第2章-36話「出発前夜」
連合上層部から下された「古代遺跡調査任務」の承認。
改革派はその報に沸き立ち、早速任務の詳細な指示と期限という名の圧力を現場へと通達してきた。一方で、保守派は苦虫を噛み潰したような表情で沈黙を守っていたが、その裏で何を企んでいるか、知れたものではない。
いずれにせよ、賽は投げられた。燐とロリ、そしてリディア、カイ、セレスにとって、出発の日は目前に迫っていた。
出発を翌日に控えた、静かな夜だった。
砦の大半が寝静まり、城壁を照らす魔導灯の光だけが、冷たい石畳に長い影を落としている。
バルカス軍曹は、自身の執務室で一人、窓の外の闇を見つめていた。机の上には承認された任務の書類が広げられているが、彼の意識はそこにはなかった。
(……これで、本当に良かったのか?)
自問自答を繰り返す。改革派の思惑、保守派の脅威、帝国の影。全てを承知の上で、彼は彼らを砦の外へ送り出すことを決断した。苦渋の選択だった。だが、これが最善だと信じるしかなかった。
彼は机の上の通信機に手を伸ばし、短い魔力パルスを送った。
数分後、執務室の扉が控えめにノックされ、カイが姿を現した。
「軍曹殿、お呼びでしょうか」
「ああ、入れ。少し話がある」
バルカスはカイを部屋の中央に立たせ、真っ直ぐに彼の目を見据えた。
「カイ、貴様を今回の遺跡調査任務の同行メンバーに任命した。表向きの任務内容は理解しているな? リン・アッシュと対象Xの監視、リディア技術士官を含むチーム全体の護衛、そして任務に関する全ての情報の逐次報告だ」
「はっ! 了解しております!」
カイは力強く答えた。
「だがな、カイ」バルカスは声を潜め、その口調に個人的な響きが帯びた。「これは、貴様の直属の上官としての、俺個人の命令でもある。心して聞け」
カイは息を呑み、背筋を伸ばした。
「監視だけが任務じゃない。貴様の斥候としての能力……その鋭い感覚と判断力を、俺は信頼している。だからこそ、この任務をお前に託す」
バルカスは、机の上に置かれた自分の古いナイフを手に取り、刃の反射を見つめながら続けた。
「リン・アッシュが何者であれ、あの幼女が何を秘めていようと……彼らが進もうとしている道には、何か重要な意味があるのかもしれん。あるいは、想像もできない危険が待ち受けているのかもしれん」
彼は顔を上げ、カイの目を射抜くように見つめた。
「だから……状況次第では、俺の命令を待たずに、お前の判断で動け。リン・アッシュたちを保護することも、支援することも許可する。いいか、カイ。お前が正しいと信じる道を選べ」
「……!」
カイは驚きに目を見開いた。軍の規律よりも個人の判断を優先させることを許容する、異例の命令だった。
「ただし!」バルカスの声に再び力がこもる。「最優先事項は、貴様ら自身の生存だ。リディア技術士官も、セレスも、そして貴様自身もだ。決して無茶はするな。生きて帰らねば意味がない。危険だと判断したら、迷わず撤退しろ。それが、俺からの……絶対命令だ。分かったな?」
それは、軍人としての厳しさと、部下の身を案じる上官としての温情が混じった、重い言葉だった。
カイは、その言葉に込められた想いの重さを、全身で受け止めた。
「……了解しました!」
これ以上ないほど力強く、敬意を込めた敬礼。その瞳には、不安を乗り越えた覚悟の光が宿っていた。
「必ずや、任務を完遂し……全員で、生還します!」
「…頼んだぞ」
バルカスは短く応え、カイに退室を促した。
* * *
カイと入れ替わるように、次に呼ばれたのは衛生兵のセレスだった。
彼女はいつも通り冷静な表情で入室し、バルカスの前に立った。
「セレス」バルカスは、先ほどよりも僅かに穏やかな口調で語りかけた。「貴様にも、カイと同じ任務を与える。加えて、衛生兵としてメンバー全員の健康管理と、万が一の際の医療処置を任せる」
「御意に」
「そして……貴様にも、カイと同じ密命を与える。状況次第では、自らの判断で行動しろ。だが、生還を最優先とすること」
彼はセレスの冷静な瞳を見つめた。
「貴様の冷静な判断力と観察眼を、俺は信頼している。カイは……少し熱くなりやすいところがある。貴様が、彼の、そしてチーム全体の精神的な支柱となってほしい。頼めるか?」
セレスは、僅かに目を伏せた。そしてゆっくりと顔を上げると、真っ直ぐにバルカスを見据えた。
「……お任せください、軍曹殿。必ずや、全員で任務を達成し、無事に戻ります」
短い言葉に、決意と忠誠、仲間への責任感が凝縮されていた。
「……頼んだぞ、セレス」
セレスは無言で敬礼し、静かに退室した。
* * *
同じ頃、リディアは自身の研究室で、エルド教授と最後の打ち合わせを行っていた。
部屋には、最新の解析装置や古文書の複製、出発用の特殊機材が所狭しと並んでいる。薬品と羊皮紙の古い匂いが入り混じった、エルド教授の研究室独特の空気だ。
「リディア君、これを託す」
エルド教授は、厳重なケースに収められた二つのアイテムを手渡した。
一つは、彼が長年改良を重ねてきた手のひらサイズの多機能解析装置。マナの波動、魔術構造、生体エネルギー、古代遺物に残された微弱な情報痕跡まで解析できるという、彼の研究成果の集大成だ。
「こいつは、わしの目がわりじゃ。これがあれば、『月の神殿』の謎に、さらに深く迫れるはずじゃ」
もう一つは、小さなデータ結晶。
「ここには、わしがこれまでに解読した古代文字の辞書データ、遺跡に関する最新の仮説、危険生物や環境の注意点、そして『思考魔法』と『原初の魔法』に関する現時点での考察を全て記録しておいた。道中、必ず確認するんじゃぞ」
「ありがとうございます、教授。必ず役立てます」
リディアは慎重に受け取り、自身の装備に組み込んだ。
「うむ」エルド教授は頷いたが、表情がどこか曇った。「だがリディア君、くれぐれも忘れるでないぞ。決して深入りしすぎるな。真実は時に甘美だが、猛毒でもある。好奇心に呑まれ、道を踏み外すでないぞ」
「……肝に銘じます」
リディアは、その言葉の重みを受け止め、真剣な表情で頷いた。
* * *
そして、出発を数時間後に控えた深夜。
シスター・クレアが、人目を忍んで、再び燐とロリの部屋を訪れた。彼女の顔には、別れを惜しむ寂しさと、旅路の無事を祈る敬虔な光が浮かんでいた。
「リンさん、ロリさん……」
彼女は涙ぐみながら、二人の手を優しく握りしめた。その手は祈りのたこで硬く、しかし温かかった。
「どうか、どうかご無事で。あなた方の旅が多くの困難に見舞われることは分かっています。それでも、真実の光を見出すことができますように……いつか必ず、笑顔で戻ってきてくださるように、私はここでずっと祈っています」
彼女は、小さな布袋を二つ、燐とロリにそれぞれ手渡した。開くと、乾燥した薬草の青く澄んだ香りがふわりと立ち上った。
「解毒効果の高いもの、傷の治りを早めるもの、そして心を落ち着かせる香りの良いもの……きっと、旅の助けになるはずです」
さらに、クレアは燐にだけ、暗号化されたインクで書かれた小さなメモを渡した。
「もしもの時のための、連合各地にいる信頼できる支援者の連絡先と合言葉です。大きな力にはなれないかもしれませんが、きっと道が開ける場面もあるはずです」
「シスター……本当に、ありがとうございます」
燐は、彼女の深い慈愛に、心の底から頭を下げた。
「ロリさんも……」クレアはロリの手を優しく握り、その瞳を真っ直ぐに見つめた。「あなたは、決して穢れた存在などではありません。あなたの中には、きっと温かくて、優しい力が眠っているはずです。どうか、ご自分を信じて」
「……はい」
ロリは涙を堪えながらも、力強く頷いた。
クレアは最後に深く祈りを捧げると、名残惜しそうに部屋を後にした。扉が閉まった後も、薬草の清らかな香りだけが、部屋に残された。
* * *
出発まで、あと僅か。
燐、ロリ、リディア、カイ、セレスは、リディアが準備した臨時の作戦室に集まり、最後の準備を進めていた。
リディアは燐の魔導結晶の最終調整を行い、カイとセレスはそれぞれの背嚢にサバイバル装備を手際よく詰め込んでいる。
燐は静かに目を閉じ、僅かながら回復してきた魔力の感覚を確かめていた。まだ全盛期には程遠い。だが、以前のような完全な虚無感はない。そして何より、信頼できる仲間たちがいる。
ロリが、準備を終えた燐の袖をくいと引いた。
「リン」
「どうした」
「……頑張りましょうね」
その声は小さかったが、震えてはいなかった。
燐は少女の頭にそっと手を置いた。返事の代わりに。
窓の外で、東の空が白み始めようとしていた。




