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第1章-1話「深林の邂逅」

毎日更新するからぜひ見てね!

一人でニヤニヤするだけなのをやめました…

皆さんにもご覧いただける機会に巡り合えたら幸せです!

 闇。


 どこまでも続く、色のない静寂。


 光の届かぬこの場所で、私は、永い、永い眠りに就いていました。かつて『私』であったはずの記憶は、水面に映る月のように朧げで、掴もうとすれば掻き消えてしまう。なぜ、ここにいるのか。それすらも、もう定かではないのです。


 思い出そうとすると、まるで分厚い帳が下りてきて、何か大きな力に思考そのものを邪魔されているような、奇妙な抵抗を感じるだけ。


 ただ、遠い日の残照だけが、微かに意識の底をよぎります。一面に咲き誇る花々。優しい声。暖かな手の感触。遥かな昔、私の世界はきっと、光と色彩に満ちていたのでしょう。


 ……また、眠りに戻るのでしょうか。このまま、何も分からないまま……。


 いいえ、違う。


 何か、変化の兆しが。


 微かな波動が、この永い静寂を揺らしている。外から響く、温かく、そしてどこか痛みを伴うような気配。


 私は、ゆっくりと意識の浮上を感じていました。


 まだ見ぬ目覚めの時を、漠然とした予感の中で待ちながら。


   *   *   *


 じっとりとした湿気が、呼吸をするたびに肺腑に纏わりつく。


 幾年も降り積もった腐葉土の、甘く重い匂い。それに混じる、名状しがたい獣の体臭と、腐敗の臭気。耳には、絶えずどこからか聞こえる、粘つくような這いずる音や、低い唸り声。


 帝国軍の軍服――かつて精鋭と謳われ、敵国に恐怖を植え付けた特殊部隊「時雨」のそれは、今や泥と汗、そして乾いた血で見る影もなく汚れ、所々が擦り切れ、あるいは裂けていた。その黒衣を纏う青年、燐は、重い足を引きずりながら、陽光すら届かぬ木々の間を、ただあてどなく進んでいた。


 左脚に間に合わせに巻かれた包帯は完全に黒ずみ、一歩進むごとに、骨の芯まで響くような鈍い痛みが全身を貫く。彼の顔には極度の疲労が刻まれ、青白い肌には無数の擦り傷。額から流れ落ちた血の跡が、痛々しく残っていた。そして何より、その黒い瞳には、希望の光を失ったかのような、深い絶望の色が浮かんでいた。


 アステリア大戦の停戦から一年。


 大陸には未だ戦火の傷跡が生々しく残り、帝国とリオファル連合の間には、冷たい緊張感が張り詰めている。


 しかし、リンにとって戦争は終わっていなかった。いや、終われない理由があったのだ。帝国から、そして彼自身の血の源流である「一族」から、追われる身となった彼には。


 ここは魔の深林。


 人が足を踏み入れることを畏れ、帝国の国教であるゼーブルン聖王教では不浄の地とされる禁忌の森。強力な魔獣が闊歩し、空間が歪み、一度迷い込めば二度と生きては戻れぬと噂される魔境。


 そんな場所に彼が逃げ込んだのは、執拗な追手の目を逃れるため。そして、ここ以外に行く場所など、もはや彼には残されていなかったからだ。


(……ここまでか)


 ふらつく足取り。霞む視界。


 額の傷から新たに流れ出した血が、汗と混じり目に染みる。


 全身の筋肉が悲鳴を上げ、鉛のような倦怠感が意識を蝕んでいく。数日前、全てを失ったあの光景が、まるで昨日のことのように、悪夢となって蘇る。


   *   *   *


 閃光。轟音。そして、大地を揺るがす地響き。


 古代遺跡「星見の塔」の内部。制御不能となったマナが奔流となって吹き荒れ、壁が崩れ、天井が落ちてくる。


『隊長! ダメです! 制御不能! 塔が崩壊します!』


『撤退だ! 急げ! 脱出ポイントへ!』


 仲間の悲鳴に近い声。飛び交う指示。しかし、その指示自体が既に意味をなさなかった。


 あの作戦は、最初から狂っていたのだ。帝国の、そして恐らくは「一族」の歪んだ野望のために、多くの犠牲を前提とした、非人道的な作戦。それに気づき、抗おうとした時には、もう手遅れだった。


『リン! 何をしている! 命令違反だぞ!』


『ですが! このままでは!』


 爆炎が視界を覆う。衝撃波に吹き飛ばされる仲間たち。


 そして、死の間際に、最後の魔力を「回天」に託し、彼に未来を託そうとした部下の、血塗れの笑顔。


『隊長……どうか、生きて……』


『お前の命、確かに受け継いだ……! 必ず……!』


 そう誓ったはずなのに。


 結局、自分は何も守れなかった。仲間も、正義も、そして自分自身の魂さえも。


 生き残ったのは、この自分だけ。


 なぜ? どうして?


 自責の念と、帝国への、そして自身を縛る血への言いようのない怒りが、彼の心を焼いた。


   *   *   *


 深い森の中、リンはあてどなく歩き続けた。


 仲間たちは誰一人、故郷の土を踏むことすら叶わなかった。自分だけが、生を求めてこの禁忌の森を彷徨っている。それが許されることなのだろうか。


 自責の念が思考を鈍らせる。遠のいていく意識を、頬を強く叩いて無理やり引き戻す。全身が鉛のように重い。額から流れる血と汗が視界を奪う。


(いっそ、このまま……ここで朽ち果てる方が、楽なのではないか……)


 そんな弱音が心を過った、まさにその瞬間。


 鬱蒼と茂る木々の隙間から、僅かな、しかし確かな光が漏れているのに気づいた。


 光? この深林で?


 ありえないはずだ。だが、それは確かに存在していた。


 光があるということは、そこが開けた場所であることを意味する。それは、束の間の安息をもたらす聖域か、それとも、この逃避行の終焉を意味する魔物の巣か。どちらに転ぶにせよ、このまま彷徨い続けても、待つのは緩やかな死だけだ。


 リンは、最後の希望に賭け、震える脚に力を込めて、光の差す方へと進んだ。


 草木を掻き分け、視界が開けた瞬間、リンは息を呑んだ。そこは、信じ難いほど幻想的な光景だった。


 一面に咲き誇る、青紫色のあやめの花畑。


 まるで自ら発光しているかのように、淡い光を帯びて微かな風に揺れている。花の放つ甘く清浄な香りが、森の淀んだ空気を浄化しているかのようだ。


 そして、その花畑の奥に、古びた西洋式の館が、周囲の闇とは対照的に、ぼんやりと輪郭を浮かび上がらせて佇んでいた。


 蔦に覆われ、左翼部分は無残に崩れ落ち、二階の床も抜け落ちている。


 だが、その壮麗な石造りの意匠、精緻な彫刻が施された窓枠は、この館がかつて相当な威容を誇っていたことを雄弁に物語っていた。館の前には、今は水も涸れた大きな噴水の残骸があり、その中心に立つ水瓶を持った女神像は、頭部が欠け落ちている。数百年、いや、千年以上の時が、この場所にだけ静かに流れ、堆積しているかのようだ。


 そして何より奇妙なのは、館の右翼部分だった。


 まるで時が止まったかのように、一切の風化を免れ、建てられた当初の優美な姿を保っているのだ。そこだけが、異なる時間の中に存在しているかのようだった。


 周囲には、魔物の気配も、その痕跡すらもない。


(古代の……結界か? )


 理由は分からない。だが、ここは安全な場所かもしれない。


 少なくとも、追手の目からは逃れられるだろう。


 満身創痍の身体を引きずり、リンはふらつきながらも洋館へと向かった。


 重厚な正面の扉は、意外にも軽い抵抗で内側へ開いた。


 埃と、僅かな黴の匂い。そして、微かに花の香りが混じった、不思議な空気。


 広々としたホール。右手の壁際に、豪奢だが埃にまみれたソファが辛うじて形を保っているのを見つけ、リンはそこに崩れるように身を沈めた。


(少し、休むだけなら……大丈夫だろう……)


 これまでの緊張と疲労が一気に押し寄せる。


 深い、深い安堵感と共に、リンの意識は急速に闇へと沈んでいった。


   *   *   *


 目覚めは、不意だった。


 瞼を刺す、鋭い光。そして、頭の芯を鈍く打つ痛み。


 リンは呻き声を漏らしながら、額を押さえてゆっくりと身を起こした。


 身体の節々が軋むように痛むが、眠る前よりはいくらかマシになっていた。


 どれくらい眠っていたのだろうか。崩れた天井の穴から差し込む陽光が、床に埃の粒子をきらきらと踊らせている。昼頃のようだ。



 水を飲み、乾いた喉を潤すと、思考が少しずつ鮮明になってくる。改めて館を見渡すと、やはりその異様さが際立っていた。光が差し込むホール左翼側は崩落し、無残な姿を晒している。


 だが、自分がいる右翼側は、壁も、床も、そして置かれている調度品も、まるで昨日まで人が住んでいたかのように、ほとんど劣化していない。真新しさすら感じるほどだ。


(やはり、強力な保存術式がかかっている……それも、館の半分だけに? 一体、誰が、何のために……?)


 好奇心と、そして何か得体の知れない、しかし抗いがたい予感に導かれるように、リンは立ち上がり、ホール中央にある大階段へと足を向けた。


 二階へ上がる。右翼側の廊下を進むと、左右に並ぶ部屋の扉はどれも閉じられている。いくつかの部屋を覗いてみたが、どこも同じように、埃一つなく清潔に保たれ、まるで主の帰りを今か今かと待っているかのように、華美な調度品が整然と並べられていた。時が止まったかのような静寂。


 そして、廊下の突き当たり。


 そこには、他の扉とは明らかに意匠の異なる、一際壮麗な両開きの扉があった。


 扉全体に、あやめの花を象った精緻な彫刻が施されている。その上から磨かれた透き硝子が嵌め込まれており、硝子の内側から、淡く、しかし確かに脈打つような紫色の魔力の光が漏れ出ていた。


 光を受けて浮かび上がる花の紋様が、妖しいまでに美しい。


(封印……? ここが一番強固な術式が展開されているな……)


 扉にそっと手を触れると、ビリビリとした強い抵抗感と共に、複雑に絡み合った術式の奔流を感じ取った。


 それは近代の魔術理論では解析が困難な、極めて古い形式。そして何より、強大だ。


 燐は、自身の内に眠る、感覚を呼び覚ました。


 魔導結晶を介した演算とは違う、脳の奥で直接的に術式の構造を「理解」し、その「鍵」を探り出すような感覚。


 彼は、僅かな魔力と、残された全ての精神力を指先に集中させた。


 彼の得意とする、封印魔術。力ではなく、術式の理を解き、最小限の力で内側から解錠する。


 指先から放たれた微細な魔力の糸が、紫の光を放つ術式の隙間を縫うように浸透していく。


 彼の瞳の奥に、淡い紫電のような、複雑な紋様が一瞬、揺らめいた。


 複雑怪奇な術式構造が、まるで設計図のように彼の脳裏に展開され、そして、その核心部、「鍵」となる一点が、閃きのように示される。


(ここだ…!)


 彼は、その一点に、全ての意識と、僅かな魔力、そして精神力を注ぎ込んだ。


 カチリ、と小さく、しかし澄んだ金属音が響いた。


 同時に、扉から放たれていた紫の光が急速に失われ、ビリビリとした抵抗感も霧散する。


 封印が、解かれた。


 ただし、それは本来の強度ではなかったのかもしれない。長い年月の経過か、この強力な封印にも、僅かな綻びが生じていたのかもしれない。


「……開いた、か」


 息をのみ、燐はゆっくりと扉を押し開けた。


 光が差し込み、部屋の内部を照らし出す。


 他の部屋よりもさらに豪華で、質の高い調度品が設えられている。だが、どこか違う。整然とした中に、微かな、しかし確かな「誰か」の気配が残っていた。


 本棚から一冊だけ飛び出したままの本。書き物机の上に置かれた、インク壺と羽根ペン。まるで、つい先ほどまで誰かがこの部屋で過ごしていたかのようだ。


 そして、部屋の中央。


 天蓋付きの大きなベッド。濃紺のベルベットと思しきカーテンが、重々しく閉じられている。


 その向こうに、誰かがいる。


 リンはそう確信し、音を立てないようにベッドへと近づいた。


 唾を飲み込み、震える指でカーテンの端を掴む。


 そして、意を決して、一気に開け放った。


 息を、呑んだ。

 時が、止まった。


 そこに、一人の幼女が眠っていた。


 淡い、淡い銀色の髪が、絹の波のようにシーツの上に広がっている。光を柔らかく反射し、まるで月光そのものを紡いだかのようだ。


 純白の、フリルのついたネグリジェに包まれた肌は、人間離れした透明感を持ち、まるで磨き上げられた磁器のよう。


 閉じた瞼の下で、人形のように長い睫毛が、安らかな寝顔に繊細な影を落としていた。


 小さな手足をきゅっと身体に寄せ、健やかな寝息を立てている。



 あまりの美しさに、神聖さに、リンは呼吸をすることさえ忘れていた。


 脳が、思考することを放棄したかのようだ。


 これが、人間?


 いや、もはや、そのような次元の存在ではない。


 時の中で結晶化した美そのもの。触れることすら冒涜であるかのような、完全なる存在。


(……触れたい)


 抗いがたい衝動が、心の奥底から湧き上がってきた。


 この穢れなき存在に触れることができたなら、きっと自分は……。


 だが同時に、強い躊躇いがリンを縛る。大戦の血と硝煙に塗れた、汚れた自分が、この清浄な光に触れて良いはずがない。この輝きを、僅かでも曇らせてしまうことへの、根源的な恐怖。


 それでも、目は離せなかった。


 この幼女を見ているだけで、戦場で負った深い傷も、仲間を失った心の痛みすら、不思議と和らいでいくような感覚があった。


 彼女の美しさに心を奪われ、傍らに腰を下ろし、ただ見つめ続けているうちに、極度の疲労と、そして彼女の放つ不思議な安堵感から、リンの意識が一瞬、深く飲まれた。



 どれほどの時間、気を失っていたのだろうか。


 すぐそばで感じた微かな気配に、彼ははっと目を覚ます。


(……!)


 目の前にあったのは、吸い込まれそうなほど深く、そして澄み切った青藍の双眸。縹を淡く滲ませたような、不思議な色の瞳。


 その瞳が、純粋な好奇心をもって、じっとこちらを見つめていた。


 白い肌、銀の髪。


 眠っていたはずの幼女が、いつの間にかすぐそばまで顔を寄せて、リンの顔を覗き込んでいたのだ。


「うぉっ!?」


 あまりの近さと、その非現実的な美貌への驚きに、リンは反射的に飛び起きた。


 ゴツンッ!


「……っふぅ!」


 鈍い音。そして、小さな、可愛らしい悲鳴。

 見事に、リンの額が、覗き込んでいた幼女の小さな鼻にクリーンヒットしたらしい。


 幼女は小さなお手々で鼻を押さえ、俯いて足をぱたぱたさせている。

 その仕草は、いじらしくもあり、妙に愛らしくもある。目尻には、みるみるうちに涙が浮かんでいた。


(やっちまった……!)


 先ほどの神聖な気持ちはどこへやら、燐は強烈な罪悪感と、場違いなほどの混乱に襲われた。


「ご、ごめん! 大丈夫か!?」


 慌てて声をかけるが、幼女は「ふぐぅ……」と鼻声で呻くだけで、よく聞き取れない。


「ちょ、ちょっと見せてごらん? 治癒術式が使える。少しは痛みを和らげられるはずだ」


 燐が言うと、幼女は恐る恐る、といった様子で顔を上げた。

 赤くなった小さな鼻を押さえていた手をゆっくりと離し、潤んだ青藍の瞳でこちらを見上げてくる。

 その上目遣いの破壊力たるや。燐は不覚にも、心臓が大きく跳ねるのを感じた。


(……ぐっ……!)


 平静を装い、リンはその小さな頭に手を伸ばし、優しく撫でた。

 そして、そのまま頬に手を滑らせる。きめ細かく、少しひんやりとした、極上の感触。


「……これで、少しは痛みも和らぐだろう」


 口実にしながら、リンは簡単な治癒術式に意識を向け、僅かに回復した魔力を慎重に魔導結晶へと流した。腕の結晶体が微かに応答し、淡い緑色の光が彼の指先からその小さなお鼻へと注がれる。


「……はい。ありがとうございます」


 俯きがちに礼を言うと、幼女はベッドの端にちょこんと座り直し、両手を膝の上に置いた。純白のネグリジェの裾を、小さな手でぎゅっと握りしめている。


 その声は、やはり見た目の幼さとは裏腹に、凛として落ち着いていた。どこか、永い時を経たかのような、不思議な響き。


 治癒魔術を受けて痛みが和らいだのか、彼女はぎゅっと掴んだ裾をゆっくり離した。それを見て燐はベッドから降り、彼女の前にしゃがみこんだ。


「よかった。ちょっとは痛みが和らいだみたいだな」


 そう言って、再び頬に手を伸ばし、親指で涙の跡をそっと拭う。

 幼女は驚いたように僅かに身じろぎしたが、今度は避けようとはしなかった。


「それで……君はずっとここに一人で?」


 改めて尋ねると、幼女は真っ直ぐに燐を見据えた。


 その瞳には、もはや涙の色はなく、深い叡智と、どこか寂寥感を湛えた光が宿っていた。


「私は、ここに永く閉じ込められていました。暗く、時の流れさえ曖昧なこの部屋で、独りきりで」


 その語り口は、やはり落ち着いていて、静かで、淡々としている。


 彼女は僅かに顔を伏せる。その横顔は、まるで精巧な人形のようだ。


「……おぼろげに頭に浮かぶ情景には、人々から敵意を向けられた恐ろしい視線……。それ以外のことは、思い出そうとしても、何か大きな力に邪魔をされて……」


 最後の言葉は、彼女自身の戸惑いからか、僅かに声が震えていた。


 少女は再び顔を上げ、リンの目を真っ直ぐに見つめた。

 その瞳の奥には、計り知れないほどの孤独と悲しみ、そして自身の存在への深い問いが揺らめいているように見えた。


「あなたは……私が、恐ろしくはありませんか?」


 その問いは、静かだったが、リンの心の奥深くまで届いた。

 リンは、迷わず首を横に振った。


「恐ろしい? まさか」


 彼は、その小さな身体に宿る計り知れないものを感じながらも、はっきりと答えた。


「守りたいものを守れない事だけが、俺は一番恐ろしい……」


 そして、彼はそっと付け加えた。その瞳に、強い意志の光を宿して。


「それに……どんな理由があったにせよ、君を一人で閉じ込めておくなんて、そいつらの方がよほどどうかしている」


 リンの真っ直ぐな言葉に、幼女の青藍の瞳が、僅かに、しかし確かに見開かれた。


 驚き、戸惑い、そして……ほんの少しの安堵。


 様々な感情がその瞳をよぎり、やがて、ふわりと、あやめの花が夜露を受けて静かに綻ぶような、微かな、微かな笑みが、彼女の唇に浮かんだ。


「……そう、ですか」


 その儚い笑顔に、リンはまたしても心を強く奪われた。

 守らなければならない。この存在を、何があっても。

 彼の決意は、確固たるものになっていた。


 窓から差し込む光が、いつの間にか壁を茜色に染めている。

 日は傾き、再び夜が近づいていた。


 帝国から追われる傷ついた元兵士と、永い眠りから覚めた謎多き幼女。

 禁忌の森の奥深く、忘れられた洋館での奇妙な出会いは、戦後の傷跡が残る世界で、新たな物語の始まりを、静かに告げていた。

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