足を縫い止めた。
大斧の柄にすでに手がかかっている。背中から柄だけを引き出した状態で、地面に意識を向けている。
セレスが片膝をつき、掌を地面に押し当てた。
「……複数。三。北西方向から接近。距離——」
言い終わる前に、谷の北側の斜面が爆ぜた。
土と草が弾け飛び、灰褐色の塊が地表に飛び出す。体長二メートル近い平たい頭部と太い四肢。全身を覆う石のような鱗が、午後の光を鈍く反射した。
岩蜥蜴。成体だった。
一匹ではない。最初の一匹の左右から、さらに二匹が地面を割って這い出してくる。三匹が扇状に開き、低い姿勢のまま草地を滑るように動いた。
獣の匂いが風に乗って届いた。爬虫類特有の、乾いた粘膜と古い石の混じったような臭気。生理的に喉の奥が詰まるような悪臭だった。
ロリの肩が跳ねた。
「ロリ、車両の影に」
言いながら、燐の手は腰の刀の柄を握っていた。鯉口を切り、片手で鞘を払う。刃が午後の光を一筋だけ反射した。
「カイ、二匹目を取れ。セレスは射撃支援」
カイが大剣を引き抜いた。鞘を離れた刃が空気を裂く音がして、二匹目に向かう。セレスが車両の屋根に飛び上がり、膝をついてライフルを構えた。
先頭の一匹目が、燐に向かって突進してきた。
低い体勢のまま、草を薙ぎ倒しながら滑走する。開いた口から覗く牙は短いが、顎の力で人間の太腿骨を砕く。背面を覆う装甲のような鱗は、通常の刃では傷がつかない。だが——腹は別だ。
燐は正面から受けなかった。
半歩、左に動いた。それだけだった。岩蜥蜴の突進が燐の右脇を通過する。草を踏む音、爬虫類の荒い呼吸、鱗が擦れる硬い音が耳元を通り過ぎた。その一瞬に、刀を下から斜めに振り上げた。
腹の鱗の隙間——柔らかい部分に、刃が走った。手首に伝わる確かな手応え。浅いが、裂いた。岩蜥蜴が身をよじる。爪が地面を引き裂き、草が赤く濡れた。致命傷ではない。だが動きが鈍った。
同時に、二匹目がカイに向かっていた。
カイは大剣の刃を地面すれすれに構え、突進してきた蜥蜴の腹の下に鉄を滑り込ませた。鱗と肉を裂く重い音。カイの足が数センチ後退するが、踏ん張った。
乾いた破裂音が谷に反響した。
セレスの射撃。二匹目の右目の横で鱗が弾け飛び、頭部を揺さぶられた蜥蜴が動きを止めた。
「カイ。左、怯んだ」
セレスの声にカイが即座に反応した。大剣を引き、左へ展開。射撃で怯んだ二匹目に、正面から踏み込む。呼吸が噛み合っている。何度も砦で組んだ連携だろう。
三匹目が、草地の端を迂回していた。カイの背後、セレスの射線が通りにくい角度——車両の側面。そこにロリがいる。
バルカスが動いた。
大斧が背中から完全に引き抜かれた。片手で柄の端を握り、もう一方の手でロリの襟首を掴んで車両の影に押し込む。振り向きざま、三匹目に向かって大斧を横薙ぎに振り抜いた。
斧の刃が岩蜥蜴の側頭部を打った。斬るのではなく、叩く。鈍い衝撃音と共に、二メートルの巨体が横に弾け飛んだ。
燐は一匹目と向き合っていた。
腹を裂かれた蜥蜴は退かなかった。負傷が怒りに変わっている。体勢を低くし、今度は地面を這うように迫ってくる。頭部を下げ、背面の装甲を盾にしている。腹を狙わせない構え。獣の本能だった。
燐の刀では、背面の鱗を貫けない。斬る角度がない。横に回り込もうとしても、蜥蜴の方が回転速度が速い。
背後でカイの声が飛んだ。
「燐殿、こっちを抑えてます! そちらは——」
カイは二匹目と切り結んでいる。セレスはカイの支援に射線を集中している。バルカスは三匹目を弾き飛ばしたが、車両の側でロリを守る位置を崩せない。
全員の手が塞がっている。一匹目は燐が処理するしかない。
——刀では背面を抜けない。腹に回り込めない。
脳内魔法式を起動した。
思考で術式を組み上げる。足枷封印——空間固定の拘束陣。蜥蜴の足を止めれば、横から腹を斬れる。出力は中程度。
回路に魔力が流れた瞬間、視界の端が白く明滅した。
側頭部から後頭部にかけて、焼けた針金を押し当てられたような激痛が走った。脳内の炭化した回路を、魔力が無理やり通過しようとしている。出力を中に設定した時点で、もう限界を超えていた。
膝が折れた。
右膝が草の上に落ちる。右手で側頭部を押さえ、左手で刀を地面に突き立てて身体を支えた。鼻の奥に血の鉄錆めいた味がじわりと滲む。
——何だ、これは。
足枷封印は幾度となく使ってきた術式だ。中程度出力で組めなかったことなど、一度もなかった。それが今、回路を通しただけで膝が折れている。炭化がここまで進んでいるのか。
「燐殿!」
カイの声が聞こえた。だがカイは二匹目と切り結んでいる。こちらに来る余裕はない。
一匹目が、膝をついた燐に向かって口を開いた。
バルカスだった。
三匹目を弾き飛ばした直後、踏み込みながら大斧を振り上げ、一匹目の頭頂部に叩き込んだ。斧の重みで背面の装甲ごと押し潰す。蜥蜴の頭部が地面にめり込み、痙攣して動かなくなった。
バルカスは斧を引き抜き、燐の前に立った。壁のように体を構える。
「立てるか」
問いかけではなかった。確認だった。
「……ああ」
燐は歯を食いしばり、刀を杖にして立ち上がった。痛みは残っている。だが出力を半分以下に落とせば、回路への負荷は耐えられる範囲に収まる。
半分以下。拘束陣は組めない。
燐は術式の構造を頭の中で組み替えた。拘束ではなく、擾乱。低出力で岩蜥蜴の平衡感覚と視覚を数秒だけ狂わせる干渉型の術式。
二匹目が体勢を立て直し、カイに向かって再び滑走を始めた。その足元に、薄い光の紋様が走った。蜥蜴の動きが止まる。頭を振り、方向を見失ったように巨体が揺れた。
「カイ、今だ」
燐の声に、カイが跳んだ。
大剣を頭上に振りかぶり、方向感覚を失った岩蜥蜴の腹の下に刃を突き上げる。鱗と肉を裂く重い音。二匹目が地面に崩れ落ちた。
三匹目は、バルカスの大斧に頭を叩かれた後、這うように斜面を登り始めていた。戦意を喪失している。
「追いますか」
カイが大剣を構え直したが、燐は首を振った。
「逃げる獣は追うな。弾と体力の無駄だ」
三匹目が斜面の土に頭を突っ込み、地中に潜っていった。土が崩れ、穴が塞がる。振動が遠ざかり、消えた。
* * *
草地に静寂が戻った。
二匹の岩蜥蜴の死骸が横たわっている。動きを止めた灰褐色の巨体は、遠目には岩の塊にしか見えなかった。カイの大剣には血と脂がこびりつき、彼は草を掴んで刃を拭っている。
「カイ、怪我は」
「ありません。セレスの射撃が早かったので」
カイが車両の屋根のセレスを見上げた。セレスは黙って頷き、弾倉を確認してからライフルを肩に戻した。
バルカスが大斧の刃についた鱗の破片を親指で弾き、血を払って背に戻した。
「燐。さっきの膝は何だ」
低い声だった。問いかけだが、追及の色を帯びている。
「魔法式の負荷だ。出力を上げすぎた」
「限界はどこだ」
「……半分以下なら、問題ない」
嘘ではない。だが全部でもない。半分以下で組める術式は限られている。拘束陣のような大規模な構造は起動すらできない。擾乱程度の小技が精一杯だ。
バルカスは燐の目を数秒見つめ、それから視線を外した。信じたのか、今は追及しないだけなのか。歴戦の軍人の無言は、どちらとも取れた。
燐は車両の壁に背を預け、呼吸を整えた。側頭部の痛みは引きつつあるが、脳の奥に鈍い圧迫感が居座っている。鼻血は出なかった。ぎりぎり、そこまでは至らなかった。
革鎧越しに背中が車両の鉄板に触れる。午後の日差しで温まった金属の熱が、汗ばんだ背中にじわりと伝わった。その熱を感じられること自体が、まだ自分が動けるという証拠だった。
「リン」
車両の影からロリが出てきた。花冠がわずかに傾いている。戦闘中にしゃがんだ拍子にずれたのだろう。
その青藍の瞳に、見慣れない色が浮かんでいた。怒りではない。悲しみとも違う。
唇が引き結ばれ、小さな拳がローブの裾を握り締めている。
「リン。次は、ロリも戦いたいです」
その一言は唐突だった。
だが、唐突ではなかった。廃村で「強くなりたい」と言い、今日もまた守られるだけの自分を見た。カイが前に出て、セレスが撃ち、バルカスが斧を振るい、燐が術式を組んだ。その間ロリは、車両の影で膝を抱えていた。
「お前は守られていろ」
燐の声は平坦だった。
「でも——」
「訓練を受けていない奴が前に出れば、誰かが庇う。庇った奴が死ぬ」
廃村でも似たようにロリの感情を押し返した。二度目だ。口にするたび、自分の声が他人のもののように聞こえる。
ロリの唇が震えた。花冠を載せた頭がわずかに俯く。銀色の前髪が、青藍の瞳を半分隠した。
「……わかって、います」
声が掠れていた。頭では理解している。だが感情が追いつかない。その軋みが、声の震えに出ている。
「みんなは戦えるのに、ロリだけ……何もできません」
ロリの指が、ローブの裾を握り締めたまま離れなかった。爪が白い生地に食い込んでいる。
「何もできないまま、ただ……後ろにいるだけです」
その声の最後が、僅かに上擦った。泣いているのではなかった。もっと手前の感情だった。悔しさ。自分がここにいてもいなくても何も変わらない、という焦り。それが胸の内側から突き上げてきて、声の輪郭を歪ませている。
ロリの膝が小さく震えていた。ローブの裾を握る手の甲に、血管が浮き出ている。七歳か八歳に見える身体に、収まりきらない感情が詰め込まれている。
燐は答えなかった。
ロリの言葉は正確だった。このパーティでロリだけが戦闘に参加できない。護衛対象だからだ。それが役割であり、そのためにカイもセレスもバルカスもいる。
だが、「守られるだけ」という立場が少女をどれほど蝕んでいるか——。
「ロリはお荷物ですか」
その問いが、燐の喉を突いた。
「違う」
即答した。だが、その先の言葉が出てこなかった。お荷物ではない。では何なのか。遺跡に向かう旅の目的そのもの。だがそんな言い方をすれば、ロリは道具と変わらない。
沈黙が数秒、落ちた。
「決めるのはこの子よ」
リディアの声だった。
車両の横に立ち、端末を片手に持ったまま、こちらを見ている。口調は軽かったが、眼鏡の奥の目は笑っていなかった。
「リディア——」
「今すぐ剣を持って前に出ろなんて、誰も言ってないわ。でもね、戦いたいって思ったこと自体を踏み潰す権利は、あんたにもないの」
リディアはポニーテールを片手で払い、ロリの方に向き直った。
「ロリ。あなたが戦いたいなら、まず自分に何ができるのか知ることから始めなさい。闇雲に前に出るのは勇気じゃなくて無茶よ。あなたの中にある力が何なのか、それを理解するのが先。振り回すのはその後」
ロリが顔を上げた。
潤んでいた青藍の瞳に、別の光が混じった。希望ではない。それよりもっと手前の何か。自分の声を、聞いてもらえた。受け止めてもらえた。その驚きが、瞳の表面にじわりと浮かんでいた。
「……はい」
ロリの返事は小さかった。だが、掠れてはいなかった。
燐はリディアを見た。
リディアは小さく肩をすくめた。
「あんたの過保護も大概よ」
その軽口に、バルカスが鼻を鳴らした。腕を組んだまま、視線は西の空に向けている。
「行軍中に感傷に浸る暇があるなら、とっとと車両に乗れ。全員だ」
口が悪い。だが、ロリが車両に駆け戻るまでの間、バルカスはその場を動かなかった。少女が乗り込んだのを目の端で確認してから、ようやく自分も歩き出した。
燐はバルカスの背中を見た。大斧を背負い直す仕草に、苛立ちはなかった。待っていたのだ。ロリが泣き止むまで、自分の方法で。
* * *
車両が再び走り始めた。
谷間の花畑が後方に流れていく。岩蜥蜴の死骸は草地に残したまま——処理する時間の余裕はない。
カイがハンドルを握り、助手席にリディアが戻った。セレスは後部座席の窓際から前方を監視している。バルカスは荷台側に腰を据え、大斧を膝の上に横たえた。
燐は後部座席の端に座り、こめかみに残る鈍い圧迫感を確かめていた。出力を中程度に上げたのは一瞬だった。だが、炭化した回路に流した負荷は確実に傷として残っている。次はもっと慎重にやらなければならない。半分以下。それが今の自分の限界線だ。
隣のロリは、膝の上の花冠を指先で弄っていた。
戦闘中にずれた花冠。薄紫の花弁が二枚ほど散り、茎の結び目が一つ緩んでいる。ロリはそれを直すでもなく、指先で花弁の縁を辿っている。その横に、昨日の廃村で子供がくれた小石の花が並んでいた。
セレスが振り返った。
無言で、小さな瓶をロリの膝の上に置いた。琥珀色の液体が入った、掌に収まるほどの硝子瓶。
「……蜂蜜?」
ロリが瓶を見つめた。
「疲れた時に」
セレスはそれだけ言って、前を向いた。
ロリは蓋を開け、指先にほんの少しだけ蜂蜜を取った。口に含んだ瞬間、甘さが舌の上にとろりと広がった。花の蜜の匂いが鼻に抜ける。乾季の荒野を走り続けてきた口の中に、春のような甘さだった。
少女の強張っていた肩が、ほんの少し下がった。こわばっていた指がローブの裾を離れ、蜂蜜の瓶を両手で包んだ。
「……ありがとうございます、セレスさん」
セレスは前を向いたまま、小さく頷いた。
花冠を教えてくれた手と、蜂蜜をくれた手。同じ手だ。ロリの視線が、セレスの背中に少しだけ長く留まった。
助手席で、リディアが端末を操作していた。
画面には数値のグラフが表示されている。横軸が時間、縦軸がマナ密度を示す曲線。燐は視界の隅でその画面を捉えた。
曲線が跳ねている箇所がある。一つは岩蜥蜴の襲撃直後。もう一つは——ロリが「何もできない」と言った時刻と重なる位置。そして蜂蜜を口にしたタイミングで、波形がわずかに安定し始めている。
リディアの指がタイムスタンプに注記を追加していく。その目は学者のそれだった。データを前にした時の、感情を排した客観的な観察。
だが端末から顔を上げ、ミラー越しにロリの横顔を一瞬だけ見た時、リディアの表情に別の何かが走った。すぐに端末に視線を戻し、何事もなかったように指を動かし続ける。
ロリは気づいていない。蜂蜜の瓶の蓋を閉め、小石の花と花冠の隣に並べている。
三つの持ち物。石の花。花冠。蜂蜜の瓶。
全部、誰かがくれたものだ。
車両が丘を越えた。
赤い断崖の輪郭が、フロントガラスの向こうにさらに近づいていた。あと数時間。
ロリが花冠を頭に戻した。傾いたままの花冠を片手で押さえ、窓の外を見ている。
「リディアさん」
不意に、ロリが声を上げた。
「なに?」
「ロリの力って、何なのですか」
助手席でリディアの手が止まった。端末の画面——マナ密度のグラフが表示されたまま。
「……まだわからないわ。でも、わかろうとしてるところよ」
「わかったら、教えてくれますか」
「ええ。約束する」
リディアの声は軽かった。だが、端末を握る指の関節が白くなっていたことに、燐だけが気づいていた。
窓の外で、赤い岩肌に午後の最後の光が当たっている。断崖の基部に何があるかは、まだこの距離では見えない。石柱も、密使の道の入り口も。
ロリの膝の上で、蜂蜜の瓶が車両の振動に合わせてかすかに揺れていた。琥珀色の液体の中を、午後の光が一筋だけ貫いている。
少女はその瓶を両手で包んだまま、窓の外の赤い断崖を見つめていた。その横顔は、もう花畑の無邪気な少女のものではなかった。
リディアの端末の画面が、一瞬だけ明滅した。
マナ密度の曲線が、ゆっくりと、しかし確実に——先ほどの安定波形から、再び微かな上昇を始めていた。




