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第3章-40話「鷲の砦、嵐の前」

 夜が明ける前に、嫌な予感がした。

 それは天候の話ではない。空は鉄のように冷たく澄み、東の稜線には星が残っている。風もない。だが、ゲルトの胃の底に、鈍い重さが朝からずっと居座っていた。

 根拠はない。隊長なら「古傷が疼く」と言うところだろう。自分にはそんな便利な予兆装置はない。ただ、長年の現場仕事で培った勘が、今日は何かあると告げている。


 グリフォンズ・ネスト砦の高所監視哨は、砦の最も高い位置にある石造りの塔だった。周囲の丘陵地帯を一望できるこの場所に、ゲルトは夜明け前から立っていた。

 冷えた石の手摺に両手を置く。指先の感覚が鈍る。第1月の朝は、荒野の乾いた空気が容赦なく体温を奪っていく。革の手袋越しでも、石の冷たさが骨まで染みた。

 眼下に広がるのは、丘陵と荒野が折り重なる灰褐色の大地だ。遮蔽物は乏しく、視界は良好。斥候にとっては開けすぎているとも言える地形――隠れる場所がないということは、こちらも相手から丸見えだということだ。

 隊長がいつも立っていた場所だ。あの人の視界を、今は自分が引き継いでいる。


 そして、東の空に、それは見えた。


「……来たか」


 呟きは、白い息と共に消えた。

 東の空、稜線すれすれの高度。布張りの翼を広げた飛行体が、ゆっくりと弧を描いている。音はほとんどない。高度があるせいだ。だが、ゲルトの目はそれを見逃さなかった。

 帝国の飛行型魔導偵察機――リフトグライダー。

 布と骨組みで構成された無音に近い機体は、上空から地上を嘗め回すように旋回している。帝国が「鷹の目」と呼ぶ、空の偵察兵だ。


「副指揮官殿」


 背後から声がかかった。

 監視哨の階段を駆け上がってきたのは、斥候部隊の若い兵士、トーマスだった。まだ二十歳そこそこの、顔に産毛が残る青年だ。息を切らしている。


「見えてる。頭を低くしろ」


 ゲルトは手で制し、トーマスを手摺の陰に引き寄せた。高所監視哨の存在を悟られるわけにはいかない。


「……東南東。高度はざっと三百メートル。旋回半径からして、こっちの砦を中心に観察してますね」


 自分で分析しながら、ゲルトは眉を寄せた。三日前までは、リフトグライダーの飛来は五日に一度程度だった。それが三日、二日と縮まり、今日はたった一日の間隔で現れた。

 意味するところは明白だ。帝国は、この砦への監視を強化している。


「トーマス。昨夜の哨戒班からの報告は」

「はい。座標四八付近で焚き火の痕跡。消し方が雑で、炭の散らかり方からして三名くらい。帝国の歩兵偵察と見て間違いないかと」


 座標四八。砦から東に約二十キロ。通常の哨戒圏ぎりぎりの距離だ。


「空と地上、両方からか」


 リフトグライダーが上空から全体像を、歩兵偵察が地上から細部を。教科書通りの二段階偵察だ。帝国西方軍は本腰を入れ始めている。

 隊長がいれば、鼻を鳴らして即座に対応を指示しただろう。あの人の判断は、いつも速い。


「偽装の具合は」

「昨夜の分は終わってます。東壁の増築部分に偽装網を被せて、兵舎の一棟を空き家っぽくしました。上から見れば、人数は実際の半分以下に見えるかと」


 ゲルトは頷いた。これは隊長が出発前に残した指示だ。バルカスは出立の前夜、詰所でゲルトに分厚い命令書を渡した。口頭でも一つ一つ確認した。偽装網の展開順序、物資搬入経路の変更、荷馬車の日中制限――細かな指示が隙なく並んでいた。

 あの人は、自分がいなくなった後のことを全て想定していた。


「物資の搬入経路も変える。正門からの出入りは日中は最小限だ。荷馬車の動きは数えられてると思え。隊長の指示通りにやる」

「了解です」


「それと――偽装網だけじゃ足りん」


 ゲルトは手摺から手を離し、東壁の方角を顎で示した。


「東壁の外側、去年の嵐で崩れた瓦礫の山。あれをわざと散らかしておけ。崩落が進んでいるように見せろ。砦が老朽化して放棄寸前だと思わせるんだ」


 トーマスが目を丸くした。


「弱く見せて、油断させるってことですか」

「ああ。見た目は弱く、中身は硬く。砦の鉄則だ」


 言いながら、ゲルトの口元に苦い笑みが浮かんだ。入隊初日に隊長から叩き込まれた言葉だ。今、自分がそれを部下に伝えている。不思議な気分だった。


「昼までに人手を集めておけ。詳細は後で伝える」

「了解です」


 トーマスが敬礼し、階段を駆け下りていく。その足音が塔の中に反響して消えた。

 一人になった監視哨で、ゲルトは石の手摺に肘をついた。

 がっしりとした体格に、日焼けした浅黒い肌。無精髭の下の口元が、今は引き結ばれている。斥候部隊六十名の実務を取り仕切ってきた男だが、部隊を預かるのはこれが初めてだった。

 ――隊長が戻るまで、この砦は俺が預かる。

 胸の中で反芻した。重い言葉だ。だが、あの人に託された以上、背負うしかない。


* * *


 監視哨を降り、砦の中庭を横切る。

 朝の砦は、静かな活気に満ちていた。

 石壁に囲まれた中庭では、守備隊の兵士たちが朝食の支度をしている。竈から立ち昇る薄い煙と、黒パンの焼ける匂い。その下に、古い石壁が何百年も染み込ませてきた苔と湿気の匂いが混じっている。

 兵士の一人が、木の器に粥をよそいながら隣の仲間に何か囁き、低い笑い声が起きた。日常の風景だ。だが、その日常の中にも、微かな緊張の糸が張られているのを、ゲルトは感じ取っていた。

 兵士たちの動きが、ほんの少しだけ機敏になっている。武器の手入れをする者が増えている。食事中も、東の空をちらちらと窺う目がある。

 リフトグライダーの存在は、砦の全員が知っていた。

 そしてもう一つ――隊長が砦を離れたことも。


「副指揮官殿。朝飯、取っておきましたよ」


 追いついてきたトーマスが、黒パンの塊と木製の水筒を差し出した。


「ありがたい。食堂に寄る暇がなかった」


 ゲルトは素直に受け取り、一口齧った。硬い。顎が軋むほど硬い。味は、パンというよりも煉瓦に近かった。


「……これ、いつ焼いた?」

「三日前です。一昨日の分は守備隊に回しちゃったんで、斥候部隊はちょっと古いのしか残ってなくて」

「三日前か。隊長ならきっと『歯が折れそうだ』って言うな」

「ああ、言いそうですね。で、結局全部食べるんですよね、隊長は」


 トーマスが笑った。ゲルトも、つられて口の端を上げた。

 だが、その笑みはすぐに消えた。隊長の名前が出ると、どうしても空白を意識してしまう。あの人がいれば、黒パンの硬さに文句を言いながら、すでに三つの指示を出し終えているだろう。

 自分にそれができるのか。

 不安を飲み込むように、黒パンをもう一口齧った。硬さに文句を言う余裕があるうちは、まだ状況は深刻ではない。隊長がよく言っていた台詞だ。


* * *


 砦の通信室は、地下にあった。

 厚い石壁に囲まれた、窓のない小部屋。空気は澱み、蝋燭の脂の匂いと、魔導結晶が放つ微かなオゾンの匂いが混じっている。

 部屋の中央に置かれた通信機――魔導結晶式通信器――の前に、通信士官が座っていた。彼は暗い顔でゲルトを迎えた。


「副指揮官殿。先ほど、ハロッド総司令官からの暗号通信を受信しました」


 通信士官が一枚の紙を差し出す。

 ゲルトはそれを受け取り、目を走らせた。暗号は既に解読済みだ。短い文面が、無機質な文字列で綴られている。


 ――傭兵五百名、商業都市メルカトルより派遣。到着予定は十日後。それまでの間、現有戦力にて防衛体制を堅持せよ。暗号更新コード添付。以上。


 ゲルトは紙片を二度読み返し、通信士官に目を向けた。


「暗号更新コードとあるが。こちらの暗号も変えろということか」

「はい。添付のコードで今月末までに全通信を新暗号に切り替えるよう指示が出ています。どうやら、帝国が暗号体系を一新したようで……」


 通信士官の声が、一段低くなった。


「先月までは、帝国の通信をある程度傍受・解読できていました。彼らの哨戒パターンや補給スケジュールが読めていた。ですが、今月に入って、暗号が完全に別物になりました。旧来の解読鍵では、一文字も読めません」


 ゲルトの顎が、微かに引き締まった。


「つまり、帝国の動きが読めなくなった」

「正直……そうです。敵が何を考えているか、読む手段がほとんどなくなりました」


 静かな部屋の中で、魔導結晶が低い唸りを上げている。

 ゲルトは紙片を折り畳み、胸ポケットに収めた。傍受能力の喪失。空からの偵察活動の激化。地上偵察の接近。三つの事実が、一つの絵を描いている。

 帝国は、何かを準備している。そして連合は、その「何か」の中身を見る目を失った。

 隊長がいれば、この状況をどう判断するだろう。あの人なら――いや、今ここで判断するのは自分だ。


「この通信の内容は、俺以外には――」


 言いかけて、ゲルトは口を閉じた。隊長なら、信頼できる副官にだけ伝えると言っただろう。だが今、副官の位置にいるのは自分自身だ。


「……古参のヴォルフ以外には伝えるな。暗号が読めなくなった件も同様だ。兵士の士気に関わる」

「了解しました」


 ゲルトは通信室を後にした。石の階段を昇りながら、無意識に拳を握り締めていた。

 傭兵五百名。メルカトルから。到着まで十日。

 それまでの間、この砦は現有の五百名と、斥候部隊六十名――隊長とカイとセレスを差し引いた五十七名で持ち堪えなければならない。

 足りるか、足りないかの議論は無意味だ。足りなくても守るしかない。それが前線の現実だと、隊長はいつも言っていた。

 今、その言葉の重さが、骨身に染みる。


* * *


 午前の日差しが砦の石壁を白く焼く頃、ゲルトは斥候部隊の詰所にいた。

 長机の上に広げた地図を囲んで、古参斥候のヴォルフと向かい合っている。ヴォルフは痩せた長身の男で、顔の左半分を覆う火傷痕が目を引く。寡黙だが、荒野の地形読みにかけては部隊随一の目を持っていた。


「偵察チームの編成を見直す」


 ゲルトは地図の上に駒を並べながら言った。木製の駒は、砦の備品にしては不釣り合いなほど精巧な造りをしている。暇な時に自分が削って作ったものだ。


「今まで二方向からの哨戒だったが、これを三方向に増やす。東、南東、北東。三チームが同時に展開し、帝国の偵察線を面で捉える」


 ヴォルフが僅かに目を細めた。


「……三方向同時。それは隊長の命令か」


 ゲルトの手が、一瞬だけ止まった。


「ああ。隊長が出発前に残した指示だ。元々は――」


 言葉を選んだ。


「隊長が出立前に聞いた、燐からの助言だそうだ。二方向だと相手は隙間を突ける。三方向から同時に面で押さえれば、偵察チーム同士が互いの死角を補えると」


 帝国式の偵察ドクトリンを知っている者ならではの指摘だったと、隊長は言っていた。あの男は帝国の兵士だったのだ。敵の思考を、内側から理解している。

 隊長はそれを、出発前にゲルトに伝えた。使えるものは使え、理に適っていれば出自は問うなと。あの人らしい、合理的な判断だった。


「東の担当はヴォルフ。南東はトーマスに任せる。北東は――」


 ゲルトの指が、地図上で一瞬迷った。隊長なら「北東は俺が出る」と言い切っただろう。一番きな臭い方角に素人は出せないと。

 だが今、自分が砦を空けるわけにはいかない。


「北東はハンスに出てもらう。経験は浅いが、判断力はある。俺は砦に残って全体を見る」


 ヴォルフが無言で頷いた。異論はないらしい。だが、その目が一瞬だけゲルトの顔を探るように見た。大丈夫か、と問うているようだった。

 ゲルトはその視線を受け止め、続けた。


「ヴォルフ、お前の所見を聞きたい」


 火傷痕の男が、地図の一点を太い指で示した。


「座標四八の焚き火。あれとグライダーの旋回中心が重なる」


 ゲルトが地図を覗き込んだ。


「連動してるのか。空と地上が」

「なら……この辺りに中継点がある」


「潰すか?」


 自分で問うておいて、ゲルトはすぐに首を横に振った。


「いや。潰せばこちらが気づいていることがバレる。泳がせる。ただし、動きは全て記録しろ。何人が、いつ、どこを通ったか。パターンが見えれば、次の手が読める」


 ヴォルフが僅かに口角を上げた。初めて見る表情だった。


「……隊長と同じことを言うな」

「当然だ。十年仕込まれたんだから」


 ゲルトは肩を竦めた。だが、内心では胸が軋んだ。同じことを言えても、同じ重みで言えているかは分からない。隊長の言葉には、何十もの死線を越えた経験が裏打ちされている。自分のそれは、借り物だ。

 借り物でもいい。今はそれで回すしかない。


「各チーム、明朝の薄明から展開開始。装備は軽装。交戦は避けろ。見つかるな、殺すな、追うな。情報だけを持ち帰れ。以上だ」


 ヴォルフが敬礼し、詰所を出ていく。

 一人になったゲルトは、地図の上に残された駒を見下ろした。三つの駒が、砦を中心に東へ扇状に広がっている。

 そしてもう一つ――地図の脇に、使われていない駒が転がっていた。ゲルトはそれを摘まみ上げ、北東の山岳地帯に向かう経路上に置いた。

 隊長たちの進路だ。

 バルカスは燐たちのパーティに同行している。カイとセレスも一緒だ。砦を出て二日。順調に進んでいれば、中立地帯の中央部を通過している頃だろう。

 出立の朝、隊長は短くこう言った。


 ――留守を任せる。お前なら大丈夫だ。


 信頼の言葉だった。だが同時に、その言葉の裏にある意味も理解していた。あの人が自ら砦を離れるということは、それだけの理由があるということだ。あの少女――ロリと、燐。あの二人を守るために、隊長は軍人としての判断ではなく、人としての判断を選んだ。

 ゲルトには、その理由の全ては分からない。だが、分かっていることが一つある。

 あの人が選んだ道なら、理由がある。

 自分はそれを信じて、ここを守ればいい。


 数秒間、駒を見つめてから、ゲルトはそれを地図の脇に戻した。


* * *


 午後遅く。

 東壁の偽装作業を確認した帰り、ゲルトは砦の外壁に沿って歩いていた。

 日差しは傾き始め、石壁が長い影を落としている。壁の際を歩くと、石に蓄えられた昼間の熱が、ほのかに右半身を温めた。

 外壁の上では、守備隊の兵士が交代で見張りについている。その一人が、ゲルトの姿を認めて小さく会釈した。ゲルトは片手を上げて応じた。

 兵士たちの目に、探るような色が混じっていることに気づいている。隊長ではなく副指揮官が指揮を執っている。その事実が、兵士たちの不安を微かに増幅させている。


 外壁の角を曲がったところで、トーマスが待っていた。


「副指揮官殿。少し、いいですか」

「なんだ」

「……個人的な話です」


 珍しいことだった。トーマスは若いが、勤務中の公私の区別は弁えている方だ。

 ゲルトは黙って壁にもたれた。トーマスは少し間を置いてから口を開いた。


「隊長が砦を離れたこと。一部の兵士から不満が出てます。カイとセレスもいなくなって、戦力が減ったと。表立ってじゃないですけど」


 ゲルトは目を閉じ、一つ息を吐いた。知っている。隊長不在の不安が、不満という形で噴き出しているのだ。


「隊長は、なぜ行ったんですか。こんな時期に」


 トーマスの声は、詰問ではなかった。純粋な問いだった。年若い兵士の目が、真っ直ぐにゲルトを見ている。

 ゲルトは壁に背中を預けたまま、しばらく黙った。空を見上げる。リフトグライダーはもう見えない。滞空時間の限界で帰還したか。澄み切った空が、皮肉なほど穏やかだった。


「……あの小さい奴を覚えてるか。銀髪の」


 トーマスが頷いた。


「ロリ、でしたか。燐と一緒にいた少女」

「ああ」


 ゲルトは言葉を選んだ。ロリの事情を詳しくは知らない。だが、隊長が出立前に語った言葉は覚えている。


「あの子と燐には、ここじゃない場所に行く必要があった。隊長はそう判断した。軍人としては……間違いかもしれない」


 一拍、間を置いた。


「だがあの人は、人としての判断を選んだ。昔、部下を失ったことがある。あの時の後悔が根にある。俺はそう理解してる」


 トーマスは黙って聞いていた。若い顔に、何かを咀嚼するような表情が浮かんでいる。


「隊長は必ず戻る。あの人がそう言ったんだ。俺はそれを信じてる」


「だから、俺たちの仕事は一つだ。隊長が戻ってきた時に、この砦がちゃんと立っていること。それだけだ」


 トーマスはしばらく沈黙した後、背筋を伸ばした。


「……了解しました。副指揮官殿、俺はついていきます」


 若い兵士の目に、先ほどまでの迷いはなかった。

 ゲルトは鼻の奥がつんとするのを堪えて、ぶっきらぼうに言った。


「支持しなくてもいい。文句があるなら言え」

「文句はないです。ただ、一つだけ」

「なんだ」

「副指揮官殿も、ちゃんと飯食ってくださいね。隊長みたいに三日前の煉瓦パンで平気な顔してると、部下が心配します」


 ゲルトは一瞬目を瞬き、それから声を殺して笑った。


「……隊長の真似はやめておく。あの人の胃袋は鉄でできてるからな」

「ですよね。人間の食い方じゃないですもん、あれ」


 二人の間に、短い笑いが起きた。


「……それと、トーマス」

「はい」

「不満を漏らしてる兵士には、飯を多めに出してやれ。腹が減ると人間は愚痴っぽくなる。腹が膨れれば黙る。単純な生き物だからな、俺たちは」


 トーマスが目を丸くした。


「それ……隊長の台詞じゃないですか」

「ああ。借り物だ。だが、正しいことに変わりはない」


* * *


 日が沈む頃、ゲルトは再び高所監視哨に登った。

 夕焼けが荒野を赤く染めている。丘陵の稜線が影絵のように浮かび上がり、空の端が藍色に沈んでいく。風が出てきた。砂の匂いを含んだ、乾いた風だ。

 リフトグライダーは戻ってこなかった。日没後は飛べない。だが、地上の偵察兵は夜間でも動く。


 監視哨の石床に腰を下ろし、壁に背を預けた。石の表面がまだ僅かに温かい。昼間の日差しの名残だ。

 懐から、隊長が置いていった命令書を取り出す。何度も読み返した紙は、すでに折り目が擦り切れかけている。偽装計画、哨戒ローテーション、物資配分、暗号更新の手順――バルカスの几帳面な筆跡が、薄暗がりの中でも読み取れた。

 あの人は、砦のことを一つ残らず考え抜いてから出て行った。自分が不在でも回るように、全てを書き残して。


 不意に、通信室で見た文面が頭をよぎった。

 帝国の暗号更新。偵察の強化。それらが意味するもの。

 帝国は何かを準備している。大規模な作戦か、局地的な攻勢か。規模は分からない。時期も分からない。分からないことだらけだ。

 だが一つだけ、確実に言えることがある。

 嵐は来る。問題は、いつ来るかだ。

 そして、その嵐が来た時、ここに隊長はいない。自分が判断し、自分が兵を動かさなければならない。

 務まるのか。

 自問が、胸の奥で渦を巻いた。


「……副指揮官殿」


 階段の下から、トーマスの声が聞こえた。


「夕食の準備ができました。今日はシチューです。……煉瓦パンよりはマシかと」

「食えるものなら何でもいい。すぐ降りる」


 ゲルトは立ち上がり、最後にもう一度、東の空を見た。

 星が出始めている。冷たく、鋭い光だ。同じ星を、隊長たちも見ているだろうか。


 バルカス隊長。燐。カイ。セレス。そして、あの小さな少女。

 どうか無事で。

 俺はここを守ります。あなたが託してくれたこの砦を、一日たりとも欠かさず守り抜きます。


 その決意を胸の奥に刻み、ゲルトは階段を降り始めた。

 石段に響く軍靴の音だけが、暮れなずむ砦に残った。

 下では、兵士たちの賑やかな声と、シチューの湯気が、束の間の温もりを作っている。明日には消える温もりかもしれない。だが今は、それで十分だった。


 砦の外、東の闇の向こうで、帝国の「鷹の目」が次の飛行に備えて翼を休めている。

 そして、この砦のさらに向こう――荒野のどこかで、隊長たちが歩いている。

 ゲルトはそれを知らない。知る術もない。

 ただ、信じている。

 あの人が選んだ道なら、間違いはないと。


 石段の冷たさが、軍靴の底を通して伝わってきた。

 ゲルトは足を止めず、暗い階段を降りていった。

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