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第2章-37話「最後の巡回」

 深夜の砦は、眠りの底に沈んでいた。

 石造りの回廊には人影もなく、等間隔に灯された魔導灯だけが、青白い光で壁面を照らしている。その光の中を、一つの足音が規則正しく刻まれていた。

 バルカスだった。

 革鎧の上に外套を羽織り、背には使い込まれた大斧を負っている。普段の巡回装備ではない。完全な実戦装備だ。

 だが、今この砦の中で、そのことに気づく者はいない。


 彼は足を止めず、砦の東棟から西棟へと続く長い回廊を歩いた。途中、見張り台で居眠りをしている若い兵を一瞥したが、声はかけなかった。

 普段の彼なら、怒鳴り声で叩き起こしている。規律の緩みは死を招く。それが彼の持論だった。

 だが、今夜は違う。

 今夜だけは、砦の誰にも、自分の動きを記憶に残してほしくなかった。


 回廊の突き当たり、幹部棟の階段を上る。

 執務室の前に立ち、扉を叩こうとして――止めた。

 深呼吸をひとつ。それから、扉を開けた。


「……遅かったですね、隊長」


 薄暗い執務室の中で、ゲルトが椅子に座って待っていた。

 浅黒い肌に無精髭。がっしりとした体格の副指揮官は、机の上の地図に片肘をつき、バルカスの到着を予期していたかのように落ち着いた顔をしている。

 机上の魔導灯は最低光量に絞られ、二人の顔を半分だけ照らし出していた。


「待っていたのか」

「隊長が今晩、ここに来ることは分かっていました。荷物を纏めていたのを、見ていない振りをするのも骨が折れましたよ」


 バルカスは唇の端を歪めた。苦笑とも呼べない、ぎこちない表情だ。


「……見透かされていたか」

「十年以上の付き合いです。隊長の背中は、嘘をつけない」


 ゲルトは椅子から立ち上がり、机の上の地図を指で叩いた。


「遺跡調査任務。あの連中に同行するつもりですね」


 問いかけではなかった。確認だった。

 バルカスは頷いた。隠す必要もない。


「任務は上層部から承認された。書類上は問題ない。だが――」


 彼は窓辺に歩み寄り、暗い中庭を見下ろした。魔導灯の光が石畳を照らし、その向こうに兵舎の影が横たわっている。


「ボルジアが動いている。昨日、保守派の連中が補給倉庫の前で何やら密談しているのを、哨兵が目撃した。出発の時刻を知られれば、あの連中は何をするか分からん」


 バルカスの声は低く、硬かった。


「表門からの正規出発は論外だ。保守派の目がある。連中に介入の口実を与えれば、任務そのものが潰される」

「……裏門ですか」

「ああ。夜明け前に出る。記録上は『夜間定期巡回』だ。俺はあの連中を見ていない。何も許可していない。そういう報告書を書け」


 ゲルトは無言でバルカスを見つめた。

 その視線には、部下としての敬意と、戦友としての心配が、複雑に入り混じっていた。


「隊長。俺が訊いていいことじゃないかもしれませんが」

「言え」

「なぜ、同行するんですか。任務の承認は下りている。あの五人だけでも遂行できるはずだ。隊長が砦を離れる必要は――」


「あの連中だけじゃ心配だ」


 バルカスは振り返らずに言った。

 短い言葉だった。だが、その声には、軍人の理性では覆い切れない何かが滲んでいた。


「カイもセレスも優秀だ。リディアもな。だが、この任務は遺跡調査だけで終わらん。帝国の偵察が活発化している。中立地帯の安全は保証できない。そして――」


 彼は拳を握った。古い刀傷が走る指の付け根が白くなる。


「俺は二度と、部下を見殺しにはしない」


 その言葉が、執務室の空気を一変させた。

 ゲルトは知っている。かつて、バルカスが若い分隊長だった頃に起きた惨劇を。判断の遅れが招いた、取り返しのつかない喪失を。

 あの時から、この男の目の奥には消えない影が住み着いている。


「……了解しました」


 ゲルトは深く頷いた。それ以上は問わなかった。


「砦の指揮は俺が預かります。斥候部隊の運用、防衛線の維持、保守派への対応。全て、隊長の方針通りに」

「すまんな」

「礼には及びません」


 ゲルトは敬礼した。正規の連合式ではなく、斥候部隊だけに伝わる、拳を左胸に当てる略式の礼だ。


「ただ、一つだけ」

「何だ」

「……生きて帰ってきてください。部下を置いて死ぬのは、隊長の流儀じゃないでしょう」


 バルカスは無言で頷いた。

 約束はしなかった。できなかった。だが、その沈黙の中に、彼の答えがあった。


 ゲルトが退室した後、バルカスは一人、執務室に残った。

 机の上に広げた地図に目を落とす。砦から北東の山岳地帯へと至るルート。その道筋を、何度も、指先でなぞった。

 右手の甲が、かすかに震えている。

 恐怖ではない。覚悟が、身体を軋ませているのだ。


 しばらくして、バルカスは灯りを消し、執務室を出た。

 回廊を東棟へ戻り、燐たちが仮眠を取っている部屋の前で足を止める。

 扉の向こうから、微かな寝息が聞こえた。

 彼は扉を開けなかった。

 ただ、低い声で、扉越しに呟いた。


「夜明け前に出る。表門は使わない」


 それだけ言って、踵を返す。

 石畳を叩く足音が、再び規則正しく刻まれ始めた。

 最後の巡回が終わる。

 夜明けまで、あと二時間。


 第二章 完

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