雲丹
年の暮れ、男が夜の街を歩いていた。男は三十三歳、独身。この日は仕事帰りに独りで一杯飲んだ帰りだ。歩きながら夜空を見上げてつぶやいた。
「今年は良い事が何もなかったな、来年は良い事があるかなあ・・・」
確かに男はこの年最悪の年だった。長年付き合っていた彼女に振られ、彼女は自分の友人との間に子を授かり結婚してしまった。さらには親友と思っていた者に泣いてすがられ借金の保証人になったあげく、逃げられて多額の借金を背負ってしまった。
ため息交じりに家までの道を歩いているとどこからともなく声が聞こえた。
「しかししけた人生だな」
声のする方を見ると、そこには色の黒い小さな生き物がいた。耳がとがっていて、尻尾が生えている。
「なんだ悪魔か」
悪魔は不思議そうに男を見て言った。
「なんだ悪魔かとはご挨拶だな、そんな事を言われたのは初めてだよ」
「子供の頃からその手の類の本が好きでよく読んでいたよ。想像通りの姿をしているのだな」
確かに悪魔の姿は童話にでてくる姿そのままだった。
「しかしこの一年お前の生活をのぞかせてもらったが、お前は本当にお人好しだな。もう少しずるがしこく生きないとこれからもずっと利用される人生だぞ」
悪魔は背中から黒縁のメガネを取り出して続けた。
「これは人の心が具現化して見えるメガネだ。お前の心はまんまるでまるで汚れがない。これで他人の心の形でも見て参考にするといい」
男は帰宅し、そのメガネをかけて悪魔と一緒にテレビに映る人々の心の形を見てみた。確かに自分ほどまん丸の人はいなく、皆ウニのようにトゲトゲしていて色も淀んでいる。特に驚いたのは一般的には徳の高いといわれている寺の住職も似たようにトゲトゲした心だったのだ。
「坊さんといっても所詮人間だからな、酒もくらえば女も抱く。税金はないしお布施とかであくどい事をやっている奴も多い」
煙草をふかしながら悪魔は続けた。
「お前も心に少しトゲを生やして自己防衛しろ。さもないとどんどん人にいいように使われるだけの人生だぞ」
「確かにその通りかもな。今まで良い事を行えば幸せになれると思っていたが、ここまで報われないとばからしくなってくる。これからは考えて生きていくことにしよう」
「そうか、今度会う時を楽しみにしているよ」
そう言って悪魔は去って行った。
男は手始めに煙草の吸殻や空き缶などのゴミをポイ捨てしてみた。最初に捨てたときは少し緊張した。今まで男はむしろ道に落ちているゴミを拾うタイプの人間だったからだ。
(誰かが拾ってくれるさ)
そう思うことで何故だか少し気分が良かった。
(良い事を行っても報われないで苦しむなら自分の意のままに生きた方が気が楽だな)
それから男は徐々に悪行を増やしていった。仕事では他人を押しのけて手柄をたてて出世していった。相手がいようがいまいが様々な女性と関係を持った。犯罪まがいの事すらした事もあった。
三十年後、広大な土地の中の豪邸で六十歳を過ぎた男が優雅に高価な酒を飲んでいた。夜空の満天の星を見ながらふとため息がこぼれた。
そこに悪魔が現れた。三十年前に見た時と全く同じ風体だった。
「久しぶりだな、しかしため息なんかしてどうしたんだ。見たところ誰もが羨む良い暮らしをしているようだが」
「お前に言われてから人にいいように使われないようトゲを生やして自己防衛してきた。人をだまして、押しのけて、今はご覧のとおりの富を得て優雅に過ごしているよ。しかしなんだろう。時々ふとむなしさを覚えるんだ」
「そりゃそうだ。お前は心にトゲを生やして自分を守り続けた。それは他人から自分の真の心を遠ざけているのと同じことなんだから」
悪魔は酒を飲みながら続けた。
「またこのメガネで自分の心を見てみるか」
男はメガネをかけて鏡の前に立ち、自分の姿を見てみた。
なるほど、自分の体の周りを巨大なトゲトゲの真っ黒な物体が覆い、自分の姿が全く見えない。