第2章-32話「決意表明、リディアとの共闘開始」
シスター・クレアが残していった古文書の写しと支援者のリスト。それは、暗闇の中に差し込んだ一条の光のようだった。
東方の果て、「月詠みの神殿」
具体的な地名、そしてロリの本名かもしれない「リリエル」という名前。
断片的で寓話的な記述ばかりだったとはいえ、それらは燐の中で燻っていた疑念と探求心に、明確な方向性を与えるには十分すぎた。
自分の能力の謎。御名方という一族の呪縛。そして、ロリの正体と、彼女が持つ計り知れない力の意味。
それらの真実を知るためには、やはりここ、グリフォンズ・ネスト砦に留まっていては駄目なのだ。
保守派の敵意は日に日に増し、いつまた命を狙われるか分からない。改革派はロリを利用しようと虎視眈々と機会を窺っている。そして、帝国の影も常にちらついている。
この砦は、もはや安全な場所ではない。むしろ、様々な思惑が渦巻く、危険な檻だ。
燐の決意は、固まった。
東へ向かう。月詠みの神殿を目指す。
危険は承知の上だ。だが、そこにしか答えはない。
ロリを守り、自分たちの運命を切り開くために。
その決意を、彼はまず、最も現実的な協力者となりうる人物に伝えることにした。
技術士官、リディア・ベルゲン。
彼女は改革派に近い立場かもしれないが、同時に真実を探求する技術者としての顔も持っている。そして何より、保守派の狂信的なやり方には明確な反感を抱いていた。利害が一致すれば、あるいは…。
燐は、監視役のカイに「リディアから魔術理論に関して検証したいことがあるから研究室に来るように」と言われている事を伝え、面会の時間の調整と本人への事実確認をお願いした。
聡明なリディアであれば、この方便が「燐から秘密裡に会いたい」というサインであるとすぐにわかる。そう判断した燐の嘘である。
数時間後、カイはリディアとバルカスに確認を取り、彼女に指定された場所へと、燐を案内した。
砦内でも特に人目につきにくい、古い整備室だった。使われなくなって久しいのか、埃っぽく、オイルと金属の匂いが微かに漂っている。
リディアは一人で現れた。普段の快活さは鳴りを潜め、その表情には警戒と疑問の色が浮かんでいる。
カイには「魔術の効果検証のために周囲の不確定要素を排除するため」に一時的に監視をリディアが交代すると伝え、階級が低いカイはその命令に従う他なく、整備室の外で待機することとなった。
「何の用? あんな呼び出し方して。嘘が露呈したら面倒なことになるわよ」
彼女は声を落とし、低い声で言った。
「急な呼び出し、すまない」
燐は単刀直入に切り出した。
「リディア、俺はここを出ることにした」
「はあ?」
リディアは呆れたように眉をひそめた。
「本気で言ってるの? あなた、自分がどういう状況か分かってる? 砦の外は敵だらけよ。保守派も、帝国も、あなたたちを殺すか捕まえようと躍起になってる。それに、あなたの魔力だって…」
「分かっている。それでも、行くしかないんだ」
燐は、リディアの言葉を遮るように、強い口調で言った。
彼は懐から、シスター・クレアから託された古文書の写しの一部を取り出し、リディアに示した。ただし、「リリエル」という名前が記された部分は隠したままだ。
「これは…?」
リディアは訝しげに羊皮紙を受け取り、そこに記された古代文字と奇妙な図形に目を通した。彼女の表情が、みるみるうちに驚愕へと変わっていく。
「古代文字…それも、極めて古い時代のもの…? 『東方の果て…月の神殿…星々の力…始祖の乙女…力を鎮める唄』…? これは、一体…?」
「シスター・クレアから託されたものだ。彼女が独自に調べたらしい」
燐は説明した。
「俺たちの謎を解く鍵が、東にある可能性が高い。ロリの力の根源も、俺自身の能力の秘密も…そして、この世界が隠している真実もだ」
彼はリディアの目を真っ直ぐに見据えた。
「俺は行く。ロリを守り、真実を知るために。だが、俺一人では限界がある。特に、魔力が完全に戻らない今の状態ではな。だから…」
燐は、言葉を選びながら続けた。
「君の力を貸してほしい、リディア。技術者としての君の知識と技術が、俺たちの助けになるはずだ」
リディアは、羊皮紙の写しと燐の顔を交互に見比べ、しばらくの間、押し黙っていた。
彼女の頭の中では、様々な思考が高速で駆け巡っているのだろう。
燐の言葉の信憑性。古文書に記された内容の衝撃。そして、この提案に乗ることの計り知れないリスク。
「…正気なの、リン?」
やがて、彼女は絞り出すような声で言った。
「その古文書が本物だとしても、そこに書かれていることが真実だとしても…『月詠みの神殿』なんて、場所すら定かじゃない。仮に見つけられたとして、そこに何があるかも分からない。無事に辿り着ける保証なんて、どこにもないのよ?」
彼女は現実的なリスクを並べ立てる。
「帝国も保守派も、あなたたちを決して見逃さないわ。連合の改革派だって、あなたたちを自由にさせるつもりはない。監視の目は常に光っている。一歩間違えれば、あなたも、あの子も…そして、協力した私も、終わりよ」
その言葉には、恐怖と、そして燐への強い懸念が滲んでいた。
「危険は承知の上だ」
燐は静かに答えた。その瞳には、揺るぎない決意の光が宿っている。
「だが、ここにいても同じことだ。俺たちは、いつか必ず潰される。それなら、俺は可能性に賭けたい。たとえ僅かでも、真実に辿り着き、ロリと生き延びる可能性があるのなら」
彼は、リディアの目を見つめ、続けた。
「それに…君も、知りたいんだろう?」
その言葉は、彼女の核心を突いていた。
「この力の秘密を。古代の技術の真実を。技術者として、その知的好奇心を、無視できるのか?」
「……っ!」
リディアは言葉に詰まり、悔しそうに唇を噛んだ。
燐の言う通りだった。
危険だと分かっていても、目の前にある未知の力、古代の謎は、彼女の技術者としての魂を、抗いがたいほど強く引きつけていた。保守派の非科学的で狂信的な態度への反発も強い。そして何より、この元帝国兵…リン・アッシュという男。冷静沈着でありながら、内に熱いものを秘め、ボロボロの状態でも圧倒的な実力を見せ、そしてあの不思議な幼女を命懸けで守ろうとする姿。その存在そのものが、彼女の心を大きく揺さぶっていたのだ。
(馬鹿げてるわ…無謀すぎる。成功する確率なんて、限りなくゼロに近いかもしれない。協力すれば、私のキャリアも、命すら危うくなるかもしれない…)
彼女は短い間、激しく逡巡した。合理的な判断を下すべきだ。危険からは距離を置くべきだ。そう頭では分かっている。
だが…。
(…でも…もし、本当に…古代の真実が…? そして、この男となら…もしかしたら…?)
ふっと、彼女は息を吐き、顔を上げた。その表情には、もう迷いはなかった。
悪戯っぽい、しかし覚悟を決めた強い光が、彼女の瞳に宿っていた。
「……分かったわよ」
彼女は、少し呆れたような、それでいてどこか楽しそうな声で言った。
「面白そうじゃない、その『真実探求』とやら。いいわ、乗ってあげる。このリディア・ベルゲンの優秀な頭脳と技術、あなたたちのために『賭けて』みるわ!」
「感謝する」
燐は、素直に頭を下げた。
「ただし!」
リディアは人差し指を立てて、きっぱりと言った。
「条件があるわ。第一に、これはあくまで『共同調査』よ。あなたが得た情報、遺跡で見つけた技術やデータは、私にも全て共有すること。解析の優先権は私にあるわ」
「第二に、私の安全も保証すること。途中で危険すぎると私が判断したら、私は自分の判断で引かせてもらう。それでもいい?」
その言葉には、協力者としての対等な立場と、自身の目的、技術探求への強い意志が込められていた。
「…分かった。それでいい」
燐は、その条件を飲んだ。彼女の協力は、何物にも代えがたい力になるだろう。
「交渉成立ね」
リディアは満足げに頷くと、早速自身の魔導端末を取り出し、操作を始めた。その指先は、迷いなく、正確に情報を処理していく。
「まずは情報共有よ。これが、私が解析した最新の東部地域の詳細地図データ。既知の古代遺跡の位置情報リストも入れておいたわ。もちろん、例の『月詠みの神殿』なんてものは載ってないけどね」
「それから、追跡回避に使える基本的な魔術理論。妨害電波の原理、魔力痕跡の消去法、監視ドローン対策…基礎だけでも知っておけば、生存率は格段に上がるはずよ」
膨大なデータが、燐が持つ記録用の魔導結晶へと転送されていく。
「そして、あなたの魔導結晶。帝国製で特殊なものみたいだけど、応急修理だけじゃ不安だわ。出発までに、私が可能な限り調整して、エネルギー効率を上げてあげる。予備の高効率エネルギーパックも何とか手配してみるわ」
「さらに、旅に必要な特殊装備。長距離通信用の小型暗号化通信機、環境変化に対応できる小型センサー、それから…保守派が使ってきた魔力攪乱装置への対抗策も考えておくわ」
彼女は頼もしく言い切った。その瞳は、既に技術的な課題に挑む研究者のそれになっていた。
こうして、帝国の元エース兵士と、連合の若き天才技術士官の間に、利害と、そして僅かに芽生えた信頼に基づいた、本格的な共闘関係が結ばれた。
それは、閉塞した状況を打ち破るための、大きな一歩となるはずだった。
「さてと…」
リディアは端末をしまい、悪戯っぽく笑った。
「問題は、どうやってあの石頭のバルカス軍曹と、うるさい上層部を説得して、ここを出るか、ね?」
彼女の言葉に、燐も僅かに口元を緩めた。
最大の難関は、まだこれからだ。
二人は、薄暗い整備室の中で、次なる一手について、静かに語り合い始めた。
水面下の戦いは、新たな協力者を得て、次の段階へと移行しようとしていた。




