第2章-24話「異端の力、探求の目」
グリフォンズ・ネスト砦での軟禁生活が始まってから、一週間ほどが過ぎた頃。
燐の身体には、僅かな、しかし確かな変化が訪れていた。
きっかけは、数日前の夜のことだった。
なかなか寝付けずにいたロリが、暗闇の中で小さな声で「リン……一人で寝るのが、少し怖いです……」と涙目で訴えてきたのだ。永い孤独な眠りから覚めたばかりの彼女にとって、夜の闇と静寂は、未だに拭い去れない恐怖の対象なのかもしれない。
燐は一瞬ためらった。監視下の状況で、余計な行動は慎むべきだ。しかし、震える小さな肩と、助けを求めるようにこちらを見上げる潤んだ瞳を前にして、彼は拒否することなどできなかった。
結局、彼は自分のベッドをロリのベッドのすぐ隣に移動させ、手を繋いだまま眠りについたのだ。監視役の兵士にどう思われたかは分からないが、少なくともその夜、ロリは安心して穏やかな寝息を立てていた。
そして、その翌朝。
燐は、目覚めと共に、自身の身体の内側で、これまで感じたことのない微かな感覚を覚えた。
それは、枯れ果てていたはずの魔力の泉の底から、ほんの一滴、また一滴と、新しい水が滲み出してくるような、そんな感覚だった。
魔力が回復している。それも、これまでの停滞が嘘のように、僅かではあるが、確かな速度で。
(まさか、昨夜、ロリと手を繋いでいたから……? 彼女の力が、俺の魔力回復を促しているのか?)
驚きと、にわかには信じがたい思い。ロリの力は、治癒や精神安定だけでなく、他者の魔力循環にまで影響を及ぼすというのか。あるいは、砦で受けた治療が、時間を置いてようやく効果を発揮し始めただけなのかもしれない。
理由は定かではなかったが、僅かでも力が戻り始めたことは、この絶望的な状況において、一条の光であることに違いなかった。彼はこの変化を誰にも悟られぬよう、内心の動揺を抑え、慎重にその経過を観察し始めた。
* * *
そんな変化の兆しが見え始めた矢先、砦に新たな訪問者が訪れた。
その日、燐とロリが部屋でいつものように文字の勉強をしていると、バルカス軍曹に伴われて、二人の男女が部屋に入ってきたのだ。
一人は、白衣をラフに着崩した、白髪と長い顎髭が特徴的な老人。その瞳は老いてなお爛々と輝き、部屋に入るなり燐とロリの姿を捉えた瞬間、その輝きが一層増したように見えた。
「おお! この気配……!間違いない!実に興味深いぞ、バルカス君!」
老人は、まるで長年探し求めていた稀覯書でも見つけたかのように興奮し、子供のようにはしゃいでいる。
もう一人は、対照的に、若く理知的な雰囲気を持つ女性だった。連合軍の技術士官の制服をきっちりと着こなし、銀縁の眼鏡の奥からは、冷静で観察的な視線を燐たちに向けている。彼女は老人の隣で、やれやれといった表情で溜息をついた。
「教授、落ち着いてください。まずはご挨拶からでしょう」
「紹介しよう」
バルカスは、どこか面倒くさそうな顔で言った。
「こちらが、本国から派遣された能力調査チームの責任者、エルド・マイスナー教授。そして、補佐のリディア・ベルゲン技術士官だ」
エルド教授は、リディアに促されて咳払いを一つすると、改めて燐たちに向き直った。
「ふぉっふぉっふぉ、エルドじゃよ。古代の魔術やら魔法やら、胡散臭いものばかり研究しておる変人じゃ。よろしく頼むぞ、リン君」
彼は人懐っこい笑顔を見せたが、その瞳の奥は、燐の存在そのものを解剖するかのように鋭く光っている。そして、彼の視線はすぐに、燐の後ろに隠れるように立つロリへと移った。
その瞬間、エルド教授の表情から笑みが消え、驚愕と、信じられないものを見るかのような困惑、そして何よりも強い知的な興奮の色が浮かんだ。
彼はロリの姿、輝く銀髪、深い青藍の瞳、透き通るような白い肌を食い入るように見つめ、そして微かに震える声で呟いた。
(あらためて見るとこの容姿……このマナの質……古文書にあった記述と一致するやもしれん……)
彼の内心の動揺は、燐にも伝わるほどだった。ロリは、その老人の異様な視線に怯え、さらに燐の後ろへと隠れてしまう。
「こほん。……えーっと、失礼」
エルド教授は我に返り、再び笑顔を作った。
「そちらの可愛らしいお嬢さん……ロリ殿、とお呼びしてよいかな? 我々は君たちの『力』について、調査するために来たのじゃよ」
「調査……ですか?」
ロリが不安げに燐を見上げる。
「もちろん、強制ではないが……」
エルド教授は続けた。
「協力してくれれば、君たちの処遇改善にも繋がるかもしれんぞ? それに、君たち自身も、自分たちの力の謎を知りたいのではないかね?」
その言葉は、燐の心を的確に突いていた。
燐はしばらく考えた。リスクは大きい。だが、エルド教授ならば、自分たちの能力の秘密を解き明かす手がかりを与えてくれるかもしれない。そして、それはロリを守るためにも繋がるはずだ。
「……分かった。協力しよう」
燐は答えた。
「だが、条件がある。調査は俺たちの安全が確保された場所で行うこと。そして、この子、ロリに過度な負担をかけるようなことは絶対にしないでほしい」
「うむ、当然じゃな! 好奇心が先走って対象者を壊してしまっては元も子もないからのう!」
エルド教授は快活に頷いた。
「では、早速始めさせてもらおうか! リディア君、準備は良いかね?」
「いつでも」
リディアは冷静に頷き、携帯していた魔術的な測定機器を取り出した。
* * *
調査は、砦内に急遽設けられた研究施設の一室で行われた。
壁には様々な測定機器や解析装置が設置され、中央には診察台のようなものと、複雑な紋様が描かれた床がある。
まずは燐へのテストから始まった。
最新式と思われる魔力測定器、生体スキャナー、そして脳波測定用の魔術装置などが、リディアの正確な手つきで燐の身体に取り付けられていく。エルド教授は、様々な角度から質問を投げかけ、あるいは簡単な魔術の発動を指示した。防御障壁、魔力放出、そして燐が得意とする封印術式。
「ふむ……やはり魔力レベルは依然として低い。だが、回復傾向にはあるな。実に興味深い回復曲線じゃ」
「魔導結晶との同期率は……標準以下だ。君ほどの兵士にしては妙だな。まるで、身体が外部装置との接続を拒んでいるかのようだ……」
「そして……これだ! 封印術式発動時の脳波! 見ろ、リディア君! 前頭葉と側頭葉の未知の領域が異常なレベルで活性化しておる! これは通常の魔術行使のパターンとは全く違う!」
「さらに、放出される魔力パターン! 近代魔術のどの体系にも属さない、極めて古い、あるいは独自の波形を示しておる!」
エルド教授は、次々と表示される異常なデータに、子供のように目を輝かせ、興奮して叫んだ。
「やはり! 魔導結晶という外部演算装置ではない! 君自身の脳神経系が、遺伝的に組み込まれた『魔法式ネットワーク』を形成し、脳内で直接術式を構築、実行しているのじゃ! 古代の『思考魔法』! あるいは特定の血統にのみ受け継がれる秘術! まさしく!」
リディアは、そのデータを冷静に分析しながらも、驚きを隠せない様子で呟いた。
「……データ上は、教授の仮説を裏付けています。非科学的です……でも、これは……」
燐自身も、示されるデータとエルド教授の言葉に、大きな衝撃を受けていた。自分の能力が、近代魔術とは異なる、一族に伝わるかもしれない特別な力……? まだ確信はない。だが、これまでの違和感の正体が、少しだけ見えた気がした。
* * *
調査は次にロリへと移った。
彼女は、燐がすぐそばで見守ることで少し落ち着きを取り戻していたが、それでも見慣れない機器やエルド教授の探るような視線に、不安げな表情を浮かべていた。調査は、細心の注意を払って行われた。
しかし、結果はやはり異常としか言いようがなかった。
魔力測定器は、彼女の身体に触れると計測不能となり、逆にエネルギーを吸収されてしまう。生体スキャナーも解析不能な独自の生体パターンを示すばかり。まるで、彼女の存在そのものが、近代科学と魔術理論の限界を超えているかのようだった。
「ふむ……やはり、通常の測定方法ではこの娘さんの本質は捉えられんか」
リディアは冷静に判断し、自身が開発したという特殊なマナスキャナーを取り出した。それは、周囲のマナの流れや性質を、色や光のパターンとして視覚化する装置だという。
リディアが装置を起動させると、ロリの周囲の空間に、淡く、しかし複雑で美しい光のオーラのようなものが現れた。そして、驚くべきことに、そのオーラの色や動きが、ロリの感情の揺れ動きに呼応して、繊細に変化する様子が観測されたのだ。
燐が優しく声をかけると、オーラは温かい金色に輝き、穏やかに波打つ。
尋問官の話や、外の兵士たちの敵意を思い出したのか、彼女が不安げな表情をすると、オーラは淀んだ灰色に変わり、収縮するように動きを鈍らせる。
そして、燐が保守派による危険性を話した時、リディアが意図的に誘導した結果だが、彼女が強い拒絶感を示すと、オーラは鋭い青白い光を放ち、周囲のマナを弾き返すような、明確な防御的な波動を示した。
「……すごい……」
リディアは、その神秘的で美しい光景に息を呑んだ。
「まるで、マナと感情が、魂そのものが直結しているみたい……。彼女自身の生命力が、そのまま力になっている……? これが、『固有魔法』……?」
エルド教授は、その観測データを見て、もはや興奮を抑えきれない様子で、しかし今度は確信に近い響きを込めて呟いた。
(やはり……間違いないかもしれん……古文書にあった『始祖』の特徴……リリエルの……!)
彼はゴクリと唾を飲み込み、そして、今度は研究者としての冷静さを取り戻そうと努めながら、燐に向かって言った。
「これぞ! これぞ『原初の魔法』の片鱗! 神話の時代の力そのものかもしれんぞ! この娘さん……ロリ殿こそが、世界の根源に関わる、極めて重要な存在である可能性が高い!」
その言葉の重みに、部屋の空気が張り詰める。
しかし、エルド教授はすぐに表情を引き締め、厳しい視線で燐に警告した。
「だがリン君、忘れてはならん。これらの力……君の『思考魔法』も、ロリ殿の『原初の魔法』も、近代の秩序とは全く相容れない、異質すぎる力だ。特に保守派の連中は、これを『穢れ』『災厄』として、存在自体を認めず、全力で潰しにかかるだろう。君たちは、とてつもなく危険な宝を、その身に抱えているのだよ。決して、油断してはならん」
エルド教授の言葉は、雷鳴のように燐の胸に響いた。
自身の能力の異質さ、そのルーツかもしれない一族の影、そしてロリの力の正体とその計り知れない危険性。
断片的な情報が繋がり始め、彼は自分たちが置かれた状況の本当の深刻さを、改めて思い知らされた。
真実を知りたい。その思いは強くなる一方だが、それは同時に、底なしの深淵を覗き込むような恐怖をも伴っていた。
調査は一旦終了となったが、研究者チームは今後も定期的に調査を続けることを告げ、機材と共に引き上げていった。
部屋に残された燐は、エルド教授の言葉を、頭の中で何度も反芻していた。
(思考魔法……原初の魔法……危険な宝……)
彼は、隣で疲れた様子で座り込んでいるロリの小さな頭を、そっと撫でた。
深まる謎と、確実に迫りくる脅威。彼は、これから進むべき道について、改めて考えを巡らせ始めた。
この砦に留まることは、もはや安全ではないのかもしれない。
だが、どこへ行けばいい? 何をすれば、真実に辿り着き、そしてこの「危険な宝」を守り抜くことができるのか?
答えは、まだ見えなかった。
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