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第2章-33話「軍曹の壁、揺らぎ始める心」

文章読み返してみて矛盾を感じたので一度書き直しました。(2024/04/13 23:00)

 グリフォンズ・ネスト砦の司令部棟にある、バルカス軍曹の執務室。その空気は、ここ数日、鉛のように重く淀んでいた。


 机の上には、処理しなければならない報告書の束が、まるで彼の心労を具現化したかのように積み上がっている。その横には、半分ほど中身が減った安物の蒸留酒の瓶と、空になったグラスが無造作に置かれていた。バルカスは、背もたれに深く身体を沈め、組んだ腕で顔を覆うようにして、深く長い溜息をついた。


(くそっ……どうにもならん……!)


 それが、ここ数日、彼の思考の大半を占める、やり場のない呟きだった。


 保守派と改革派の対立は、もはや隠しようもなく表面化していた。


 ボルジア司祭を筆頭とする保守派は、日に日にその主張を過激化させている。公然とロリを「災厄の元凶」と呼び、燐を「帝国のスパイ」「異端に与する者」と罵る声は、もはや砦のあちこちで聞かれるようになっていた。先日報告を受けた、訓練場での集団での嫌がらせ行為は、その氷山の一角に過ぎないだろう。規律は乱れ、兵士たちの間には不穏な空気が漂っている。


 一方、改革派もまた、別の意味で厄介だった。彼らはロリの未知の力を手に入れようと焦りを募らせ、強引な調査計画を上層部に進言しているという噂も耳に入ってくる。彼らにとっては、ロリも燐も貴重な研究対象であり、そのための多少の犠牲はやむを得ない、とでも考えているかのようだ。


 そして、上層部からの指示は相変わらず曖昧で、責任だけが現場に重くのしかかる。


 保守派と改革派の板挟みになり、有効な対策を打てない司令官。その皺寄せは、全て現場の責任者である自分にのしかかってくる。


 バルカスは、酒の残ったグラスを手に取り、一気に呷った。喉を焼くような熱さが、彼の苛立ちを僅かに紛らわせる。


(あの二人……リン・アッシュとロリ……奴らがここに来てから、全てが狂い始めた…)


 それは、八つ当たりに近い感情だと分かっていた。だが、そう思わずにはいられないほど、状況は混沌としていた。


 彼は、机の上に散らばった報告書に目を落とす。それは、彼が最も信頼する部下、カイとセレスから日々提出される、燐とロリに関する監視報告だった。その内容は、彼の心をさらに複雑に掻き乱すものばかりだった。


 カイの報告書には、街での襲撃事件の詳細が記されていた。魔力攪乱下という絶望的な状況で、多数の襲撃者を相手に、リン・アッシュがロリを守り抜いたこと。カイ自身も援護したが、その戦闘技術は常軌を逸していたこと。「…彼が本当に『敵』なのか、俺には分からなくなってきました」という、若い斥候の率直な言葉。


 セレスの報告書には、ロリの不可解な力が記されていた。負傷した小鳥を癒やしたという、にわかには信じがたい現象。魔術とは異なる原理である可能性。「…彼女自身に悪意があるとは思えません。むしろ、周囲の悪意に深く心を痛めている様子です」という、冷静ながらも人間味のある観察結果。


(部下たちの報告は、真実だろう。リン・アッシュの実力は確かだ。そして、あの幼女には、やはり何か特別な力がある…)


 部下たちの報告は、バルカスが抱いていた燐たちへの認識を、少しずつ、確実に揺さぶっていた。


 単なる危険な監視対象ではない。彼らは何か特別なものを背負い、そして互いを必死で守り合っている。それは、バルカスがかつて失った、あるいは守れなかったものの姿と、どこか重なって見えるのかもしれなかった。


 ふと、彼の脳裏に、遠い過去の戦場の光景が、鮮明な痛みと共に蘇った。


 *   *   *


 あれも、絶望的な撤退戦の最中だった。場所は、帝国との国境に近い、名もない渓谷。敵の奇襲を受け、部隊は分断され、多くの負傷者が出ていた。空からは容赦なく魔術弾が降り注ぎ、地面は爆炎と土煙で覆われていた。


 司令部からの命令は、「負傷者は切り捨て、速やかに後退せよ」。生き残った者だけで、次の防衛線まで撤退しろという、非情だが、戦術的には合理的な判断だった。

 だが、彼の部下の一人、まだ若く、理想に燃え、仲間を見捨てられない正義感の強い分隊長が、その命令に激しく反発したのだ。


「軍曹殿! 聞いてください! 第三小隊がまだ敵の只中に取り残されています! 負傷者も多数いるはずです! このまま見捨てるわけにはいきません!」


「馬鹿を言うな! 命令違反だぞ! 今行けば貴様らも犬死にするだけだ!」


 バルカスは怒鳴り返した。


「それでもです! 仲間を見殺しにはできません! 俺が行って、彼らを連れ戻します!」


 若い分隊長は、バルカスの制止も聞かず、数名の志願者と共に、再び砲火の中へと飛び出していこうとした。その瞳には、仲間を救いたいという、純粋で、しかし無謀なまでの決意が燃えていた。


 バルカスは、その姿に、一瞬、心を揺さぶられた。


 命令に従い、大多数の兵士を救うのが指揮官の務めだ。だが、目の前で死地に赴こうとする部下を、見捨てることなどできるのか? 彼がやろうとしていることは、人として、戦友として、正しいことではないのか?


 規律か、人情か。組織か、個人か。


 ほんの一瞬の、しかし致命的な躊躇い。


 その間に、事態は最悪の方向へと転がった。


 飛び出していった分隊長たちは、敵の待ち伏せに遭い、集中砲火を浴びた。援護しようにも、もはや手遅れだった。


 爆炎と土煙が晴れた時、そこには、無惨な骸となった部下たちの姿だけが残されていた。彼が助けようとした第三小隊の兵士たちも、結局救うことはできなかった。


 あの時の光景。仲間の断末魔。そして、何もできなかった自分の無力感。


 それは、今もバルカスの心を深く抉り続けている、決して消えることのない傷痕だった。


 *   *   *


「……だから、俺は命令には従う」


 我に返ったバルカスは、自分に言い聞かせるように呟いた。過去の痛みを振り払うかのように。


「規律は守る。それが軍人だ。勝手な正義感や、得体の知れない力に頼って動くことは、結局、更なる犠牲を生むだけだ…」


 彼の言葉は、頑なで、揺るぎないように聞こえた。


 だが、彼の心の奥底では、別の声が響いていた。


(本当にそうか…? 今のこの状況で、ただ命令を待つことが、本当に『守る』ことになるのか?)


 上層部は機能不全。保守派は狂気に走り、改革派は私欲にまみれている。帝国の影もちらついている。


 こんな状況で、ただ盲目的に命令に従い、規律を守ることだけが、本当に正しい道なのか? それが本当に部下たちを、そしてあの二人を、守ることになるのか?


 むしろ、このまま何もしなければ、砦そのものが内部から崩壊し、全てを失うことになるのではないか?


 カイやセレス…信頼する部下たちも、変わり始めている。彼らはもはや、燐たちを単なる監視対象として見ていない。


 そして、リン・アッシュ。あの男の実力は、報告によれば本物だ。魔力がなくとも、あるいは僅かな力でも、多数を相手に渡り合う技量と覚悟…。


 彼の心の天秤は、ギリギリと軋みを上げながら、激しく揺れ動いていた。


 どちらを選んでも、待っているのは困難な道だ。それは分かっている。


 だが、このまま何もしないという選択肢だけは、もはや彼にはなかった。過去の過ちを繰り返さないためにも。


(……確かめる必要があるのかもしれん……)


 バルカスの脳裏に、一つの考えが、確かな形を取り始めていた。


(あの男、リン・アッシュの実力と覚悟を全ての兵士たちの前で、改めて確かめてみる必要があるのかもしれん。それなら、保守派の連中も下手なちょっかいは出しにくくなるだろう。奴がどれほど危険な存在か、あるいは…利用価値のある存在か、誰の目にも明らかになる)


 さらに、彼は思考を巡らせる。


(そして、この『査閲』の結果を報告すれば…上層部、特に改革派は奴の価値を再認識するだろう。保守派も表立っては動きにくくなるかもしれん。いや、逆に、これほどの『危険因子』を辺境の砦に置いておくことのリスクを上層部に突きつけ、奴らをここから早く動かすための『圧力』にもなるか…?)


 それは危険な賭けだった。組織の命令から逸脱しかねない行動だ。


 だが、この膠着した状況を打ち破り、砦内の空気を変え、そして自分自身の迷いを断ち切るためには…これしかないように思えた。


 バルカスはゆっくりと立ち上がり、窓の外を見た。


 東の空が、僅かに白み始めている。夜明けが近い。


 彼は受話器、魔力通信用の古いタイプだ、を取り上げると、震える指で訓練場の管理部へと繋いだ。


「……ああ、俺だ。バルカスだ」


 彼の声には、もう迷いはなかった。


 苦悩の色は依然として深いが、その奥には、何かを決断した男の、静かで、しかし確かな覚悟が宿っていた。


「明日の午後、第三訓練場を確保しろ。全隊に通達。特別査閲訓練を行う。……相手? ああ、そうだ」


 彼は、僅かな間を置いて、はっきりと言った。


「リン・アッシュだ」

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