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第3章-42話「国境の廃村」

 尾根の光は、結局正体を現さなかった。

 夜通し走り続けた魔導装甲車が岩壁の回廊を抜け、西への迂回ルートに入った頃には、追跡の気配は完全に途絶えていた。レンズの反射だったのか、石英の自然光だったのか。答えは出ない。だが、答えが出ないことこそが、燐の神経を削り続けていた。

 確認できない脅威は、確認できた脅威より始末が悪い。


 夜明けの光が、前方の地形を淡く照らし出した。

 谷間から這い出すように地形が開け、緩やかな丘陵地帯が広がっている。荒れた畑の跡。石垣の残骸。かつて耕作地だったものが、手入れを失い、風と乾季に食い荒らされた姿だった。

 その丘陵の窪みに、村があった。


「カイ、減速しろ」


 丘の縁から見下ろす形で、全景が一望できた。

 二十軒ほどの家屋。いや、家屋と呼べるものが二十軒。そのうち半数は屋根が落ち、壁だけが骸のように立っている。残りの家屋も、窓に板が打ちつけられ、漆喰が剥がれ落ちて下地の煉瓦が露出していた。

 村の中央には井戸が一基。広場と呼ぶには寂しい、踏み固められた土の空間。その周りに、薄い煙が一筋だけ立ち上っていた。


「人がいるな」

「確認します」


 セレスがスコープを覗いた。数秒の間。


「……民間人。老人と、子供。武装なし。女性が二名、井戸の近く」


 リディアが地図を広げた。端末の画面に、この一帯の地理情報が表示されている。


「ここ、地図には『グレーメル集落』って載ってるわ。国境線から三キロほど内側。帝国と連合の勢力圏のどちらにも完全には属さない、灰色地帯の村ね」


 灰色地帯。名前の通りだ、と燐は思った。

 どちらの国の保護も受けられず、どちらの国の軍にも踏み荒らされ得る場所。戦争の地図の上で、色を塗ってもらえなかった土地。


「補給の可能性は低い。だが、水だけでも確保したい」


 昨夜の集落――レフュギウムで分けた分を差し引くと、飲用水の余裕は一日半分しかない。浄水薬剤も残り僅かだ。


「それと、情報だ。昨夜の尾根の光。偵察圏がどこまで伸びているか、地元の住民なら把握しているかもしれない」


 燐は車両を丘の影に停め、村への進入経路を目で辿った。村の北側に、崩れかけた石垣が連なっている。その内側に車両を隠せば、丘の向こうからは視認されにくい。

 南側は開けた畑の跡で遮蔽物がない。西は丘陵が続き、東には枯れた水路が走っている。


「車両は北の石垣の内側に入れる。カイ、セレスは高台で警戒。バルカスは車両周辺を巡回。俺とリディアで村に入る。ロリは――」


 後部座席を振り返った。

 ロリは窓に額をつけて、村を見下ろしていた。夜通しの移動で疲れているはずだが、その青藍の瞳には疲労ではなく、昨日のレフュギウムで見たのと似た光が宿っていた。あの集落の子供たちと別れてからまだ半日も経っていない。


「ロリ、車両に残っていろ」

「……リン。あの村の人たちは、レフュギウムの人たちと同じですか?」


 燐は少し間を置いてから答えた。


「おそらくな。ここも戦争の間に取り残された場所だ」

「一緒に行きたいです」


 その声に、燐は昨夜の光景を思い出した。ミーナの手を振るロリの横顔。窓に掌を押し当てたまま、見えなくなっても振り続けていた小さな手。

 あの子供たちとの出会いが、ロリの中で何かを動かしている。


「……リディアのそばを離れるな。わかったな」

「はい」


* * *


 村に近づくにつれ、匂いが変わった。

 荒野の乾いた空気に、別の層が重なる。腐りかけた木材の、酸味を帯びた湿った匂い。それに混じって、微かに煤けた何か。火事ではない。長い時間をかけて黒ずんだ煤、つまり焼け跡の残り香だ。

 この村はかつて焼かれたのだ、と燐は理解した。全焼ではなく、部分的な放火。建物の壁に残った煤の帯が、炎の届いた高さを無言で証言している。


 広場に近づくと、井戸の脇に座っていた老婆が顔を上げた。

 深い皺の刻まれた顔。日焼けした肌は乾いた皮革のようで、両手は関節が膨らんで曲がっている。彼女の足元に、桶が一つ。中には濁った水が僅かに溜まっていた。


 老婆は燐たちを見ても、レフュギウムの住民たちのように身構えなかった。

 身構える気力すら、もう残っていないのだろう。


「旅の者だ。水を分けてもらえるか」


 老婆は濁った桶の水に目を落とし、首を横に振った。


「……井戸が涸れかけてるんだよ。汲み上げても、この有り様さ」


 声は枯れていた。風に吹き曝された木の幹のような、罅割れた声。


「一日に桶一杯がやっと。それを分けてたら、うちの子らが干上がるよ」


 子供、という言葉に、ロリが反応した。銀色の視線が広場の奥へ走る。

 崩れかけた家屋の影から、二つの小さな顔が覗いていた。六歳くらいと、もう少し幼い子。骨張った頬。窪んだ目。服は元の色がわからないほど褪せ、体に合っていない大きさのものを巻きつけるように着ている。


「リン……」


 ロリが袖を引いた。その声が震えている。レフュギウムの子供たちとは明らかに違う。あちらは飢えていても笑い声があった。ここには笑い声がない。


「リディア、車両の浄水薬剤を持ってきてくれ。残り全部だ」

「全部? 私たちの分がなくなるわよ」

「次の水場で何とかする」


 燐の口調に迷いはなかった。リディアは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに頷いて駆け出した。


 ロリは動かなかった。

 崩れかけた家屋の影に立つ二人の子供を、じっと見つめている。子供たちもロリを見つめ返していた。だが、レフュギウムのミーナのように近づいてはこない。好奇心よりも警戒が勝っている。あるいは、近づく体力がないのかもしれなかった。


「リン。ロリの食料を、あの子たちに渡したいのです」


 ロリの声は静かだが、はっきりとしていた。


「お前の食料というのは、今日の昼食と明日の朝食の分だぞ」

「はい」

「それを渡したら、お前は少なくとも一食抜くことになる」

「はい」


 迷いなく頷く。

 燐はロリの顔を見た。善意だ。純粋な、混じりけのない善意。目の前の飢えた子供を見て、自分にできることをしたいという、単純で抗いがたい衝動。

 それは美しい。

 だが、美しいだけでは長い旅を乗り越えられない。


「ロリ。聞け」


 燐は膝を折り、少女の目線に合わせた。

 広場の端、壁の焦げた煤の匂いが風に乗って二人の間を通り過ぎた。


「この村には飢えた子供が二人いる。お前の食料を分ければ、あの子たちは今日一日、腹を満たせるかもしれない。だが、明日は? 明後日は?」


 ロリの唇が微かに震えた。


「それは……」

「この先も同じような村がある。全部に配っていたら、お前が先に倒れる」


 冷たいことを言っている自覚はあった。

 ロリの青藍の瞳に薄く水膜が張るのが見えた。こらえている。泣くまいとしている。だが感情が先に溢れる寸前で、唇を噛んで踏み止まった。


「……でも」


 ロリの声が、掠れた。


「あの子たち、お腹が空いているのに、泣いてもいません。泣き方を忘れてしまったみたいに、ただ座っているだけです。それが……それが、とても怖いのです」


 燐の胸の奥で、古い何かが軋んだ。

 泣き方を忘れた子供。それを「怖い」と感じるこの少女の感受性は、おそらく正しい。正しいからこそ、どう答えるべきか燐には簡単に言葉が見つからなかった。


「……全員は救えない」


 燐は立ち上がり、ロリの頭に手を置いた。


「だが、目の前の一人になら手を伸ばせる。食料は渡せ。ただし、全部じゃない。半分だ。残り半分はお前が食べろ。それが約束だ」


 ロリの目が大きく見開かれ、それから、深く頷いた。


「……はい」


* * *


 リディアが浄水薬剤を持って戻った頃には、ロリは家屋の影まで歩み寄っていた。

 二人の子供は、壁に背をつけたまま動かない。ロリが手に乾燥豆の包みと塩漬け肉の切れ端を持って近づいても、受け取ろうとしなかった。

 ロリは立ち止まった。

 そして、ゆっくりと地面に座った。子供たちと同じ高さに。同じ壁を背にして。

 食料を自分の膝の上に置き、黙って隣に座っている。それだけだった。

 何も言わず、何も強いず、ただ同じ場所に同じ姿勢でいる。


 しばらくして、幼い方の子供が視線だけ動かした。ロリの膝の上の包みを見て、また目を逸らす。それを三度ほど繰り返した後、ようやく小さな手が伸びた。


 ロリはその手に包みをそっと渡した。力を込めず、引っ込められても追わないくらいの軽さで。

 子供は包みを受け取ると、姉らしき年上の子供の方を見た。年上の子は一瞬だけロリを睨むように見つめたが、弟の手の中の食料から目が離せなかった。


 二人は無言で、乾燥豆を分け合い始めた。

 噛む音が静かに響く。泣きもしなければ礼も言わない。ただ食べている。それだけの行為が、この場所では途方もなく重い意味を持っていた。


 ロリはそのまま壁に背を預け、子供たちが食べ終わるのを見守っていた。


 燐はそれを広場の反対側から眺めていた。

 口元を引き結んでいる。胸の奥で軋んだ古いものが、まだ音を立てている。

 帝国の特殊作戦部隊にいた頃、戦場の近くにはいつもこういう光景があった。焼けた村。残された子供。食料を渡しても、翌日にはまた同じ飢えが戻る。

 全員は救えない。

 その言葉を、何度自分に言い聞かせたか。


 リディアが隣に立った。


「燐。浄水薬剤、全部老婆に渡したわ。井戸の水をろ過すれば、少なくとも一週間分にはなるって」

「ああ」

「私たちの分、本当にどうするの?」

「密使の道の北半分に合流するまでに、沢が二本ある。地図で確認した。どちらかで取水できるはずだ」

「はず、ね」


 リディアが眉を上げたが、それ以上は追及しなかった。燐の判断を信頼している、という表情だった。


* * *


 カイは、車両の点検を終えた後、村の中を歩いていた。

 表向きは周辺の安全確認と情報収集。実際、彼の目は訓練された軍人のそれで、家屋の配置、退路、視界の通り具合を自動的に記録していた。


 だが、足が止まったのは、廃屋の裏手だった。

 崩れた壁の向こうに、小さな空き地がある。かつては裏庭だったのだろう。草が伸び放題で、割れた植木鉢が転がっている。

 その空き地で、先ほどの年上の子供――六歳くらいの女の子が、一人で何かをしていた。


 棒切れを握っている。地面に線を引いている。

 カイは近づいた。

 線は絵だった。家の形。木の形。人の形。飢えて骨張った手で、子供は自分が失ったものを土に描いていた。


「それ、お前の家か」


 カイが声をかけると、子供は飛び上がるように振り返った。棒切れを握り締めたまま、大きな目でカイを見上げている。逃げようとして、でも足が竦んで動かない。

 カイはゆっくりと近くの石に腰を下ろした。両手を膝の上に置き、武器に触れていないことを見せる。


「怖がらせたな。すまない」


 子供は答えなかった。だが、逃げもしなかった。


「いい絵だ。窓が大きいな。日当たりのいい家だったのか」


 子供の目が揺れた。警戒と、誰かに自分の絵を認められた微かな驚きと。


「……おうちね。まえのおうち」


 声は小さかった。乾いた砂を擦り合わせるような、か細い声。


「前の家。今はないのか」


 子供は首を横に振った。


「もえた。くろいひとがきて。ばあばとにげた」


 黒い人。その言葉が、カイの背筋を伸ばした。


「黒い人って、どんなやつだ」

「ぜんぶくろい。かおもくろい。おおきい」


 カイの手が、無意識に拳を握っていた。

 全身黒い装甲。面頬まで覆う兜。帝国正規軍の重装備。それが民間の家屋を焼いた。子供と老婆を残して。


「……そうか」


 声が平坦だったのは、感情を殺しているからだ。握った拳の関節が白くなっている。


 子供は棒切れで、絵の中にもう一つ人の形を描き加えた。小さな人。自分自身だろう。家の中に立つ、一本線の人間。


「おうち、またつくれる?」


 子供がカイを見上げた。

 その目は濁りがなかった。諦めてもいない。ただ純粋に、問うている。壊されたものは、また作れるのかと。


 カイは答えられなかった。

 代わりに、棒切れを一本拾い、子供の絵の隣に線を引いた。木の形。大きな木。


「木を描いてやる。こいつを庭に植えれば、日陰ができるぞ」


 子供の目が、ほんの少しだけ明るくなった。

 二人で地面に絵を描き続けた。家と庭と木と、小さな人間。

 カイの拳は、まだ白かった。


* * *


 村の北側に、一本の枯れ木が立っていた。

 根元に老人が一人、背を預けて座り込んでいる。白髪というより色が抜けたような灰色の髪と、痩せ細った四肢。先ほど広場にいた老婆とは別人で、この村の最古参らしかった。


 燐は老人の前にしゃがみ込んだ。


「少し話を聞きたい。この辺りの道に詳しいか」


 老人はゆっくりと目を開いた。濁った瞳が燐を捉え、焦点が合うまでに数秒かかった。


「……道、ね。わしがここに来た頃は、道なんぞいくらでもあったよ」


 乾いた声だった。唇の端が罅割れ、喋るたびに皮膚が引きつっている。


「ここに来た頃? 元々この村の者ではないのか」

「元々は西のアグラの町にいた。若い頃は荷駄の護衛でこの辺りを歩き回ったもんだ。六十年も前の話だがね」


 六十年前。大戦の前だ。まだ国境線が今とは違い、この辺りが交易路として機能していた時代。


「荷駄の護衛なら、裏道にも詳しいだろう」


 老人の目に、微かな光が灯った。記憶の底を掻き混ぜるような、遠い目。


「裏道。ああ、あったよ。正規の街道を避けて、関税の目を盗んで荷を運ぶ道が」


 燐は声を落とした。


「密使の道、という名を聞いたことはあるか」


 老人が、初めて表情を変えた。目が僅かに見開かれ、燐の顔をまじまじと見つめた。


「……ヴィア・オスクーラか。あんた、どこでその名を」

「古い文献に当たった。使えるかどうか知りたい」


 老人は痩せた手で顎を撫でた。骨と皮だけの指が、記憶を辿るように宙を彷徨う。


「ヴィア・オスクーラ。かつて密使たちが使ったとされる古い道。わしも若い頃に一度だけ、入り口を見たことがある。谷の北壁に、目印の石柱がある。だがね……」


 老人は咳き込んだ。しばらく呼吸を整えてから、続けた。


「あの道の南半分は、もう使えんよ。大戦の魔術爆撃で地形が変わった。崩落した箇所がいくつもある。北半分は……わしにはわからん。行ったことがないからな」


 昨夜リディアと立てた推測が裏付けられた。南半分は偵察圏と崩落で通れない。使えるのは北半分のみ。


「谷の北壁の石柱、具体的にはどの辺りだ」

「ここから西に丸一日歩いた先に、赤い岩の断崖がある。その断崖の基部に、人の背丈ほどの石柱が二本。柱の間に、道の入り口がある」


 燐は脳内に地図を描いた。西に一日。車両なら半日か。赤い断崖。石柱二本。


「もう一つ聞きたい。最近、この村の近くを帝国の兵が通らなかったか」


 老人の表情が強張った。

 枯れ木に預けた背が、微かに丸くなる。恐怖だ。六十年を生きた老人の身体に染みついた、黒い甲冑への恐怖。


「……来た」


 声が小さくなった。


「十日ほど前だ。夜中にな。わしは眠れんで外に出ていた。そしたら、村の西側の道を、黒い鎧の兵隊が何人も歩いとった。音を立てんように歩いとった。それがかえって恐ろしくてな」


 レフュギウムの猟師の証言と符合する。黒い装甲の部隊が、西へ移動している。


「人数は」

「暗くてわからん。だが……二十やそこらじゃなかった。もっと多い。隊列が長かった。それに、大きな荷を引いとった。車輪の軋む音がした」


 車輪。重量物資の輸送。単なる偵察隊ではない。

 燐の思考が加速した。偵察なら身軽に動く。重量物資を伴うのは、拠点設営か、あるいは侵攻の前進配備だ。

 帝国が中立地帯に重装備の部隊を前進させている。


「兵隊は、村には来なかったのか」

「来なかった。素通りだ。わしらのことなんぞ、目にも入っとらんかったろう。あいつらにとっちゃ、道端の石ころと同じだ」


 老人の声に、怒りとも諦めともつかない感情が混じった。


「……だがね。あの隊列が通った後、妙なことがあった」


 燐は眉を上げた。


「妙なこと?」

「あいつらが通った翌朝、村の外れに――ちょうどあの枯れた水路の脇に、物資が置いてあったんだよ。木箱が二つ。中身は保存食と医薬品だった。軍の規格品だ。封も開いてない」


 燐は瞬きをした。

 帝国の偵察部隊が、通過した村に匿名で物資を置いていった? 軍事作戦の最中にそんなことをする理由が思いつかない。


「兵隊が置いたのか」

「他に誰がいる。あの夜、村の周りを通ったのはあいつらだけだ」


 奇妙な情報だった。整合性の取れない行動。だが、今はそれを分析している余裕はない。重要なのは、帝国の重装部隊が西へ移動しているという事実だ。


「助かった。ありがとう」


 燐は立ち上がった。老人は何も言わず、ただ枯れ木の幹を背に、再び目を閉じた。


* * *


 広場に戻ると、ロリがまだ子供たちのそばにいた。

 だが、様子が変わっていた。

 食事を終えた年上の子供が、ロリに何かを見せている。拾い集めた小石を並べて、模様を作っていた。花の形。五つの石で花弁を表し、中央に一つ。


「これ、おかあさんがおしえてくれた」


 子供の声は、さっきよりも少しだけ明瞭になっていた。食べ物が胃に入ったからだろう。身体が温まると、声も出るようになる。


「きれいですね。お母さんは、お花が好きだったのですか?」

「うん。おにわに、いっぱいうえてた」


 ロリはその石の花を、自分の掌に載せるようにそっと触れた。


「ロリもお花は好きです。けれど、本物のお花を見たことがあまりないのです。砦の中にはなかったから」


 子供はきょとんとした顔をしたが、ロリの言葉の意味を深くは追わなかった。大人が聞けば不自然な台詞だが、子供にとっては「変わったお姉さんだな」くらいのものだろう。


「じゃあ、これあげる」


 子供が石の花を、ロリの手に押し込んだ。


「え……いいのですか?」

「うん。おねえちゃん、ごはんくれたから」


 ロリの指が、小石の花を包み込むように閉じた。

 少女の瞳が潤んだ。こらえようとしているのがわかった。唇を結び、睫毛を伏せ、呼吸を一つ整えてから、ロリは笑った。


「ありがとうございます。大切にします」


 その声が少し震えていたことに、子供は気づかなかっただろう。


 燐はその光景を、広場の端から見ていた。

 目の前にいるのは、封印から目覚めたばかりの少女だ。世界のことをほとんど知らない。戦争も、飢えも、全員は救えないという現実も。

 だが、知らないからこそ、ロリの善意には混じりけがない。打算も、諦めも、「どうせ」という醒めた計算もない。ただ目の前の子供が腹を空かせているから食べ物を渡した。それだけのことだ。

 それが衝動であることを、燐は理解していた。意志ではなく、感情に突き動かされた行動。この先、同じ場面に何度も出会えば、いつか衝動だけでは立ち行かなくなる。

 だがそれは、今日の問題ではない。


 燐は視線を逸らし、カイの方を探した。


* * *


 カイは裏庭から戻ってきていた。

 だが、その顔色が違っていた。普段の無表情の底に、何かが燻っている。広場の端で立ち止まり、崩れかけた家屋の壁を見つめている。

 壁の煤。焼けた跡。そしてその壁の前で、地面に絵を描く子供の姿を、頭の中で反芻しているのだろう。


「カイ」


 燐が声をかけると、カイは振り返った。感情を抑えた目。だが、拳だけが固く握られたままだった。


「……聞いてください、燐殿。あの子供に話を聞きました」


 カイの声は抑制されていたが、喉の奥に引っかかるものがあった。


「家が焼かれたと。黒い人が来て燃やしたと。祖母と二人で逃げてきたと」


 レフュギウムの猟師の証言。老人の証言。そしてこの子供の証言。三つの異なる角度から、同じ黒い装甲の部隊の影が浮かび上がる。


「偵察部隊の副次的な行動か。あるいは――」

「あの子たちは、何もしていません」


 カイの声が、一段低くなった。

 抑制が軋んでいる。


「家を焼かれる理由がどこにあるのですか。あの子たちは戦争に何の関わりもない。帝国でも連合でもない。ただここに住んでいただけだ」


 カイの視線が、広場を横切ってロリと子供たちに向かった。


「ロリが食料を渡しているのを見ました。あの子は自分の飯を削って渡した。それで足りるのですか。足りるわけがない。明日も明後日も、あの子供たちは腹を空かせたままだ」


 燐は黙って聞いていた。

 カイの言葉を遮るつもりはなかった。正しいことを言っている。正しいからこそ、答えがない。


「……俺たちは任務中です。わかっています。全員は救えない。だが——」


 カイは言葉を飲み込んだ。拳の力を緩め、また握り直した。

 それから、深く息を吐いた。


「……何でもありません」


 燐はカイの横に立ち、同じ方向を向いた。崩れた壁と、煤の跡と、その向こうに見える薄曇りの空。


「お前の怒りは間違っていない」


 静かに言った。


「だが、怒りで動けば判断を誤る。覚えておけ」

「……了解」


 カイが、喉の奥で答えた。


* * *


 出発の準備を始めたのは、太陽が最も高い位置を過ぎた頃だった。

 リディアが端末で密使の道の北半分のルートを再計算し、老人から聞いた赤い断崖の位置を地図にプロットしている。


「西に半日。赤い断崖の基部の石柱二本。ここが密使の道の北側入り口。老人の証言と、私が修道院の星図から読み取った方角が一致してるわ」


 セレスが高台から降りてきて、短く報告した。


「北東方向、丘陵の向こうに土煙。距離十五キロ以上。こちらには来ていない」


「軍の車列か」と燐。


「判別不能。ただし、この距離で目視できる土煙は、複数台の車両か、馬匹の隊列」


 帝国の部隊か、それとも別の難民の移動か。どちらにしても、長居は無用だ。


「全員車両に戻れ。出発する」


 バルカスが石垣の脇から姿を現し、無言で大斧を背に戻した。巡回中に不審な点はなかったということだ。


 ロリを呼びに行こうとして、燐は足を止めた。

 ロリは子供たちの前にしゃがみ込んでいた。年上の子供の手を両手で包むように握り、何かを話している。声は聞こえないが、ロリの表情は真剣だった。

 子供が小さく頷いた。ロリが手を離し、立ち上がる。


「ロリ。行くぞ」


 ロリは振り返り、駆け寄ってきた。掌に小石の花を握り締めたまま。


「リン。あの子に約束しました」

「何を」

「また来ると」


 燐は一瞬黙った。

 また来る。その約束を果たせる保証はどこにもない。この旅が終わるかどうかすら不確かだ。

 だが、ロリの目にはそんな計算はなかった。約束したのだから守る。それだけの、単純な意志。

 いや、意志と呼ぶにはまだ幼い。衝動だ。だが、衝動であっても――。


「……行くぞ」


 燐はそれだけ言い、車両に向かって歩き出した。


* * *


 全員が車両に乗り込み、エンジンが低く目覚めた。

 カイがハンドルを握り、村の外れの道に車両を進める。窓の外で、崩れかけた家屋が後方に流れていく。


 燐は出発直前、一つの指示を出していた。

 リディアにだけ、小声で。


「車両の荷台にある予備の保存食パック。二つ。村の外れの枯れた水路の脇に置いてこい。見つかりやすいように、目印の石を積め」


 リディアは目を丸くした。


「……あんたがそういうことするの、珍しいわね」

「俺じゃない。落とし物だ」


 燐は視線を逸らした。


「勝手に落ちたんだ。誰のものでもない」


 リディアは一瞬きょとんとした後、口元を片手で覆った。笑いをこらえるような仕草だった。


「はいはい。落とし物ね。了解」


 リディアは車両から降り、手早く保存食パックを水路の脇に置いた。小石を三つ積み上げて目印にし、何食わぬ顔で戻ってくる。


 後部座席でロリが窓の外を見ていた。

 村が小さくなっていく。子供たちの姿はもう見えない。だが、ロリは窓から目を離さなかった。

 その膝の上で、小石の花が握られている。


「リン」

「何だ」

「あの村の人たちは、明日もあそこにいるのですよね」

「ああ」

「明後日も」

「おそらくな」


 ロリは窓に視線を戻した。


「わたしたちは進んで、あの人たちは残る。それが……少し、苦しいです」


 燐は何も言わなかった。

 苦しい。その感覚を、ロリは正確に掴んでいる。

 全員は救えない。目の前の一人に手を伸ばしても、去った後に残される者たちがいる。その重みが、この少女の胸に初めて落ちた。冷たい石ではなく、もっと生々しい、温度のある塊として。


「リン。ロリは強くなりたいです」


 不意に、ロリが言った。


「強く?」

「もっとたくさんの人を、助けられるように」


 声に涙はなかった。感情の衝動とも違った。まだ形の定まらない、朧げな何か。意志の萌芽と呼ぶには早すぎる。だが、種が土の中で最初に殻を割るときの、あの微かな音のような響きがあった。


 燐はフロントガラスの向こうを見た。

 薄曇りの空の下、丘陵が連なっている。その向こうに、赤い断崖があるはずだ。密使の道の入り口。遺跡への通り道。

 背後には、名前も忘れられかけた村。

 前方には、まだ見えない道。


「……ああ」


 車両が丘を越え、村が完全に視界から消えた。


 リディアが助手席で端末を操作し、ルートの最終確認を進めている。セレスはスコープ越しに後方を監視していた。カイのハンドルさばきは安定しているが、その横顔に先ほどの緊張がまだ残っている。


 車内は静かだった。エンジンの低い唸りと、車輪が乾いた地面を踏む音だけが、薄曇りの空の下に響いている。


 丘陵の向こうに、最初の沢が見えた。

 枯れていない。細いが、水が流れている。車両の中で、リディアが小さく安堵の息をついた。


「水、確保できそうね」

「ああ。停車して取水する。十分で済ませろ」


 車両が減速し、沢の脇に停まった。カイとセレスが周囲を警戒する中、リディアが空の容器を持って沢に降りる。


 燐は車両の屋根に手をつき、西の空を睨んだ。

 薄い雲の切れ間から、午後の日差しが一筋だけ地面に落ちている。その光の帯が、丘陵の斜面をゆっくりと移動していた。

 あの光の先に、帝国の黒い装甲の部隊がいる。重量物資を引き、音を殺して西へ進む隊列。その規模も目的も、まだ見えない。

 密使の道の入り口に辿り着くまで、あと半日。

 天球の配列が整う夜まで、残された時間は削られ続けている。


 ロリが車両の窓を開け、沢の方を見ていた。

 水の流れる音に耳を傾け、小石の花を両手で包んでいる。その横顔は、夜明けの荒野を初めて見たときの無垢な喜びとは違っていた。何かを受け止めた後の、静かな表情。


 風が吹いた。

 沢を渡る風は冷たく、乾季の匂いに混じって微かに緑の気配を含んでいた。どこかに、まだ枯れていないものがある。


 リディアが容器を抱えて戻ってきた。

 車両が再び動き出す。西へ。密使の道の北の入り口へ。

 丘陵の向こうから、赤い岩の断崖の頂が覗き始めていた。

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