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第2章-30話「街角の戯れと帝国の牙」


 砦に漂う重苦しい空気から一時的に解放される機会は、予想よりも早く訪れた。


 技術士官のリディアが、「リン・アッシュの魔導結晶の修理に必要な特殊部品の現物確認と、自身の研究に必要な触媒の買い付け」という、もっともらしい理由を司令部に提出し、燐とロリの短時間での街への外出許可を取り付けたのだ。もちろん、監視役としてバルカス配下の兵士が二名同行するという条件付きだったが、それでも燐にとっては願ってもない申し出だった。


「本気か、リディア。危険すぎるぞ」


 外出許可が出たことをリディアから知らされ、燐は眉をひそめた。保守派の敵意は日に日に増しており、砦の外に出れば格好の標的となることは明らかだった。


「分かってるわよ。でも、あの娘、ずっと塞ぎ込んでるじゃない。少しは外の空気を吸わせてあげないと、精神的に持たないわ。それに、あなただって息が詰まるでしょ?」


 リディアは肩をすくめた。その言葉はロリへの気遣いのようにも聞こえたが、彼女の瞳の奥には、技術者としての好奇心――異常発生時のデータ収集――も透けて見えた。


「それに、バルカス軍曹も渋々だけど許可したわ。『絶対に問題を起こすな。何かあれば即刻帰還』って釘は刺されたけどね。監視役には、信頼できるカイ君ともう一人をつけてくれるそうよ」


「カイが…?」


 あの若い斥候か、と燐は少し意外に思った。彼は当初、燐に強い警戒心を抱いていたはずだ。模擬戦の後、少し態度は変わったように見えたが…。


「とにかく、これは貴重な機会よ。せいぜい羽を伸ばして、でも絶対に面倒は起こさないでよね!」


 リディアはそう言い残し、自身の用事があるからと別行動をとった。


*   *   *


 こうして、燐とロリ、そして監視役としてカイともう一人の年嵩で無口な兵士――以前ロリに焼き菓子をくれた兵士だ――の四人は、砦のゲートをくぐり、麓に広がる街へと向かった。


 ゲートを出ると、魔の深林とは違う、乾いた風と土の匂いが鼻をついた。久しぶりに感じる「外」の空気だった。


「わぁ……!」


 砦の坂道を下り、街の入り口が見えてくると、ロリが小さな歓声を上げた。


 そこには、彼女が今まで見たことのない光景が広がっていた。


 石畳の通りを多くの人々が行き交い、道の両脇には様々な品物を並べた露店が軒を連ねている。威勢の良い呼び込みの声、人々の話し声、荷馬車の車輪が石畳を叩く音、そして様々な食べ物の匂い。それら全てが渾然一体となって、一種の熱気を生み出していた。


 砦の麓に広がるこの街は、国境の軍事拠点であると同時に、周辺地域から集まる物資の集積地、交易の中継点としての役割も担っていた。アステリア大戦の傷跡は深く、建物の壁には戦闘の痕が残り、空き家や廃墟も散見される。道行く人々の服装も質素で、その表情には戦後の苦労や疲労の色が浮かんでいる者も少なくない。それでも、人々は逞しく日々の生活を営み、市場には僅かながらも活気が戻りつつあった。


「リン! 見てください! あんなにたくさんの人が!」


 ロリは、初めて見る人の群れに目を丸くし、燐の手を強く握った。


「すごい…! あっちでは何か歌っています!」


「吟遊詩人だな。昔の物語を歌っているんだろう」


「こっちは、いい匂い…! 赤くて丸いものがたくさん…」


「リンゴだ。こっちの地方の特産らしい」


「食べてみたいです!」


「…しょうがないな」


 燐は常に周囲への警戒を怠らなかった。人混みの中から向けられる不自然な視線、尾行されているような気配。気のせいかもしれないが、油断はできない。それでも、隣で目を輝かせ、見るもの全てに純粋な好奇心を向けるロリの姿を見ていると、彼の心も自然と和んでいった。


 彼は財布から銅貨を取り出し、露店で艶やかな赤いリンゴを一つ買った。ロリはそれを受け取ると、宝物のように両手で大事そうに抱え、小さな口でしゃり、と齧りついた。


「あまい…! おいしいです、リン!」


 満面の笑みを浮かべるロリ。その笑顔は、まるで太陽のように周囲を明るく照らすかのようだった。


 燐も思わず笑みを返す。監視役のカイも、少し離れた場所でその様子を見て、口元を緩ませている。もう一人の年嵩の兵士は、相変わらず無表情だったが、その視線は以前よりも少しだけ和らいでいるように見えた。


 その後も、ロリの好奇心は尽きることがなかった。


 香ばしい匂いを漂わせる肉の串焼き。「温かいです!」と言いながら、はふはふと頬張る。


 色とりどりの織物が並ぶ店先。


「綺麗…! どうやって作るのですか?」


 大道芸人の軽妙な芸。


「すごい! どうなっているの?」


 燐は、その一つ一つに根気よく付き合い、時には呆れながらも、彼女が「外の世界」に触れるこの時間を大切に感じていた。


 市場の喧騒を抜け、少し人通りの少ない、建物の影になった裏通りへと足を踏み入れた瞬間。


 燐の鋭敏な感覚が、明確な殺気を捉えた。


 前後左右、複数の方向から、同時に。


(来る…!)


「ロリ、隠れてろ! 絶対に出てくるな!」


「リン!?」


 燐は咄嗟にロリをカイに預けた。


「カイ! 敵襲だ!」


「なっ!?」


 カイともう一人の監視兵も、即座に状況を理解し、ロリを庇いつつ、剣を抜き、一歩後退する。

 次の瞬間、裏通りの前後左右、建物の陰や路地の奥から、複数の男たちが姿を現した。


 その数、およそ八名。


 服装は様々だ。一般市民を装った者、傭兵風の者、そして中には、見覚えのある砦の兵士の服を着ている者までいる。だが、その目には一様に、狂信的な光と、燐たちへの剥き出しの憎悪が宿っていた。保守派の過激分子だ。


「見つけたぞ、帝国の犬め!」


「穢れた幼女と共に、ここで浄化してくれる!」


 リーダー格と思われる、体格の良い兵士服の男が前に進み出た。その顔には、歪んだ正義感と、嗜虐的な笑みが浮かんでいる。

 彼が懐から取り出したのは、黒い金属製の円盤。先日リディアが警告していた、帝国製の魔力攪乱装置だ。


「異端に、鉄槌を!」


 男が叫び、装置を高々と掲げると、ブゥゥン…という低い、不快な駆動音が響き渡った。


 同時に、周囲の空間に魔力を歪める不可視の波動が一気に広がり、燐とカイ、そしてもう一人の兵士が身につけていた魔導結晶が、警告を発する間もなく沈黙した。


「なっ!? 魔術が使えん!」


 カイが驚愕の声を上げる。彼が咄嗟に展開しようとした防御障壁の術式が、構築される前に霧散していく。


 燐も、自身の魔導結晶が完全に機能を停止したことを確認する。回復途上だった僅かな魔力も、この攪乱フィールドの中では上手く練り上げることすらできない。完全に魔術を封じられた状態だ。


(これか…道化師が渡したという代物は…!)


 燐は舌打ちし、刀を抜き放った。


 襲撃者たちは、剣や鈍器などを手に、一斉に襲いかかってきた。


 魔術が使えない。魔力回復も満足ではない。


 だが、燐は元「時雨」のエース。彼の強さは、魔術だけではない。彼は卓越した体術と剣術を駆使し、多勢の敵と渡り合う。


 先頭の男が棍棒を振り下ろしてくる。燐はそれを最小限の動きでひらりとかわし、相手の体勢が崩れたところに、肘打ちを叩き込む。


 側面から斬りかかってくる剣を、刀で受け流し、そのまま相手の手首を捻り上げて武器を奪い取る。


 後方から突き出される槍の穂先を、奪った剣で弾き返し、逆に相手の足を払って転倒させる。


 燐の動きは、まるで流れる水のようだった。無駄がなく、速く、そして正確無比。多数の敵の攻撃を、驚異的な体捌きと予測能力で捌き、いなし、時にはカウンターで相手の戦闘能力を奪っていく。


 狭い裏通りの壁を蹴って跳躍し、敵の頭上を飛び越え、背後から強襲する。落ちていた空き樽を蹴り飛ばし、敵の視界を塞ぎ、その隙に別の敵を打ち倒す。


 帝国最強と謳われた「時雨」で培われた、超人的な体術と戦闘技術が、魔力という枷を外れたことで、むしろより純粋な形で発揮されていた。


 それでも、燐は思考を止めない。


 魔力は使えずとも、彼の脳内にある「魔法式ネットワーク」は、僅かな精神力を代償に、限定的ながら機能する。


(封!)


 踏み込んでくる敵の軸足と石畳が、一瞬だけ僅かに粘着し、相手は躓く。


(封!)


 振り下ろされる鈍器の軌道が、瞬間的な重力干渉でほんの僅かにずれ、燐はそれを紙一重で回避する。


(封!)


 敵が剣を握る腕に、微弱な封印術をかけ、一瞬だけ握力を麻痺させる。


 魔力がない状態での封印術式の応用。それは、敵を倒すほどの威力はない。だが、戦闘の流れを読み、相手の動きを予測し、その急所を的確に突くことで、燐は圧倒的な数の不利を覆していく。


 その戦いぶりは、もはや人間の技とは思えなかった。


「な、なんだこいつは…! 魔術も使わずに…!」


「化け物め!」


 襲撃者たちに動揺と焦りの色が見え始める。彼らはただの狂信的な過激分子であり、燐のような本物の手練れとの実戦経験は乏しいのだろう。連携も乱れ、動きが鈍くなっていく。


 一方、ロリを守るために後方に下がっていたカイともう一人の兵士も、それぞれの武器で襲いかかってくる敵に応戦していた。


 カイは斥候としての優れた剣技で敵をいなし、もう一人の年嵩の兵士は、老練な動きで確実に相手の攻撃を防いでいる。魔術が使えない中、彼らもまた必死だった。


「リンさん! そっちはどうです!?」


 カイが叫ぶ。


「問題ない!」


 燐は短く応え、最後の抵抗を見せるリーダー格の男と対峙した。


「くそぉぉ! なぜだ! なぜ魔力攪乱が効かない! いや、それ以前に、貴様のその動きはなんだ!?」


 男は混乱しながら、棍棒をがむしゃらに振り回す。


 燐はその攻撃を冷静に見切り、懐に飛び込むと、正確な峰打ちで男の意識を刈り取った。リーダーを失い、残っていた襲撃者たちも次々と制圧されていく。


 やがて、裏通りには、倒れ伏した襲撃者たちと、荒い息をつく燐、カイ、そしてもう一人の兵士だけが残された。


「はぁ…はぁ…終わった、か…」


 カイが、剣を杖代わりにして膝をつく。彼もいくつかの傷を負っていた。


 燐もまた、全身の倦怠感と、無理な動きで開いた古傷の痛みを感じながら、刀を鞘に納めた。魔力がない状態での戦闘は、予想以上に体力を消耗する。


 物陰から、ロリが怯えた表情で顔を覗かせた。


「リン…! カイさん…!」


 彼女は駆け寄り、燐の服の裾を掴んで震えている。


「大丈夫だ、ロリ。もう終わった」


 燐は彼女の頭を撫で、安心させようとしたが、自身の消耗も激しい。


 カイが、倒れているリーダー格の男の懐を探り、例の黒い円盤を取り出した。


「これだ…! こいつのせいで魔術が…!」


 彼は装置を忌々しげに睨みつけ、そして気づいた。装置の裏側に、小さく、しかしはっきりと刻まれた紋章。


「これは…帝国の紋章!? なぜこんなものが…?」


 その時、騒ぎを聞きつけた砦からの増援――バルカス軍曹に率いられた部隊――が、ようやく現場に到着した。


 バルカスは、裏通りの惨状、倒れている襲撃者たち、そしてカイが手に持つ帝国製の魔力攪乱装置を見て、その表情を凍りつかせた。


「……何があった?」


 低い、怒りを抑えた声で、バルカスは尋ねた。


 白昼堂々の襲撃事件。そして、帝国の介入を示す動かぬ証拠。もはや、事態は砦の中だけで収拾できるレベルを、完全に超えていた。


 燐は、怯えるロリの手を握り、この事件が、自分たちの運命を大きく動かすことになるだろうと確信していた。一刻も早く、ここを出なければならない、と。


 バルカスの厳しい視線が、燐と、カイが持つ帝国製の装置の間を、鋭く往復していた。

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