2話 闇と光の花嫁
エリゼが眠りから目を覚ますと、そこは自室ではなかった。
「ここは……?」
見たことのない天井。いや、天井ではなかった。天蓋だ。高過ぎて一瞬天井と見紛った。エリゼの自室のベッドに天蓋は付いていない。ということはこのベッドはエリゼのものではない。
「目覚めたか。我が花嫁よ」
「え?」
どうしてだろう。今日は窓から入る風が気持ち良かったから、ちょっとお昼寝をしようとベッドに横になったところまでは覚えているのに——そうぼんやりと考えていたところで、不意にかけられた声にエリゼは一気に覚醒した。
「誰!?」
「案ずるな。危害を加えるつもりはない。私はそなたのつがい……そしてそなたは私のつがい。竜族の言い伝えは聞いたことがあろう?」
声をした方を振り返ると、そこには知らない男がいた。腰まで伸びた癖一つない銀の髪。鋭い金の瞳。すっと通った鼻筋に石膏のような額、彫りが深く鋭利な輪郭の、どこか人間離れした雰囲気を持つ男。
「突然のことで混乱しているだろう。しかしこれ以上は待てなかったのだ……我が唯一のつがいよ」
「……いやっ!離して!」
「それはできない相談だ」
穏やかな、しかし有無を言わせない笑みを浮かべ、男がエリゼの手を取る。エリゼが驚いて手を引くも、それはびくともしなかった。
「つがいとは、魂の半身なのだ。我らは二人で一つ。互い無しでは生きていけない——」
エリゼの手を掴んだまま、ベッドに乗り上げてくる男。その絹糸のような銀の髪がシーツに影を落とす。
「これからは存分に可愛がってやる、我がつがいよ」
「近づかないで!これ以上来るなら考えがあるわよ!」
「ふっ、じゃじゃ馬なつがいだ。心配せずとも閨は婚姻の儀を済ませてからにするとも……しかし、こうも待たされたのだ。味見くらいは許され……ぎゃああああっ!!?」
男の金の両の瞳に見据えられた、その時。エリゼは掴まれていない片方の手で寝巻きのポケットからスプレーを取り出し、目の前の顔に思い切り吹きかけた。
「目がっ!目がぁああああああ!!」
「唐辛子スプレーよ!次こっち来たら原液塗りこんでやるから!」
こんなこともあろうかと、護身用に常にこういうものを持っているのだ。それがたとえ家の中であっても。
『目だ。目を潰せ。どんな生物でも目は鍛えようがない』
心配症な婚約者の言葉が蘇る。このスプレーも、非力なエリゼでも簡単に使えて攻撃力もあるものをと婚約者がプレゼントしてくれたものだ。
「くっ、何故だ、何故拒む、そなたは私のつがいなのだぞ……!」
「そんなこと知らないわ!」
反撃などまったく予想していなかったのだろう。酷く混乱した声を出しながら男が悶え苦しむ。
だが当然の報いである。その“つがい”とやらをどれだけ盲信しているのか知らないが、エリゼにはもう既に心に決めた人がいる。
——ドォォォン、ドォォォン。
「ぐっ、な、何の音だ!」
「!」
突如、地の底から響き渡るような爆発音と共にベッドが揺れた。
いまだ視界の自由が効かない男は更に混乱したように身を震わせたが、エリゼにはわかる。
「馬鹿な……侵入者か?城の周りには幻術魔法をかけているはず……っ辿り着けるわけが……うぎゃああああ!」
男がうっすらと目を開けたところですかさず追加の唐辛子スプレーをお見舞いする。回復させてたまるか。
「目がぁあああああ!」
誰かが駆けてくる足音がする。侵入者が近づいて来る。
最後にガキンと金属の割れる音がして、何者かが扉を蹴破り突入してきた。
「悪い、エリゼ、遅くなった!」
「ディル!待ってたわ!」
電動ドリルを両手に携えて現れた侵入者——婚約者に向かい、エリゼは両手を広げて駆け寄った。
◆◆◆
「……なんてこともあったなあ」
「そんなほのぼのした顔で思い出すことじゃないなぁ」
少し色褪せた電動ドリルを指でなぞり、エリゼが懐かしさを抱きながら呟く。そのオレンジの塗料はところどころくすんでしまったが、思い出は色褪せない。
「3年前だったかしら」
「ああ、14の夏だった」
この電動ドリルであの部屋の扉にかかっていた南京錠を断ち切り、助けに来てくれたのだ。今隣でドリルの替え刃をチェックしている彼が。
「あの時は窓からは空しか見えなかったから隙を見てドアから出るしかないって思ってたけど、まさか外側から鍵がかかってたなんて」
「寝ている間に窓から侵入して拐うような奴だったからな。自分は窓から出入りして、監禁しておくつもりだったんだろ」
ドリルを指定のケースにしまい、次の場所へと向かう婚約者を追いかけてエリゼも足を進める。
「そんなことしといて“可愛がってやる”なんてどの口が言うのかしらね」
「前から思ってたけどアイツらの言うつがいって伴侶じゃなくてペットのことなんじゃないか?」
ここはドレッセル商会が所有する倉庫のうちの一つ。エリゼの婚約者にしてドレッセル商会会長の息子、ディルク・ドレッセルが主に管理している倉庫である。
「そんな人を人と思わない醜悪な悪党から救い出してくれるディルはまさに王子様ね!」
「いや……それでもあいつら見た目は醜悪の真逆だけどな……ハタから見たらどっちかと言うと俺が悪党だし……」
「もう!ディルはいっつもそういうこと言うんだから!」
一時期お金に困っていたエリゼの実家、ハルフォード子爵家と、貴族との繋がりが欲しかったドレッセル商会との間でその子供同士の婚約が結ばれてから十年。
何故か竜やら精霊王やら人ならざる者からつがい認定花嫁認定され愛されやすいエリゼと、古代に滅びた旧人類の文明である科学を愛するディルクが出会ってから十年。
「どこからどう見てもディルの方がヒーローよ!」
政略とはいえお互いに一目惚れで、相思相愛で、対等であるとエリゼは思っているのだが、ディルクの方は自身のエリゼへの一目惚れは認めてるものの、それ以外に関してはいまだに若干認めようとしない。
「まあ誘拐監禁は論外なんだけど……絵面だけだとどうにもなぁ……」
何故だ。この世にディルク以上の美男子なんていないというのに。
短くすると爆発するからと、肩まで伸ばしてぎゅっと結んでいる力強い癖っ毛。白目の割合が多く一点集中、四白眼気味の三白眼。どこか影のある顔色、そんなつもりないのに不機嫌そうになってしまう口元。
初めて出会ってから十年、こんなに格好良い人を他に見たことがない。
「ディルは、美醜感覚がちょっとズレてるとこだけ玉に瑕よね……私が可愛いことは分かってるなら完全に狂ってるわけじゃないのはわかるのだけど」
「その台詞を本当にそのまま返したい。釣りはいらない」
しかし本人は謙遜ではなく本当に自分の容姿を快く思ってないようで、エリゼも困惑してしまう。まあ、エリゼのことはちゃんと可愛いと思っているようなので良しとするが。
「こんなにお似合いの美男美女カップルなのに」
「頼むから他所で言うなよ。頼むから他所で言うなよ」
「あっ、アレはあの時幻術を破るために使ったやつね!」
「聞けって」
ふとエリゼの視界に、これまた懐かしいものがよぎった。あの日手榴弾で門を壊し電動ドリルで鍵を壊し助けに来てくれたディルクが、城から脱出する時にエリゼに渡してくれたもの。
「サーモンクレープね」
「サーマルスコープだ」
「まあだいたい合ってるわ」
あの城の周りには侵入者を追い返し脱出者を引き戻すための幻術魔法がかけられていた。それを破ったのがこのサーマルスコープである。原理はわからないがこのレンズを通すと物体の持つ熱が可視化される。『幻に温度はないだろ?』と何が幻で何が現実か見破っていくディルクの格好良さと言ったら。
「あら?こっちは?」
サーマルスコープの隣にもう一つ似た形のものを見つけて、エリゼが首を傾げる。こっちはこっちで見覚えがあるような。
「暗視スコープ。サーマルスコープから熱の可視化機能を取ったようなやつだけど、これはイルミネーターがついてるから暗闇を見渡す性能はこっちの方が高い」
「うんうん」
「ええと、まず暗視スコープにはパッシブ方式と……いや、面白い話じゃないなこれは」
「ううん、楽しいわ!続けて!」
難しいことはよくわからない。よくわからないが、難しいことを話すディルクを見るのはとても好きである。なんだか難しいことを話しているというのがもう格好良いし、これがディルクの愛する科学で、それにいつも助けられているのだと思えば頑張って理解したいと思う。
「……というわけで、これがあれば完全な暗闇でも視界が効くように……」
「ああ!そうだわ、闇のなんとかさんに捕まった時もこれを使ってたわね!」
「そうだ。7年前の誕生日だったな」
そしてディルクの説明を聞いているうちに、エリゼは思い出した。この暗視スコープなるものを最初に見た時のことを。
『我は闇を司る者……我が花嫁を迎えに参った』
あれはエリゼの10歳の誕生日。突然空が黒く染まったと思ったら、黒い翼を背中の片側に生やした男が舞い降りてきた。
『闇の支配者、ダークエンペラーたる我に選ばれたこと誇りに思うが良い。さあ共に行こうぞ、我が片翼』
なんだか闇の帝王とか何とか言っていたが、片側だけの翼で飛ぶのは肩を痛めそうだと思ったのと、10歳児にとっては大人の男は皆おじさんに見えていたので、わかりやすく痛いおじさんと呼ぶことにする。
「あの痛いおじさんが私の手首を掴んで連れ去ろうとした時にディルが追いかけてきてくれて」
「おい呼び方」
「痛々しいおじさまが」
「丁寧にしろとは言ってない」
自身の手も見えない程の闇に覆われながら、男に手を引かれ、恐怖で身を固くした時。もう片方の手を掴んでくれた人がいた。
『なっ!?我の闇の力が効かないだと……!?まさか……貴様が千年に一人の光の使者だというのか……!』
この時ディルクはこの男への対抗手段は何も持たぬまま、それでもとにかくエリゼを一人で行かせるまいとこの手を掴んでくれたのだ。暗視スコープを使って、暗闇の中エリゼを追いかけて。
『くっ、光の使者相手では分が悪い……!今日のところは引いてやる。覚えていろ!』
ただ、闇を見通したディルクを光の使者とかいう天敵と勘違いしたらしい男は、エリゼの手を離してすたこらと逃げ帰って行った。
そして後日再び現れた時にディルクの指示のもとLED投光器で取り囲み撃退した。自分で光が弱点だと白状したのだから当たり前である。
「そういえば、どうしてあの時暗視スコープなんて持ってたの?」
「誕生日に貰ったばっかで……嬉しくてずっと持ち歩いてたんだ」
「……!」
とまあそんな痛いおじさんの最期などたった今判明した婚約者の可愛い一面と比べたら死ぬ程どうでもいいことである。何故回想のリソースをあんな男に割いてしまったのか。全部あの幼き日のディルクに回すべきだったのに。
「私の馬鹿……!」
「え?急にどうした?あれはエリゼのせいなんかじゃないだろ?」
唐突に悔やみ出したエリゼを、当時の行いについて後悔していると受け取ったようだ。ディルクが慌てた様子で慰めてくる。
「あの時だけじゃなくて、今までの全部一度だってエリゼのせいじゃあないんだ。怪我したトカゲを助けたら竜だったって、怪我したハトを助けたら精霊王の仮の姿だったって、怪我した白い犬を助けたらフェンリルだったって、そんなことで一方的に花嫁認定してくるのが悪いんであって、エリゼは何も悪くない」
「ディル……」
悔やんでいたのはその部分ではないのだが、慰めてくれるのは嬉しいので否定はしないでおく。
「竜でも、王でも、神でも、どんな奴らが来たって俺が守るよ。君が俺がいいと言ってくれるなら」
「ディルがいい!私がお嫁さんになりたいのはディルだけよ、これまでもこれからもずっと!」
「……他にどんなに格好良い男が来ても?」
「勿論!」
そもそもディルクより格好良い男などいないのだから、エリゼがディルク以外を選ぶなど有り得ないのだ。
エリゼがきっぱりと答えると、ディルクは安心したように口元を綻ばせた。
「そろそろ部屋に戻ろうか。後は明日にでもやればいいし」
「うん、預けておいたケーキも一緒に食べましょ」
今日は元々午後に会う予定だった。エリゼがディルクの家を訪ねる形で。
しかしエリゼが待ちきれずに午前中にもう行ってしまい、午前は倉庫の備品等のチェックをする予定だったディルクにくっついていって今に至る。
「一応聞くけど道中に怪我したトカゲか銀や白い毛の動物は助けてないよな?」
「大丈夫よ。道端でカエルさんが伸びていたから水辺に移動させてあげたけど、それだけだわ」
エリゼの我儘で時間を早めたにも関わらず、それに合わせて早めに仕事を切り上げてくれるディルク。こういう優しいところも大好きである。
「カエル……カエルかぁ……まあカエルなら……」
重厚な取手を押し、ディルクが倉庫の扉を開ける。
『我は光を司る者、光の帝王……我が花嫁を迎えに参った』
閉めた。なんかいた。背中の片側にだけ白い翼を生やしたアンバランスな全身白ローブの変質者が浮いていた。
『古の魔女の呪いによりカエルに姿を変えられていたが、運命の乙女の手により呪いが解けたのだ……!さあ、選ばれし乙女よ、我が片翼よ、我と共に……!』
扉を閉めて振り返ったディルクが問う。
「行きたいか?」
「行きたくない」
エリゼがしっかりと首を振るや否や。
あのローブは可燃性だなと、火炎放射器を取り出して、頼りになる婚約者が言った。