口裂け女さんを美容整形外科に連れて行ってみた
夕暮れも終わりに近い時刻。少し長めのコートを着た女が歩いていた。ヒールの先だけが僅かにコートの裾から見え隠れしていた。
大きめのマスクと少し濁った目が、虚ろに前を見据えている。
自転車に跨がりパトロールをしていた警察官が、不審に思い声を掛ける。
「Hey彼女! はうどぅゆーどぅいえすたでぇ?」
女は無言で振り向いた。
爽やかな柑橘系の香水が、警察官の鼻腔を微かに刺激する。
いける。警察官は自転車から降りて話を聞くことにした。
「ちょっとお話良いですかね?」
女の濁った目が警察官を捉える。
ロングコートの中を想像して期待が高まる警察官は、この時既に警戒心を失っていた。ただのスケベだ。
「……わたし、きれい?」
「あーはいはい。続きはホテルかな? 本官は一向に構いませんぞ」
脳髄まで真っピンクなスケベポリスは、頭の中で財布の中身を確認する。
給料日前だがギリギリいけるだろう。笑顔で「いぇす!」とこたえた。
スケベ染みた顔が緩みきっている。
「……これでも?」
外されたマスクの下から現れたのは、耳元まで大きくで裂けた口。都市伝説として有名な口裂け女だ!
それを見た警察官は、ぎょっとして頭に咲いたホテルの夢が一瞬で吹き飛んだ。
「怪我してるじゃないか!! これはいかん! 直ぐに医者へ行こう!!」
「……!?」
警察官は女の口を見るなり、慌てて女の背中を押し始めた。
「直ぐそこに知り合いのやっている美容整形外科がある! 診て貰おう!」
「えっ!? あ、あの──」
もしかしてこのスケベポリスは口裂け女もいけるのか?
そんな戸惑いの顔をする口裂け女。
ぐいぐいと背中を押されて、あっという間に美容整形外科の前へと連れてかれてしまった。
「さ、入って入って。汚いけれど自分の家だと思ってさ」
淡いパステルカラーの受付窓口が目に入る。
警察官が「先生は居るかな?」と聞くと、奥から一人の女性が現れた。
白衣に長い髪がよく似合っており、室内にかかわらずヒールを履いていた。
「うわっ! インチキ警察官がまた来たわね? 今度は何用?」
思い切り疑いの眼差しを向けながらも、警察官の後ろで終始しどろもどろしているマスク姿の女を見て、白衣の女は「中へどうぞ」と促した。
「本官も付き添うぞ」
「当たり前よ。いきなり来て説明も無しに放り投げたら許さないわよ?」
一般的な診察室のような個室に通された二人。
小さな椅子に座った女が、ゆっくりとマスクを外す。
マスクの下を見た女医は、眉一つ動かさずに患部をじっくりと観察した。
「治してくれ」
「うーん……」
女医は難しそうな声を出した。
口裂け女が「何処で診て貰っても無理と言われて……」と、半ば諦めた顔をした。
「この先生はな、顔で虐められていた俺の妹の手術をしてくれたんだ。妹はクレオパトラになりたいと常に涙していた」
「ふふ、そうね」
女医がカルテをいじり始めた。
太いボールペンでさらさらと本人にしか読めない文字を書き綴る。
「そしたら失敗しやがった」
口裂け女の顔が途端に暗くなった。
「失礼ね」と女医が異を唱える。
「マリリン・モンローにしやがったんだ」
「だってクレオパトラの顔なんて知らないんだから仕方ないでしょ!?」
警察官が整形後の写真を取り出すと、そこには確かにマリリン・モンローが居た。隣には酒をかっ食らう警察官の姿も。
二人のやり取りに、口裂け女は微笑した。
穏やかな笑い方だった。
「成功率98%。残りの2%はコイツが責任を取るから気にしなくていいわよ?」
「なっ! 本官に何をせよというのだ!?」
「失敗したらお嫁さんにしなさい」
「──!?」
警察官がたじろいだ。
本人の意思もあるだろうに、そんな話を急に振った女医に向かって目を丸くする。
「そうよ、ココへ連れてきたのはあなたの責任。だから失敗したらお金もあなたが払うのよ? 貴女、仕事は?」
口裂け女が静かに首を振った。
その顔を見て雇ってくれる会社なんか一つも無い。
無情な現実に、警察官は少し悲しい顔を見せた。
「分かった。本官が責任を取ろう」
「決まりね。決行は明後日」
「早いな」
「善は急げ。この後詳細を詰めるから、あなたはいい加減仕事に戻ったら?」
「あ、ああ」
口裂け女に手を振り、警察官が辞去した。
姿が完全に見えなくなった頃合いを見計らい、女医が口裂け女に顔を近付ける。
「滅茶苦茶だけど、悪い奴じゃないから」
「え、ええ」
口裂け女は大きく頷いた。
「人を見る目はあるわ。そして責任感も強い。きっと今頃貴女の働き口を探してるわよ?」
口裂け女の目の奥が潤んだような気がした。
静かに「ありがとうございます」とこたえたその顔には、決意が滲んでいた。
「いるかー?」
勤務を終えた警察官は、駅前にある小さなビルの二階、その奥まった所にあるドアを開けた。
ドアには可愛らしいぬいぐるみがぶら下がっており、『スナック モンロー』と看板が出ている。
警察官が店内へと入ると、酒と女に酔った客が数人大きな口を開けて笑っており、キャストと良い時間を過ごしていた。勤務時間を終え、ダサいシャツの男を誰もが警察官だと思わず、男が奥へと向かうとマリリン・モンローと瓜二つな女性がパスタを茹でているのが見えた。
その間、誰もが男に声を掛けることはない。その男の素性と目的は既に周知の事だからだ。
「あ、お兄ちゃん」
「よう」
少し訳あり顔で手を上げる男に、マリリン・モンロー似の女──桜が何かを察知した。
「一杯どう?」と空のグラスを向ける。
男が「いくらだ?」と問うと「二万」と桜。
「兄からボるな」と笑い飛ばし、男はすっと顔色を変えて本題に入った。
「一人雇って欲しい子がいる」
「いいよ」
桜はにこりと笑い、パスタを盛り付ける。
「今まで何回かそういう事あったけれど、皆訳ありだったじゃん? でも、みんな良い子だった」
「すまんな」
桜がすっとパスタを盛り付けた皿を男へと差し出した。
「くれるのか?」
「三番テーブル」
俺が運んでいいのか?
男は満面の笑みでテーブルへとパスタを運んだ。
ウイスキーをグラスで飲んでいた男が、不思議そうな顔で男を見たが、すぐにその視線はキャストへと戻された。
男は挨拶も無しに店を後にした。
「さて、いよいよだね」
簡素な部屋、最新式の医療器具が所狭しと並んでいる。
手術用の簡易服に着替えた口裂け女が、手術台の上に寝そべって、緊張した面持ちで女医を見た。
入念な打ち合わせとカウンセリング。既に信頼関係は築かれた。後は明るい未来に向かって祈るだけだった。
「そうそう、貴女の就職先が見付かったそうよ?」
「え?」
「あの胡散臭い警察官の妹が働くスナックよ。時給2000円からスタート。勿論貴女の詳しい事情は妹さんすら知らないわ。でも歓迎するって」
「あ、ありがとうございます……!」
口裂け女の顔を涙が横切った。
女医がそっと涙を拭うと、タオルが目に被せられ、口に呼吸器が付けられた。呼気ガスによる全身麻酔である。
「終わったらまず何がしたい?」
「あの人にお礼を……」
「そうね。とびっきりのお礼をしてあげなさいな」
「は、い」
口裂け女の意識が途絶えた──。
三ヶ月後、スナックモンローに新たなキャストが増えた。
魅力的な明るい笑顔が特徴的な女の子だ。
術後とは思えない自然な口。
彼女は笑うことに何ら躊躇いを見せなかった。
「やあ」
「あ、お巡りさん」
ダサいシャツの男が店に顔を出すと、いの一番で彼女が出迎えた。
腕にしがみ付き、ぐいぐいと席へ案内する強引さを見せ、すぐに酒を注いだ。
「本当にありがとうございました。私幸せです」
「そうかそうか」
桜が店の奥から男にピースサインを送った。どうやら彼女は順調に働いているらしい。
「あ、今日は私シチュー作ったんですよ。どうですか?」
「お、本官ちとシチューにはうるさいぞ?」
ビールとシチューをご馳走になり、少し話をしたところで男は帰りを告げた。
「また来るよ」
「是非お願いします」
そっと伝票が渡される。
ご馳走ちゃうんかい、と心の中で呟いたがそれすらも消し飛ぶ光景が目に飛び込んだ。
──御会計 23,000円
「!?」
「ふふ、また来て下さいね」
腕にしがみ付かれ、男は財布の紐を解かざるを得なくなった。
店を出た男の背中が妙にすすけて見えた。
「私、いっぱい働いて必ずあなたにもう一度お礼を……。その時はこの想いも……必ず」
男の姿が見えなくなると、彼女は通りすがりのサラリーマン二人に声を掛け、店の中へと案内した。