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第2章-38話「水面下の最終攻防」


 連合上層部で「遺跡調査任務」が承認される、という報せは、まだ正式には下りてきていない。だが、改革派が主導権を握りつつあるという情報は、リディアを通じて燐たちの耳にも入っていた。出発の日は、おそらく近い。


 それは希望であると同時に、保守派による最後の抵抗、そして帝国の暗躍が最も激しくなるであろう危険な期間の始まりをも意味していた。砦内の空気は、表面的な静けさとは裏腹に、水面下で激しく波立ち、不穏な気配が日増しに色濃くなっていた。


「――やっぱり、何か変よ」


 その夜、リディアの研究準備室に集まった燐、カイ、セレスを前に、彼女は厳しい表情で切り出した。壁に投影された魔力光のディスプレイには、複雑なデータログが表示されている。彼女はここ数日、自身の権限と技術を駆使し、砦内のネットワークと物資管理システムの監視を続けていたのだ。


「これを見て。出発部隊用に割り当てられるはずの物資リストよ。数日前から、承認ルートがおかしいの。通常なら補給部と任務担当部隊の双方の認証が必要なのに、一部の重要物資に関して、保守派のボルジア司祭の部署からの横槍というか、不自然な承認記録が残ってる」


「保守派が、物資に直接干渉していると?」


 燐が低い声で尋ねる。


「ええ。そして、その対象となっているのが、あなたの魔導結晶用の高効率エネルギーパック、私が開発した特殊環境センサー、それからセレスが管理する予定の緊急用医療キットの中の、特定の解毒剤や蘇生薬。どれも、今回の任務の成否、いえ、私たちの生死に直結しかねない重要なものばかりよ」


 リディアはさらに別のデータを表示した。それは、砦内倉庫の監視ログの断片だった。高度な暗号化と偽装が施されていたが、彼女はそれを時間をかけて解読したのだ。


「そして、これが昨夜の第三倉庫の監視ログの一部。正規の記録からは削除されていたものよ。見て、この影…明らかに、誰かが倉庫に侵入して、出発用の物資コンテナに何か作業をしている。しかも、ご丁寧に監視用の魔術センサーを一時的に無効化するような、高度な妨害工作までして」


 投影された不鮮明な映像には、暗闇の中で複数の人影が、コンテナに何かを仕掛けているような様子が記録されていた。


「まさか…破壊工作!?」


 カイが声を上げる。


「それだけじゃないかもしれないわ」


 セレスが冷静に付け加えた。


「毒物や、あるいは遅延作動式の罠の可能性も考慮すべきです。相手は手段を選ばないでしょう」


「さらに厄介なのはこっちよ」


 リディアは最後のデータを示した。それは情報管理室のサーバーログだった。


「任務ルートに関するデータに、昨夜、不正なアクセスがあった形跡がある。アクセス元は巧妙に偽装されているけど、これも保守派の誰かでしょうね。地図データが改竄され、危険なルートに誘導されている可能性が高いわ。それに…隠蔽された通信ログをいくつか復元できたんだけど…」


 彼女は声を潜めた。


「…その通信の一部に、帝国で使われている特殊な暗号コードの断片が紛れ込んでいるのを見つけたの」


「帝国の妨害か……」


 燐は奥歯を噛みしめた。保守派の暴走、そして帝国の陰謀。状況は最悪だ。


「出発は明後日の早朝よ。残された時間はほとんどない」


リディアは三人の顔を見回した。


「このままでは、出発しても確実に罠にはまる。私たちが早めに対処しましょ」


 部屋に緊張が走る。しかし、他に選択肢はない。


「やりましょう」


カイが最初に口を開いた。その瞳には、恐怖よりも強い決意が宿っている。


「俺が偵察とルート確保を」


「毒物や薬品の特定、罠の分析は私が行います」

 セレスも静かに答えた。


「システムへのアクセス、ロック解除、データ解析は任せて」

 リディアも眼鏡の位置を直す。


 三人の視線が、燐へと集まる。彼は、仲間たちの覚悟を受け止め、力強く頷いた。


「分かった。物理的な罠の解除、監視システムの無効化、そして全体の護衛は俺が引き受ける。……必ず成功させるぞ」


 四人は、それぞれの役割分担と連携方法、緊急時の合図などを、短い時間で緻密に確認し合った。彼らの間には、もはや監視役と監視対象という壁はない。同じ目的を果たすための「仲間」としての覚悟が共有されていた。


 *   *   *


 深夜。砦全体が深い眠りに包まれ、城壁の上を巡回する歩哨の影だけが、時折月明かりに照らされる時間。


 四つの影が、まるで闇に溶け込むように、砦の裏手にある第三倉庫へと向かっていた。


 先頭を行くカイは、物陰から物陰へと、猫のようにしなやかに移動していく。彼は時折立ち止まり、耳を澄ませ、あるいは地面に残された僅かな痕跡を読み取り、周囲に人の気配がないことを確認しながら、後続に手信号で合図を送る。その集中力と五感の鋭さは、バルカス隊の中でも随一だった。


 その後ろを、燐がロリ…ではなく、今はリディアとセレスを伴って続く。彼は、カイからの合図を受けながら、通路に設置された監視用の魔術装置――壁に埋め込まれた魔力センサーや、天井近くに設置された光学式の監視レンズ――に意識を集中させる。


「封」


 微弱な魔力を送り込む。彼の瞳の奥で淡い紋様が揺らめくと、センサーの放つ微弱な魔力光がフッと消え、監視レンズの表面に一瞬だけノイズが走る。その僅かな時間、監視システムは完全に機能を停止する。その隙に、四人は素早く通過していく。この魔導結晶に頼らない非魔術的かつ精密な無効化は、燐にしかできない芸当だった。


 倉庫の重厚な金属製の扉の前で、一行は足を止めた。最新式の電子ロックと、複雑な術式が組み込まれた魔術的警報システムが設置されている。


「ここは私ね」


 リディアが前に出て、手にした小型の魔導端末を扉の制御パネルに接続する。彼女の指が、驚くべき速度と正確さで端末上を踊り、膨大なコードの羅列を打ち込んでいく。同時に、彼女のもう一方の手からは繊細な魔力が放たれ、警報システムの術式構造を探り、解析し、干渉していく。それはまるで、熟練の鍵師が複雑な錠前を解くかのようだった。


 数分間の、息詰まるような作業の後。カチリ、と電子ロックが解除される音と共に、扉にかけられていた魔術障壁を示す淡い光が消えた。


「開いたわ。内部センサーは…大丈夫そうね。でも油断しないで」


 リディアは額の汗を拭い、小さく息をついた。


 扉を静かに押し開け、四人は倉庫の中へと滑り込む。


 中は巨大な空間だった。高い天井、整然と積み上げられた木箱や金属製のコンテナ。埃っぽく、オイルと金属、そして微かに薬品の匂いが混じり合った空気が漂っている。非常用の誘導灯だけが点灯しており、全体的に薄暗い。


 カイが先行し、周囲を警戒しながら、「遺跡調査任務用」と記されたラベルが貼られた物資区画へと一行を導く。足音を殺し、息を潜める。巨大な倉庫の中は、まるで迷宮のようだった。


 目的の区画に到着。そこには、真新しいコンテナがいくつか置かれていた。エネルギーパック、防護服、食料、薬品、センサー類…。出発に必要な物資だ。


「手分けして調べましょう」

 リディアの指示で、四人はそれぞれの役割分担に従って調査を開始した。


 リディアは携帯用の多機能スキャナーを取り出し、まずエネルギーパックが収められたコンテナにかざす。表示される内部構造データ。彼女の眉間に皺が寄る。


「…これよ! やはり仕掛けられているわ! 内部の魔力充填回路の一部、この魔導体部分に微細な亀裂がある。それだけじゃない、ここに…本来使われるはずのない、極小の帝国製制御チップが組み込まれている! これはおそらく、高出力で使用した際に意図的に過負荷を発生させ、回路をショート、最悪の場合は魔力暴走を引き起こすためのものよ!」


 彼女はすぐさま、自身のツールキットから特殊な工具を取り出し、慎重にチップの除去と回路の修復作業を開始する。


 一方、セレスは保存食料や薬品のコンテナを開け、中身を素早くチェックしていく。彼女は携帯分析キットで、いくつかの薬品のサンプルを採取し、その場で成分を分析する。


「こちらにもありました! この治癒促進剤、ラベルは正規のものですが、中身がすり替えられています。成分の大半はただの生理食塩水。それに加えて…検出限界ギリギリですが、神経系に作用する遅効性の毒物が混入されています。少量ずつ摂取すれば、数日後には原因不明の体調不良や判断力低下を引き起こすでしょう」


 彼女は顔色を変え、問題の薬品ボトルを慎重に隔離する。


 カイは、周囲の見張りと、物理的な罠がないかを注意深く調べていた。コンテナの底、棚の裏、通路の隅々まで。

「こっちは今のところ異常なしです。ですが、油断できません」


 燐は、仲間たちの作業を見守りつつ、自身の感覚を最大限に研ぎ澄ませ、魔術的な罠や、隠された監視装置がないかを探っていた。


(…あそこか)


 彼は、物資の影になっている壁の一部に、巧妙に隠された小型の魔術センサーを発見した。恐らく、彼らが物資に細工した証拠を隠滅しに来ることも想定していたのだろう。


 燐は思考を集中させ、「封」と念じる。瞳の奥で紋様が揺らめき、センサーは音もなく機能を停止した。


 その時、リディアが声を上げた。


「待って! エネルギーパックの制御チップ…これも帝国製だけど、製造番号が一部削られているわ。それに、この組み込み方…素人の仕事じゃない。かなり高度な技術よ。保守派の連中だけでできるとは思えない…」


 やはり帝国が直接関与している。それも、かなり深いレベルで。


 彼らは手分けして、発見した罠や細工を可能な限り無力化し、安全な予備物資とすり替え、そして帝国関与の動かぬ証拠となる細工された部品や毒物のサンプル、センサーなどを慎重に回収した。


 *   *   *


 次なる目標は、情報管理室。砦の機密情報が集まる、最も厳重な区画の一つだ。

 倉庫以上に厳重な警備システムが待ち受けていたが、ここでも四人の連携が光った。


 カイが物理的な監視を突破し、リディアが高度な魔術的ハッキングでシステムに侵入、燐が特殊な封印術式でセンサーや警報システムを無効化し、セレスが後方支援と状況分析を行う。


 まるで熟練の特殊部隊のような、息の合った連携だった。


 情報管理室の中央制御端末にアクセスしたリディアは、すぐに目的のデータ――遺跡調査任務に関する情報――を呼び出した。


「あったわ! これね…やっぱり!」


 彼女の指が高速で端末上を動き、データを解析していく。


「地図データの一部が巧妙に書き換えられてる! 推奨ルートが、本来なら絶対に避けるべき『嘆きの谷』と呼ばれる強力な魔獣の巣窟や、保守派のボルジア司祭と繋がりの深い辺境守備隊が駐留する地域を通るように変更されているわ! 危険情報も一部削除…これは完全に罠よ!」


 彼女はさらに深くログを掘り下げていく。


「…見つけた! 隠蔽された通信ログ! このデータ改竄が行われた直後に、ボルジア司祭の私室端末から外部…やはり帝国の暗号コードパターンよ! しかも、送信先は恐らく帝国の情報部…あるいは、もっと上の…!」


 保守派と帝国の直接的な繋がりを示す、決定的な証拠だった。それも、単なる武器提供だけでなく、機密情報の漏洩まで行われた可能性もある。事態は想像以上に深刻だった。


 リディアは迅速に、改竄されたデータを正しいものに修復し、不正アクセスのログと帝国への通信記録の全てを複製、確保した。燐はその間、部屋に仕掛けられたであろう自己破壊型のデータ消去トラップなどを警戒し、封印の力でいつでも無力化できるよう備えていた。


 全ての目的を果たし、確保した証拠と共に、一行は誰にも気づかれることなく、情報管理室、そして倉庫から撤収した。


 *   *   *


 リディアの研究室に戻った時、窓の外は既に白み始めていた。


 四人の顔には疲労の色が濃いが、それ以上に、作戦を成功させたという安堵感と、共に死線を乗り越えたことによる強い連帯感が満ちていた。


「やったな、俺たち!」

 カイが、抑えきれない興奮と共に、しかし小さな声で言った。その顔には、誇らしげな笑みが浮かんでいる。


「ええ。ギリギリだったけどね。これで、ひとまずは出発できるはずよ」

 リディアも、眼鏡の奥の瞳を細め、確かな達成感を滲ませて頷いた。


「リンさん、カイ、お疲れ様でした。大きな怪我もなくて何よりです」

 セレスも、安堵の微笑みを浮かべ、仲間たちの労をねぎらった。


「……いや、皆のおかげだ。ありがとう」


 燐は、初めて心の底から、彼らを「仲間」だと感じていた。監視役と監視対象、技術士官と元帝国兵。そんな壁は、もう完全に消え去っていた。彼らは、それぞれの立場を超えて、同じ目的のために協力し、互いを信頼し、共に危機を乗り越えたのだ。


「リンさん」


カイが、改めて燐に向き直り、真剣な眼差しで言った。


「俺たちも行きます。どこまでも。最後まで」

「ええ」


セレスも静かに頷く。


「私たちで、リンさんと、ロリさんを守りましょう」


「ま、せいぜい足手まといにならないでよね!」


リディアは憎まれ口を叩きながらも、その声には確かな信頼がこもっていた。


「あなたのその不思議な力と、あの子の秘密、この目でしっかり見届けさせてもらうわ」


 燐は、彼らからの本当の意味での「仲間」の言葉に、胸が熱くなるのを感じた。静かな感謝と、共に未来を切り開くことへの決意を新たにして。


 出発は、もう目前に迫っていた。



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