第1章-18話「監視下の同行」
バルカスの決断と命令により、その場にいた全員が新たな目的に向かって動き出した。
負傷した帝国兵と謎の幼女を保護・監視下に置き、最寄りの連合軍拠点である国境監視砦へと帰還する。
それは、バルカスにとって、そして彼の率いる斥候部隊にとっても、極めて異質な任務だ。
応急処置が施された燐は、意識は保っているものの、自力で歩ける状態ではなかった。
失血と消耗、そして魔力の完全な枯渇。ロリの未知の力によって痛みこそ和らいでいたが、その身体は自立を許さなかった。
連合兵たちは、不本意そうな表情を隠さずに、しかしバルカスの命令に従い、手早く担架を組み、燐をその上に乗せた。
ロリは目が覚めてからというもの、担架に乗せられぐったりとしている燐のそばから離れようとしなかった。
小さな手が心配そうに燐の腕に触れ、その瞳は不安げに揺れている。
バルカスはそれを見て、特に何も言わず、部下の一人に幼女のすぐそばについて歩くよう指示した。
こうして、奇妙な一行の行軍が始まった。
先頭と後方をバルカス隊の兵士が固め、中央に負傷した仲間と、そして厳重な監視下に置かれた燐とロリがいる。
彼らが進むのは、魔の深林の奥深く。鬱蒼と茂る木々が陽光を遮り、昼間でも薄暗い。
湿った地面を踏む兵士たちのブーツの音と、時折聞こえる鳥や獣の声だけが、重苦しい静寂を破っていた。
連合兵たちの燐へ向ける視線は、依然として厳しい。
それは当然だろう。昨日まで殺し合っていた帝国の、それも悪名高い特殊部隊「時雨」の生き残りなのだ。
敵意、不信、そして、先ほどの戦闘で見せた燐の異常なまでの強さと、彼が使う奇妙な術への警戒。
さらに、ロリが放ったあの不可解な力への畏怖も混じり、彼らの視線は複雑な色を帯びていた。
ロリに対しても、兵士たちの態度は一様ではなかった。
ある者は、その人間離れした美しさと、先ほどの力の片鱗に、何か神聖なもの、あるいは逆に畏怖を感じて遠巻きにしている。
またある者は、ただの幼い子供がこんな場所にいることへの憐憫の情を僅かに覗かせる。
しかし、誰もが無遠慮に近づこうとはしなかった。彼女もまた、監視対象であると同時に、理解不能な存在として認識されているのだ。
燐は、担架の上で揺られながら、周囲の状況を冷静に観察していた。
身体は動かせないが、意識ははっきりしてきた。バルカスが約束通り治療を施してくれたおかげで、最悪の状態は脱したようだが、魔力は依然として空っぽで、回復の兆しは見えない。
そして何より、この連合軍の兵士たちに囲まれた状況は、檻の中にいるのと何ら変わりはなかった。
行軍の途中、何度か短い休憩が挟まれた。
その度に、バルカスは燐の元へやってきて、何気ない口調を装いながらも、鋭い視線で探りを入れてきた。
「貴様の傷、相当深いが…回復力は人並み外れているようだな。さすがは『時雨』か?」
燐は目を閉じ、弱々しく首を横に振る。「…運が良かっただけだ」
「ほう…? それにしても、時雨の兵士が単独とはな。噂に聞く貴様らの戦いぶりとは違う。一体何があった? 部隊はどうした?」
「…話したところで、信じるとも思えん。それに、状況が状況だ」燐は言葉を濁す。
「…部隊は、壊滅した。俺だけが生き残った…それだけだ」
バルカスは僅かに眉をひそめたが、それ以上は追及せず、別の話題に移るかのように尋ねた。
「この森には詳しいのか? 我々は最近、この付近で奇妙な魔力反応や空間の歪みを観測している。何か心当たりは?」
「…いや、何も知らない。俺はただ、追手から逃げていただけだ」
燐の反応に、バルカスは内心で舌打ちした。
(やはり、そう簡単には口を割らんか…)
その日の夜。
一行は比較的安全な場所を見つけ、野営の準備を始めた。
見張りが立てられ、焚き火が起こされ、携帯食料が配られる。
燐は担架から降ろされ、木の根元に座らされた。もちろん、すぐそばには見張りの兵士が立っている。
ロリは、やはり燐の隣にぴったりと寄り添って座り、不安げに周囲を見回していた。
バルカスが、無言で粗末な軍用レーションと水の入った水筒を燐の前に置いた。
「食え。死なれては話を聞けんからな」
ぶっきらぼうな口調だが、そこには敵意以外の何か…複雑な感情が混じっているように燐には感じられた。
燐は黙ってそれを受け取り、まずロリにパンをちぎって渡した。ロリは小さく「ありがとう」と言うと、それを少しずつ口に運び始めた。
燐も、残りのレーションをゆっくりと口にする。
食事の後、バルカス隊の若い衛生兵が、指示を受けて燐の傷の手当てにやってきた。
彼はまだ経験が浅いのか、少し緊張した面持ちで、しかし丁寧に古い包帯を解き、傷口を消毒し、新しい包帯を巻いていく。
ロリはその様子を、すぐそばで心配そうに覗き込んでいた。
「リン、痛いの…?」
「…大丈夫だ」燐は短く答えた。
衛生兵は、ロリの純粋な瞳と、燐の間に流れる不思議な空気に、少し戸惑ったような表情を見せた。
手当てが終わると、衛生兵は黙って立ち去っていった。
他の兵士たちも、燐たちを遠巻きに見ているだけで、積極的に関わろうとはしない。敵意、警戒心、そして好奇心。様々な感情が入り混じった視線が、焚き火の明かりの中で揺らめいていた。
そんな中、監視役として近くにいた、少し年嵩の兵士が、ぼそりと呟いた。
「…嬢ちゃん、寒くないか?」
彼は自分の毛布の一部を、無言でロリの肩にかけた。
ロリは驚いたように兵士を見上げ、そして小さく頷いた。
「ありがとう、ございます…」
兵士はふいと顔を背け、再び無言で見張りに戻った。
ほんの僅かな、人間的な交流。それは、この殺伐とした状況の中にあって、燐の心に微かな温もりを感じさせた。
焚き火を囲みながら、バルカスが再び燐に近づいてきた。今度は、少し離れた場所に腰を下ろし、まるで世間話でもするかのような口調で語りかける。
「『時雨』…連合にとっては悪夢のような部隊だった。神出鬼没、少数精鋭で拠点を次々と落としていく。電撃的な転移術と、貴様のような化け物じみた戦闘能力…。あれだけの部隊が、そう簡単に壊滅するものなのか? 何か、特別な作戦でもあったのか?」
バルカスは、あくまで「時雨」という部隊そのものへの興味を装いながら、燐の口を開かせようとする。
燐は、焚き火の揺らめきを見つめたまま、静かに答えた。
「…帝国にも、無謀な作戦はある。俺たちは、捨て駒にされただけかもしれん」
その声には、僅かな苦渋が滲んでいた。
そして、彼はバルカスの方を向き、はっきりとした口調で付け加えた。
「…約束した情報は、砦で話す。今は、それ以上話すことはない」
その言葉には、それ以上の追及を拒否する強い意志が込められていた。
バルカスは、燐のその態度に不満げな表情を浮かべたが、無理に聞き出そうとはしなかった。
(まあ、いい。砦に着けば、時間はたっぷりある…)
彼は内心でそう呟き、立ち上がって部下の見張りの交代を指示しに行った。
数日間の行軍が続いた。
燐は連合の治癒魔術も受け、驚異的な回復力で、杖をついて歩けるようにはなった。
しかし、魔力だけは、依然として回復する気配がなかった。まるで、身体の奥底にあるはずの泉が、完全に枯れ果ててしまったかのように。
ロリも、最初は怯えてばかりだったが、徐々に周囲の状況に慣れてきたようだった。
行軍中も、森の木々や花、あるいは小動物に興味深げな視線を向けることが増えた。燐が知っている植物の名前などを教えると、彼女は真剣な顔でそれを記憶しようとしていた。
彼女がいるせいか、あるいは偶然か、この数日間、危険な魔獣に遭遇することは一度もなかった。森の空気も、心なしか清浄に感じられる。
燐が負傷を押して黙々と歩く姿や、ロリの無垢な様子を見て、一部の連合兵の間に、当初の剥き出しの敵意とは違う、何か複雑な感情が芽生え始めているのを、燐は感じ取っていた。しかし、大部分の兵士の警戒心は解けていない。
行軍は、まだ続く。
森の出口は、まだ見えない。
そして、砦に着けば、本格的な尋問が待っているだろう。
監視の目は、決して緩むことはない。
燐とロリの未来は、依然として厚い霧の中にあった。




