5話 月の王
結婚を一年後に控えた身として、婚約者との交流は何よりの優先事項。三日に一度はお互いの家を行き来して、今日はエリゼがディルクの家に行く番だった。
そんなある日のこと。
「ディルク様って、格好いいですよねぇ……」
「えー、そう?私はやっぱりイケメンがいいけどなぁ。そりゃああの竜からエリゼお嬢様を守ったのは凄いけど、最初見た時は暗くてパッとしない感じだったし」
「そこがいいんじゃないですかぁ!頼りなさそうな人だと思いきやあの指揮能力!早撃ち!竜なんて凄い存在相手に!」
「ちょっとちょっと、惚れちゃ駄目よ?お嬢様の婚約者なんだから——」
恐れていたことが起こった。
一日の終わり、ディルクの家から帰ってきて、エリゼが自分の部屋に戻ろうとした時であった。
厨房から彼の名を呼ぶ声がして、思わず近づいてしまった。
「でもぉ、あの竜達は私達には容赦がなくて恐ろしいですけど、エリゼお嬢様のことは愛してるんですよね?お嬢様がいつか彼らを選ぶことはあり得るかもですよぉ」
「まあそれは確かにね。私だってあんなイケメンが私だけを愛してくれるって来てくれたら喜んでついていくもの」
「ですよね!やっぱりエリゼお嬢様なら竜との方が美男美女でお似合いですしぃ。だからもしエリゼお嬢様がディルク様をフることがあれば、私にもチャンスが」
カチャカチャと食器が擦れる音と楽しげな話し声。皿洗いをしながらメイド達がお喋りをしてるのだろう。どちらも声は若いが片方が敬語ということは、敬語の方は最近入ってきたばかりの新人か。ただこの気安さからするともう一人の方も新人かもしれない。先に入った新人が後から入った新人のお世話をしているといったところだろうか。
「うーん、たとえそうなったとして……あんなに綺麗な貴族のお嬢様を婚約者に持ってた人が、ただの平民のメイドで満足できるかしら?」
「美人は三日で飽きるって言いますしぃ。女の方が身分が高いと気後れするとこもあるじゃないですか〜。平民メイドは平民メイドの良さがありますよぉ、ほら、物語でも王子様が選ぶのは高慢な悪役のお嬢様より健気な村娘でしょう?」
厨房の扉を開け放とうとしたエリゼの手がピタリと止まる。今ここで『あなたなんかに彼は渡さないわ』と乗り込むのはまさにその高慢な悪役のお嬢様ではなかろうか。
いや、でも実際ディルクの婚約者はエリゼであるし、世界一格好良い彼の隣に並ぶ者として、文句無しに美少女である自分が一番相応しいだろうという自負もある。それくらい言う資格はあるのでは。
「まあねぇ。いくら美人でも、自分のことを美人だとわかってるような女は男受け悪いもの。普通が一番とも言うし」
そう、そんな牽制をする資格くらいはあるが、しかし。
「そうそう!なんだかんだ言って結婚するなら謙虚で素朴な女の子の方ですよぉ!」
謙虚。素朴。普通が一番。
ちょっとエリゼの辞書には載ってなかったワードの出現に、たった今言い放とうとした言葉を飲み込みエリゼは身を翻した。
◆◆◆
「だからもし他の女の子に言い寄られても絶対断ってねディル!」
「はいはい、そんな心配しなくても大丈夫だって」
エリゼの話を聞き終わり、ディルクはほっと胸を撫で下ろした。今日の夕方にハルフォード家に帰ったはずのエリゼが猛スピードで戻ってきて、てっきりまた厄介な求婚者から逃げてきたのかと思ったのだ。
「俺がそんなにモテるわけないだろ?婚約者がいても他の誰かに言い寄られるような大した男じゃない、安心しろ」
「全然!全っ然!安心できない!」
家に帰ったら、厨房で新人メイドの二人が『ディルク様超格好良い、世界一イケメン、結婚したい』と盛り上がって話していたのを聞いたのだと言うエリゼ。
おそらく九割増しくらいに脚色されている。世界一イケメンとか絶対に言ってない。二人共ディルクを格好良いと言っていたというのももう怪しい。せいぜい一人がディルクを何かしら顔以外でプラス評価し、もう一人がちょっと話を合わせたとかその程度だろう。
「落ち着けエリゼ。それよりこっちに戻ってくる時は何もなかったか?夜道は危ないからなるべく外に出るなっていつも言ってるだろ?」
そんなことより今はこんな夜にエリゼが外を出歩いてしまったことの方が問題である。今夜はとても月が綺麗なのだ。雲一つない一面の黒に浮かぶ月。道行く人が思わず空を見上げて帰りそうな夜。……人ならざる者達も好みそうな夜。
「大丈夫よ、行きも帰りも馬車だもの。道も月の光のおかげで夜とは思えないくらい明るかったわ。呑気に月を見上げる余裕はなかったけど」
「そうか……」
エリゼの言うとおり、本当に月の綺麗な夜である。今ディルク達がいる部屋も照明器具による光だけでなく、窓から煌々と差し込む月の光のおかげでとても明るい。
「エリゼ、こっちに」
「え?なあに?」
どんどん強くなっていく月光を避け、ディルクが壁際にエリゼを誘導する。
視界の隅では窓を抜けて床に落ちる月の光が一層輝き、きらきらと人型を描くように舞っている。
まあ、これは案の定。
「ついてきたみたいだ」
そう言ってディルクが振り返ると。その人の形を取っていた光は、白銀の髪と黄金の瞳を持つ美しい男へと姿を変えていた。
『……我は月の王。千年の時を経り、我が花嫁を迎えに参っ』
しかしそんな登場台詞を聞き終わる前に壁に設置したカーテン開閉スイッチを勢いよく叩き、窓の遮光カーテンを下ろして月光補給線を断つ。
「消えろ不法侵入ロリコンストーカー!!」
続いて旧文明の遺産にして対光属性用武器、光吸収率99.9%以上を誇る素材ベンタブラックでコーティングした巨大ハエ叩きを振り上げ、その光り輝く侵入者を叩き潰したのだった。
◆◆◆
「いいかエリゼ、月が綺麗な夜と新月の夜と嵐の夜は絶対に家から出るな」
「……わかった……」
「怒ってるわけじゃないんだ。エリゼに危険な目に遭ってほしくない。いつでも俺が側にいれるわけじゃないだろ?」
「うん……」
さっきまでの勢いはどこへやら、すっかり落ち込んでしまったエリゼを慰めてソファへと座らせる。
「……ごめんなさい、迷惑かけて」
ちなみにこのソファは先日の事件を機に持ち込んだものである。また並んで座れるところがないからベッドに座ろうと言われることのないように。
「迷惑なわけない。婚約者から頼られて嬉しくない男がいるかよ」
正直なことを言えば、エリゼがその新人メイド達の話を聞いて飛んできてくれたこと自体はディルクは嬉しかった。
恋敵の出現に焦って取るものも取らず夜道を駆けてくるくらい、こちらを好いてくれているということである。
ただ、それでエリゼが危険に晒されてしまうなら喜んでいられないというだけで。
「……ディルは、高慢な悪役のお嬢様と素朴で可愛い村娘だったらどっちが好き?」
「うん?」
突然の二択問題。今そんな話だったかとディルクが首を傾げる。
「彼女達が言ってたの。王子様が最後に選ぶのは美人のお嬢様じゃなくて、素朴で謙虚な村娘だって」
「なるほど」
いつもは『どんな恋敵が来ようと私が一番可愛いでしょ』と言って憚らないエリゼが、ここに来てから一度もそれを口にしなかった理由が今判明した。
「俺は王子じゃないからな」
「身分の話じゃないの!私にとっては王子様だもの!」
おかしいと思ったのだ。いつものエリゼだったら、その新人メイドより自分の方が可愛いだろうとまず確認してきたはずなのに。
「俺は、エリゼが自分のことを可愛いって言うのを聞くのが好きだ」
「えっ」
いつものようにそう訊かれたら勿論肯定する気だった。だって本当のことだ。エリゼは可愛い、世界一可愛い。
「エリゼが『私が一番可愛いでしょ』って言う度に、ああその通りだな、俺の婚約者は世界一可愛いって噛みしめられる」
謙虚がどうした。単なる事実だ。こんな当たり前のことを認めずにいろなど土台無理な話である。
「まあその度にそれに比べて俺はって思い知るのも確かだけど……」
「ディルだって世界一格好良いわ!当たり前じゃない!」
「当たり前じゃあないんだなこれが」
ただの暗くて冴えない男では釣り合わないのも単なる事実。こんな当たり前のことを認めないのも土台無理な話である。
「ううん……やっぱり謙虚ってそんなにいいものじゃないかもしれないわ……ディルの謙虚は謙虚を通り越して嫌味になるくらいだもの……」
「はいはい」
エリゼは本当にディルクのことを世界一格好良いと思っている。ディルクとてそれはわかる。話を合わせようと思えば合わせられないことはないが、エリゼに嘘をつくことになるのは嫌だった。
いつかちゃんと心から自分のことを格好良いと思える日が来たら……もし来たら……来るだろうかいつかは……。
「ところでエリゼ、もう今から帰るのは危ないだろ。泊まってけよ」
「!」
まあ生産性のないことをいつまでも考えていても仕方ない。そんなことより今はこんな時間に戻って来てしまったエリゼをどうするかが問題である。勿論このまま帰すわけにはいかないので、泊まらせることは確定であるが。
「うん!泊まってく!ありがとうディル!」
もし猫の尻尾がついていればピーンと立っていたことだろう。エリゼがそれはもうあからさまに顔を輝かせた。元気になったなら何よりである。
「寝巻きは俺のを貸すから。ちょっと大きいだろうけど我慢してくれ」
「うんうんっ!うんっ!」
元気になったなら何よりである。ほんの少し前まで随分落ち込んでいたようだから。
「えへへ、ねぇ、ディル、今日、お義母様とお義父様は……」
「……旅行で居ない」
昼間にした問答をもう一度繰り返す。ディルクの両親の居る場所はだいたい二択である。仕事先か旅行先。
勿論そんなに家を空けるからと言って愛情が薄いわけではない。もう子供でもないし、そのことに不満を覚えたことはないけれど。
「エリゼはあまり使われてない客室で寝るのは苦手だったよな。俺の部屋使っていいぞ」
「うん!!」
だがしかし今日だけは。今日だけは父か母のどっちかだけでもいてほしかったと切実に思った。
「お風呂も借りていい?入らないまま来ちゃったの。ちょっと時間かかるかもしれないけど待っててね?」
「ああ」
途端にそわそわと髪を弄りだしたエリゼ。彼女が何を期待しているかわからない程ディルクも鈍感ではない。
「じゃあ俺は隣の部屋で寝るから何かあったらこのブザーで呼んでくれ。すぐ駆けつけるから」
「……え」
そんなエリゼに紐を引けば大音量で鳴るブザーを手渡して、足早に部屋を出ようとしたところで。
「やだーー!!じゃあ私も隣の部屋で寝るーー!!」
「それじゃ意味ないだろ!ちゃんと大人しくここで寝なさい!」
「こっちの台詞ーーー!」
案の定腰に飛びつかれひっつき虫がごとく離れてくれず、説得に小一時間かかったのであった。
感想もらえたらとても嬉しいです。何よりの燃料です。