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第2章-21話「最初の尋問」


 国境監視砦に軟禁されてから、数日が過ぎた。 燐の身体の傷は、連合の治癒魔術師による連日の治療と、彼自身の持つーーあるいはロリの力の影響かーー異常なまでの回復力によって、驚くべき速さで塞がっていった。肩から脇腹にかけて走った深い裂傷も、今はもう生々しい傷跡を残すのみで、日常生活に支障をきたすほどの痛みは感じなくなっていた。体力も、十分な休息と、決して美味とは言えないまでも栄養バランスの考えられた軍用食のおかげで、少しずつだが着実に回復しつつある。


 だが、彼の内なる力の源泉――魔力だけは、依然として深い沈黙を保ったままだった。 まるで枯れ果てた井戸のように、どれだけ意識を集中させても、魔力が湧き上がってくる感覚がない。医務室で受けた魔力循環促進剤の投与やマナ活性化装置の照射も、気休め以上の効果は感じられなかった。今の彼は、その卓越した戦闘技術と知識を以てしても、近代戦の根幹をなす魔術という力を、ほとんど行使できない状態にあった。それは、牙を抜かれた獣にも等しい無力感を、燐の心に重くのしかからせていた。


 そんなある日の午後。 予告もなく、軟禁部屋の重い金属製の扉が開かれた。 現れたのは、厳しい表情をしたバルカス軍曹と、その両脇を固める完全武装の兵士二人だった。


「リン、動けるな」 バルカスは、有無を言わせぬ口調で言った。 「来てもらうぞ。尋問だ。本国から専門の者が到着した」


 ついに来たか、と燐は内心で身構えた。 この数日間、彼はロリと共にこの閉塞した部屋で過ごしながら、常にこの時を想定し、思考を巡らせていた。何を語り、何を隠し、どう立ち回るべきか。ロリの存在、自身の能力、帝国と一族からの追跡――そのどれもが、下手に話せば命取りになりかねない機密事項だ。


「リン…?」

  ベッドの上で、砦の図書室から借りてきた古い絵本を読んでいたロリが、不安げな顔で燐を見上げた。

「大丈夫だ」

 燐は、努めて穏やかな声で彼女の頭を軽く撫でた。「少し話をしてくるだけだ。すぐに戻る。大人しくしているんだぞ」 ロリは小さな唇をきゅっと結び、こくりと頷いたが、その青藍の瞳からは心配の色が消えなかった。


 燐は立ち上がり、バルカスと護衛兵に促されるまま、部屋を出た。 石造りの冷たい廊下を、無言で歩く。 すれ違う兵士たちの視線が、突き刺さるように感じられた。敵意、警戒、好奇、そしてロリと共にいることへの不可解な噂話。彼はそれらを意に介さないように努め、ただ前だけを見据えて歩いた。


 案内されたのは、砦の司令部棟のさらに奥深く、普段は使われていないと思われる一角にある、小さな部屋だった。 扉には厳重な魔術的封印の痕跡があり、バルカスが特殊な解除コードを入力してようやく開いた。 内部は、予想通り、窓一つない完全な密室だった。 壁、床、天井、全てが継ぎ目のない滑らかな金属(恐らくは魔力干渉を防ぐ特殊合金だろう)で覆われ、反響する足音がいやに大きく聞こえる。 部屋の中央には、同じく金属製の簡素な机と椅子が二脚置かれているだけ。 天井に埋め込まれた魔導ランプが放つ、白々とした冷たい光が、部屋全体を無機質に照らし出していた。 そして、壁の一部には、複雑な紋様が刻まれたパネルのようなものが複数埋め込まれており、そこから微弱だが、明確な魔力の流れが感じられた。魔術的な盗聴・探査防止、そして恐らくは、尋問対象者の心理状態や生体反応、魔力の揺らぎなどを監視・分析するための、高度な魔術装置だろう。ここは、ただの部屋ではない。情報を引き出すためだけに設計された、特殊な空間だ。


「座れ」

 バルカスに顎で示され、燐は部屋の中央、尋問官が座るであろう椅子の向かい側に腰を下ろした。ひんやりとした金属の感触が、背筋に緊張を走らせる。

  バルカスと護衛兵は、燐の後方の壁際に、微動だにせず直立した。監視のためだろう。


 しばらくの、息が詰まるような沈黙。 やがて、燐が入ってきたのとは別の扉が、音もなく静かに開いた。 現れたのは、一人の初老の男だった。 痩身で、背筋が真っ直ぐに伸びている。仕立ての良い、しかし飾り気のない濃灰色の文官風の服を、まるで軍服のように隙なく着こなしていた。 深く刻まれた皺が、彼の重ねてきたであろう年月と経験を物語っている。しかし、その鋭い灰色の瞳だけは、老いを感じさせない冷徹な光を湛え、まるで猛禽類が獲物を品定めするかのように、燐の全身を射抜いていた。 この男が、本国から派遣されてきた専門の尋問官、ゲルトナーだろう。


 ゲルトナーは自己紹介もせず、挨拶もなく、ただ静かに燐の向かいの椅子に腰を下ろした。 そして、再び沈黙。彼は何も言わず、ただじっと、燐の顔を、その瞳の奥底までも見透かそうとするかのように、観察し続けている。 それは、尋問対象者に精神的なプレッシャーを与え、動揺を誘うための、古典的だが効果的な尋問技術の一つだった。


 だが、燐は動じなかった。 彼もまた、帝国の特殊部隊で、裏切り者や捕虜に対する厳しい尋問を経験し、あるいは自ら行ってきたこともある。この程度の心理的な圧力で揺らぐほど、彼は柔ではなかった。 無表情を保ち、ゲルトナーの冷徹な視線を、真っ直ぐに見返す。視線と視線が、見えない火花を散らす。


 長い、長い沈黙の後。 先に口を開いたのは、ゲルトナーだった。 その声は、彼の瞳と同じように冷たく、一切の抑揚がなく、感情が読み取れない。


「認識番号。最終所属部隊。階級は?」


 矢継ぎ早に、基本的な情報から確認してくる。


「…認識番号は破棄した」


  燐は、落ち着いた、しかし警戒心を解かない声で答えた。


「元帝国陸軍特務作戦部隊、時雨所属。階級は…もはや意味を持たない」


「ふむ…記録によれば、貴官の名はリン・アッシュとなっているが、それで間違いないかね?」

 ゲルトナーは、手元の資料に目を落とすふりをしながら、さらりと尋ねてきた。


(アッシュ…? なぜ、その名を…?)


 燐は内心で僅かに動揺した。アッシュは、彼が帝国軍に入隊する際に、御名方家の存在を隠すために与えられた、あるいは自ら選んだ偽名のようなものだ。それが連合側にまで知られているとは。帝国の情報管理はどうなっているのか、それとも…。 彼は動揺を表に出さず、短く答えた。


「…リン、と呼ばれている。それで十分だろう」


「曖昧な答えは好まんな」


 ゲルトナーは淡々と言った。


「なぜ『元』時雨なのだ? 帝国軍から正式に除隊した記録はないはずだが。離反か? それとも脱走か?」


「…どちらでもあるし、どちらでもない」


「言葉遊びはよせ。理由を述べよ。なぜ帝国を離れた? 何があった?」


 ゲルトナーの質問は、徐々に核心へと近づいてくる。


「魔の深林で何をしていた? あの禁忌の地で、貴官ほどの兵士が一人で行動していた理由は?」

「そして…あの幼女だ。『対象X』と仮称されている。あれは何者なのだ? なぜ帝国が、『禁忌』という符牒まで用いて、あれほど執拗に追跡している? 我々が得た情報によれば、帝国本隊…それも宗教騎士団まで投入されていたようだが?」


 畳み掛けるような質問。 燐は、ここで反撃に出ることにした。


「尋問の前に、確認させてもらいたい」


  彼はゲルトナーの目を真っ直ぐに見据え、言った。


「俺たちの安全は保証されるのか? バルカス軍曹とは、俺が知る情報と引き換えに、安全を保証するという話だったはずだ」


「ほう…取引、か」


 ゲルトナーは、初めてその表情に僅かな変化を見せた。片方の口角が、嘲るように微かに上がる。


「軍曹ごときが勝手に結んだ約束など、この私が、あるいは連合上層部が反故にするのは容易いことなのだがね。貴官の立場を理解しているのかね?」


 揺さぶりだ。だが、燐は怯まなかった。


「情報が不要というなら、それでも構わない」


 彼は静かに言い返した。


「だが、安全が保証されなければ、俺がこれ以上口を開くことはない。それは確かだ」


 ゲルトナーは、再び沈黙し、燐の反応を観察した。 部屋の壁に埋め込まれた魔術装置が、燐の発言に伴う生体反応――心拍、呼吸、皮膚の電気抵抗、そして微弱なマナの揺らぎ――を精密に計測している気配が強まる。


(…脅しは通用しないか。それどころか、こちらの足元を見てきおったな。やはり、ただの兵士ではない)


 ゲルトナーは内心で呟き、そして結論を出した。今は情報を引き出すことが最優先だ。


「…よかろう」


  彼は小さく頷いた。


「貴官が我々にとって有益な情報を提供し、かつ協力的な態度を続ける限りにおいて、貴官と『対象X』の安全は、当面の間、このグリフォンズ・ネスト砦において保証しよう。ただし、それはあくまで『当面の間』だ。そして、嘘や隠蔽が発覚した場合、その保証は即座に反故になると思え」


「…了解した」


「では、話してもらおうか。まずは、帝国軍の現状について、貴官が知りうる情報を全て。出し惜しみは無用だぞ。我々も独自の情報網を持っている。貴官の言葉の真偽は、いずれ明らかになる」


 ここから、燐とゲルトナーの間の、長い、神経をすり減らすような心理戦と情報戦が始まった。 燐は、頭の中で情報を慎重に吟味し、選別しながら、当たり障りのない、しかし連合側にとっては無視できない価値を持つであろう情報を、少しずつ、小出しにしていく。


 帝国辺境軍における旧式重装機兵「パンツァーⅢ型」の具体的な配備数と、その低い稼働率。 アステリア大戦末期に露呈した、第三補給廠から東部戦線への兵站ルートの脆弱性が、停戦後もほとんど改善されていない実態。 前線兵士の間で公然と囁かれている、皇帝バルドル三世の強硬策と、一部軍閥(特に旧世代の貴族将校たち)との間の軋轢に関する噂。 最近、帝都で秘密裏に行われた、改革派に批判的な将校たちの粛清に関する情報ーーただし、噂のレベルとして。


 ゲルトナーは、それらの情報を冷静に聞き取り、メモを取ることもなく、時折鋭い質問を挟んで、情報の確度や、さらなる詳細ーー部隊名、将校の名前、具体的な時期などーーを引き出そうと試みる。 彼の質問は巧妙で、関連性のない話題から不意に核心を突こうとしたり、わざと誤った情報を提示して燐の反応を試したりと、熟練した尋問官ならではの技術が随所に見られた。


 尋問が進むにつれて、燐は再び、あの奇妙な、そして不快な感覚に襲われていた。 魔力は枯渇しているはずなのに、彼の精神は異常なまでに冴えわたり、目の前の尋問官の内面が、まるで色や形を伴って感じ取れるようなのだ。


 ゲルトナーの冷静な仮面の下にある、強い探求心、深い疑念、情報を引き出そうとする焦り、そして燐自身への侮蔑と警戒。それらの感情の揺らぎが、まるでノイズのように、あるいは特定の色彩のように、燐の意識に流れ込んでくる。 言葉の裏に隠された意図や、次に繰り出されるであろう質問の方向性すら、予感のように感じ取れてしまう。


(なんだ……これは? 相手の思考そのものではない。だが、感情の『色』や『流れ』が、まるで視えるみたいだ…… これは、俺の力なのか……? 魔力が無いというのに、なぜ……?)


 彼は激しく戸惑いながらも、この異常な感覚を、生き残るための武器として利用するしかなかった。 ゲルトナーの質問の意図を先読みし、用意していた当たり障りのない情報で巧みに逸らし、あるいは逆に質問を返すことで相手の反応を探り、決して核心には触れさせない。 同時に、自身の内心の動揺や、この異常な感覚への戸惑いが、表情や態度に出ないよう、必死で抑制した。呼吸、心拍、視線の動き、声のトーン。**自身の生体反応の全てを、可能な限り意識的にコントロールしようと努めた。**


 部屋の壁に埋め込まれた魔術的な嘘発見器が、燐の応答に合わせて、その計測パターンを微妙に変化させている気配がする。それは単純な「真実」か「嘘」かを示すものではなく、より複雑な精神状態や魔力の揺らぎ(あるいはその欠如)を分析しているのだろう。


 ゲルトナーは、その嘘発見器の示すデータと、燐の態度を比較しながら、内心で評価を下していた。


(やはり、こいつは何かを隠している。それも、とてつもなく重大な何かを。嘘発見器の反応も異常だ。精神的な抑制が強すぎる。あるいは、魔力以外の何か…未知の能力で干渉している可能性すらある。ただの元兵士ではない。危険だ。だが、それ故に…利用価値は計り知れない…)


 彼は、これ以上の直接的な尋問は逆効果であり、時間をかけて周辺情報を集め、外堀を埋め、あるいは別の手段で燐を心理的に追い詰めていく必要があると判断した。


 不意に、ゲルトナーは進行中だった質問を打ち切り、すっと立ち上がった。


「今日のところはよかろう」


  彼は冷たい視線を燐に残し、言った。


「だが、尋問はまだ始まったばかりだ。貴官が隠している秘密…我々は必ずそれを暴き出す。その覚悟はしておくことだ」


 彼は扉に向かいながら、最後に付け加えた。


「…ああ、それと、提供された情報は、後ほど専門部署で精査させてもらう。その価値によっては、貴様たちの処遇も変わるやもしれんぞ。せいぜい、有用であることを祈るがいい」


 含みのある言葉を残し、ゲルトナーは音もなく部屋を出ていった。 重い金属製の扉が閉まり、再び静寂が訪れる。


 尋問室に一人残された燐は、張り詰めていた糸が切れたように、深い、深い疲労感に襲われた。 全身から、どっと冷や汗が噴き出す。椅子の背もたれに、ぐったりと身体を預けた。 尋問は、ひとまず乗り切った。だが、状況は何一つ好転していないどころか、むしろ悪化したかもしれない。 連合側の疑念は確実に深まった。監視はさらに厳しくなるだろう。そして、自分の中に存在する、この不可解な感覚…。


 答えの出ない問いが、彼の心を支配していた。 彼はゆっくりと立ち上がり、壁際の監視兵に連れられて、重い足取りで、ロリが待つであろうあの小さな部屋へと戻っていくしかなかった。 砦の中の、先の見えない、疑念と警戒に満ちた日々は、まだ始まったばかりだった。

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