第2章27話「研究者の仮説」
グリフォンズ・ネスト砦の夜は、息を潜めるように静かだった。
保守派による暗殺未遂事件以来、砦内の空気は目に見えて張り詰め、兵士たちの間には疑心暗鬼と派閥意識が渦巻いている。自分たちに向けられる視線は、以前にも増して複雑な色を帯びていた。
軟禁されている部屋のベッドの上で、燐は浅い眠りと覚醒の間を漂っていた。
身体の傷は癒えつつある。数日前、ロリと手を繋いで眠った夜を境に、枯渇していたはずの魔力が、僅かながら回復の兆しを見せ始めたのは確かだった。それは希望の光ではあったが、依然として全盛期には程遠く、本格的な戦闘を行えるレベルではない。焦りが募る。
隣のベッドでは、ロリが静かな寝息を立てていた。
彼女もまた、この息詰まるような環境の中で、不安と戦っているのだろう。時折、魘されるように小さな呻き声を漏らすことがあった。その度に、燐は胸を締め付けられる思いだった。この無垢な存在を、自分が本当に守りきれるのか。その重圧が、彼の肩にのしかかる。
不意に、廊下の気配が僅かに変化した。
いつもの巡回の兵士とは違う、忍び寄るような足音。そして、扉の前で監視役の兵士と、何事か小声で言葉を交わす気配。
(誰だ……? この時間に……?)
燐は咄嗟に身を起こし、ベッドの下に隠してある刀に意識を向けた。
静かに、ほとんど音を立てずに、部屋の重い金属製の扉が開かれ、廊下の薄明かりを背に、滑り込んできたのは意外な人物だった。
白衣をラフに着崩し、悪戯っぽい笑みを浮かべた老人、エルド・マイスナー教授だった。
「しーっ! 静かに! 静かにするんじゃ、リン君!」
エルド教授は人差し指を口に当て、猫のような足取りで部屋に入ると、素早く背後の扉を閉めた。外の監視役の兵士には、「追加調査の機材を取りに来ただけじゃ」とかなんとか言いくるめてきたのだろう。その大胆さには呆れるほかない。
「教授……? こんな深夜に、何の用です?」
燐は警戒を解かずに、低い声で尋ねた。この老研究者は、知識欲のためなら平気で規則を破るような危うさを持っている。
「ふぉっふぉっふぉ、まあ固いことを言うでない」
エルド教授は、燐の警戒など意にも介さない様子で、部屋にあった椅子を引き寄せ、燐のベッドのそばにどっかりと腰を下ろした。その目は、好奇心で爛々と輝いている。
「夜分にすまんな。だが、どうしても君に伝えておかねばならん『仮説』があってのう! もしこれが正しければ、歴史を揺るがす大発見じゃぞ!」
彼は興奮を隠しきれない様子で、古びた羊皮紙の束の写しと、手のひらほどの大きさの滑らかな結晶体、魔術的な記録媒体を懐から取り出した。
「リン君、やはり君の力は尋常ではない! あの封印術式! あれは近代魔術などという矮小な枠には到底収まらん! 先日の調査データは、それを明確に裏付けておった!」
エルド教授はデータ結晶を起動させ、自身の古風な魔導端末に接続すると、燐の能力テスト時の解析グラフ、脳活動を示す光のパターンや放出された魔力の波形などを空中に投影した。それは魔力によって形成された立体映像表示だ。
「見ろ! 君が封印術式を発動させた時の脳波じゃ! 前頭葉と側頭葉……それも近代医学では機能が完全には解明されていない領域が、異常なレベルで活性化しておる! これは魔導結晶を介した通常の魔術行使ではありえん反応じゃ!」
「そして、この魔力パターン! 君自身の魔力は枯渇状態に近いにも関わらず、術式発動時には周囲のマナを極めて効率的に取り込み、しかも放出されるエネルギー波形が、既知のどの魔術体系とも異なる、極めて珍しい独自の法則性を持っておる!」
「さらに決定的だったのは、腕の魔導結晶への依存度の低さじゃ! あれほどの高度な術式を発動させておきながら、魔導結晶は単なる補助インターフェースか、外部バッテリー程度にしか機能しておらん! つまりじゃ、リン君!」
エルド教授は身を乗り出し、確信に満ちた目で燐を見つめた。
「君は、術式の演算と構築の大部分を、外部装置ではなく、君自身の……そう、脳内で行っておるのじゃ!」
その言葉に、燐は息を呑んだ。それが、時折感じるあの奇妙な感覚の正体だというのか?
エルド教授は、燐の反応を見て満足げに頷くと、さらに続けた。
「私の仮説だが……」
彼は声を潜め、しかしその瞳の輝きは増すばかりだった。
「君のその力は、魔導結晶という外部演算装置に頼ることなく、君自身の脳神経系そのものが、おそらくは遺伝的に受け継がれた膨大な『魔法式ネットワーク』を形成し、脳内で直接的に超高速演算を行い、マナを制御する……そういう古代の秘術なのではないかね? 文献によっては『思考魔法』、あるいは特定の血統にのみ伝わる『血統限定魔術』とも記されておるが……」
思考魔法。血統限定魔術。
聞いたこともない言葉だ。だが、その言葉は奇妙なほど、燐の心の奥底に引っかかっていた。
そして、エルド教授は、さらに踏み込んできた。
「そしてな、リン君。帝国の一部の旧家……特に、古代の『始祖』の封印に深く関わったとされる“あの一族”……」
彼は燐の顔色を注意深く窺いながら、その名を、燐が最も聞きたくない名を、はっきりと口にした。
「……『御名方』。あの家に、これと酷似した、脳内で術式を完結させる秘術が伝わっているという記述が、禁断とされてきた古文書の中に、僅かにだが存在するのじゃ。あくまで伝説の域を出ん話じゃったが……まさかとは思うが、リン君、君はその御名方の一族と、何か関係が……?」
「!」
その名前を聞いた瞬間、燐の全身に電流が走ったかのような衝撃が襲った。
御名方……。
彼が捨てたはずの名。彼が憎み、恐れ、そして心の奥底では断ち切ることができずにいる、呪われた血の繋がり。
厳格な現当主、ゲンゾウの冷たい視線。一族の屋敷の、息が詰まるような閉塞感。他の子供たちから向けられた侮蔑と憐憫の眼差し。「忌み子」「出来損ない」と囁かれた日々。ただ、その特異な能力だけを期待され、都合の良い道具のように扱われた記憶。そして、それに反発し、自ら一族との繋がりを断ち切ったはずの、あの日の決意……。
様々な記憶と感情が、奔流のように彼の脳裏を駆け巡り、呼吸が浅くなる。
なぜ、この老人がその名を知っている?
一族の秘術のことまで?
それとも、この老人は、ただの偶然で、あるいはカマをかけているだけなのか?
激しい動揺が彼を襲う。だが、彼は必死でそれを顔に出さないように努めた。ここで動揺を見せることは、相手に弱みを見せることと同義だ。彼は感情を押し殺し、冷たい、平坦な声で答えた。
「……俺に、そんな繋がりはない。昔も、今も」
それは、彼自身に言い聞かせるような、固い決意の表明でもあった。
「ふむ……そうか」
エルド教授は、燐の反応から何かを鋭く感じ取ったようだったが、それ以上は追求せず、あっさりと話題を変えた。その老獪さも、彼の恐ろしさの一つかもしれなかった。
「まあ、君の出自については、今は置いておこう。君が話したくないのなら、無理強いはせん。わしの興味は、あくまで『力』そのものにあるからのう。そして……」
彼の視線が、隣のベッドで眠るロリへと向けられた。
「……さらに驚くべきは、ロリ殿の力じゃ!」
エルド教授は再び身を乗り出し、今度はロリについて熱っぽく語り始めた。
「彼女の力! あれこそ、さらに驚異的じゃ! 魔術はおろか、君のような特殊な魔術とも次元が違う! 我々の最新の測定機器ですら、彼女のマナ反応を捉えきれんかった! まるで、彼女の身体そのものが、マナという概念を超えたエネルギーの源泉であり、吸収体でもあるかのようじゃ!」
彼はリディアが観測したマナスキャナーの記録を空中に投影した。美しくも不可解な光のベールが、ロリの感情に呼応して変化していたようだ。
「見ろ! 彼女の感情が、直接世界の法則に干渉している! 喜べばマナは浄化され活性化し、怯えれば停滞し防御的な壁を形成する! そして、あの小鳥を癒やした力……あれは単なる治癒ではない! 生命力そのものに働きかけ、時間を巻き戻すかのように傷を消し去った! まさに奇跡じゃ!」
エルド教授は、まるで自身が神の御業を目撃したかのように、賛嘆の声を上げた。
「これはもはや、近代魔術はもちろん、君の『思考魔法』とも異なる、より根源的な力! 生命力、感情、魂、そしてマナを含む世界の法則そのものに直接アクセスし、内側から現象を『発生』させる力! まさに! 古代の神々が振るったとされる……『原初の魔法』の一端なのじゃよ!」
原初の魔法。神々の力。
その言葉の持つ途方もないスケールに、燐は再び言葉を失った。ロリが、そんな存在だというのか? あの無邪気で、か弱い幼女が?
「そしてな、リン君」
エルド教授は、今度は確信に近い響きを声に込めて続けた。
「古文書をさらに読み解いたのじゃが……輝く銀髪、深い青藍の瞳、そして『原初の魔法』の片鱗……その特徴は、古代において『始まりの乙女』、あるいは『最初の血』と呼ばれ、神とも悪魔とも崇められ、そして……最後には永い眠りについたとされる、伝説の存在……」
彼はそこで一呼吸置き、その名を告げた。
「……『リリエル』の記述と、あまりにも酷似しておるのじゃ……」
リリエル……。
その名が、燐の記憶の奥底にある何かを、再び強く揺さぶった。どこかで聞いたことがあるような、しかし思い出せない、遠い響き。
しかし、エルド教授はすぐに真顔になり、厳しい視線で燐に警告を発した。その瞳には、先ほどの興奮とは裏腹の、冷徹な研究者としての光が宿っていた。
「だがリン君、ゆめゆめ忘れてはならん。これらの力……君の『思考魔法』も、ロリ殿、あるいはリリエルかもしれんが、の『原初の魔法』も、あまりにも強大で、異質すぎる。今の世界秩序、特に、形骸化し自らの権威を守ることしか考えん保守的なアステリア聖教の教義とは決して相容れない存在じゃ」
彼の声には、強い危機感が滲んでいた。
「もし、この真実が広く知られれば、君たちは間違いなく『異端』として、『災厄の元凶』として、世界中から追われることになるだろう。帝国だけでなく、連合からも、そして全ての宗派の保守派からもな。彼らはその存在自体を『穢れ』と断じ、全力で潰しにかかるはずだ。先日の暗殺未遂も、その始まりに過ぎんかもしれんぞ。あれは警告だったのかもしれんが、次はもっと本格的なものが来るやもしれん」
エルド教授の言葉は、一つ一つが冷たい刃のように、燐の胸に突き刺さった。
自身の能力の謎。忌まわしき一族の影。ロリの正体かもしれない伝説の存在。そして、それが孕む、世界全体を敵に回しかねない途方もない危険性。
断片的な情報が繋がり始め、目の前が暗くなるような感覚。世界が、足元から崩れていくような恐怖。
だが、その恐怖の底から、別の感情が湧き上がってきた。
真実を知りたい。
なぜ自分たちは生まれ、なぜこのような力を持っているのか。なぜ追われなければならないのか。
自分の、そしてロリの運命を知りたい。
そして、どんな危険が待ち受けていようとも、ロリを守り抜き、この歪んだ世界で、二人で生き抜く道を切り開きたい。
そのためには、もはや逃げ続けるだけでは駄目だ。
彼の瞳に、迷いを振り払うような、力強い決意の光が宿った。
エルド教授は、その燐の表情の変化を見て、満足げに頷いた。
「まあ、今日のところはこれくらいにしておこうかの。あまり長居すると、本当にバルカス君に叱られてしまうわい」
彼は、悪戯っぽい笑みを浮かべると、素早く資料をまとめ、立ち上がった。
「また来るぞい、リン君。真実への探求は、まだ始まったばかりじゃ! 知的好奇心は、何よりも強い原動力になるからのう! ふぉっふぉっふぉ!」
彼は、忍び込んだ時と同じように、音もなく静かに部屋を出て行った。
* * *
部屋には再び、静寂が戻った。
しかし、その静寂は、以前とは全く異なる重みと、そして微かな可能性の光を孕んでいた。
燐は、エルド教授が残していった言葉、衝撃的な仮説と、厳しい警告の数々を、頭の中で何度も反芻していた。
(御名方……原初の魔法……リリエル……)
隣のベッドでは、ロリが何も知らずに穏やかな寝息を立てている。
その寝顔を見つめながら、燐は固く拳を握りしめた。




