第2章-35話「動き出す心、仲間たちの誓い」
先日行われたリン・アッシュとガストン中尉の模擬戦。その結果は、グリフォンズ・ネスト砦の兵士たちの間に、静かだが無視できない波紋を広げていた。
魔力をほとんど使わず、卓越した技量と戦術眼だけで砦の若手エースを圧倒した元帝国兵。その事実は、彼に敵意や疑念を抱いていた者たちをも沈黙させ、あるいは畏敬に近い感情を抱かせるには十分だった。
もちろん、保守派の強硬な者たちは「帝国のまやかしだ」「体術だけ達者でも魔術が使えねば意味がない」と悪態をつき続けていたが、以前のようなあからさまな敵意を公然と向ける者は、僅かながら減ったように感じられた。多くの兵士たちが、リン・アッシュという存在を、単なる「帝国の裏切り者」や「スパイ疑惑のある危険人物」というレッテルだけでは捉えきれない、底知れない何かを持つ男として認識し始めていたのだ。
その変化を最も間近で感じていたのは、燐とロリの監視役を務めることが多い、斥候のカイと衛生兵のセレスだった。
カイは、模擬戦での燐の戦いぶりに、純粋な感嘆と、そして一種の憧れに近い感情を抱いていた。
(すげぇ……あれが、リンさんの本当の実力……? 魔力なしであの動き……俺なんかじゃ、足元にも及ばない……)
彼は元々、帝国兵に対して強い敵愾心を持っていた。大戦で多くの同胞が帝国の犠牲になったことを知っているからだ。だからこそ、当初は燐に対しても警戒と反発心を隠さなかった。
しかし、街での襲撃事件で燐がロリを身を挺して守った姿、そしてこの模擬戦で見せた圧倒的な強さと、相手への敬意を忘れない姿勢。それらは、カイが抱いていた「帝国兵=悪」という単純な図式を打ち砕いた。
彼は燐に対して、複雑な感情――尊敬、対抗心、そしてもっと彼を知りたいという好奇心――を抱き始めていた。そして、常に燐のそばに寄り添うロリの、無垢で、しかしどこか不思議な存在感にも、心を惹かれ始めていたのかもしれない。
一方、セレスは、カイほど感情を表に出すことはなかったが、その冷静な観察眼で、燐とロリの本質を見極めようとしていた。
(リン・アッシュ……彼の戦闘技術は、確かに常軌を逸している。だが、それ以上に注目すべきは、彼の精神力と、あの幼女を守ろうとする揺るぎない意志……)
彼女は、これまでの監視任務や、医務室での治療――燐の回復力やロリの異常なマナ反応――そして中庭での小鳥の治癒といった出来事を、客観的なデータとして分析していた。
(ロリ……彼女の力は未知数であり、危険な側面を持つ可能性は否定できない。しかし、彼女自身に悪意はなく、むしろ他者への深い共感能力を持っているように見受けられる。保守派が主張するような『穢れた存在』『災厄の元凶』とは、到底思えない……)
セレスは、論理とデータに基づいて思考する。そして、現状の砦内の状況――保守派の過激化、改革派の打算、帝国の影――が、燐とロリにとって極めて危険であるという結論に至っていた。
(このままでは、彼らは確実に潰される。それは、連合にとっても、あるいは…世界にとっても、大きな損失となるのではないかしら?)
彼女の中にも、単なる任務を超えた、何らかの行動を起こすべきではないか、という思いが静かに芽生え始めていた。
そんな二人の心境に、決定的な変化をもたらす出来事が起こったのは、模擬戦から数日後のことだった。
* * *
その日、燐とロリは、カイとセレスの監視の下、昼食のために兵士用の食堂を訪れていた。
模擬戦の後、あからさまな敵意は減ったとはいえ、依然として彼らに向けられる視線は好奇と警戒に満ちている。特に保守派の兵士たちは、苦々しい表情で遠巻きに見ているだけだった。
燐たちは、食堂の隅のテーブルで、黙々と食事をとっていた。ロリは、少しだけ食欲が出てきたのか、配給された野菜スープを小さなスプーンで一生懸命に口に運んでいる。
その時だった。
数名の、明らかに保守派の印を身につけた兵士たちが、わざとらしく大きな音を立てて、燐たちのテーブルの隣に腰を下ろした。そして、聞こえよがしに会話を始めた。
「おい、聞いたか? あの『時雨』の裏切り者、まだこの砦にいるらしいぜ」
「ああ、気味が悪い。いつ俺たちを裏切るか分かったもんじゃない」
「それに、あの気味の悪い幼女もな。あれがいると、どうも胸騒ぎがするんだよ。何か悪いことの前触れじゃねえのか?」
「ボルジア司祭様も仰っていたぞ。あれは『災厄の器』だと。早く浄化しないと、この砦ごと呪われる、とな」
それは、明らかに燐とロリに向けられた、悪意に満ちた言葉だった。
ロリの小さな肩が、びくりと震えた。彼女はスプーンを持つ手を止め、俯いてしまう。その青藍の瞳に、再び涙が浮かび始めている。
燐は、カチャリと食器を置く音を立て、ゆっくりと顔を上げた。その黒い瞳には、冷たい怒りの炎が宿っていた。
だが、燐が何かを言う前に、隣のテーブルから鋭い声が飛んだ。
「――いい加減にしろ! 貴様ら!」
声の主は、カイだった。彼は監視役の席から立ち上がり、保守派の兵士たちを睨みつけていた。その顔は怒りで赤くなっている。
「ここは食堂だぞ! 他の兵士たちの迷惑も考えろ! それに、根も葉もない噂話で他人を中傷するのは、連合軍の兵士として恥ずべき行為だ!」
「なんだと、斥候風情が!」
保守派の兵士の一人が、椅子を蹴立てて立ち上がった。
「俺たちの信仰に口出しする気か!? それとも、貴様もあの異端者どもの仲間になったのか!?」
一触即発の空気。周囲の兵士たちも、固唾を飲んで成り行きを見守っている。
そこへ、もう一つの冷静な声が割って入った。
「双方、おやめなさい」
セレスだった。彼女は静かに立ち上がり、カイと保守派兵士の間に割って入るように立った。
「カイの言う通り、ここは公共の場です。それに、根拠のない誹謗中傷、及び兵士間の対立を煽る行為は、軍規に違反します。これ以上の騒ぎを起こすのであれば、私は軍曹殿に報告する義務があります。よろしいですね?」
彼女の声は静かだったが、その瞳には強い意志が宿っており、有無を言わせぬ響きがあった。彼女は衛生兵であると同時に、規律にも厳格な兵士なのだ。
保守派の兵士たちは、セレスのその毅然とした態度と、「報告」という言葉に怯んだのか、あるいは面倒事を避けたかったのか、悪態をつきながらも渋々席に戻っていった。
食堂には、気まずい沈黙が流れた。
燐は、自分たちのために動いてくれたカイとセレスに、驚きと、そして僅かな感謝の念を抱いていた。
ロリも、俯いたままだったが、その小さな手が燐の服の裾をそっと掴み、「ありがとう……」と囁くのが聞こえた。
カイはまだ興奮が収まらない様子で肩で息をしており、セレスは冷静な表情を保ちつつも、その瞳には保守派への明確な軽蔑の色が浮かんでいた。
この出来事は、彼らの心境に、そして彼らと燐たちの関係性に、決定的な変化をもたらした。もはや、単なる監視役と監視対象という関係ではいられない、と。
* * *
その夜、カイとセレスは二人きりで、砦の城壁の上、人気のない場所で話をしていた。
眼下には、闇に沈む砦と、その向こうに広がる魔の深林が見える。
「……もう、見てられないですよ、セレスさん」
カイが、吐き出すように言った。
「リンさんは、確かに元帝国兵かもしれない。でも、あの人は強いだけじゃない。ロリちゃんを必死で守ろうとしている。それに、俺たちにも……昼間だって、俺があんな風に突っかからなければ、リンさんはもっと冷静に対処できたはずなのに……」
「あなたは間違っていませんよ、カイ」
セレスは静かに言った。
「あの状況で、見て見ぬふりをする方が問題です。それに、リン・アッシュも、あなたの行動に感謝していたように見えました」
「だといいんですけど……。でも、このままじゃ、本当にリンさんたちは危ない。保守派の連中は、本気で彼らを消そうとしている。それに、改革派の連中だって、あの幼女をどうするつもりか……」
カイは、拳を強く握りしめた。
「……ええ。このままでは、彼らはどちらかの派閥に利用されるか、排除されるだけでしょう」
セレスも同意した。彼女の冷静な瞳にも、憂いの色が浮かんでいる。
「そして、それはおそらく、連合にとっても、良い結果をもたらさない」
「じゃあ、どうすれば……!」
「……私たちが、動くしかないのかもしれません」
セレスは、静かに、しかし強い決意を込めて言った。
「え……?」
「バルカス軍曹殿に、進言しましょう。リン・アッシュたちが砦から出られるように」
「本気ですか、セレスさん! それは監視任務を超えて……」
「ええ、分かっています。」
セレスは、カイの目を真っ直ぐに見つめた。
「私たちは、彼らを守る。そして、彼らの真実を、私たち自身の目で見届ける。それが、この状況で私たちが取るべき、最善の道だと判断しました。あなたは、どうしますか?」
カイは、セレスのその揺るぎない瞳と、彼女の言葉に込められた覚悟に、息を呑んだ。
危険な選択だ。軍規に違反するかもしれない。命の保証もない。
だが、彼の心は、既に決まっていた。
あの模擬戦で見た燐の強さ、そして庇護が必要だと思わせるロリの存在……。それらが、彼の心を突き動かしていた。
「……俺も、力になりたいです」
カイは、力強く頷いた。
「リンさんたちを、ロリちゃんを、俺が守ります。それが、俺の信じたい『正義』です!」
二人の若い兵士は、砦の城壁の上で、固い決意を胸に、互いの目を見つめ合った。
彼らの心は、もはや単なる連合軍の兵士としてではなく、リン・アッシュとロリという存在に関わる、「仲間」としての道を歩み始めていたのだ。
そして、その決意は、まもなく彼らの上官であるバルカス軍曹の心を、さらに大きく揺さぶることになる。
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