第2章-27話「バルカスの決断」
バルカス・レーヴェは、執務室の机に肘をつき、こめかみを親指で押さえていた。
灯油ランプの明かりが、積み上がった報告書の山に薄い影を落としている。どの書類にも碌な内容は書かれていない。兵站物資の遅延、兵士間のいさかい、保守派による扇動行為の報告、上層部からの曖昧な指示。そして、極秘扱いの付箋が貼られた一通――リディアが独自の権限で解析した、帝国の暗号通信パターンの検出報告。
毒ガスによる暗殺未遂事件から数日。砦は平静を装っているが、その下で何かが確実に腐り始めていた。バルカスにはそれが分かる。二十年以上軍に身を置いてきた人間の勘だった。
報告書を閉じ、椅子の背もたれに体重を預ける。
ぎしり、と古い木が軋んだ。
天井の染みを数える気力もない。
(帝国の諜報員が、砦の内部にいる)
それはもはや疑惑ではなかった。リディアの解析した通信パターン、保守派への武器流入の形跡、そして街での襲撃に使われた帝国製の魔力攪乱装置。全てが一つの結論を指し示している。
この砦は、帝国の工作によって内側から侵食されつつある。
バルカスは立ち上がり、窓辺へと歩いた。
夜の砦は静かだった。城壁の上で松明が揺れ、見張りの兵士の影が規則的に動いている。その向こうには、星明かりに照らされた山脈の稜線が黒く連なっていた。
この砦を任されて三年になる。最前線ではないが、国境に近いという立地上、常に緊張を強いられる場所だ。配属された兵士の多くは新兵か、前線から回された傷病兵。士気は決して高くない。それでも、ここで任務を全うすることが自分の責務であると、バルカスは自らに言い聞かせてきた。
だが、今はどうだ。
組織の命令に従い、規律を守り、上からの指示を待つ。それが正しいと信じてきた。
しかし現実には、上層部は保守派と改革派の板挟みで身動きが取れず、具体的な対策は何一つ下りてこない。帝国の浸透を報告しても、「引き続き監視を続けよ」という返答が返ってくるだけだ。
このまま命令に従い続けた先に、何がある?
机の引き出しを開けた。
奥に仕舞い込んだ、色褪せた一枚の手紙。もう何度も読み返して、折り目が擦り切れかけている。
取り出しはしなかった。中身は暗記している。
『バルカス軍曹殿。先日の渓谷戦における貴殿の指揮に関し、軍法会議は以下の通り判断する――』
渓谷の惨劇。
あの泥濘んだ戦場で、左翼に取り残された分隊を見捨てた日のことだ。命令通りに陣地を死守し、救援要請を無視した。軍法上は正しかった。軍法会議でも無罪放免とされた。
だが、あの分隊の全滅は事実として残った。十二人の部下が死に、そのうち三人は、バルカスが自ら訓練をつけた新兵だった。
引き出しを閉じた。
あの日以来、バルカスは己に誓った。命令に従う。規律を守る。組織の枠の中で最善を尽くす。二度と、独断で判断を誤ることのないように。
それが、死んだ部下たちへの償いだと思っていた。
しかし。
脳裏に浮かぶのは、監視対象であるはずの二人の姿だった。
リン・アッシュ。
元帝国特殊部隊のエース。裏切り者。経歴を見れば、本来なら軍事裁判にかけて然るべき人間だ。
だが、この数日間で見てきたものは、書類上の情報とはあまりにもかけ離れていた。
街での襲撃で、カイと年嵩の兵士を庇いながら八人の過激分子を制圧した戦闘能力。魔力攪乱装置で魔術を封じられた状態で、だ。あれは並大抵の実力ではない。帝国の「時雨」のエースという肩書は伊達ではなかった。
しかし、バルカスの目を引いたのは強さそのものではなく、その使い方だった。あの男は一人も殺さなかった。全員を峰打ちと打撃で制圧した。本気で殺す気なら、あの腕なら容易いはずだ。にもかかわらず、殺さなかった。
それは単なる甘さではない。あの状況で手加減をする余裕と判断力があったということだ。
そして、あの幼女。
ロリ、と呼ばれている少女。
対象X。連合が最重要監視対象に指定した、正体不明の存在。
セレスの報告によれば、少女の周囲では不可解な現象が続いている。植物の異常成長、小動物への癒しの力、そしてリン・アッシュの魔力回復を促進しているらしき兆候。
保守派はあの少女を「穢れた存在」と呼ぶ。改革派は「利用価値の高い素体」と見ている。帝国は「確保すべき対象」として追っている。
だが、バルカスが見たのは、リンゴを頬張って満面の笑みを浮かべる、ただの幼い子供の姿だった。
(任務対象だ。あれは任務対象に過ぎない)
そう自分に言い聞かせようとした。
報告書を処理し、上からの指示に従い、淡々と任務を遂行する。それが軍人としての正しい在り方だ。
だが、その言葉は、以前ほどすんなりとは胸に収まらなくなっていた。
カイの顔が浮かんだ。
あの若い斥候は、街での襲撃以来、明らかに変わった。燐への警戒心は薄れ、任務報告にも微かな敬意が滲むようになった。あの少女に焼き菓子を渡していた年嵩の兵士もそうだ。セレスでさえ、冷静な報告の端々に、少女への心配の色を覗かせるようになった。
部下たちが、あの二人に情を移し始めている。
指揮官としては、好ましくない事態だ。感情が判断を鈍らせることを、バルカスは嫌というほど知っている。
だが。
(この連中を、見捨てられるか)
その問いが、不意に胸の奥から湧き上がった。
バルカスは窓枠を掴み、自分の思考に戸惑った。
見捨てる? 何を言っている。自分はただ、任務を遂行しているだけだ。保護対象を管理し、上層部の指示に従い、砦の安全を維持する。それ以上でも以下でもない。
あの男と少女がどうなろうと、それは連合の上層部が決めることだ。自分が口を挟む問題ではない。
(本当に、そうか?)
もう一つの声が問い返す。
命令に従って陣地を守り、左翼の分隊を見殺しにしたあの日と、何が違う?
あの時も、命令は正しかった。規律は守った。軍法上は何の問題もなかった。
だが、十二人は死んだ。
バルカスは目を閉じた。
暗闇の中に、若い分隊長の顔が浮かんだ。救援要請の通信が途絶える直前、最後に聞こえたのは、悲鳴でも怒号でもなく、ただ静かに「了解」と答える声だった。
あの声を、バルカスは一度も忘れたことがない。
目を開けた。
窓の外は変わらず静かだった。
松明の光が、城壁の石を橙色に照らしている。
今、この砦では、別の形で同じことが起きようとしている。
保守派の過激分子は、明確にあの二人を殺そうとしている。次の襲撃は、街での騒ぎのような生温いものでは済まないだろう。帝国製の魔力攪乱装置が使われたという事実は、背後に組織的な支援があることを意味している。
改革派は改革派で、あの少女の力を兵器として転用する算段を始めている。そんなことをすれば、何が起きるか分かったものではない。
そして帝国は、この混乱に乗じて、着実に駒を進めている。
このまま命令に従い、現状を維持すれば、やがて砦の中で血が流れる。あの二人の血か、保守派と改革派が衝突して流れる兵士たちの血か、あるいはその両方か。
それを「命令通りに対処しました」で済ませられるのか。
バルカスは、机に戻った。
椅子に座り直し、両手を組んで額に当てた。
軍人としての自分は、命令に従えと言っている。
だが、二十年以上の軍歴が培った現場の勘は、このまま動かなければ取り返しのつかないことになると叫んでいる。
あの男が言っていた言葉が、耳にこびりついていた。
『ここにいても俺たちは死ぬのを待つだけだ。それは、あんたが恐れる「無駄死に」と、何が違うんです?』
答えられなかった。
あの時、返す言葉が見つからなかった自分に、バルカスは苛立っていた。
だが、結論はまだ出せない。
出せるわけがない。自分一人の判断で動けば、それは命令違反だ。部下を巻き込むことになる。最悪の場合、軍法会議では済まない。
かといって、何もしなければ――。
バルカスは深く息を吐き、ランプの芯を絞った。
炎が小さくなり、部屋が薄暗くなる。
(俺は、どうすべきなのか)
答えは出ない。
出ないまま、バルカスは暗い執務室で、一人、長い夜を過ごした。
窓の外で、見張りの交代を告げる鐘が鳴った。深夜の二の刻。
やがて彼は、引き出しの奥にある色褪せた手紙に、もう一度だけ視線を落とした。
取り出しはしなかった。
ただ、引き出しを閉じる手が、いつもより少しだけ、遅かった。




