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第2章-34話「模擬戦、示された覚悟」

 バルカス軍曹が「特別査閲訓練」を通達した翌日の午後。


 グリフォンズ・ネスト砦で最も広い第三訓練場は、異様な熱気に包まれていた。普段の訓練では見られないほど大勢の兵士たちが集まり、固唾を飲んで訓練場の中央を見つめている。好奇、敵意、侮蔑、期待、不安……様々な感情が渦巻き、ざわざわとした喧騒が途切れることはない。彼らの視線の先には、これから始まるであろう異例の「査閲」――元帝国特殊部隊エースと連合軍将校との模擬戦――の主役が二人、静かに対峙していた。


 一人は、リン・アッシュ。

 連合軍から貸与された、体にぴったりと合った簡素な訓練服を身に纏い、腰には反りの浅い訓練用の模擬刀を一本差している。その表情は凪いだ湖面のように静かで、周囲から浴びせられる雑多な視線や野次にも、心を動かされている様子は微塵も感じられない。ただ、その黒い瞳の奥には、深く、そして揺るぎない覚悟の光だけが、静かに燃えていた。


 もう一人は、若手将校のガストン中尉。

 この砦でも屈指の剣腕を持つと噂される、自信に満ち溢れた青年将校だ。彼は帝国への強い対抗心を隠そうともせず、目の前の元帝国兵――しかも魔力の大半を失っていると聞く――を打ち負かすことで、自身の武勇と連合軍の優位性を示そうと意気込んでいる。その瞳には、若さゆえの功名心と、燐に対する明確な敵意がギラギラと燃えていた。


「リン・アッシュ殿」


 ガストンは、集まった観衆にも聞こえるように、挑戦的な口調で言った。


「この度の査閲訓練、相手を務めさせていただくこと、光栄に思う。貴官がかつて『時雨』のエースと呼ばれた実力者であることは承知している。だが、ここは連合の砦。その力が、我々連合軍に通用するかどうか、存分に見せていただこう!」


 彼はそう言うと、訓練用の魔力剣を抜き放ち、切っ先を燐へと向けた。刀身に魔力が流れ込み、淡い翠色の光と微かな熱を発し始める。連合軍正式採用の、威力は抑えられているが扱いやすい魔力剣だ。


 観衆から、待ってましたとばかりに声が上がる。


「そうだ、やっちまえガストン中尉!」


「帝国の犬に連合の厳しさを見せてやれ!」


「魔力も使えん奴が、何ができるってんだ!」


 燐は、それらの声を意に介さず、静かに模擬刀を抜いた。それは魔力的な機能を持たない、ただの重い鉄の棒に近い。彼はガストンに向き直り、はっきりとした声で告げた。


「条件を確認する。俺は魔術を一切使わない。この刀と体術のみだ。それでいいな?」


 その言葉に、再び観衆がどよめいた。魔術を使わない? まともに戦う気がないのか、それとも…。ガストンも一瞬眉をひそめたが、すぐに侮蔑的な笑みを浮かべた。


「はっ、舐められたものだ! よかろう、その条件、受けて立つ! 後悔するがいい!」


 彼は燐を完全に侮っていた。魔力という最大の武器を自ら放棄した元帝国兵など、赤子の手を捻るようなものだ、と。


 訓練場の隅では、リディアとシスター・クレアに付き添われたロリが、小さな手を固く握りしめ、心配そうに成り行きを見守っていた。カイとセレスも、指揮台に立つバルカスの隣で、固唾を飲んで二人を見つめている。彼らの表情は真剣そのものだ。


「双方、構え!」


 バルカスの厳かな声が響く。


 燐とガストンは、互いに距離を取り、静かに構えた。訓練場を支配していた喧騒が、嘘のように静まり返る。風の音と、二人の息遣いだけが聞こえる。


「はじめ!」


 鋭い号令と共に、空気が震えた。


 動いたのはガストンだった。


「はあああっ!」


 短い気合と共に、彼は自身の魔導結晶を起動させ、身体強化魔術を発動。翠色のオーラがその身を包み、筋力と俊敏性を極限まで引き上げる。


 彼は一瞬で間合いを詰めると、魔力剣を閃かせ、雷鳴のような速度で燐へと襲いかかった。


 連合軍式の、実直で鋭く、そして重い剣撃。上段からの力任せの斬り下ろしが、燐の頭上へと迫る。


 観衆が息を呑む。


 しかし、燐は冷静だった。


 彼はその重い一撃を、刀で受け止めようとはしない。身体を僅かに右へ捌き、振り下ろされる剣の軌道からするりと抜け出す。同時に、左足で軽く地面を蹴り、ガストンの体勢が崩れるであろう方向へと、半歩移動する。


 ガストンの剣が、空しく空気を切り裂き、勢い余って地面に浅い亀裂を入れた。


「なっ!?」


 渾身の一撃を容易くかわされ、ガストンは驚愕の表情を浮かべる。体勢を立て直そうとするが、燐はその隙を見逃さない。


 燐は、流れるような動きでガストンの側面に回り込むと、模擬刀の柄頭で、彼の脇腹を鋭く打ち据えた。


「ぐっ……!」


 予期せぬ角度からの衝撃に、ガストンは呻き声を上げ、数歩よろめいた。


「まだだ!」


 すぐに体勢を立て直したガストンは、今度は左右からの連続薙ぎ払いを繰り出す。魔力剣の切っ先が、残像を伴いながら燐の首や胴体を狙う。


 燐は、その攻撃を冷静に見極める。右からの薙ぎを屈んで避け、左からの薙ぎを刀で受け流す。受け流した勢いを利用し、自身の身体を回転させ、ガストンの死角へと滑り込む。


 彼の動きには、力みが全くない。まるで水が流れるように、風が吹き抜けるように、自然で、しなやかだ。


「くそっ、ちょこまかと!」


 ガストンは焦りを募らせ、剣筋が荒くなる。彼は強化魔術によるパワーとスピードに頼り切っているが、燐はその力の流れを巧みに読み、いなし、時には逆用してカウンターを狙ってくる。まるで熟練の武術家が、力任せの若者を手玉に取るかのようだ。


 燐は、相手の呼吸のリズム、筋肉の微細な動き、視線の僅かな揺らぎすらも見逃さない。それらの情報から、相手の次の一手を驚くほど正確に予測しているかのようだった。それは、長年の過酷な実戦経験と、おそらくは彼の脳内の「思考魔法」の片鱗が生み出す、超人的なまでの戦闘勘と予測能力だった。


 観衆の兵士たちは、もはや声も出せずに、その異次元の攻防に見入っていた。


 魔術を使わずに、強化魔術を使った将校と互角以上に渡り合う元帝国兵。その事実は、彼らの常識を覆すものだった。


「信じられん……なんだ、あの動きは……」


「まるで、攻撃が来る場所が分かっているみたいだ……」


「これが……帝国の……」


 カイとセレスは、拳を握りしめていた。カイの目には強い憧憬の光が宿り、セレスもまた、その冷静な表情の奥で、燐の持つ規格外の実力に驚きを隠せないでいた。


 リディアは、魔導端末に表示される燐の生体データ(心拍数、筋肉の活動パターン、反応速度など)を食い入るように見つめ、「(ありえない…この状況で、このパフォーマンス…彼の身体能力は、一体どうなっているの!?)」と、技術者としての興奮を抑えきれない。


 クレアは、ただただ胸の前で手を組み、二人の無事を祈り続けていた。


 ロリは、心配そうな表情ながらも、涙は流さず、燐のその強く、そしてどこか舞うように美しい戦う姿を、大きな瞳でじっと見つめていた。


 指揮台の上で、バルカスは腕を組んだまま、厳しい表情で戦況を見守っていた。


 彼の目には、燐の圧倒的な実力に対する驚嘆と、その覚悟への確信、そして、そのような男をこのまま砦に留め置くことへの疑問が、複雑に交錯していた。


 戦いは、徐々に一方的な展開となりつつあった。


 ガストンは必死に食い下がるが、彼の攻撃はことごとく見切られ、逆に燐の的確なカウンター(峰打ち、足払い、体勢崩し)によって、何度も体勢を崩される。強化魔術による身体能力の向上も、戦闘技術と戦術眼の差の前には、もはや意味をなさなくなっていた。彼の額には玉のような汗が浮かび、呼吸は激しく乱れ、その瞳からは自信の色が消え失せていた。


「これで、終わりだ」


 燐が静かに呟いた。


 ガストンが、最後の力を振り絞って放った突き。


 燐はそれを、まるで待ち構えていたかのように、最小限の体捌きでかわすと同時に、相手の手元へと深く踏み込んだ。


 流れるような一連の動作。


 燐の模擬刀が、ガストンの魔力剣の鍔元を、下から上に、鋭く、正確に打ち上げる。


 ガシャァン!


 派手な音を立てて、ガストンの魔力剣が手から弾き飛ばされ、高く宙を舞った。


 ガストンが呆然とその剣の軌跡を目で追う、その一瞬の隙。


 燐は体を滑らせるようにして彼の背後に回り込み、その首筋に、模擬刀の冷たい峰を、寸分の狂いもなく、ぴたりと当てていた。


 絶対的な静寂が、再び訓練場を支配した。


 全ての動きが止まり、風の音だけが虚しく響く。


 ガストンは、肩で大きく息をしながら、首筋に当てられた模擬刀の冷たい感触に、震えていた。それは、完全な、そして議論の余地のない敗北を意味していた。


「……そこまで!」


 バルカスの、厳かな声が響き渡り、試合の終了を告げた。


 燐は、ゆっくりと刀を引いた。その表情には、激しい戦闘の後とは思えないほどの静けさが漂っていた。


「…………参った」


 しばらくして、ガストンが力なく呟いた。彼はゆっくりと燐に向き直り、汗と土にまみれた顔で、深々と頭を下げた。


「完敗だ……。貴官の実力、確かに見させてもらった……。魔力も使わずに、これほどとは……。先ほどまでの非礼、そしてこれまでの無礼、深く詫びる」


 その声には、もはや敵意はなく、純粋な敗北感と、相手への明確な敬意が込められていた。彼のその潔い態度は、周囲の兵士たちにも伝わったようだった。


 観衆からは、もはや野次は聞こえない。代わりに、どよめきと、驚嘆の声、そして一部からは、称賛とも取れる大きな拍手が起こり始めていた。砦の若きエースを、魔術なしで圧倒した元帝国兵。その事実は、彼らの固定観念を打ち砕くには十分な衝撃だった。


 この模擬戦は、砦内の空気を完全に変えるには至らなかったかもしれない。保守派の連中は、これを「帝国の見せかけの技」「まやかし」と貶めるだろう。


 だが、少なくとも、バルカス隊の兵士たちや、この場にいた多くの者たちの間では、リン・アッシュという男が、単なる帝国の裏切り者でも、得体の知れない危険人物でもなく、圧倒的な実力と、何かを守るための強い覚悟を持った戦士であることを、強く、強く印象付けた。


 燐自身も、この戦いを通じて、鈍っていた戦闘勘を取り戻し、ロリを守り抜くという覚悟を、改めてその身に、そして周囲に示すことができたと感じていた。彼は、遠くで見守っていたロリへと視線を送り、小さく、しかし確かな力強さを込めて頷いた。ロリもまた、少しだけ安心したように、はにかむような笑顔を返した。


 そしてバルカスは、その全てを複雑な表情で見届けながら、静かに、しかし深く頷いていた。


 彼の心の天秤は、もはやどちらに傾くべきか、その答えを、ほぼ見出しつつあったのかもしれない。


 リン・アッシュ。この男は、危険な存在であると同時に、あるいは、この膠着した状況を打ち破るための、信じるに値する「力」なのかもしれない、と。彼の脳裏には、次の具体的な「一手」が形になり始めていた。

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