第1章-17話「取引と疑念、そして決断」
「帝国がそこまで執着し、『禁忌』としてまで追う理由は何なんだ!? 答えろ! 全て話してもらおうか!」
バルカスの厳しい詰問が、戦場の跡に残る重い静寂に突き刺さる。
その鋭い視線は、地面に倒れ伏したままの燐を射抜き、答えを、真実を強要していた。
燐は、朦朧とする意識の中、その声を聞いていた。
全身を苛む痛みは、ロリの不思議な力のおかげで奇妙に和らいでいる。だが、それは感覚が麻痺しているだけで、傷口からは未だに血が流れ続け、体力も魔力も、そして精神力も、既に限界をとうに超えていた。
身体を動かすことすら億劫で、言葉を発するのも容易ではない。
それでも、彼はロリを守らなければならなかった。
この連合軍の軍曹が、自分たちをどうするつもりなのか。敵意は明らかだが、あるいは…?
僅かな可能性に賭けるしかない。
燐は、かろうじて繋ぎとめている意識を集中させ、掠れた、弱々しい声で言葉を紡いだ。
「…治療が、必要だ…」
途切れ途切れに、息をするのも苦しそうな声だった。
「このままでは…俺は死ぬ…この子も1人では生きていけない。」
それは、紛れもない事実だった。そして、相手の同情、あるいは打算に訴えかける、最後の交渉カード。
バルカスは、燐の言葉に眉をひそめた。その顔には、警戒と疑念の色が深く刻まれている。
だが、燐の消耗しきった様子と、傍らでぐったりと眠る幼女の姿は、彼の言葉に嘘がないことを物語っていた。
「…助けて、くれるなら…」
燐は、さらに言葉を続けた。息も絶え絶えに、しかし、相手の心に響かせるように。
「連合領まで…安全に案内してくれれば…俺が知る、帝国の機密情報を渡そう…」
「…なんだと?」
バルカスの眉が、さらに険しくなった。彼の視線が、値踏みするように燐の全身を舐める。
「機密情報、だと? 貴様のような男が、どんな情報を…」
「帝国軍の…新型魔導兵器の開発状況…」
燐は、意識を失いかけながらも、必死で言葉を繋いだ。
「あるいは…『時雨』のような特殊部隊の…内情や、運用実態…。あんたたちが…連合が、喉から手が出るほど欲しい情報のはずだ…」
さらに、燐は最後の切り札を切った。
「…それとも、奴らが…帝国が、この忌まわしき魔の深林で…血眼になって探しているものの情報、でもいい…」
その言葉を聞いた瞬間、バルカスの表情が微かに変わった。
鋭い視線に、一瞬だけ動揺と、そして強い興味の色が浮かんだのを、燐は見逃さなかった。
(…食いついたか)
だが、バルカスはすぐに冷静さを取り戻し、腕を組んで燐を見下ろしたまま、沈黙した。
彼の頭の中では、激しい葛藤が繰り広げられていた。
(帝国軍の機密情報…新型兵器に特殊部隊、そして、この森で探しているもの…? もし、こいつの言うことが本当なら、計り知れない価値がある。連合にとって大きな利益になるだろう。そして、俺自身にとっても…大きな手柄だ)
情報への欲求。軍人としての功名心。それが、彼の心を強く揺さぶる。
(だが、信用できるのか? 口から出任せの可能性も高い。それに、この二人を砦へ連れ帰ることのリスク…あの幼女が持つ、あの異常な力。あれは一体何だ? 『固有魔法』か? だとしたら、危険すぎる。砦に、いや連合領内に持ち込めば、どんな災厄を招くか分からんぞ。帝国が『禁忌』として追うだけの理由があるはずだ)
未知の力への恐怖。厄災を招き入れる可能性への警戒心。それが、彼にブレーキをかける。
(上層部への報告義務もある。だが、報告すればどうなる? 保守派と改革派の連中が、この幼女を巡ってまた醜い権力争いを始めるのは目に見えている。政治の道具にされるか、あるいは秘密裏に処理されるか…。どちらにせよ、碌なことにはならん)
組織の論理への不信感。派閥争いへの嫌悪感。
(そして、俺の部下たちだ。今回の戦闘で、既に少なからぬ損害が出た。ここでさらに帝国本隊と戦闘になったり、あるいはこの二人を連れ帰ったことで新たな戦闘に巻き込まれたりすれば…これ以上の犠牲は避けたい。軍曹として、彼らの命を守る責任がある)
部下たちへの責任感。
様々な思考、感情、そして計算が、バルカスの頭の中で激しく交錯する。
彼は、周囲で負傷者の手当てをする部下たちの姿を見回した。彼らの疲れた顔、不安げな表情。そして、地面に倒れ伏し、必死の形相でこちらを見上げる元帝国兵と、その腕の中で無垢に眠る幼女。
森は、依然として重い静寂に包まれている。
ただ、遠くで風が木々を揺らす音と、負傷者の呻き声だけが聞こえていた。
時間は、刻一刻と過ぎていく。後方から迫るヴァルド隊の気配も、気のせいではないだろう。
決断しなければならない。今、ここで。
長い、長い沈黙の後。
バルカスは、深く、重い息を吐き出した。
そして、まるで自分自身に言い聞かせるように、低い声で呟いた。
「…リスクは承知の上だ。だが、この謎を放置するわけにはいかん。それに…」
彼はちらりと燐を見やり、そしてロリへと視線を移した。
「…たとえ敵兵であろうと、目の前の負傷者を見捨てるのは、性に合わん」
彼は顔を上げ、再び燐を真っ直ぐに見据えた。その目には、もはや迷いはなかった。軍人としての、そして一人の人間としての決断が下されたのだ。
「……いいだろう」
低い声で、しかしはっきりと、バルカスは告げた。
「貴様と、その幼女を保護し、最寄りの我が軍の砦まで連行する。治療も受けさせよう」
燐の表情に、僅かな安堵の色が浮かんだ。だが、バルカスの言葉は続く。
「だが、これは取引だ。そして、我々の慈悲ではないことを忘れるな」
彼の声は、再び軍人としての厳しさを取り戻していた。
「砦に着き次第、貴様の知る情報を全て話してもらう。嘘や誤魔化しは一切通用せんぞ」
鋭い視線が、燐を射抜く。
「そして、妙な真似は一切するな。貴様らは常に我々の監視下に置かせてもらう。少しでも怪しい動きを見せれば、その場で…分かっているな?」
それは、保護の決定であると同時に、明確な警告だった。
燐は、朦朧とする意識の中、バルカスの言葉を一つ一つ噛み締めた。
監視付き。情報提供の義務。そして、裏切りへの制裁。
厳しい条件だ。だが、今はこれを受け入れるしかない。
ロリを守り、生き延びるためには。
彼は、残った最後の力を振り絞り、力なく、しかし確かに頷いた。
「…了解した」
その一言を聞き届け、バルカスは立ち上がった。
そして、周囲の部下たちに向かって、力強い声で指示を飛ばした。
「負傷者の手当てを急げ! こいつらもだ! 動ける者は周囲の警戒を厳にしろ! 後方の敵に備えつつ、砦へ帰還するぞ!」
「はっ!」
兵士たちは、隊長の決断に戸惑いながらも、即座にその命令に従い、動き始めた。
燐は、部下たちによって担架に乗せられるのを感じながら、薄れゆく意識の中で思った。
ひとまず、最悪の事態は避けられたのかもしれない。
だが、これから待ち受けるであろう連合軍の砦での日々は、決して安楽なものではないだろう。
そして、ヴァルドと帝国の追撃も、これで終わったわけではない。
彼は、そっと隣で眠るロリの寝顔を見た。
この幼女を守るという決意だけを胸に、燐の意識は、再び深い闇へと沈んでいった。




