1 春ノ市
ハヤテはカルヴァ川沿いを歩いていた
春の月が近くなると銀羽山脈の雪解け水が流れ込み水位が増すため、周囲には人影が見当たらない。ましてや、より自然に敏感な鹿などの動物たちも川に近づくことはなく、比較的山道に近い洞穴などで過ごしているようだった。
吐く息が白い。険しい山を登ると嫌でも息が荒くなる。
もうすぐ春とはいえ、標高の高い山脈の川沿いだ。カルヴァ川はキロキロと流れる小川のような可愛いものではない。
大きな熊ほどの巨石すらも押し流す勢いの流水音は、やがて聴覚を奪うのではないかと思われた。
しかし、木々にちらほら見える若葉と勇ましい川の情景は美しい。
銀羽山脈、そしてカルヴァ川の名の由来である伝説の怪鳥〈カルヴァドル〉が、その銀色の羽翼をひらめかすと起きると言われる突風は、あまり大きくないハヤテの身体を吹き飛ばそうかというほどだが、その風に耐え、大きな幹と元気な葉を実らす木々が美しく、そして勇ましか感じられる。
クリシュナ王国からの帰り道にここを選んだのは、仕事上避けられない傭兵や警察隊からの追跡を逃れるためだけでなく、毎年見ても見飽きないこの風景を楽しみたいがためでもあった。
クリシュナでは、春と秋の月の年2回、大きな市場が開かれる。
小高い山々に囲まれるクリシュナは、軍事では地の利と、大陸最強と名高い騎兵隊を擁するが、内政面では、痩せた土地に実る食料もなく、鉱山資源と動物の毛から作る服飾くらいしかなかった。農作物はほとんど輸出に頼っており、資金難に陥っていたが、それを見かねた先代の国王リュートンが大陸中の国から商人を集め市場を開くことにしたのだった。
クリシュナは確かに銀羽山脈を代表とする山々に囲まれてはいるものの、大陸の4カ国全てと国境が接しており、貿易の中間点としてはかなり優良な土地であったため、この年二回の定期市もさることながら、各国の商人の行き交う商人の町としても大きな利益を上げる国となった。
この春ノ市は各国の珍しい食べ物や商品に出会えるため、誰もが楽しみにする行事となっているが、商人にとっては生活を左右する日でもあるため、大きな賑わいを見せている。
だがハヤテは商売をするためにクリシュナに訪れたのではなかった。
春ノ市は毎年三日間開催される。ハヤテは例年通り、三日目の早朝に訪れた。
三日目は目ぼしい商品はほとんど売れてしまっていてあまり商品は残っていないが、基本的に商人たちは全ての商品を売り切って、身を軽くしてから傭兵を雇って颯爽と帰る。商品を持って機動力がないまま帰ると、帰路で盗賊たちに襲われる可能性が高いからだ。
そのためなかなかに質の良い商品でも定価の半額ほどで手に入るため、三日目のみ買いに出る者もいるほどで、早朝でも市場は賑わっている。
入り口付近の銀羽牛から絞った牛乳に、蜂蜜を溶かした暖かいミルクを買って、ハヤテはそれをすすりながら歩いた。
少し前の方に身なりの良い青年が見える。おそらくどこかの貴族の使用人であろう。青年は看板を見回しながら、ハッとした表情をすると、その衣服店のやや小太りの商人とともに周りを気にしながら路地へと入っていった。
(奴隷商人か)
ハヤテは推量した。
表向きは普通の商売をしながら、暗いところでは近隣の見るところのある村の少女などをさらって貴族などに売る、闇商人もいるのが現実だった。
ハヤテは路地を見下ろせる位置に、慣れた身のこなしで移動した。
かなり距離があるようにも思えたが路地の周りは静かで、風向きも良いのだろう。かすかに話し声が聞こえてくる。
「……は良い……、……15枚でございます」
太った商人が言うと、青年は頷き、懐から袋を取り出すと商人に渡した。
商人は袋を開け、太い指で中身を確認した。金貨のようだった。
「それでは30枚……後六ノ刻に」
青年はまた頷くと、商人も頭を下げ、互いに別の方向に別れた。
どちらを追うか迷ったが、青年は神経質そうに感じられたため、商人を追うことにした。