第1章-19話「境界線の砦へ」
数日間に及んだ、魔の深林の中での過酷な行軍。 それは、終わりの見えない悪夢のようだった。敵兵に囲まれた中で、 燐は、自身の限界を超えた消耗と、未だ回復の兆しを見せない魔力に、何度となく意識を失いかけながら、ただロリを守るという一心だけで、足を前に進め続けていた。 ロリもまた、慣れない長距離の歩行と、絶えず漂う緊張感に、小さな身体で必死に耐えていた。彼女の青藍の瞳からは、当初の怯えに加え、深い疲労の色が窺えた。
一行を率いるバルカス軍曹と、彼の部下である連合兵たちもまた、疲労困憊の状態だった。 負傷者を抱え、得体の知れない元帝国兵とその連れの幼女を監視しながら、いつ帝国軍の追手が現れるか、あるいは森の魔獣に襲われるか分からない状況下での行軍は、彼らの精神を確実に蝕んでいた。
だが、その長く苦しい道のりにも、終わりは近づいていた。
「…光だ」
先頭を歩いていた斥候の一人が、掠れた声で呟いた。 その言葉に、誰もが顔を上げる。 鬱蒼と茂っていた木々の密度が明らかに薄くなり、その隙間から、これまでとは比較にならないほど強い、外の世界の光が差し込んできているのが見えた。 森の出口が近いのだ。
「…本当だ」 「やっと…抜けられるのか…」
兵士たちの間から、安堵とも驚きともつかない声が漏れる。 彼らは自然と歩を速めた。 森の淀んだ重い空気が、次第に乾いた、開けた場所の空気へと変わっていく。 木々の種類も変わり、足元の腐葉土は固い土へと変化していく。
そしてついに、一行は魔の深林を完全に抜け出した。
「う…っ」
久しぶりに浴びる直接的な太陽の光に、燐は思わず目を細めた。 森の中とは違う、風の匂い。どこまでも続くかのように見える、広々とした空。 それは、長い間暗闇に閉じ込められていた者が初めて光を見た時のような、一種の強烈な解放感をもたらした。 隣を歩いていたロリも、眩しそうに目をしばたたかせながら、しかしどこか好奇心を宿した瞳で、初めて見るであろう「外の世界」の風景を、おそるおそるといった様子で見回していた。
だが、その解放感も束の間だった。 彼らの目の前に広がっていたのは、決して希望に満ちた光景ではなかった。 緩やかな丘陵地帯が広がっているが、その大地は痩せ、耕作放棄された畑が痛々しく広がっている。遠くに見えるいくつかの家々は、屋根が抜け落ち、壁が崩れたまま放置されていた。 アステリア大戦の爪痕。それが、この辺境地域にはまだ生々しく、そして色濃く残っているのだ。
そして、その荒涼とした風景の向こう、丘の上に、無骨な石造りの巨大な建造物がそびえ立っていた。 高く厚い城壁、等間隔に設置された監視塔、そして物々しいゲート。 リオファル連合の国境監視砦だ。 砦の壁にも、魔術攻撃によるものか、黒く焦げ付いた跡や、欠けた箇所が見受けられる。 あれが、彼らの当面の目的地だった。
「よし、もう少しだ! 気を抜くな!」
バルカスが檄を飛ばし、一行は再び歩みを進める。 砦へと続く、辛うじて道と呼べる程度の荒れた土の道を登っていく。 近づくにつれて、砦の規模と、そこに漂う張り詰めた軍事的な緊張感がよりはっきりと感じられた。 城壁の上では、武装した兵士たちが絶えず周囲を警戒しており、ゲートの前には厳重な検問所が設けられている。
ゲートに到着すると、屈強な衛兵たちが一行を制止した。 彼らはバルカスを認めると、敬礼し、労いの言葉をかける。
「バルカス軍曹殿、ご帰還ご苦労様です!」 「任務、お疲れさまでした!」
だが、その視線はすぐに、バルカスの後ろに続く異様な二人組――ボロボロの帝国軍服を着た青年と、その青年に寄り添う、美しいがどこか人間離れした雰囲気を持つ幼女――へと注がれ、驚きと、そしてあからさまな疑念の色へと変わった。
「軍曹殿…その者たちは…?」
衛兵の一人が、困惑した表情で問いかける。 砦の他の兵士たちも、遠巻きにこちらを見て、ひそひそと何かを囁き合っている。好奇、敵意、そしてロリへ向けられる、畏怖のような視線。
「詳細は後で司令部に報告する」バルカスは短く答えた。「今は負傷者の治療が最優先だ。道を開けてくれ」
その有無を言わせぬ口調に、衛兵たちは僅かに躊躇いながらも、ゲートを開いた。 一行は砦の中へと足を踏み入れる。 砦の内部は、外観以上に戦後の影響が色濃く残っていた。 makeshift(間に合わせ)の修理箇所が目立ち、物資が不足しているのか、兵士たちの装備もどこか使い古されている。それでも、規律は保たれており、兵士たちはそれぞれの持ち場で黙々と任務をこなしていた。
バルカスは部下たちに、負傷者を医務室へ搬送すること、そして燐とロリを決して見失わないよう厳重に監視することを命じると、自身は足早に砦の司令部へと向かった。
砦司令官の執務室。 華美な装飾や調度品はないが、品がよくまとめられた内装は司令官の実直さが窺える。 バルカスは敬礼し、目の前に座る、厳格そうな顔つきの中年の将校(砦の司令官だろう)に、今回の任務の結果を報告した。
「バルカス軍曹、ただ今帰還いたしました。魔の深林偵察任務中、帝国軍の追跡部隊と接触、交戦。これを撃退しましたが、当方も負傷者を出しました」 「うむ、ご苦労だった」司令官は頷いた。「それで、例の異常魔力反応については何か分かったか? 帝国の動きは?」
「それに関連すると思われる存在を保護しました」バルカスは続け、核心に触れた。「帝国軍元特殊部隊『時雨』所属と名乗る兵士一名、及び、所属不明の幼女一名です」
「なに、『時雨』だと!?」
司令官は驚きに目を見開いた。
「あの部隊は壊滅したのではなかったのか!?」
「詳細は不明ですが、彼の装備から時雨の部隊章が確認できました。そして、その男は帝国本隊より執拗な追跡を受けていました。交戦の際、同行していた幼女は、『固有魔法』らしき未知の強力な力を発現させ、帝国軍を一時的に無力化しました」
「固有魔法…だと…?」司令官の声に緊張が走る。
「断定はできません。しかし、通常の魔術とは明らかに異なる現象でした。また、保護した元帝国兵は、帝国に関する重要情報を保持していると主張しています」
報告を聞き終えた司令官は、顔面を強張らせ、額には冷や汗が滲んでいた。彼は事の重大さを即座に理解したのだ。「時雨」の生き残り、帝国が追う「禁忌」、そして「固有魔法」らしき力を持つ幼女…。どれ一つ取っても、連合の、いや、大陸全体のパワーバランスを揺るがしかねない要素だ。
「…分かった」
司令官は唾を飲み込み、決然とした表情で言った。
「バルカス軍曹、よくやった。この件は最高機密扱いとする! 直ちに本国の情報部と最高司令部へ緊急連絡を入れる! 副官、回線を用意しろ! 最高レベルの暗号化だ!」
彼は副官に矢継ぎ早に指示を出すと、再びバルカスに向き直った。
「その二人、特に幼女の方は絶対に外部に漏らすな! 監視を徹底し、治療を受けさせろ。尋問は、本国からの指示を待ってからだ!」
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一方、その頃。 燐とロリは、バルカスの部下たちに厳重に監視されながら、砦の医務室へと、その重い足取りを(燐は担架で運ばれながら)向かわせていた。 魔の深林は抜けた。追手の脅威も一時的に去った。 だが、彼らを待ち受けるのは、安息ではなかった。 これから始まるであろう、連合軍による厳しい尋問。 ロリの力の秘密を探ろうとする動き。 そして、決して諦めないであろう帝国と、ヴァルド。
燐は、担架の上で揺られながら、鉄格子の嵌まった窓から見える、物々しい砦の様子と、その向こうに広がる荒涼とした大地を、ただ黙って見つめていた。 隣を歩くロリの、小さな不安げな気配を感じながら。 この幼女を、自分は本当に守りきれるのだろうか。 その問いは、重く、彼の心にのしかかっていた。
第1章完結です。
ここまでは燐とロリの出会いと物語の根幹に関わる設定について掘り下げつつ、各国勢力と燐達との関係をざっと説明してきました。
次章からは各勢力の思惑や燐達をめぐる水面下の戦いなどについて進めていく予定です。
読んでて物足りない事とかあればぜひご意見をお聞かせください!今後の参考にいたします!




