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第2章-29話「交錯する影、軍曹の苦悩」

 

 保守派の過激分子による毒ガス暗殺未遂事件は、その犯人が特定されないまま、砦の内部に修復しがたい深い亀裂と、拭い去ることのできない疑心暗鬼の種を蒔いていった。

 表向き、砦の日常は続いている。城壁では兵士たちが見張りに立ち、訓練場では号令が響き、食堂では定刻通りに食事が配られる。しかし、その表面的な平静の下では、確実に何かが軋み、崩れ始めていた。


 保守派の代表格であるボルジア司祭は、事件への関与を否定しつつも、その舌鋒はますます鋭くなっていた。彼は砦内の礼拝堂や集会所で、ロリを「聖典に記されざる災厄の元凶」「穢れた器」と公然と非難し、その存在が砦に、ひいては連合全体に不浄と混乱をもたらしていると説いた。彼の言葉は、敬虔な信徒だけでなく、大戦で傷つき、先の見えない不安の中で心の拠り所を求める兵士たちの間にも、じわじわと浸透していった。

 ロリを見かけると顔をしかめ、唾を吐きかける真似をする者。燐に対して「異端者の手先」「帝国の犬め」と聞こえよがしに罵る者。そうしたあからさまな敵意が、日増しに数を増していた。


 一方、改革派もまた、水面下で活発に動き始めていた。

 エルド教授やリディア技術士官による調査で示唆された、ロリの持つ未知の力と、燐の特異な能力。それらは、彼らにとって計り知れない価値を持つ可能性のある「資源」だった。彼らは本国の研究所や軍上層部と連携し、より詳細な能力解析と、将来的な利用計画――それは間違いなく、兵器開発や技術独占といった軍事的な側面を強く帯びていた――を秘密裏に進めようとしていた。そのために、燐とロリを砦から本国の管理下へ移送すべきだという意見も、声高に主張され始めていた。


 保守派と改革派。信仰と実利。排除と利用。


 二つの対立する思惑が、この辺境の砦の中で激しくぶつかり合い、兵士たちの間にも派閥意識や宗派による対立を生み出していた。訓練場で些細なことから言い争いが始まり、時には殴り合いの寸前までいくことも珍しくなくなっていた。砦全体の規律は緩み、士気は明らかに低下していた。


 そして、その混乱をさらに加速させる、新たな毒が撒かれ始めていた。

 どこからともなく流れ始めた、悪意に満ちた噂。


「おい、聞いたか? あの帝国兵、リン・アッシュとかいう奴…やっぱり帝国のスパイらしいぞ」

 酒が振る舞われることもある、数少ない兵士たちの憩いの場である酒保で、そんな声が囁かれていた。


「なんだと? でも、帝国から追われてるんじゃなかったのか?」


「それが全部芝居なんだとよ。連合に潜り込んで信用させ、砦の防衛情報とか、こっちの戦力を探るのが目的らしい。ゲルトナー殿の尋問でも、結局たいした情報は吐かなかったって話だ」


「じゃあ、あの一緒にいる幼女は…?」


「それも帝国の仕込んだ『何か』だろうな。『禁忌』だなんて言って追跡してたのも、俺たちを油断させるための罠なんだよ。」


「 やっぱり帝国兵に情けなんてかけちゃいけねえ。 俺たちの仲間をあれだけ殺したんだ…。」


 それは、帝国諜報員「道化師」が保守派過激分子に渡した偽情報が、ボルジア司祭のような扇動者によって意図的にリークされ、あるいは兵士たちの恐怖心や敵愾心と結びついて歪曲されながら広まったものだった。

 元々根強かった帝国への恐怖と憎しみ、燐の元時雨という出自や謎めいた能力への疑念、そしてロリの存在が放つ得体の知れない雰囲気。それら全てが最悪の形で結びつき、「リン・アッシュ=帝国の二重スパイ」説は、燎原の火のように兵士たちの間に浸透していった。

 燐に向けられる視線は、もはや単なる警戒や敵意ではない。明確な憎悪、侮蔑、そして裏切り者に対する殺意すら含まれるようになっていた。


 ---


「…報告は以上です。ボルジア司祭の扇動は止まらず、兵士間の対立は悪化。例の『スパイ説』も広まり、リン・アッシュへの風当たりは最悪です。いつ暴発してもおかしくない状況かと」


 砦司令官執務室。バルカスは、苦々しい表情で現状を報告していた。

 机に肘をつき、深くため息をつく司令官。彼の顔にも、深い疲労と苦悩の色が浮かんでいる。


「本国からは、『調査継続』と『厳重監視』の一点張りだ。改革派は早く対象を本国へ移送しろと急かし、保守派は即刻排除せよと圧力をかけてくる…。どちらの言うことも聞けん」


「ですが、このままでは…」


「分かっている!」


司令官は声を荒らげた。


「だが、私の一存ではどうにもならん! 下手に動けば、どちらかの派閥に利用されるだけだ…!」


 バルカスは、それ以上何も言えなかった。司令官の苦悩も理解できる。だが、現場の空気は限界に達しつつあった。


 その日の午後、バルカスは自室で一人、安酒を呷っていた。


 机の上には、処理しきれない報告書の山と、本国からの催促を示す通信記録。


(リン・アッシュ…奴は一体何者なんだ? 帝国の裏切り者? スパイ? それとも…? 確かに奴の実力は本物だ。あの状況でガストンを…いや、それ以上に、あの幼女を守ろうとする時の、あの覚悟の据わった目は…嘘をついているようには見えん)


 彼の脳裏で、錯綜する情報と、自身の経験則、そして無視できない直感が渦巻いていた。


(保守派の連中はボルジア司祭を筆頭に『浄化』だの『排除』だのと騒ぎ立て、改革派は『利用価値』だの『能力解析』だのと目を輝かせている…どいつもこいつも、あの二人を人間扱いしやがらん。挙句、本国から来たゲルトナーの報告じゃ、あの帝国兵は相当な食わせ物で、何か重大な秘密を隠しているのは間違いない、ときた…)


 彼は部下のカイやセレスからの日々の監視報告書を思い返す。


(カイやセレスの報告じゃ、例の幼女は怪我した小鳥を不可解な力で癒やしたとか…ありえん話だが、奴らが嘘をつくとも思えん。そして、あの帝国兵…リンとか言ったか…奴は常にあの幼女を庇い、冷静沈着だが、時折妙な鋭さも見せる。最初の戦闘で斥候三人を相手に、魔力もほとんどない状態で渡り合ったという報告も信じがたいが事実だ。化け物じみた技量を持っているのは間違いない。それに、部下の話じゃ、保守派の兵士からの嫌がらせにも全く動じていないとか…)


 バルカスの脳裏に、過去の苦い記憶が蘇る。大戦中、無謀な作戦で多くの部下を失ったこと。規律と人情の狭間で下した、あるいは下せなかった決断。そして、その結果として救えなかった命。


(…また同じことの繰り返しなのか? 上層部の意向と現場の現実の狭間で、結局誰も守れずに終わるのか…? あの時のように…部下たちを、そして今度はあの二人をも、見殺しにするというのか…?)


 彼は頭を抱え、深く長い溜息をついた。


(くそっ、どいつもこいつも! このままじゃ砦が内部から崩壊するぞ! )


 だが、どうすればいいのか。組織の一員である軍曹という立場では、できることは限られている。それでも…。


 彼の葛藤は深い。


 その時、執務室の扉がノックされ、部下の一人が血相を変えて飛び込んできた。

「軍曹殿! 訓練場で騒ぎが!」


 ---


 燐は、体力回復のため、監視役のカイを伴い、第三訓練場を使用していた。

 ここは比較的人目につきにくい場所にある。それでも、彼が訓練場に姿を現すと、周囲で自主訓練をしていた兵士たちの視線が一斉に集まった。好奇、警戒、そして…敵意。


「おい、見ろよ、帝国のスパイ様のお出ましだ」

「よくものうのうと訓練なんぞできるもんだな」

「さっさと砦から出ていけばいいものを…」


 聞こえよがしな囁き声。燐はそれを無視し、黙々と基礎的な体術の訓練――主に体幹とバランス感覚を取り戻すためのもの――を開始した。魔力が少ない今、頼れるのはこの身体だけだ。少しでも早く、万全の状態に戻さなければ。


 しかし、彼を快く思わない者たちは、それを許さなかった。

 訓練を始めて間もなく、保守派らしき兵士が五、六名、訓練用の模擬刀や槍を手に、燐を取り囲むように近づいてきた。そのリーダー格らしき、体格の良い男が、 grinning(にやにや笑い) を浮かべて言った。


「よう、リン・アッシュ殿。いや、『時雨』のエース様、だったか? ずいぶんと熱心に訓練されているようだが、その錆びついた腕で、我々連合兵に敵うかな?」

「ちょうど良い。我々も訓練の相手を探していたところだ。『事故』は訓練にはつきもの、だよなァ?」


 明らかに、挑発であり、脅迫だった。周囲で見ていた他の兵士たちも、面白がるような、あるいは見て見ぬふりをするような視線を送るだけだ。


「やめろ、貴様ら!」

 監視役のカイが前に出て制止しようとするが、兵士たちは数でカイを威圧し、取り囲む。

「なんだ、斥候風情が。お前もこの裏切り者の仲間か?」

「邪魔するなら、お前から先に…」


 その瞬間だった。

「待て」

 静かだが、有無を言わせぬ燐の声が響いた。

 彼はゆっくりと立ち上がり、模擬刀を構える。

「訓練の相手が欲しいのだろう? 俺がなろう。ただし、一人ずつだ」


「はっ、魔力も使えんお前が、何を偉そうに!」

 リーダー格の男が嘲笑し、模擬槍を構えて突進してきた。

「帝国の犬が!」


 燐は冷静にその動きを見極める。速いが、直線的で単調だ。

 彼は最小限の動きで槍の穂先をいなし、相手の懐に滑り込むと同時に、思考だけで微弱な封印術式を発動。相手の足先と地面を一瞬、縫い留める。

 兵士はバランスを崩し、前のめりに倒れ込む。燐はその背中に、容赦なく模擬刀の峰を叩きつけた。鈍い音が響き、兵士は呻き声一つ上げずに意識を失った。


「なっ…!?」

 残りの兵士たちは、一瞬で仲間が倒されたことに驚愕し、動きを止める。


「次は誰だ?」

 燐は冷たく言い放った。その瞳には、先ほどまでの穏やかさはなく、戦場を知る者の鋭い光が宿っていた。


「くそっ、囲め! やってしまえ!」

 逆上した兵士たちが、同時に燐へと襲いかかる。

 多対一。しかも燐はまともな魔術を使えない。状況は圧倒的に不利だ。

 しかし、燐は冷静だった。彼は卓越した体術と予測能力で、複数の攻撃を捌き、いなし、時には相手の攻撃を同士討ちさせるように誘導する。

 それでも、数の利は大きい。徐々に燐の動きが鈍り、身体に打撃を受け始める。


 その時だった。

「リン…!」

 訓練場の入り口付近で、ロリが息を呑んでその光景を見つめていた。彼女は燐のことが心配で、セレスに頼み込んで様子を見に来ていたのだ。

 多数の兵士から罵声を浴びせられ、一方的に攻撃されている燐の姿。その光景は、彼女の心に深い衝撃と痛みを与えた。

「やめてください…!」

 ロリは涙を流しながら叫んだ。

「リンを、いじめないで…!」

 その悲痛な叫びは、戦いの喧騒の中ではかき消されそうになったが、確かにその場にいた者たちの耳に届いた。

 襲いかかっていた兵士たちも、そして燐自身も、一瞬だけ動きを止める。


「貴様ら、何をしているかぁ!!」


 そこへ、怒号と共にバルカス軍曹が駆けつけてきた。

 彼は、集団で燐に襲いかかっていた兵士たちと、涙を流すロリの姿を認めると、その顔をみるみるうちに怒りで真っ赤にした。


「全員、武器を捨てろ! 今すぐだ! これは訓練中の事故か? ふざけるのも大概にしろ! このような規律違反、断じて許さん! 全員営倉へぶち込め!!」


 バルカスの凄まじい剣幕に、兵士たちは怯え、慌てて武器を放り出した。駆けつけた他の衛兵によって、彼らは次々と取り押さえられ、連行されていった。


 訓練場には、燐とロリ、そしてバルカスと、カイ、セレスだけが残された。

 バルカスは、未だ涙が止まらないロリと、無表情だがその瞳の奥に深い怒りと悲しみを宿し、そして明らかに消耗を見せる燐の姿を、交互に見つめた。

 彼の心の中で、何かがプツリと切れる音がした。


(もう限界だ…)

 

組織の論理も、過去のトラウマも、もはやどうでもよくなっていた。


(このままでは、本当に取り返しのつかないことになる…! 俺が、何とかしなければ…!)


 ---


 その夜、バルカスは、誰にも告げずに燐の部屋を訪れた。

 部屋に入るなり、彼は厳しい表情のまま、しかし以前とは明らかに違う、何か重い覚悟を決めたような目で燐を見据えた。


「……リン・アッシュ」


 彼は低い声で言った。


「貴様を行かせるかどうかは別として」


 彼はゆっくりと続けた。


「ここを出るための『準備』だけはしておけ。いつでも動けるようにな」


 燐は、その言葉の真意を測りかねて、驚いてバルカスを見つめた。


「…これは命令ではない」


 バルカスは付け加えた。その声には、苦渋の色が滲んでいた。


「ただの、古参兵からの『助言』だ。それ以上でも、それ以下でもない」


 彼はそれだけ言うと、燐の返事を待たずに、踵を返して部屋を出て行った。


 残された燐は、しばし呆然としていたが、やがてバルカスの言葉の意味と、その奥にある苦渋の決断、そして僅かながらも向けられた信頼のようなものを感じ取り、暗闇の中に、確かな希望の光を見出した。


(…準備、か)


 それは、この閉塞した状況を打破するための、最初の一歩となるだろう。


 燐は、隣で眠るロリの寝顔を見つめ、その眼に確かな決意を湛えていた。

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