第2章-36話「軍曹への進言、開かれる道」
先の模擬戦でリン・アッシュが示した圧倒的な実力は、確かに一部の兵士たちの認識を変えたかもしれない。だが、根強く残る帝国への憎しみ、異質な存在への恐怖、そして保守派による執拗な扇動と「二重スパイ」の噂は、依然として砦全体を不穏な影で覆っていた。
バルカス軍曹の執務室の灯りは、その夜も遅くまで消えることはなかった。彼は一人、山積みの報告書と格闘し、そして何よりも、自身の内に渦巻く葛藤と向き合っていた。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
時刻は既に深夜に近い。こんな時間に誰だと、バルカスは訝しげに顔を上げた。
「入れ」
「失礼します、軍曹殿」
入ってきたのは、彼の最も信頼する部下である、斥候のカイと衛生兵のセレスだった。二人とも、どこか改まった、真剣な表情をしている。
「どうした、貴様ら。こんな時間に」
バルカスは、椅子に深くもたれたまま、疲れた声で尋ねた。
「夜分に申し訳ありません」カイが代表するように一歩前に出た。「ですが、どうしても軍曹殿にお伝えしたいことがあり、参りました」
彼の声には、普段の若々しい響きとは違う、固い決意のようなものが感じられた。
「話してみろ」
バルカスは、無言で先を促した。
「はい!」
カイは姿勢を正し、真っ直ぐにバルカスを見据えた。
「単刀直入に申し上げます。リン・アッシュと、ロリちゃんを……このまま砦に置いておくのは、危険すぎます!」
彼の言葉は、直情的だが、強い確信に満ちていた。
「保守派の連中の敵意は、もはや隠しようもありません。いつ、また奴らが暴走するか分かりません。街での襲撃や、訓練場での騒ぎ…あれは、もうただの嫌がらせじゃない。本気で彼らを消そうとしています!」
彼は拳を握りしめ、続けた。
「それに、リンさんは…確かに元帝国兵かもしれない。でも、あの人は、ただの敵じゃない! あの模擬戦で見せた強さも、ロリちゃんを守ろうとする必死の姿も…俺は、この目で見ました! あの人が『スパイ』だなんて、俺には到底信じられません!」
熱っぽく語るカイの隣で、セレスが静かに、しかし力強く言葉を継いだ。
「軍曹殿のご苦労は、私たち部下も理解しております。上層部からの命令、保守派と改革派の対立、そして砦全体の規律維持…。ですが、現状維持が最善策とは思えません」
彼女の冷静な瞳が、バルカスを捉える。
「ロリは、依然として不安定な、しかし計り知れない力を持っています。保守派の過激な行動は、かえってその力を危険な形で暴走させる引き金になりかねません。それは、この砦、いえ、連合全体にとっても脅威となりえます」
彼女は一度言葉を切り、そしてはっきりと言った。
「彼らを安全な場所へ移すか、あるいは…彼らが求める真実を探す手助けをすることが、結果的に最もリスクを低減させ、かつ連合にとっても有益となる可能性が高いのではないでしょうか。私たちが彼らを監視し、そして…守るのです」
信頼する部下二人からの、予想を超えた、しかしあまりにも真摯な進言。
それは、バルカスの心を激しく揺さぶった。
彼らは、単なる命令に従うだけの兵士ではない。自らの目で状況を判断し、自身の信じる正義のために、危険を顧みず行動しようとしている。その姿は、かつて自分が失った、あの若い分隊長の姿と重なって見えた。
(こいつらまで…そこまで言うか……)
バルカスは、深く息をついた。
部下たちの成長は誇らしい。彼らが抱く正義感も理解できる。そして、彼らの状況認識は、恐らく正しいのだろう。
このままでは、何もかもが破綻する。保守派の暴走、改革派の利用、帝国の介入、そして何よりも、あの二人の命…。そして、それに巻き込まれるであろう、自分の部下たちの命。
(俺は……今度こそ、守らなければならない……)
過去の後悔が、彼の背中を押していた。
組織の論理や規律も重要だ。だが、それ以上に守るべきものがあるのではないか?
彼は、ゆっくりと顔を上げた。その目には、もう迷いの色はなかった。腹は、決まった。
「……分かった」
彼は、静かに、しかし重々しく言った。
「貴様らの覚悟、確かに受け取った。俺も、これ以上手をこまねいているつもりはない」
カイとセレスの顔に、安堵と驚きの色が浮かぶ。
「ただし、俺たちだけでどうこうできる問題ではない。上層部を動かす必要がある。それには、相応の『理由』と『計画』が必要だ……リン・アッシュを呼んでこい。カイ、セレス、貴様らも同席しろ。これから作戦会議だ」
* * *
バルカスの執務室に、燐が呼び出された。
部屋には、バルカスに加え、カイとセレスも真剣な表情で待機しており、ただならぬ雰囲気が漂っていた。燐は訝しげにバルカスを見る。
「リン・アッシュ」
バルカスは椅子に座ったまま、厳しい表情で切り出した。
「単刀直入に聞く。状況は最悪だ。このままでは、お前たちも、俺の部下も、この砦自体も危うい。それはお前も分かっているはずだ」
彼は一度言葉を切り、燐の目を真っ直ぐに見据えた。
「……何か手はないのか? この状況を打開し、お前たちが安全に…そして、我々連合にとっても『有益な』形で、この砦を出る具体的な方法が」
それは、驚くべき言葉だった。
数日前まで、組織の壁として立ちはだかっていたはずの軍曹が、今、自分に助けを求めるかのように問いかけてきている。
燐は、バルカスの変化と、そして同席しているカイとセレスの覚悟を決めた表情に、僅かな驚きを感じつつも、これが千載一遇のチャンスであると理解した。
彼は、数日間練り上げてきた考えを、慎重に、しかし明確に述べ始めた。
「……一つ、可能性があるとすれば」
彼は懐から、シスター・クレアから託された古文書の写しを取り出した。ただし、リリエルの名前が記された核心的な部分は、まだ伏せておく。
「東の辺境にあるという、忘れられた古代遺跡…伝承によれば『月詠みの神殿』と呼ばれている場所がある。クレア殿や、エルド教授の見解によれば、ここには古代の…特に始祖の力に関する重要な秘密が眠っている可能性が高い」
彼は言葉を続ける。
「ロリの力の謎、そして、俺自身の能力…あるいはその出自に関わる謎も、ここで解けるかもしれない。俺たちは、何としてもそこへ行く必要がある。それが、この状況から抜け出し、真実を知るための唯一の道だと信じている」
バルカスは、燐が示した古文書の記述と、彼の言葉を注意深く吟味した。
「月詠みの神殿……聞いたこともない名だな。だが、古代遺跡の調査、か……」
彼の頭の中で、一つの計画が急速に形になり始めていた。
「……なるほどな」
バルカスは頷いた。その目には、新たな光が宿っている。
「古代遺跡の調査。それならば、あるいは……公式な『任務』として、上層部を動かせるかもしれん」
彼は燐、カイ、セレスを順に見回した。
「いいだろう。その『遺跡調査』という方向で、俺が動いてみる。ただし、成功する保証は何もない。それに、もし承認されたとしても、これはあくまで『連合軍の任務』だ。貴様らは、俺の、そして連合の監視下で作戦を遂行してもらうことになる。それでもいいな?」
燐は、バルカスの言葉の裏にある複雑な計算と、それでもなお示された僅かな信頼を感じ取り、力強く頷いた。
「感謝する、軍曹」
ついに、閉塞した状況を打ち破るための、具体的な道筋が見えた瞬間だった。
それは依然として危険に満ちた道であることに変わりはない。
だが、彼らの前には、確かに新しい道が開かれようとしていた。
もし気に入ったら評価やレビュー、コメントなど、ぜひよろしくお願いいたします!
反応頂けるとすごい嬉しいです。
よろしくお願い致します!




