第1章-16話「戦場の後、軍曹の問い」
帝国軍の最後の兵士の気配が、森の深い闇へと完全に溶けていくと、戦場跡には死んだような静寂が訪れた。 それは決して安らかな静けさではなかった。 硝煙と血の匂い、そして異常なほど濃密に残る魔力の残滓が、重く空気に澱んでいる。 風が木々を揺らす音が、まるで誰かの嘆きのように聞こえた。
地面には、先ほどの激しい戦闘の爪痕が生々しく刻まれていた。 根元からへし折られ、無残な姿を晒す大木。 魔術の炸裂によって抉られ、黒く焦げ付いた地面。 飛び散った金属片や、戦闘服の破片。 そして、点々と残る血痕――それは帝国兵のものか、あるいは燐のものか、もはや判別もつかない。 先ほどまでこの場に満ちていた狂騒と破壊のエネルギーが嘘のように、今はただ、重苦しい沈黙だけが支配していた。
「…負傷者は報告! 動ける者は周囲を警戒! 敵が戻ってくる可能性も捨てきれんぞ!」
その静寂を破ったのは、連合軍軍曹、バルカスの野太い声だった。 彼は即座に指揮官としての役割に戻り、冷静に、しかし疲労の色を隠せない声で部下たちに指示を飛ばす。
「了解!」 「こちら、負傷者三名! カイルが重傷です!」 「クソッ、腕をやられた…! 誰か止血を!」
兵士たちは、先ほどの不可解な現象への戸惑いを押し殺し、バルカスの指示に従って動き始めた。 互いに声を掛け合い、負傷した仲間の元へ駆け寄る。 医療キットが取り出され、治癒魔術の淡い光が点滅し始めた。 訓練された彼らは、極限状況の後でも、やるべきことを黙々とこなしていく。 だが、その表情には隠しきれない疲労と、帝国軍への消えぬ憎しみ、そして…先ほど目の当たりにした未知の力への、畏怖と困惑の色が浮かんでいた。
「チッ…思った以上の損害だ…」
バルカスは部下たちの報告を聞きながら、苦々しげに呟いた。 帝国軍を撤退させたとはいえ、こちらも無傷では済まなかった。重傷者もいる。このまま魔の深林に留まるのは危険だ。一刻も早く砦へ帰還し、治療と報告をしなければならない。
彼は部下たちに応急処置を指示しつつ、ゆっくりと、重い足取りで、この騒動の中心人物――燐とロリが倒れている場所へと近づいていった。
燐は、地面に倒れたまま、浅く、不規則な呼吸を繰り返していた。 全身夥しい傷に覆われ、流れ出た血が彼の周囲の地面を黒く染めている。 意識は朦朧としているようで、その瞳は虚ろに闇を見つめていた。 ロリの力によって、あの焼け付くような激痛は奇跡的に和らいでいる。だが、それはあくまで一時的な痛覚の麻痺に近いものだ。失われた血は戻らず、深く切り裂かれた傷口が開いたままであることに変わりはない。このまま放置すれば、命に関わる。
その燐の傍らには、力を使い果たしたロリが、ぐったりと眠るように横たわっていた。 彼女の顔色は依然として蒼白だが、その寝顔は不思議なほど穏やかで、まるで激しい戦闘など何もなかったかのように、静かな寝息を立てていた。 彼女の周囲だけ、場の淀んだ空気が僅かに浄化されているような、そんな錯覚さえ覚える。その存在自体が、やはり尋常ではない。
バルカスは、燐のすぐそばで立ち止まり、その満身創痍の姿と、傍らで眠る異様な雰囲気の幼女を、改めてじっと観察した。 彼の脳裏で、これまでの情報と目の前の光景が結びつき、様々な疑問が渦巻いていた。
(一体、何なんだ、こいつらは…? 『時雨』の生き残りが、なぜこんな子供と…? そして、あの光…あれは間違いなく魔術ではなかった。ならば、『固有魔法』か? それも、あれほどの規模の…? 帝国が『禁忌』としてまで追うほどの力を持つ存在…)
彼の経験則が、警鐘を鳴らしていた。これは単なる脱走兵と保護された子供の話ではない。もっと根深く、危険な何かが関わっている。
(この幼女とこの力…上層部に報告すれば、間違いなく大騒ぎになるだろう。軍部も、情報部も、そして…ああ、各宗派の連中も黙ってはいないはずだ。面倒なことになるのは目に見えている。だが、このまま放置するわけにもいかん…)
バルカスは心を決め、軍人としての厳しい表情を取り戻した。 真実を知る必要がある。たとえそれが、どれほど厄介なものであろうとも。
彼は屈み込み、朦朧としている燐の顔を覗き込んだ。 そして、低く、有無を言わせぬ強い意志を込めた声で、問い詰めた。
「帝国兵…いや、リン、だったか」 あえて名前を呼ぶことで、意識をこちらに向けさせようとする。
「意識はあるようだな。幸運だったな、あの妙な光のおかげで、まだ息がある」
皮肉とも同情とも取れる言葉を前置きにして、バルカスは本題を切り出した。 その声には、もはや一切の感情はなく、ただ事実を追求しようとする冷徹さだけがあった。
「改めて問う」
厳しい視線が、燐の虚ろな瞳を射抜く。
「貴様、一体何者だ?」
間髪入れずに、次の問いが続く。
「そして、その幼女は? ただの子供ではないことくらい、この俺にも分かる。あの力は一体何なんだ?」
バルカスの声が、静かな森に響く。
「帝国がそこまで執着し、『禁忌』としてまで追う理由は何なんだ!? 答えろ! 全て話してもらおうか!」
その言葉は、もはや尋問というよりは、詰問に近い響きを持っていた。 朦朧とした意識の中、燐はその厳しい追及を、ただ聞いていた。 身体は動かせない。反論する気力もない。 だが、頭の片隅では、必死に思考を巡らせていた。 何を話し、何を隠すべきか。 そして何より、どうすれば、この絶望的な状況から、ロリを守り抜くことができるのか。
彼はゆっくりと、重い瞼をわずかに持ち上げた。 バルカスの厳しい視線と、燐の弱々しいが意志の宿った視線が、戦場の跡に残る静寂の中で、交錯した。




