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第2章-39話「託された密命、最後の準備」

 連合上層部から下された「古代遺跡調査任務」の承認。


 改革派はその報に沸き立ち、早速任務の詳細な指示と期限という名の圧力を現場へと通達してきた。一方で、保守派は苦虫を噛み潰したような表情で沈黙を守っていたが、その水面下で何を企んでいるか、知れたものではない。


 いずれにせよ、賽は投げられたのだ。燐とロリ、そして彼らに同行することになったリディア、カイ、セレスにとって、出発の日は目前に迫っていた。


 出発を翌日に控えた、静かな夜だった。


 砦の大半が寝静まり、城壁を照らす魔導灯の光だけが、冷たい石畳に長い影を落としている。


 バルカス軍曹は、自身の執務室で一人、窓の外の闇を見つめていた。机の上には、承認された任務に関する書類が広げられているが、彼の意識はそこにはなかった。彼の心は、明日、この砦から未知の危険へと旅立つことになる若者たちのことで占められていた。


(…これで、本当に良かったのか?)


 自問自答を繰り返す。改革派の思惑、保守派の脅威、帝国の影、そして何よりも、燐とロリが持つ計り知れない力とその危険性。全てを承知の上で、彼は彼らを砦の外へ送り出すことを決断したのだ。それは、砦の混乱を収拾するための、そして彼ら自身の安全のための、苦渋の選択だった。だが、その選択が正しいものであったという確信は、まだ彼の中にはなかった。ただ、部下たちの命を預かる指揮官として、そして過去の過ちを繰り返すまいとする一人の人間として、これが最善だと信じるしかなかった。


 彼は、机の上の通信機に手を伸ばし、短い魔力パルスを送った。


 数分後、執務室の扉が控えめにノックされ、カイが姿を現した。その若い斥候の顔には、緊張と、そして僅かな決意の色が浮かんでいる。


「軍曹殿、お呼びでしょうか」


「ああ、入れ。少し話がある」


 バルカスはカイを部屋の中央に立たせ、自身は椅子に深く腰掛けたまま、真っ直ぐに彼の目を見据えた。


「カイ、貴様を今回の遺跡調査任務の同行メンバーに任命した。表向きの任務内容は理解しているな? リン・アッシュと対象Xの監視、リディア技術士官を含むチーム全体の護衛、そして任務に関する全ての情報の逐次報告だ」


「はっ! 了解しております!」


 カイは力強く答えた。その声には、僅かな興奮すら感じられた。


「だがな、カイ」

 

バルカスは声を潜め、その口調は個人的な響きを帯びた。


「これは、貴様の直属の上官としての、俺個人の命令でもある。心して聞け」


 カイは息を呑み、背筋を伸ばした。


「監視だけが任務じゃない。貴様の斥候としての能力…その鋭い感覚と判断力を、俺は信頼している。だからこそ、この任務をお前に託す」


 バルカスは、机の上に置かれた自分の古いナイフを手に取り、その切っ先を眺めながら続けた。


「リン・アッシュが何者であれ、あの幼女が何を秘めていようと…彼らが進もうとしている道には、何か重要な意味があるのかもしれん。あるいは、我々が想像もできないような、とてつもない危険が待ち受けているのかもしれん」


 彼は顔を上げ、カイの目を射抜くように見つめた。


「だから…状況次第では、俺の命令を待たずに、お前の判断で動け。リン・アッシュたちを保護することも、支援することも許可する。いいか、カイ。お前が正しいと信じる道を選べ」


「……!」


 カイは驚きに目を見開いた。それは、軍の規律よりも個人の判断を優先させることを許容する、異例の命令だった。


「ただし!」


 バルカスの声に、再び力がこもる。


「最優先事項は、貴様ら自身の生存だ。リディア技術士官も、セレスも、そして貴様自身もだ。決して無茶はするな。どれほど重要な情報があろうと、どれほど守るべきものがあろうと、生きて帰らねば意味がない。危険だと判断したら、迷わず撤退しろ。それが、俺からの…絶対命令だ。分かったな?」


 それは、軍人としての厳しさと、部下の身を深く案じる上官としての温情が入り混じった、重い、重い言葉だった。


 カイは、その言葉に込められたバルカスの複雑な想いを、そして自分に託された責任の重さを、全身で受け止めていた。


「……了解しました!」


 彼は、これ以上ないほど力強く、そして敬意を込めて敬礼した。その瞳には、不安を乗り越えた、確かな覚悟の光が宿っていた。


「必ずや、任務を完遂し…全員で、生還します!」


「…頼んだぞ」


 バルカスは短く応え、カイに退室を促した。


 *   *   *


 カイと入れ替わるように、次に執務室に呼ばれたのは、衛生兵のセレスだった。

 彼女はいつも通り冷静な表情で入室し、バルカスの前に立った。


「セレス」


 バルカスは、先ほどよりも僅かに穏やかな、しかし真剣な口調で語りかけた。


「貴様にも、カイと同じ任務を与える。リン・アッシュと対象Xの監視と護衛だ。加えて、貴様には衛生兵として、メンバー全員の健康管理と、万が一の際の医療処置を任せる。重要な役割だ」


「御意に」


 セレスは静かに頷いた。


「そして…」


バルカスは続けた。


「貴様にも、カイと同じ密命を与える。状況次第では、自らの判断で行動しろ。彼らを保護し、支援することも許可する。だが、生還を最優先とすること」


 彼は、セレスの冷静な瞳を見つめた。


「貴様の冷静な判断力と、優れた観察眼を、俺は信頼している。カイは…少し熱くなりやすいところがある。貴様が、彼の、そしてチーム全体の精神的な支柱となってほしい。頼めるか?」


 セレスは、バルカスのその言葉に、僅かに目を伏せた。そして、ゆっくりと顔を上げると、真っ直ぐに彼を見据え、静かに、しかし確かな意志を込めて答えた。


「…お任せください、軍曹殿。必ずや、全員で任務を達成し、無事に戻ります」


 その短い言葉には、彼女の決意と、バルカスへの忠誠、そして仲間たちへの責任感が凝縮されていた。


 バルカスは、その揺るぎない瞳を見て、安堵とも、新たな重圧ともつかない複雑な感情を覚えながら、深く頷いた。


「…頼んだぞ、セレス」


 セレスは無言で敬礼し、静かに執務室を後にした。


 *   *   *


 同じ頃、リディアは自身の研究室で、エルド教授と最後の打ち合わせを行っていた。


 部屋の中には、最新の解析装置や、古文書の複製、そして出発用に準備された様々な特殊機材が所狭しと並べられている。


「リディア君、これを託す」


 エルド教授は、厳重なケースに収められた二つのアイテムを、リディアに手渡した。


 一つは、彼が長年改良を重ねてきたという、手のひらサイズの多機能解析装置。マナの波動、魔術構造、生体エネルギー、さらには古代の遺物に残された微弱な情報痕跡まで解析できるという、まさに彼の研究成果の集大成だ。


「こいつは、わしの目がわりじゃ。これがあれば、『月の神殿』の謎に、そしてリン君やロリ殿の力の秘密に、さらに深く迫れるはずじゃ」


 もう一つは、小さなデータ結晶だった。


「ここには、わしがこれまでに解読した古代文字の辞書データ、遺跡に関する最新の仮説、想定される危険生物や環境についての注意点、そして何よりも…『思考魔法』と『原初の魔法』に関する、わしの現時点での考察を全て記録しておいた。道中、必ず確認するんじゃぞ」


「ありがとうございます、教授。必ず役立てます」


 リディアは、それらを慎重に受け取り、自身の装備に組み込んだ。


「うむ」


エルド教授は頷いたが、その表情はどこか曇っていた。


「だがリディア君、くれぐれも忘れるでないぞ。決して深入りしすぎるな。真実は時に甘美だが、猛毒でもある。特に、あの『始祖』や、リン君の『一族』に関わることはな…。好奇心に呑まれ、道を踏み外すでないぞ」


 それは、研究者としての先輩から、そして彼女の才能を誰よりも認めている師からの、心からの警告だった。


「…肝に銘じます」


 リディアは、その言葉の重みを受け止め、真剣な表情で頷いた。


 *   *   *


 そして、出発を数時間後に控えた深夜。


 シスター・クレアが、人目を忍んで、再び燐とロリの部屋を訪れた。彼女の顔には、別れを惜しむ寂しさと、彼らの旅路の無事を祈る敬虔な光が浮かんでいた。


「リンさん、ロリさん……」


 彼女は涙ぐみながら、二人の手を優しく握りしめた。


「どうか、どうかご無事で。あなた方の旅が、多くの困難に見舞われることは分かっています。それでも、あなた方が求める真実の光を見出すことができますように、そして、いつか必ず、笑顔でここに戻ってきてくださるように、私はここでずっと祈っています」


 彼女は、小さな布袋を二つ、燐とロリにそれぞれ手渡した。


「これは、私が集めた薬草です。解毒効果の高いもの、傷の治りを早めるもの、そして心を落ち着かせる香りの良いもの…きっと、旅の助けになるはずです」


 さらに、クレアは燐にだけ、暗号化されたインクで書かれた小さなメモを渡した。


「そして、これは……もしもの時のための、連合各地にいる信頼できる支援者の連絡先と合言葉です。彼らは皆、私と同じように、今の世界のあり方に疑問を持ち、真実と平和を願っている者たちです。決して大きな力にはなれないかもしれませんが、彼らを頼れば、きっと道が開ける場面もあるはずです」


「シスター……本当に、ありがとうございます」


 燐は、彼女の深い慈愛と勇気に、心の底から感謝し、深く頭を下げた。


「ロリさんも…」


クレアはロリの手を優しく握り、その瞳を真っ直ぐに見つめた。


「あなたは、決して穢れた存在などではありません。あなたの中には、きっと、とても温かくて、優しい力が眠っているはずです。どうか、ご自分を信じて……そして、希望を捨てないでください」


「……はい」


 ロリは、涙を堪えながらも、力強く頷いた。クレアの言葉は、彼女の不安な心を温かく照らしていた。


 クレアは、最後に二人のために深く祈りを捧げると、名残惜しそうに部屋を後にした。彼女の去った後には、清らかな祈りの気配と、温かい希望の香りが残されていた。


 *   *   *


 出発まで、あと僅か。


 燐、ロリ、リディア、カイ、セレスは、砦の一室、リディアが準備した臨時の作戦室のような場所に集まり、最後の準備を進めていた。


 リディアは燐の魔導結晶の最終調整を行い、エネルギーパックの充填状況を確認している。カイとセレスは、それぞれの背嚢にサバイバル装備、武器、弾薬、医療キットなどを手際よく詰め込み、互いに不備がないかチェックし合っている。


 燐は、僅かながら回復してきた魔力の感覚を確かめるように、静かに目を閉じ、精神を集中させていた。まだ全盛期には程遠い。だが、以前のような完全な虚無感はない。そして何より、彼には今、信頼できる仲間たちがいる。出発の時は、すぐそこまで迫っていた。

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