第2章-31話「シスターの祈りと古文書」
街での襲撃事件は、グリフォンズ・ネスト砦の表面的な平静を完全に打ち破った。
帝国製の魔力攪乱装置という動かぬ証拠。白昼堂々行われた襲撃。それは、保守派の過激化と、そこに帝国の影がちらついていることを、誰の目にも明らかにした。
砦内では、兵士たちの間で疑心暗鬼と恐怖が急速に広がり、保守派と改革派の対立は、もはや一触即発の様相を呈していた。バルカス軍曹は必死に規律の維持に努めていたが、一度燃え広がった不信の炎は、容易には消えそうになかった。
燐とロリが軟禁されている部屋にも、その不穏な空気は色濃く伝わってきていた。
監視役の兵士の数は増やされ、その視線は以前にも増して厳しく、猜疑に満ちている。部屋の外からは、時折、兵士たちの怒鳴り声や、何かを言い争うような声が聞こえてくることもあった。
ロリは、そんな砦の空気に怯え、部屋の中でも燐のそばから離れようとしなかった。彼女の小さな肩は、常に微かに震えているように見えた。
そんな、息詰まるような夜が続いていたある晩のことだった。
真夜中を過ぎ、砦全体が深い眠りに落ちているはずの時間。燐は目を閉じていながらも、警戒を続けていた。魔力は依然として十分ではないが、ロリとの接触のおかげか、あるいは自身の精神力の回復か、以前よりも感覚は研ぎ澄まされている。
不意に、彼は廊下の気配の僅かな変化を捉えた。いつもの歩哨とは違う、極めて静かで、慎重な足音。そして、部屋の前の監視役の兵士たちが、短い、潜めた声で何かを交わし、その後、静寂が訪れた。眠らされたのか、あるいは…。
燐は音もなくベッドから起き上がり、刀に手を伸ばした。
隣のベッドで眠っていたロリも、その気配に気づいたのか、小さな寝息が止まり、身じろぎする気配がした。
緊張が部屋を満たす。
ゆっくりと、ほとんど音を立てずに、重い金属製の扉が開かれた。
廊下の非常灯の僅かな明かりを背に、現れたのは、予想外の人物だった。
質素な修道服を身に纏った、シスター・クレア。
彼女は普段の穏やかな微笑みを消し、その顔には強い決意と、そして深い憂いを湛えた蒼白な光が宿っていた。
「リンさん、ロリさん……」
彼女は声を潜め、素早く部屋に入ると、音もなく扉を閉め、内側から簡素な魔術的結界(気配遮断と防音だろう)を張った。その手際の良さは、彼女がただの慈悲深い修道女ではないことを示唆していた。
「シスター……どうしてここに? 見張りは?」
燐は警戒を解かずに尋ねた。
「眠っていただきました。少しの間だけですが」
クレアは静かに答えた。その瞳は、燐の警戒を見抜きつつも、それ以上に強い、切迫した光を宿している。
「夜分に申し訳ありません。しかし、どうしても、あなた方にお伝えしなければならないことがあるのです」
彼女は、燐のベッドのそばに置かれていた椅子に静かに腰を下ろした。ロリも、不安げな表情でベッドから起き上がり、燐の隣に座る。
「リンさん、ロリさん……もう、黙っているわけにはいきません」
クレアは、震える手で胸の前の簡素な聖印を握りしめながら、語り始めた。その声は、普段の穏やかさとは裏腹に、強い危機感を孕んでいた。
「先の街での襲撃事件……あれは、単なる過激分子の暴走ではありません。砦内の保守派、ボルジア司祭たちが、意図的に煽り、そしておそらくは……帝国の勢力が裏で糸を引いています」
燐は息を呑んだ。やはり、そうだったのか。
「ボルジア司祭たちは、ロリさんの力を『聖典に記されざる穢れた力』『災厄の元凶』と断じ、その存在を心底恐れています。そして、その恐怖は、砦内の他の兵士たちにも伝染し、憎しみへと変わろうとしています」
彼女は、自身が所属する穏健派宗派、海神聖堂が、いかに保守派から圧力を受け、孤立しつつあるかを語った。
「私たちは、あなた方の保護と、真実の探求を訴えていますが、声は届きません。それどころか、私たちまで異端視され始めています。彼らは、自分たちの信じる秩序を守るためなら、どんな手段も厭わないでしょう。帝国の力を借りてでも……」
クレアの瞳に、深い憂慮の色が浮かぶ。
「噂では、帝国の中でも特に保守的で、古代からの秘術を受け継ぐという『御名方』の一族が、ボルジア司祭たちと接触しているとも……もしそれが真実なら、彼らは本気でロリさんを……そして、あなたをも排除しようとするでしょう。このまま砦にいては、本当に危険です」
御名方――その名を、シスター・クレアの口から聞くことになるとは。燐は内心の動揺を必死で抑えた。帝国の、それも一族の影が、既にここまで伸びているというのか。
「私にできることは限られています。ですが……」
クレアは懐から、丁寧に折り畳まれた、古びた羊皮紙を取り出した。それは、エルド教授が見せたものとは明らかに違う、別の古文書の断片だった。
「先日、エルド教授が古代の文献を探しておられると伺いました。私も、危険を承知で、砦の古文書庫の奥深く…異端として封印されていた記録を密かに調べてみたのです。そこに、もしかしたら、あなた方の助けになるかもしれない記述がありました」
彼女は羊皮紙を広げ、震える指で特定の一節を示した。
そこには、難解な古代文字で、しかしエルド教授の資料よりもいくらか具体的な内容が記されていた。
「『……大地の東、人々の記憶から忘れられし霊峰あり。その頂には、古き月影落ちる『月詠みの神殿』が眠る。星々の力が降り注ぎしその聖域には、かつて世界を癒やし、そして凍らせたという『始祖』がいた。その名は、リリエル……』」
クレアがその一節を読み上げた瞬間。
「リリエル……?」
隣に座っていたロリが、か細い声でその名を呟いた。
彼女の大きな青藍の瞳が、驚きと、困惑と、そして何か遠い記憶を呼び覚まされたかのような、複雑な色に揺らめいた。
ズキリ、とこめかみを押さえ、彼女は小さく呻く。
「ロリ!?」
燐が慌てて彼女の肩を支える。
「大丈夫……少し、頭が……何か、とても悲しい……歌のようなものが……」
彼女の意識に、失われた記憶の断片が、古文書の言葉に呼応するようにフラッシュバックしているのかもしれない。星空、神殿、誰かの歌声、そして深い悲しみ…。
クレアは、その様子を痛ましげに見つめながら、続けた。
「この『月詠みの神殿』がどこにあるのか、具体的な場所までは記されていませんでした。しかし、東方の辺境山脈にある可能性が高いかと…もし、あなたたちがそこへ向かうというのなら……」
彼女は、もう一つの小さな包みを取り出し、燐に手渡した。
「これは、連合各地に点在する、私と同じ考えを持つ、信頼できる支援者たちのリストと、彼らに連絡を取るための暗号です。そして、道中の助けになるかもしれない薬草をいくつか…微力ですが、お役立てください」
燐は、その包みを受け取った。ずしりとした重み。それは、彼女の勇気と、燐たちへの信頼の重みでもあった。
「シスター…なぜ、ここまで危険を冒して…?」
燐は尋ねずにはいられなかった。彼女もまた、保守派から睨まれれば、ただでは済まないはずだ。
「…私も、かつて大切な人を、狂信と偏見によって理不尽に奪われた経験があります」
クレアは静かに言った。その瞳には、深い悲しみの記憶が宿っていた。
「もう、誰にも同じ思いをしてほしくないのです。そして…」
彼女は燐と、そして苦しげながらも燐に寄り添うロリの姿を見つめた。
「あなたたちの中に、この歪んだ世界を変えるかもしれない、小さな、しかし確かな希望の光を見た気がするのです。それはただの、私の感傷なのかもしれませんが……それでも、信じたいのです」
彼女は立ち上がり、胸の前で静かに手を組み、深く祈りを捧げた。
「私にできるのは、ここまでです。どうか、この情報が、あなたたちの道を照らす光となりますように。そして、決して希望を捨てないでください。アステリアの女神のご加護があらんことを…」
クレアはそう言うと、燐に深く一礼し、来た時と同じように、音もなく静かに部屋を後にした。廊下の見張りの気配が戻ってくる。
部屋には、燐とロリ、そしてクレアが残していった古文書の写しと支援者のリスト、薬草だけが残された。
燐は、クレアの勇気ある告白と、彼女が託してくれた具体的な情報――「月の神殿」という目的地――を、重く受け止めていた。
保守派と帝国の脅威は、もはや猶予ならないレベルに達している。
そして、ロリの記憶と力の謎を解く鍵は、東にある。
彼の心の中で、迷いは完全に消え去っていた。
行くしかない。行かなければならない。
たとえそれが、どれほど危険な旅になるとしても。
彼は、まだ少し顔色の悪いロリの手を、優しく握った。
「大丈夫か、ロリ」
「…はい。もう、大丈夫です」
ロリは頷き、そして、真っ直ぐに燐の目を見つめた。
「リン…行きましょう。その、『月詠みの神殿』へ」
彼女の瞳には、もはや不安だけでなく、自身の運命と向き合おうとする、強い意志の光が宿っていた。
燐は、その小さな手に込められた力強さを感じながら、力強く頷いた。
彼の遺跡探索への決意は、今、揺るぎないものとなったのだ。




