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第2章-26話「帝国の影、交錯する思惑」

 

 保守派過激分子による毒ガスを用いた暗殺未遂事件。


 その衝撃はグリフォンズ・ネスト砦の隅々にまで及び、兵士たちの間に疑心暗鬼と不穏な噂を広げた。警備体制は強化されたものの、犯人が特定されない以上、砦内の空気は依然として重く、張り詰めたままだった。


 しかし、その表面的な混乱とは裏腹に、水面下ではさらに巧妙で危険な陰謀が進行していた。


 ゼーブルン帝国の影が、この国境の砦の内部に深く、静かに浸透し始めていたのだ。彼らの目的は多岐にわたる。燐とロリ、対象Xに関する情報の収集、可能であればその身柄確保、そして何よりも、連合内部の対立を煽り、その国力を内側から削ぎ落とすこと。そのために、複数の諜報員が、異なる立場で、異なる対象に接触を図っていた。


 *   *   *


 砦の外れにある、打ち捨てられた倉庫の裏。


 人気はなく、夜の闇と冷たい風だけが吹き抜ける場所。


 そこに、二つの人影があった。


 一人は、フード付きのローブを深く被り、顔を窺い知ることはできないが、その佇まいからは焦燥感と狂信的な熱意が滲み出ている。ボルジア司祭に仕える、保守派過激分子の一人だ。


 もう一人は、対照的に、人の良さそうな笑顔を浮かべた小太りの行商人風の男。しかし、その笑顔は胡散臭く、目の奥は冷たく計算高い光を宿している。彼こそが、変装と人心掌握術に長けた帝国諜報員の一人、内部で「道化師」と呼ばれている男だった。


「……約束の品は?」


 保守派の男が、潜めた声で尋ねる。その声には、期待と同時に隠しきれない疑念が混じっていた。


「もちろんですとも。わざわざ危険を冒して運んできたのですから」


 道化師は芝居がかった仕草で頷き、懐から小さな、しかし重厚な作りの箱を取り出した。


「これはこれは、貴重な品でしてね。帝国で極秘裏に開発された、最新型の指向性魔力攪乱装置です。これを使えば、特定の魔術や魔導結晶の機能を、短時間ですが完全に麻痺させることが可能です。かの『裏切り者』リン・アッシュが使うという厄介な封印術式にも、効果を発揮するかもしれませんな」


 保守派の男は、値踏みするような目でその箱を受け取った。中には、手のひらに収まるほどの、複雑な紋様が刻まれた黒い金属製の円盤が、鈍い光を放って収められていた。見るからに高度な魔術装置だ。


「なぜ、貴様ら帝国が我々に協力する? 奴は帝国の裏切り者なのだろう?」


 男の疑問は当然だった。


「はっはっは、帝国内にも様々な考えを持つ者がいるのですよ」


 道化師は肩をすくめた。


「特に、古き良き秩序と、アステリア聖教の本来の教えを重んじる我々のような者はね。皇帝陛下の最近のやり方には、正直、眉を顰めている者も少なくない。あのリン・アッシュのような一族の面汚しも、そして彼が連れているという『穢れた存在』も、帝国の、いや、世界の秩序にとって害悪でしかない。貴殿ら『真の信仰者』がそれを排除しようというのであれば、我々は喜んで協力させていただきますとも。これも、大いなるアステリアの安寧のため……」


 彼はさらに、もう一つの羊皮紙の束を差し出した。その紙には、巧妙に偽造された帝国の通信記録や暗号の一部が記されているように見えた。


「これは、おまけの情報です。リン・アッシュが、実は未だ帝国、あるいは彼の一族、に密かに忠誠を誓っており、連合内部の情報を探るために潜入している二重スパイである、ということを強く匂わせる『証拠』。まあ、信憑性を高めるために少々『加工』してありますがね。これを上手く砦内で広めれば、彼の立場はさらに悪くできるでしょう? 信用できない裏切り者は、早々に始末するに限りますな、ふふふ……」


 保守派の男は、その羊皮紙をひったくるように受け取ると、疑念の色を僅かに残しながらも、目的達成への期待に目をギラつかせた。


「……分かった。この『支援』、ありがたく使わせてもらう。我々の『正義』のために」

「ええ、ええ、ご随意に。貴殿らの敬虔なる信仰が、穢れを浄化することを願っておりますぞ」


 道化師は満面の笑みで言い、荷物を背負い直すと、まるで最初からそこにいなかったかのように、音もなく闇の中へと溶けるように姿を消した。


 残された保守派の男は、手にした危険な装置と偽情報を握りしめ、次なる、より過激で直接的な排除計画へと心を馳せるのだった。帝国に利用されているとも知らずに。


 *   *   *


 同じ頃、砦のより厳重な警備下に置かれた、高級士官用の区画。


 外部との極秘通信が可能な特別室。


 そこでは、全く異なる種類の、しかし同様に危険な取引が進められていた。


「――つまり、その『対象X』なる幼女が持つ力は、既存の魔術体系を覆しかねない、未知のエネルギー原理に基づいている可能性がある、と。そして、帝国はその力の解析において、既に一定の成果を上げている、と仰るわけですな? フォン・シュタイン特使殿」


 連合軍の改革派に属する、野心的な壮年の将軍が、テーブルの向かいに座る男に問いかけた。その目には、隠しきれない興味と打算の色が浮かんでいる。


 男、帝国から派遣されたもう一人の諜報員は、優雅な仕立ての貴族風の衣服を身に纏い、穏やかな笑みを浮かべていた。彼は自らを「帝国の交易特使、カール・フォン・シュタイン」と名乗っていた。もちろん、それは偽名であり、偽の肩書だ。内部コードネームは「外交官」である。


「その通りでございます、将軍閣下」


 フォン・シュタインは、滑らかな口調で答えた。


「我が帝国には、古代文明の研究部門がありましてな。そこで、今回の『対象X』が示すエネルギーパターンに酷似した現象の記録が、僅かながら発見されたのです。これは、その初期解析データの一部です」


 彼は、テーブルの上に置かれた、青白い光を放つ小型の記録用魔導結晶を示した。


「もし、連合と帝国が『手を取り合い』、この未知の力に関する情報を共有し、『共同研究』を進めることができれば……それは両国の、いえ、世界の発展に大きく貢献するでしょう。もちろん、その成果の優先的な利用権は、この歴史的な協力関係を築いてくださる将軍閣下と、我々帝国が持つことになりますが」


 将軍は、その言葉の裏にある甘い毒を理解していた。共同研究とは名ばかりの技術奪取。そして、その見返りとしての連合内での自身の権力強化だ。


「見返りは、それだけかな?」


 将軍は探るように尋ねた。


「おや、まだご不満で?」


 フォン・シュタインは芝居がかった仕草で驚いてみせた。


「では、例えば……現在、将軍閣下の昇進の道を阻んでいる、かの保守的な競争相手に関する、ちょっとした『不都合な情報』などは、いかがでしょうかな?」


 彼は、将軍の瞳の奥に浮かんだ野心の炎を見逃さなかった。


「……話を聞こう」


 将軍は、ついに頷いた。帝国の提案は危険だが、それ以上に魅力的だった。


 帝国は、保守派には武器と偽情報を、改革派には甘い言葉と将来の利益をちらつかせ、連合内部の対立を巧みに煽り、自らの目的である、燐とロリの排除あるいは確保、そして連合の弱体化を着実に進めようとしていたのだ。


 *   *   *


「……やはり、何かおかしい」


 軟禁部屋で、燐は眉間に深い皺を寄せ、リディアから密かに渡された報告書を睨んでいた。それは、リディアが自身の権限を使い、おそらくは規則を少し曲げて、砦内の不審な動きを探った結果の一部だった。


「これを見て、リン」


 リディアは、周囲を警戒しながら小声で説明する。


「ここ数日、砦内から外部へ向けて、極めて高度に暗号化された魔力通信が、定時に、複数回発信されているの。発信源は巧妙に偽装されているけど、その魔力パターンの一部が、大戦中に私たちが解析した帝国の最高機密通信のパターンと、不気味なほど一致している」


「帝国の……通信?」


 燐の表情が険しくなる。


「断定はできないわ。でも、偶然にしては出来すぎている。それと、これを見て」


 リディアは別の資料を示した。それは、砦への物資搬入記録だった。


「数日前、正規のルートを通さずに、用途不明な小型の魔術装置がいくつか、特定の部署、保守派のボルジア司祭が管理する施設などに運び込まれている記録があるの。記録上は『儀式用の祭具』となっているけど、私が型番を照会したら……帝国製の、それもかなり新しいタイプの魔力攪乱装置か、あるいは小型爆破装置の可能性が高いわ。いったい、何に使うつもりなのかしら……」


 燐は息を呑んだ。

 暗号通信、用途不明な帝国製魔術装置……。

 そして、先日の毒ガス事件。

 点と点が、線で繋がり始める。


「保守派の暴走だけではない……その裏で、帝国が糸を引いている……?」


 さらに、燐は別の情報も得ていた。それは、砦内で孤児たちの世話などをしている、穏健派として知られる神官筋から、それとなくもたらされた噂話だった。最近、ボルジア司祭の周辺で、見慣れない恰幅の良い行商人風の男が出入りしていること。また、改革派の軍幹部の一人が、帝国の使者と秘密裏に会談しているのではないか、という不穏な囁き。


(間違いない。帝国は、保守派と改革派、両方に取り入って、この砦を、連合を、内側から食い荒らそうとしている……!)


 その考えに至った瞬間、燐の背筋に冷たいものが走った。


 自分たちは、単に追われているだけではない。国家間の、より大きな陰謀の渦中にいるのだ。


 その日の午後、監視付きで砦内の図書室へ向かう途中、賑わう兵士たちの往来の中で、燐は一瞬、強烈な違和感を覚えた。

 すれ違った、恰幅の良い行商人風の男。人懐っこい笑顔を浮かべているが、その目の奥には一切の感情がなく、まるで能面のように見えた。そして何より、すれ違いざまに感じた、微かな、しかし忘れられない気配。それは、高度な訓練を受けた者が放つ、完全に抑制された殺気の匂い。そして、魔力ではない、何か別の、おそらくは精神的な鍛錬によって磨かれたであろう、異質な力の波動。


(今の男……!)


 燐は反射的に振り返ったが、男は既に人混みの中に紛れ、その姿を見失っていた。


(間違いない……あれは帝国の人間だ。それも、ただの兵士や諜報員ではない……もっと特殊な訓練を受けたような……)


 確証はない。だが、直感が警鐘を鳴らしていた。

 見えない敵が、すぐそばで動いている。


 部屋に戻った燐は、窓の外を見つめながら、思考を巡らせた。


 このまま連合の保護という名の監視下にいても、いずれは帝国の手の者に捕捉されるか、あるいは連合内部の争いに巻き込まれて破滅するだけだ。


 動かなければならない。連合の監視を掻い潜り、自ら情報を集め、反撃の糸口を探らなければ。


 彼は、協力者たち、リディア、エルド教授、そして僅かな信頼関係が芽生え始めたバルカス隊の兵士たちの顔を思い浮かべた。


 彼らをどこまで信用できるか? 彼らを危険に巻き込むことにならないか?

 だが、他に道はない。


(上等だ……)


 燐の瞳に、冷たい決意の光が宿った。


(誰が仕掛けたゲームか知らんが、ただ利用されて終わるつもりはない……!)


 彼は、限られた手札の中で、この見えない敵との情報戦に挑むことを決意した。それは、自身の過去と能力、そしてロリの存在という、あまりにも重い秘密を抱えながらの、危険極まりない綱渡りとなるだろう。砦の中の、息詰まるような日々の中で、水面下の戦いが、静かに、しかし確実に始まろうとしていた。

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