第2章-25話「保守派の牙」
エルド・マイスナー教授とリディア・ベルゲン技術士官による燐とロリの能力調査。その結果は、衝撃的な内容と共に、厳重な機密扱いとして砦の司令官から連合上層部へと報告された。
リン・アッシュの用いる術式が近代魔術の体系から逸脱した「思考魔法」、血統限定魔術の可能性。そして、ロリが持つ、マナそのものに干渉し、感情と直結する測定不能な力、「原初の魔法」の片鱗。
これらの情報は、ただでさえ燐たちの処遇を巡って揺れていた連合中枢に、さらなる混乱と激しい対立の火種を投下することになった。
改革派である軍の強硬派や実利を重んじる政治家たちは、この報告に色めき立った。「思考魔法」も「原初の魔法」も、その詳細は不明ながら、上手く解析、制御できれば帝国に対する圧倒的なアドバンテージとなりうる。彼らは、より大規模な研究チームの派遣と、場合によってはロリを本国の研究施設へ移送することを主張し始めた。燐についても、その特異な能力を連合のために活用、あるいは模倣、解析すべきだという意見が強まる。彼らにとって、燐とロリは危険性を孕む未知の存在であると同時に、計り知れない価値を持つ資源でもあった。
一方、保守派、例えばアステリア聖教の主要宗派、特に「刻の守り手」や、帝国国教に対抗意識の強い宗派の長老たちや、伝統と血統を重んじる貴族たちは、この報告に強い危機感と嫌悪感を抱いた。
砦に駐留していた有力な神官、刻の守り手所属のボルジア司祭は、報告書の写しを手に砦司令官の執務室へと乗り込んできた。
「司令官殿! この報告書は真実ですかな!?」
ボルジア司祭は、普段の穏やかな物腰とは裏腹に、鋭い声で詰め寄った。その目には、狂信にも似た光が宿っている。
「あの幼女が、我らの聖典に記されざる『穢れた力』を持つという! まさに異端! 古代の伝承にある『災厄の器』そのものではないですか! そして、あの帝国兵! 一族の秘術だか何だか知らぬが、近代魔術の秩序を乱す危険な存在! 断じて放置しておくわけにはいきませんぞ!」
司令官は顔をしかめた。
「司祭、落ち着かれよ。報告はまだ検証中の段階であり、上層部の指示も『慎重な調査』だ。早急な判断は……」
「慎重な調査!? この期に及んで何を悠長な!」
ボルジア司祭は声を荒らげた。
「あの者たちの存在そのものが、世界の秩序を、我らの信仰を脅かすのです! 即刻、あの幼女の身柄を我ら聖教に引き渡し、『浄化』の儀式を執り行うべきです! そして帝国兵は異端審問にかけるか、それが無理なら……」
彼はそこで言葉を切ったが、その目が何を言わんとしているかは明らかだった。秘密裏の排除。
司令官は頭痛を覚えた。上層部の改革派からは対象の保護と徹底調査を、保守派からは即時排除を要求される。そして現場責任者のバルカスはどちらの派閥にも与せず、状況を見極めるべきと報告してきている。板挟みとはまさにこのことだ。
結局、司令官はどちらの要求も受け入れず、「上層部の正式な決定があるまで、現状維持とする。ただし、警備は最大限に強化する」という曖昧な指示しか出せなかった。
この煮え切らない態度が、保守派の過激分子を、そして水面下で暗躍する者たちを、さらに危険な行動へと駆り立てることになる。
* * *
砦内の空気は、日増しに重く、険悪になっていった。
燐とロリに向けられる視線は、もはや単なる好奇や警戒ではない。改革派に属する兵士たちは、彼らを貴重なサンプルか利用すべき道具として値踏みするような視線を送り、保守派の兵士たちは、隠そうともしない嫌悪と敵意を剥き出しにするようになった。
廊下ですれ違いざまにわざと肩をぶつけられたり、食堂で彼らの席の周りだけが不自然に空いたりすることも一度や二度ではなかった。
ロリは、そんな周囲の悪意に敏感に気づき、心を痛めていた。
部屋にいる時間が増え、窓の外を眺めることも少なくなった。燐が文字を教えていても、以前のように目を輝かせることはなく、時折、小さなため息をつく。
「リン……」
ある夜、ロリはベッドの中で、小さな声で燐に問いかけた。
「どうして、あの人たちは、私のことをそんなに嫌うのでしょうか……? 私は、何か悪いことをしたのでしょうか……?」
その声は震え、今にも泣き出しそうだった。
燐は、胸が締め付けられる思いで、彼女のそばに座り、優しく頭を撫でた。
「お前は何も悪くない。絶対にだ」
彼は力強く言った。
「彼らはただ、知らないものを恐れているだけだ。理解できないものを、排除しようとしているだけなんだ。それは、彼らの弱さだ」
「でも……私のせいで、リンが危ない目に遭っています……」
ロリは涙を堪えるように唇を噛んだ。
「私がここにいなければ、リンは……」
「馬鹿なことを言うな」
燐はロリの言葉を遮った。
「俺がお前を守ると決めたんだ。お前のせいじゃない。それに、俺は大丈夫だ。これでも、伊達に『時雨』にいたわけじゃないんでな」
彼は努めて明るい口調で言ったが、内心では保守派の動きに強い警戒感を抱いていた。彼らがこのまま黙っているはずがない、と。
そして、その予感は、最悪の形で現実のものとなった。
* * *
その夜、燐は浅い眠りの中にいた。
昼間の訓練、体力回復のためバルカスの許可を得て行っていたそれ、の疲労と、精神的な緊張が重なり、身体は鉛のように重い。それでも、彼の意識の奥底では、常に警戒の糸が張り詰められていた。
そして、自身の内に存在するあの奇妙な感覚、魔力とは異なる鋭敏すぎる五感、あるいは第六感のようなものが、微かな異常を捉えたのだ。
(……なんだ? この匂い……甘いような……しかし、どこか金属的な……?)
部屋の中に、極めて微量だが、嗅ぎ慣れない匂いが漂い始めている。
同時に、空気中のマナの流れが、不自然に淀んでいるような感覚。
そして、換気口のあたりから感じる、微弱な、しかし確実に敵意のこもった魔術的な残滓。
(……ガス!?)
燐は瞬時に跳ね起きた。
これは毒ガスだ! それも、マナを吸収し、生命力を奪うとされる特殊な魔術的毒ガス。無色に近いが故に気づきにくい。保守派の連中か!
「ロリ、起きろ! 息をするな!」
燐は叫びながら、隣のベッドで眠っていたロリを叩き起こし、彼女の口と鼻を手で覆った。ロリは何が起こったのか分からず、怯えた目で燐を見上げる。
燐は自身も息を止め、部屋の状況を瞬時に把握する。換気口から、目に見えないガスが流れ込んできている。この密室では、数分もすれば致死量に達するだろう。扉は外から施錠されている。残る道は一つ!
彼は躊躇なく、鉄格子の嵌まった窓へと駆け寄ると、全体重を乗せた蹴りをガラス部分に叩き込んだ!
ガシャン! と大きな音を立てて窓ガラスが砕け散る。外の冷たい夜気が、一気に部屋の中へと流れ込んできた。
新鮮な空気でガスが薄まることを期待しつつ、燐はさらに行動を起こす。
(時間がない! ガスの流入を止めなければ!)
魔力は不十分。通常の封印術式は使えない。
燐は自身の指先を強く噛み切り、滲み出た鮮血を空中に走らせる。それは、彼の一族に伝わる特殊な術式の起動法。自身の生命力の一部を触媒とし、枯渇した魔力を補い、脳内の回路網を強制的に活性化させるための代償行為。
「封!!」
精神力を極限まで集中させ、彼は叫んだ。
彼の瞳の奥に、再びあの淡い紫電のような、複雑な紋様が一瞬、激しく揺らめいた。
その力が、血の軌跡を辿って換気口へと向かい、不可視の障壁を形成する。換気口周辺の空間そのものが、まるで捻じ曲げられ、歪められ、物理的に封鎖されたかのように、ガスの流入がぴたりと止まった。
「はぁ……はぁ……っ……!」
燐はその場に膝をつき、荒い息を繰り返した。血と精神力を無理に使った代償は大きい。激しい眩暈と吐き気が襲う。
だが、ひとまず危機は去ったようだ。
ドンドン!
「どうした! 中で何があった!」
「開けろ! 応答しろ!」
窓ガラスの割れる音と、燐が力を発動した際の気配を察知し、扉の外で待機していた監視役の兵士たちが、扉を叩きながら叫んでいる。
燐は、まだ怯えているロリを抱きしめながら、事態の報告と、新たな混乱の始まりを覚悟した。
* * *
毒ガスによる暗殺未遂事件。
それは、グリフォンズ・ネスト砦に大きな衝撃と混乱をもたらした。
換気口に残された微量の毒物の成分と、それを流し込むために使われたであろう簡易な魔術装置の残骸は発見されたものの、誰が実行したのか、その直接的な証拠は何も見つからなかった。
保守派の代表であるボルジア司祭は、「異端者が自作自演の騒ぎを起こしたのではないか」と嘯き、一切の関与を否定した。改革派は「保守派による卑劣なテロ行為だ」と非難し、砦内での両派閥の対立は決定的なものとなった。
報告を受けたバルカスは、執務室で激しい怒りに拳を震わせた。
「砦の中でこのような真似を……! 我々連合軍の規律を、いや、人としての道を外れた行為だ! 断じて許さん!」
彼は徹底的な調査を命じたが、保守派は巧みに責任を回避し、真相は闇の中だった。
しかし、この事件はバルカスにある決意を固めさせた。
(もはや、この砦は安全ではない。あいつらをここに留め置くことは、さらなる混乱と危険を招くだけだ……。上層部の意向も割れている。改革派は調査続行を、保守派は排除を要求している……。このままでは、あいつらだけでなく、俺の部下たちまで危険に晒される)
彼は、苦渋の表情で天井を仰いだ。
(……こうなれば、あの研究者どもが提案している『遺跡調査任務』という名目で、彼らをここから出すしかないか……。厄介払い、と言われればそれまでだが……それが、結果的に彼らの安全を守り、そしてこの砦の混乱を最小限に抑える唯一の道かもしれん……)
この事件は、燐とロリの危険な立場を改めて浮き彫りにすると同時に、皮肉にも、彼らが砦を出て次なる目的地へと向かうための、最後の後押しとなる可能性を秘めていた。
砦内の不信感と緊張感は最高潮に達し、次なる波乱を予感させながら、夜は更けていくのだった。
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