第1章-3話「迫る影」
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夜明け前の最も深い闇に包まれていた。
星々の瞬きも、月のかけらさえ見えない。魔の深林の樹冠が、空を完全に覆い隠しているのだ。
時折、風が木々を揺らす低い唸りのような音を立てる他は、不気味なほどの静寂が支配している。
しかし、燐の研ぎ澄まされた感覚は、その静寂が偽りのものであることを明確に捉えていた。
腕に装着された軍用魔導結晶が、燐にしか知覚できない微かな振動で警告を発し続けている。
敵は完全に包囲網を敷いていた。魔力反応の配置から読み取れるのは、正面と左右翼に等間隔で展開した三重の封鎖線。そして、その後方に控える予備兵力。組織的な陣形だ。数は昨夜の斥候の比ではない。本隊が到着している。
(…夜明けと共に、突入してくるつもりか)
燐は窓から離れ、壁に背を預けて息を潜めた。
この館を守る古代の結界は、驚くほど強固だ。近代魔術による探査を妨害し、物理的な攻撃にも相当な耐久力を見せている。だが、それも時間の問題だろう。帝国がこれだけの部隊を投入してきた以上、結界の破壊は時間の問題だ。
ここに留まるのは、もはや死を意味する。
脱出しなければならない。
追手が突入してくる前に。
燐は静かに、部屋の隅で眠るロリの元へ歩み寄った。
豪奢な椅子の上で、身体を小さく丸め、規則正しい寝息を立てている。その無防備な寝顔を見ていると、これから彼女を連れ出す過酷な現実を突きつけることに、胸が軋んだ。
心を決め、そっと屈み込み、彼女の小さな肩に優しく触れた。
肉厚な軍服越しにも分かる、華奢な感触。
「起きてくれ」
声を潜めて呼びかける。
「ん……」
ロリは小さく身じろぎし、ゆっくりと瞼を開けた。
眠たげな青藍の瞳が、ぼんやりと燐を捉える。その瞳は、まだ夢の世界の境界を彷徨っているかのようだ。
「…リン…? もう、朝…?」
「いや、まだ夜明け前だ」
燐は低い声で、しかしはっきりと告げた。
「だが、急いでここを出る。追手が、すぐそこまで来ている」
「…!」
その言葉に、ロリの瞳から眠気が一瞬で消え去った。
驚きと、そしてすぐに理解したことによる不安の色が、その大きな瞳に浮かぶ。
しかし、彼女は何も問わず、ただこくりと、しかし力強く頷いた。
「はい…!」
その素直さと、状況を即座に受け入れる強さに、燐は改めて感心する。同時に、彼女を危険に晒すことへの罪悪感が胸を締め付けた。
「急ぐぞ。自分の支度を」
燐は立ち上がり、ロリに促した。
ロリは再びこくりと頷くと、椅子から飛び降り、自分が着ている純白のネグリジェの裾を気にし始めた。皺を伸ばそうとしたり、裾についた僅かな埃を払おうとしたり。
そして、眠っている間についたのだろう、艶やかな銀色の髪の癖を、小さな手で一生懸命に直そうとする。
だが、その一つ一つの動きはどこかぎこちなく、覚束ない。まるで、生まれて初めて自分で身支度をするかのように。
(服は…これしかないのか? さすがにこの格好で森の中は…いや、今は考えるな)
燐は彼自身の僅かな装備――背嚢の中身、予備の魔力カートリッジ、医療キット、非常食、水筒を確認し、ベルトに差した刀の柄を握り、いつでも動けるように身構えた。
(脱出ルートは…)
燐は頭の中で、昨日探索した館の見取り図を素早く展開する。
正面は論外。追手が待ち構えている可能性が最も高い。
無事な右翼側も、敵の警戒は厚いだろう。
ならば、やはり裏手。崩落している左翼との境目、あの壁の大きな亀裂だ。
(瓦礫が多くて足場は悪いが、死角になりやすく、敵の警戒も比較的薄いはずだ…あそこから森へ抜けるしかない)
ルートを決定し、燐は身支度を終えたらしいロリに向き直った。
彼女の顔には不安の色が浮かんでいるが、その瞳は燐を真っ直ぐに見つめ、揺るぎない信頼を示していた。
「よし。行くぞ」
燐は最終確認を終え、ロリに手を差し出した。
「ロリ、俺から離れるな。そして、何があっても絶対に声を出すなよ」
ロリは黙って頷き、燐の大きな手を、彼女の小さな両手で、祈るようにしっかりと握った。
ひんやりとしているが、柔らかい感触。そして、微かに伝わる震え。
燐はその手を強く握り返し、無言で頷いた。
二人は息を潜め、足音を極限まで忍ばせながら、薄暗い館の中を移動し始めた。
目指すは、裏手の崩落箇所。
埃っぽい廊下を抜け、半壊した階段を慎重に降りる。朽ちた木材の酸っぱい匂いが鼻を刺す。
床板が軋む音、壁の隙間から吹き込む風の音だけが、やけに大きく響く。
そして、外から断続的に聞こえてくる、鈍い衝撃音。
ドゥン… ドゥン…
館を守る古代の結界が、外部からの攻撃を受けている音だ。
その間隔は、徐々に短くなってきている。
崩落箇所に近い一階の通路を進んでいた時、燐の足が止まった。
結界を構成する術式の紋様が、壁の内部で淡く脈動しているのが見える。近代魔術とは異質の、途方もなく古い形式。封印術師としての燐の感覚が、その構造の一端を読み取っていた。
(この結界…術式の構造が見える。外部からの攻撃を受けて、マナが余剰として漏出し始めている)
閃きが走った。
余剰マナ。それは、結界が攻撃を受けるたびに弾き返す際に発生する、いわば衝撃の反動だ。通常なら拡散して消えるだけの残滓。だが、もしそれを一方向に集束させることができたら。
(封印術式の応用で、結界の余剰マナの放出方向を制御できるかもしれない…裏手への脱出経路だけ、一瞬でも追手の感覚を麻痺させる魔力の壁を作れれば…)
賭けだった。この古代術式の構造を完全に理解しているわけではない。だが、封印の「鍵」を見つけ、術式の流れを操作する技術は、燐が最も得意とするものだ。
壁に手を当て、結界の術式に意識を浸透させる。指先を通じて、古代の魔力の脈動が伝わってくる。巨大で、複雑で、しかし確かに呼吸をしている術式。
ドゥン!!
結界に新たな衝撃が走った。今までで最も強い一撃。壁が震え、天井から漆喰の破片が降り注ぐ。
その衝撃波が結界全体を駆け巡り、余剰マナが膨れ上がる。
今だ。
燐は封印術式のコードを脳内で紡ぎ、結界の術式構造の中に介入した。マナの流路を、裏手の崩落箇所の方向へ、一点に集束させる。
針に糸を通すような、精密な操作。額に汗が滲む。指先が痺れ、視界の端が白く明滅した。
だが、通った。
結界の余剰マナが、裏手方向に向かって一気に放出された。
外から、短い悲鳴と混乱の声が聞こえた。裏手に配置されていた追手の感覚が、突然の魔力の奔流によって、一時的に麻痺したのだ。
「今だ、走れ!」
燐はロリの手を引き、崩落箇所の亀裂へ向かって駆け出した。
「リン…! あっち…あっちの方が、なんだか、安心する気がします…!」
走りながら、ロリが左側の暗がりを指差した。その声には根拠のない確信のようなものが宿っていた。
燐は一瞬で判断した。右側の開けた道は、追手の感覚が回復すれば真っ先に警戒される。ロリの直感が何に基づくものかは分からない。だが、この幼女が古代の結界の中で眠っていた存在であるなら――この森の何かを感じ取っていてもおかしくはない。
「分かった、信じる!」
燐は迷わずロリの示す方向へ進路を変えた。
亀裂から外に出た二人は、左手の古木の根が複雑に絡み合った暗い一帯へと滑り込んだ。
背後で、追手たちが態勢を立て直す怒号が響いた。
「何だ今の魔力は!? 結界の暴走か!?」
「裏手だ! 目標が脱出した可能性がある、急げ!」
だが、その声はすでに遠い。
燐とロリが駆け込んだ古木の一帯は、巨大な根と密集した下草が天然の迷路を形成しており、追手の視線と索敵術式を効果的に遮っていた。
ロリの直感は、正しかった。
息を潜め、古木の根の陰に身を隠しながら、燐は傍らの少女を見下ろした。
小さな胸が激しく上下し、頬は紅潮している。それでも、その青藍の瞳に浮かぶのは恐怖だけではない。自分が示した方向が正しかったことへの、微かな驚きと、ほんの少しの自信。
(…こいつ、すごいな)
燐は口元を僅かに緩めた。
結界のマナを利用した即興の術式は成功し、ロリの直感が脱出路を切り開いた。まだ絶望的な状況に変わりはないが、この瞬間、確かに二人の力で道を拓いた。
しかし、猶予は長くない。
森の向こうから、追手の足音が組織的に移動する気配が伝わってくる。包囲網の穴を塞ぎ直し、追跡を再開するのは時間の問題だ。
そして、もう一つ。
足元から伝わってくる、低く、重い振動。結界に加えられる攻撃がさらに激しさを増している。
ドゥン… ドゥン… ドゥン…
その間隔は、もはや心臓の鼓動よりも速い。
館の結界が砕け散る時が迫っている。そうなれば、追手の全戦力が一斉に森へ展開する。
張り詰めた空気の中、二人の運命を賭けた脱出が、ここからが本番だった。
夜明けは、まだ遠い。
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