第3章-39話「鉄の馬車と揺れる想い」
* * *
太陽が高く昇るにつれ、気温も上がり始めた。
荒野の景色は単調で、ゴツゴツとした岩と乾いた土、そして疎らに生える低い灌木が続くだけだ。
魔導装甲車はサスペンションが強化されているとはいえ、舗装されていない悪路では激しく揺れる。ガタガタという振動と、魔力を動力に変える魔導機関が発する低い唸り音が、絶え間なく響いていた。
車内には、熱せられた鉄と古い革の匂いが籠もっている。窓を少し開けると、乾いた砂埃の匂いが流れ込んできた。
「うぅ……」
さきほどまでの感動はどこへやら、ロリが青ざめた顔で口元を押さえていた。
乗り物酔いだ。
無理もない。生まれて初めて乗る乗り物だ。しかもこの悪路。三半規管が悲鳴を上げているのだろう。
「気持ち悪いか?」
「は、い……。世界が、ぐるぐるして……」
涙目で訴えるロリ。不思議な力を秘めているはずの少女が、ただの乗り物酔いに負けている。燐は思わず口元が緩んだ。
燐は苦笑しつつ、彼女の肩を抱き寄せた。
「横になれ。頭を低くすれば少しは楽になる」
「でも……」
「いいから」
燐は自分の太腿をポンと叩いた。膝枕の合図だ。
ロリは一瞬躊躇ったが、もう一度車体が大きく跳ねた拍子に、観念したようにコクリと頷いた。
そして、恐る恐る、燐の膝の上に頭を預けた。
銀色の髪が、燐の脚にさらりと広がる。
彼女の身体は驚くほど軽く、そして柔らかかった。体温は少し低く、ひんやりとしている。
「……すみません、リン。重くないですか?」
「羽毛布団の方が重いくらいだ。気にするな」
燐は彼女の髪を指で梳きながら、こめかみの辺りを軽くマッサージした。簡単な気功術の一種で、血行を良くし、自律神経を整える効果がある。
ロリの強張っていた表情が、次第に緩んでいく。
「ん……。リンの手、温かい……」
「そうか。なら、眠れるまでこうしてろ」
「はい……」
安心したのか、ロリはすぐに寝息を立て始めた。
無防備な寝顔。長い睫毛が影を落とし、小さな唇が微かに開いている。
燐は、その顔にかかる髪をそっと払った。
膝の上の少女の寝息が、車体の振動に混じって静かに聞こえている。その小さな呼吸の律動だけが、鉄の箱の中に確かな生の気配を宿していた。
「……過保護ねぇ」
助手席から、リディアが呆れたような声を出した。
彼女はシートを倒し気味にして、手元の端末を操作していたが、その視線はバックミラー越しに燐たちに向けられていた。
「まるで老犬と捨て猫のカップルみたい。見てるこっちが恥ずかしくなるわ」
「誰が老犬だ」
「あんたよ。十九歳のくせに、目が還暦過ぎてるのよ」
荷台のバルカスが、ふん、と鼻を鳴らした。
「口を動かす暇があるなら周囲を警戒しろ。ここは中立地帯だ。何が出てもおかしくない」
「はいはい、軍曹殿」
リディアは肩を竦めたが、すぐに視線を端末に戻した。その指先が画面を高速で滑っている。表示されているのは、複雑な波形グラフと数値の羅列。
燐の身体検査データだ。砦にいた頃、半ば強引に採集されたものだ。
「……それにしても、不思議ね」
「何がだ」
「あんたの脳波。あと、魔力回路のパターンよ」
彼女は端末を操作し、あるグラフを拡大した。
「普通の魔術師は、杖とか端末とか外部の演算機で術式を組むでしょ? 脳はあくまで司令塔。でも、あんたは違う」
「……」
「あんたの脳が、そのまま演算機になってるの。視覚情報を神経回路が直接魔術式に変換して出力してる」
「それが何だ」
「人間業じゃないのよ。文字通り、脳味噌焼いて走ってるようなもんじゃない」
リディアの指摘は、的確だった。
燐の脳内魔法式。リディアが便宜上そう名付けた、燐だけの異常な能力。
それは御名方一族に伝わる秘術であり、呪いのような才能だ。
外部デバイスを通さないため、思考速度=発動速度という圧倒的な初速を誇るが、その代償として脳神経に直接的な過負荷がかかる。使いすぎれば、神経が焼き切れ、廃人になるか死ぬ。
「訓練の結果だ」
燐は短く答えた。嘘ではない。幼い頃からの過酷な、拷問に近い訓練が、彼の脳をそう作り変えたのだから。
だが、リディアは納得していないようだった。
「訓練でどうにかなるレベルを超えてるのよ。効率が良すぎる。まるで……」
彼女は言葉を切り、一瞬だけロリの寝顔を見た。
そして、声を潜めて続けた。
「まるで、最初からそう造られた魔導装置みたい。品種改良……あるいは、何かの模倣?」
燐の喉が詰まった。
模倣。
その言葉が、こめかみの裏側にへばりつくように残った。
自分の力が、誰かの設計図に沿って組み上げられた借り物であるかのような言い草。
だが、反論する言葉は見つからなかった。自分自身、この力の出所を完全には理解していないのだ。一族の血筋、という説明だけでは、納得できない何かが常にあった。
「……詮索は程々にしてくれ。俺は、使えるものを使っているだけだ」
「はいはい、分かったわよ。機密事項ってやつね」
リディアは肩を竦め、端末を閉じた。
だが、その瞳の奥にある探求心の光は、消えていなかった。彼女は、燐という「謎」を決して手放さないだろう。
燐は小さく息を吐き、再びロリの髪を撫でた。
膝の上の少女の寝息だけが、今の彼にとって唯一の確かなものだった。
* * *
ロリが眠っている間に、車内の空気が変わった。
少女の寝息が穏やかに聞こえている。その規則正しいリズムを確認してから、カイが運転しながら口を開いた。
声を落としている。後部座席で眠る少女を起こさないための配慮だった。
「燐さん。ルートの件ですが」
カイの視線がバックミラーを一瞬捉え、すぐに前方に戻る。
「セレスと二人で砦を出る前にまとめた情報があります。中立地帯の現況について」
「聞かせろ」
荷台のバルカスも、組んでいた腕を解いて身を乗り出した。風に晒された顔に、僅かに緊張が走っている。
セレスが荷台の端から、折り畳まれた地図を差し出した。砦の斥候部隊が使っていたもので、鉛筆で細かな書き込みが加えられている。危険地帯には赤い×印が、水場には青い丸が、それぞれ几帳面に記されていた。バルカスの筆跡だ。
リディアがそれを受け取り、助手席で広げた。燐も身を乗り出して覗き込む。ロリの頭を起こさないよう、慎重に上体だけを傾けた。
カイが片手でハンドルを握ったまま、顎で地図の北東部を示した。
「帝国の偵察が増えています。中立地帯の奥まで歩兵偵察が入り込んでいるという情報が、出発前の二週間で三件。三名から五名の小規模編成です」
セレスが短く補足した。
「……痕跡は確認済み。焚き火跡、馬糞。座標三七と四二」
「座標四二か」
バルカスが地図を睨んだ。太い指で等高線をなぞる。その指先の動きには、荒野の地形を読む長年の経験が滲んでいた。
「……俺たちの予定ルートと、二十キロも離れていないな」
「ええ。それだけじゃありません」
カイの声が、一段低くなった。
「帝国が空からの偵察も始めています。リフトグライダーです」
燐の眉が動いた。リフトグライダー。布と木骨で組まれた無音に近い飛行偵察機だ。上昇気流に乗って滑空し、高高度から地上を観察する。音が小さいため、気づいた時には既に上空にいる厄介な代物だった。帝国が誇る「鷹の目」。燐がまだ帝国側にいた頃、演習でその運用を目にしたことがある。搭乗員は高倍率の双眼鏡を携えており、高度三百メートルからでも地上の車両の型式まで識別できた。
「砦にいた時、東の空に何度か確認しました」
カイが続ける。
「最初は五日に一度くらいでしたが、出発直前には二日に一度に。この調子だと、中立地帯の上空を常時飛んでいてもおかしくありません」
「だから西に迂回するルートを取ったのよ」
リディアが、閉じていた端末を再び開きながら言った。画面に表示されたのは、赤い線で描かれた迂回経路だ。
「グライダーの航続距離って上昇気流次第なの。東側は温度差が大きくて気流が出やすい——偵察範囲が広いわ」
「西は」
「気流が安定してて滞空時間が短い。だから——」
「西を回れば、空からの目を避けやすくなる」
燐が先を引き取った。リディアが「そういうこと」と指を鳴らした。
「もちろん完全じゃないわ。風向き次第で飛行範囲は変わる。でも確率の問題よ。東側を真っ直ぐ行くのと比べれば、発見されるリスクは格段に低い」
「ただし」
バルカスが低い声で割り込んだ。風が荷台のシートをバタバタと叩いている。
「西回りにも問題はある。街道から外れる分、補給が難しくなる。水場も少ない。それと――」
彼は地図の西側、山裾に沿った一帯を太い指で叩いた。
「停戦ラインの下だ。公式には誰もいないことになってるが、実態は別だ。脱走兵、密輸屋、旗なしの武装集団——正規兵より厄介だ、こいつらは」
「選択肢は二つ」
セレスが、荷台から簡潔に言った。
「空の目を避けて西。地上の危険を避けて東」
車内に、数秒の沈黙が落ちた。魔導機関の低い唸りだけが響いている。
燐は膝の上で眠るロリの銀髪に、無意識に指を通した。
「西だ」
短く言い切った。
「帝国に見つかれば、追っ手がすぐ来る。山賊なら対処できる。だが帝国に位置を掴まれたら、逃げ場がなくなる」
バルカスが無言で頷いた。同じ結論に達していたのだろう。
カイが「了解」と応じ、次の分岐で西寄りのルートにハンドルを切った。車体が傾き、砂利を跳ね上げる音が荷台の下で弾けた。
「カイ。セレス」
燐が二人の名を呼んだ。
「情報、助かった。引き続き、何か気づいたことがあれば報告してくれ」
「はい」
カイが真っ直ぐに頷いた。セレスは小さく顎を引いただけだったが、その目には静かな責任感が灯っていた。
* * *
太陽が天頂を過ぎた頃、車両は岩陰に停車した。
昼食休憩だ。
エンジンの熱を冷ます必要もある。カイがボンネットを開けて点検し、セレスは周囲の高台に登って警戒にあたる。
リディアは「足がむくむー!」と叫びながら屈伸運動を始めた。
バルカスは車両の影で腕を組み、周囲の地形を黙って観察している。斥候として長年培った習性だ。目は休まない。
燐はロリを連れて、日陰の平らな岩場に腰を下ろした。
ロリの車酔いは、眠ったおかげでだいぶ良くなったようだ。顔色も戻り、今は物珍しそうに周囲の景色――乾いた地面を這う虫や、岩の隙間に咲く小さな花――を観察している。
岩場に腰を下ろすと、日差しに焼かれた石の熱が腿の裏に伝わってきた。乾いた風が汗を乾かしていく。どこか遠くで、鳥が甲高い声を上げた。
「飯にするぞ」
燐は荷物から携帯食料を取り出した。
バルカスがくれた「最高級」の保存食。とはいえ、軍用品であることに変わりはない。
真空パックされた、レンガのように硬く乾燥したパン。塩漬けの干し肉。そして、粉末のスープ。
優雅な食事とは程遠い。
「これは……石、ですか?」
手渡されたパンを見て、ロリが真顔で訊いてきた。
無理もない。見た目も感触も、茶色い軽石そのものだ。
「パンだ。保存用に水分を抜いてある」
「ぱん……。私の知っているパンとは、ずいぶん違います」
ロリは恐る恐るパンを口元に運び、小さく齧り付いた。
ガリッ。
鈍い音がして、彼女の動きが止まる。
「……リン。やはりこれは、石です」
「違うと言ってるだろう。……貸してみろ」
燐は苦笑しながらパンを取り返すと、腰のナイフを抜いた。
器用にパンを薄く削ぎ切り、使い込まれた金属のカップに入れる。そこに水筒の水を注ぎ、簡易コンロで温めたスープの素を溶かした。
しばらくすると、パンが水分を吸って柔らかくなり、スープにとろみがつく。
干し肉も細かく刻んで放り込む。
即席の、パン粥の完成だ。
塩と脂の混じった湯気が立ち昇り、乾いた荒野の空気に溶けていく。
「ほら、これなら食える」
湯気の立つカップを差し出す。
ロリは目を丸くして、スプーンで掬ったパン粥を口に運んだ。
はふはふ、と熱そうに息を吐き、ごくりと飲み込む。
「……! 美味しいです!」
彼女の顔がぱあっと輝いた。
塩気の強いスープと、ふやけたパンの素朴な味。美食とは呼べない代物だが、空腹と疲労には染み渡る味だ。
「温かい……。リン、魔法みたいです。あの石が、こんなに美味しくなるなんて」
「ただの生活の知恵だ。……ほら、もっと食え」
燐は自分の分も少し彼女のカップに移してやった。
ロリは嬉しそうに微笑み、「あーん」とスプーンを差し出してくる。
「リンも、どうぞ」
「俺はいい。自分で食う」
「だめです。リンが作ってくれたのですから、一緒に食べないと」
頑として譲らない彼女の瞳に負け、燐は渋々、差し出されたスプーンから一口食べた。
少し冷めかけたスープの味が、妙に甘く感じられた。
「……どう? お味は?」
いつの間にか戻ってきたリディアが、ニヤニヤしながらこちらを見ている。カイも、車の陰で肩を震わせて笑っているのが見えた。
バルカスだけは、少し離れた岩場で黙々と干し肉を噛んでいる。だが、その視線が一瞬こちらに向けられ、すぐに逸らされたのを、燐は見逃さなかった。
「完全に新婚さんね。もしくは、孫を甘やかすお爺ちゃん」
「黙って食え」
燐は赤くなるのを堪え、無愛想に言い返した。
ロリだけが、「?」と首を傾げている。
その日常的な光景が、ここが戦場の延長であることを一瞬忘れさせてくれた。
食事を終え、各自が食器を片付けている間、ロリはカイのそばに寄っていった。カイが車両のエンジン部に水を補充しているのを、しゃがみ込んで覗き込んでいる。
「カイさん。この鉄の馬車は、何を食べて動くのですか?」
「馬車じゃなくて車ですよ、ロリちゃん。えーと、魔力の結晶を燃料にして……って、分かるかな」
「結晶を……食べるのですか?」
「食べるって言うか、まあ、そうですね。食べるに近いかも」
カイが頭を掻きながら笑っている。ロリは真剣な顔で車体の側面を撫でた。まるで生き物に触れるように。
「頑張っていますね、鉄の馬車さん」
車体に向かって小さく呟いたロリの横顔を、セレスが高台から見下ろしていた。その唇が、ほんの僅かに緩んだ。
燐はその光景を横目にしながら、水筒を持って少し離れた岩場に移動した。日陰に入ると、風が汗ばんだ首筋を冷やしていく。
背後に、重い足音がした。
振り向くまでもなかった。この足音は一つしかない。
「バルカス」
「ああ」
大男は燐の隣の岩に腰を下ろした。大斧を地面に立てかけ、水筒の蓋を捻る。喉仏が大きく上下するのを横目で見ながら、燐は黙って前方の荒野を眺めた。
しばらく、二人の間に言葉はなかった。風の音と、遠くでカイが何かリディアに話しかけている声だけが聞こえる。
「一つ、聞いておきたいことがある」
バルカスが不意に口を開いた。
「砦に残る選択肢もあった」
燐は、水筒の蓋を閉める手を止めた。
「お前は帝国から追われている身だ。砦にいれば、少なくとも連合の庇護がある。俺の部下に紛れて身を隠すことも、不可能ではなかった」
バルカスの目が、真っ直ぐに燐を見ていた。
「なぜ来た」
問いは、単純だった。
だが、その単純さが、燐の胸を抉った。
なぜ。
答えは、あるはずだった。あの少女を守るため。彼女の力の秘密を解き明かすため。追っ手から逃げるため。砦にいては、いずれ帝国の手が伸びる。論理的な理由は幾らでも並べられる。
だが、バルカスが聞いているのは、そういうことではなかった。
この男は、動機の根を聞いている。
義務なのか。意志なのか。
命じられたからか。自分で選んだのか。
燐は口を開きかけ、そして閉じた。
風が、乾いた砂を巻き上げて二人の間を通り抜けた。
「……分からない」
搾り出すように、燐は言った。
嘘ではなかった。恰好をつけた言い訳でもなかった。
あの少女を守ると決めた。それは確かだ。だが、その決意がどこから来ているのか、燐自身にも言語化できなかった。
育てられた義務感なのかもしれない。御名方の血が、「道具」としての使命を囁いているだけなのかもしれない。あるいは、初めて出会った時にロリが見せたあの瞳――怯えながらも、真っ直ぐにこちらを見つめた青藍の瞳に、何かを揺さぶられたのかもしれない。
それが何なのか、まだ名前をつけられない。
「分からない、か」
バルカスは鼻を鳴らした。だが、その顔には嘲りはなかった。
水筒の蓋を締め直し、大斧を肩に担ぎ上げる。立ち上がる際、膝の関節がごきりと鳴った。
「答えが出たら、教えろ」
それだけ言い残して、大男は車両の方へ歩き出した。
燐はその背中を見送った。
広い背中だった。傷だらけの、重い背中。あの男もまた、砦を離れてここにいる理由を、自分に問い続けているのかもしれない。部下を置いてきた。砦を任せてきた。それでもここにいる。あの男の「なぜ」は、燐の「なぜ」と、どこかで繋がっているのだろうか。
ロリの声が聞こえた。岩場の向こうで、小さな花を見つけたらしい。リディアに嬉しそうに見せている。
その光景を目にした時、燐の胸の奥で、何かが僅かに脈打った。
名前のつかない、温かいもの。
だが、燐はそれを言葉にしなかった。
* * *
休憩を終え、再び車を走らせる。
目指すは、北東の山岳地帯にあるとされる遺跡群。
地図上ではあと数日の距離だが、西回りの迂回ルートを取った分、予定より時間がかかる。道は険しくなり、帝国の監視網も厳しくなるはずだ。
午後の陽光が傾き始めた頃、セレスが荷台から身を乗り出して前方を指差した。
「……十一時方向。高台の上」
全員の目が、その方角に向いた。
荒野の中に突き出た岩山の頂に、一瞬、何かが光った。金属の反射だ。すぐに消えた。
燐の脳内魔法式が低出力で脈動した。こめかみの奥が微かに熱い。遠い。だが、人の気配はある。
「偵察か?」
カイが声を潜めた。
「分からん。このまま通過しろ。速度は変えるな」
バルカスが荷台の縁を掴みながら指示した。不自然な加減速は、監視者に「気づかれた」と知らせるのと同じだ。
「……あの距離なら、こちらの人数と車種くらいは見えているかもしれないわね」
リディアが端末を操作しながら呟いた。
「でも個人の特定までは無理。装甲車なんて中立地帯にはいくらでも転がっている。商人の護衛か、傭兵の移動だと思わせればいい」
光は二度と現れなかった。
だが、見られていた可能性がある。その事実が、車内の空気を僅かに引き締めた。
夕暮れ時。
空が茜色から紫色へとグラデーションを描き始める頃、ロリが不意に窓の外を見て、小さく身を震わせた。
「……リン」
「どうした、酔ったか?」
「いいえ……。風が、変わりました」
彼女は窓ガラスに手を当て、遠く、北の方角を凝視していた。
その瞳孔が、猫のように細く収縮している。
「嫌な風です。……誰か、すごく怒っています。黒い、ドロドロした気持ちが……近づいてきます」
燐の背筋に、冷たいものが走った。
ロリの感覚。それは魔力探知とは違う、もっと本能的で、根源的な察知能力だ。彼女が「嫌だ」と言うなら、そこには確実に脅威がある。
荷台のバルカスが、即座に大斧の柄に手をかけた。
「方角は」
「北。距離は不明だが……近い」
燐はバルカスに短く答え、カイに指示を出した。
「カイ、ルート変更だ。街道を外れて、岩場に入る」
「了解。……何か来ますか?」
「ああ。歓迎できない客がな」
セレスが無言でライフルの安全装置を外した。小さな金属音が、緊張の中に鋭く響いた。
燐は懐の魔導結晶を握りしめ、ロリの肩を抱き寄せた。
彼女の予感が正しければ、追手はすぐそこまで来ている。
それも、ただの兵士ではない。個人的な憎悪と殺意を持った、厄介な相手が。
(ヴァルドか……それとも……)
脳裏に浮かぶ、厳格な騎士の顔。そして、かつて背中を預け合った、もう一人の男の顔。
どちらにせよ、タダで通してくれる相手ではない。
束の間の安息は終わりだ。
燐は、震えるロリの手を強く握り返した。その手に、少しだけ力を込める。
昼間のバルカスの問いが、不意に蘇った。
なぜ来た。
答えはまだ出ない。だが、この手を離す理由だけは、どこにもなかった。
車は街道を外れ、夕闇の迫る荒野の奥へと、砂煙を上げて消えていった。
その轍を、空高く舞う一羽の鷹が、冷ややかな目で見下ろしていた。
その鷹の脚には、帝国の紋章が刻まれた金属環が嵌められていた。




