第1章-11話「緑の軍服」
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森の奥深くへと、燐はひたすら走っていた。 腕の中には、ぐったりと意識を手放したロリの、驚くほど軽い身体。 彼女の固有魔法の発現は、確かに絶体絶命の窮地を一時的に救ってくれた。 だが、その代償は大きかったようだ。ロリの顔色は蒼白で、呼吸も浅い。そして何より、あの圧倒的な力の奔流の後、彼女の周囲に満ちていた不可思議な気配は、今はほとんど感じられなくなっていた。
燐自身も限界だった。 ロリから流れ込んできた温かい力は、一時的なカンフル剤に過ぎなかった。 枯渇した魔力は回復せず、全身の傷口は再び開き、失われた体力は戻らない。 一歩進むごとに、足が鉛のように重くなり、視界が明滅する。 それでも、彼は足を止めなかった。止まるわけにはいかなかった。
(追手は…まだ来ないか…?)
背後を振り返る余裕はない。 だが、ヴァルドたちの執念を考えれば、一時的に混乱したとしても、すぐに追跡を再開するはずだ。 ロリの力がいつまで彼らを足止めできたか、分からない。 今はただ、少しでも距離を稼ぎ、安全な場所を見つけるしかない。
鬱蒼とした木々が途切れ、少しだけ開けた場所に出た。 苔むした岩が点在し、比較的視界が通る。 ほっと息をつき、ロリを抱え直して周囲を見回した、まさにその瞬間。
「――!?」
燐の鋭敏な感覚が、複数の人間の気配を、それも前方から捉えた。 反射的に身構え、ロリを背後にかばう。 帝国兵か!? いや、気配が違う。魔力の質も、動きも。
木々の間から、音もなく現れたのは、帝国軍の黒い戦闘服とは明らかに異なる装備――緑を基調とした迷彩柄の戦闘服、異なるデザインの魔導結晶や武器――を身につけた兵士たちだった。 その数、七、八名。 彼らは戦闘隊形を組みながら、極めて慎重に、しかし迅速にこちらへ接近してくる。明らかに先ほどの戦闘音と異常な魔力反応を追ってきた様子。
先頭を進んでいた兵士の一人が、満身創痍の帝国軍服の男と、彼が抱える異様な雰囲気の幼女を認め、即座に武器を構え、後方に鋭く報告した。
「バルガス軍曹殿! 前方に帝国兵らしき者一名、及び幼い民間人?一名を発見! 周囲に戦闘痕跡多数、魔力反応も異常です! どうしますか!」
その報告を受け、部隊の中から経験豊富そうな体格の良いバルカスと呼ばれる男が、厳しい表情で前に進み出た。 彼の鋭い視線が、燐へと真っ直ぐに向けられる。
「止まれ! 何者だ!」
低く周囲に響く声が発せられると同時に、バルカスは右手を挙げて部下たちの前進を制止した。 他の兵士たちも、即座に武器を構え、燐たちを取り囲むように、しかし一定の距離を保って展開する。 その動きには一切の無駄がなく、彼らが厳しい訓練を受けた斥候部隊であることが窺えた。 彼らの目には、帝国兵に対する明確な敵意と警戒の色が浮かんでいる。
燐は、ロリを抱えたまま動けなかった。 魔力は枯渇し、体力も尽きかけている。抵抗など不可能だ。 そして何より、相手は連合軍。帝国から追われる身とはいえ、彼らにとっても自分は「敵兵」でしかない。
(くそっ…帝国軍から逃れたと思ったら、今度は連合軍か…! 最悪だ…)
背後にはヴァルド隊の脅威が迫り、目の前には敵意を剥き出しにした連合軍。 まさに、前門の虎、後門の狼。 状況は、先ほどよりもさらに絶望的になっていた。
軍曹バルカスは、燐の様子――ボロボロの帝国軍服、夥しい傷、極度の消耗――と、彼が必死に庇っている幼女を、冷静に、そして鋭く観察していた。 周囲には激しい戦闘の痕跡。破壊された木々、抉れた地面、そして未だに残る異常な魔力の残滓。ここで尋常でない何かが起こったのは明らかだった。
「ここで何があった? 貴様は帝国兵だな?」 バルカスは、燐の肩に辛うじて残っていた部隊章の意匠を認め、さらに厳しい口調で問い詰める。 「その部隊章は…『時雨』か?」
「時雨」の名が出た瞬間、バルカスの部下たちの間に、僅かな動揺と緊張が走ったのが分かった。連合軍兵士の間でも恐怖と共に知られる、帝国最強のエリート特殊部隊。その生き残りが、なぜこんな場所に? そして、あの幼女は一体何なのだ?
燐は、バルカスの問いにすぐには答えられなかった。 何と答えればいい? 真実を話すわけにはいかない。嘘をついても、すぐに見破られるだろう。 そして何より、消耗しきった身体では、まともに言葉を発することすら億劫だった。
ぐったりとしていたロリが、周囲のただならぬ気配に気づいたのか、僅かに身じろぎし、薄っすらと目を開けた。 そして、見慣れぬ緑の軍服の兵士たちに囲まれている状況に気づき、怯えたように燐の胸に顔をうずめた。
「リン…」
か細い声が、燐の耳に届く。 その声に、燐の中で何かが決まった。 たとえどんな状況であろうと、この子を守る。その一点だけは、揺るがない。
燐は、敵意に満ちた連合兵たちの視線を真っ直ぐに受け止めながら、掠れた声で答えた。
「…そうだ。俺は帝国の兵士だ。だが、今は追われる身だ」
「追われる身だと?」バルカスは訝しげに眉をひそめた。「帝国軍に、か?」
「そうだ」
「理由は?」
「…話せない」
「ほう…」バルカスは腕を組み、探るような視線を燐に向ける。「では、その幼女は何だ? なぜ貴様のような手練れが、そんな子供を連れてこんな場所を彷徨っている?」
燐は言葉に詰まった。 ロリのことを、どう説明すればいい? 古代の洋館で眠っていた、などと話して信じるわけがない。
燐が答えを探している間に、バルカス隊の兵士たちの間で、再び緊張が走った。 「隊長、後方より複数の魔力反応、急速接近中! 数が多い…帝国の本隊と思われます!」
魔力探査を担当していた兵士が、緊迫した声で報告する。 ヴァルド隊が、思ったよりも早く追いついてきたのだ。
「ちぃっ!」バルカスは悪態をつき、即座に部下たちに指示を飛ばす。「全隊、警戒態勢! 敵勢力を確認しろ!」
状況は、さらに悪化していく。 帝国軍に追われ、連合軍に包囲され、そして後方からは再び追手が迫る。
燐はどうすることもできず、ただロリを強く抱きしめた。 その小さな身体の温もりだけが、この絶望的な状況下での、唯一の確かなものだった。
(どうすれば…この状況を…)
厳しい表情で戦況を見つめるバルカス。 迫りくる帝国の脅威。 そして、腕の中で震える、謎多き幼女。
燐の、そしてロリの運命は、完全に他者の手に委ねられようとしていた。




